(1)第13号表紙写真 1930(昭和5)年12月発行
 「丹波山国村花脊村方面への二泊旅行を無事終へ帰校したる際の記念写真」
【写真1】
 11月3日の明治節の日、立命館中学校禁衛隊軍部隊は校門前に整列した12台のトラックに分乗し、隊旗を先頭に山国村へ向かいました。引率は隊長の塩崎校長以下教員11名。生徒は軍楽隊42名、5年生106名、4年生122名。学校から周山まではトラックによる輸送演習(全軍のトラック輸送は全国学校教練実施上初めて)。高雄から杉坂を経て笠峠、栗尾峠の険しい難所を越え周山小学校までトラックの荷台に揺られて約3時間。昼食休憩後は、山国鳥居村付近において対抗発火演習を行い、その後山国隊招魂社参拝し、生徒たちは山国村民家に分宿、職員全員は草木左内氏宅(創立者中川小十郎の妻好栄の実家)に舎営しています。
 二日目は禁衛隊行進で常照皇寺、山国陵を参拝。黒田村から大布施を経て花脊スキー場のある別所まで行軍。その夜はスキー場の旅館で宿泊しました。
 三日目は途中で戦闘訓練などを行った後、最後の険難花脊峠を越えて鞍馬到着が午後1時半、遅れ過ぎたため鞍馬から二軒茶屋までは電車移動。二軒茶屋付近では学校から到着の留守隊との抗戦演習を行い、午後4時に帰校。最終日の行軍で疲れ果てた後に校庭で整列して記念撮影【写真1】となっています。
(2)第14号表紙写真【写真2】 1931(昭和6)年1月発行
   「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
  第15号表紙写真【写真3】 1931(昭和6)年2月発行
   「臥薪嘗胆の生徒隊野球部」
【写真2】
【写真3】
 1929(昭和4)年2月、兼任で中学校校長を務めていた中川小十郎が退任し、それまで中学校教頭を務めていた塩崎達人(注1)が校長に就任しました。母校出身で運動好きの熱血校長の塩崎(【写真2】と【写真3】の中央に写る人物)は、自らもユニフォーム姿で部員たちにノック練習もしていたほどで、当時の様子を次のように語っています(注2)。
「運動競技に於いては精神的訓練が最初であって同時に最後のものである。去る七月下旬京津野球大会に参加し球場に於ての一挙一動が立命館式で中学チームの本領を発揮し加ふるに技量も斯界の識者に一大ショックを与えたのであった。(中略)
 服装に就いて
 野球衣(帽子を含む)は学校制服と同一に取扱ふ。野球衣は質素なる無地白色のものたるべし。胸章は以前はローマ字綴りでリツメイとやっていた。その後のここ数ケ年は帽章をそのまま胸章に使用してきたが、今回愈々立命館の三字を用いることにした。この胸章のために国粋チームの名を頂戴し、或は反動?猟奇?などの批評を得たわけだがわれわれの心持はそんなものではない。(以下略)」 
 この時の立命館中学校の選手の様子は、当時の新聞でも次のように紹介していました
「出場三十四チームの中、異彩を放ってゐるのが立命館チーム。ユニホームは漢字で右書き斜めに立命館と印し、挨拶は必ず軍隊式の挙手の敬礼、中澤委員長の訓示に対し挙手の答禮をなし満場拍手して厳粛さに賛辞を呈す。」(注3)
(3)第18号表紙写真【写真4】 1931(昭和6)年5月発行
   「新興に燃える商業学校野球部の意気」
【写真4】
 立命館商業学校は1929(昭和4)年に設立されましたが、2年後には前述の立命館中学校と同じユニフォームで野球部が創部されています。前列中央には塩崎校長が写っています。
 ところが、この4年後、1933(昭和8)年8月に再び中学校・商業学校の両校長を兼任することとなった中川小十郎は、野球や庭球、陸上などのスポーツを学校として禁止することにしたのでした。その理由を次のように語っています。
「立命館は天下の立命館である。区々たる京都一地方を目標としているのではない。從って市内各学校の連合競技会だの対抗仕合などに依て勝つたの負けたのと騒ぎ立てる様な根性ではだめだ。諸君の本校に学ぶ目的は、天皇陛下の為、国家の為、人の為めに大いに仕事の出来る人間となる事である。」(注4)
 こうして立命館中学校・商業学校の野球部は姿を消すこととなりました。
(4)第19号表紙写真【写真5】 1931(昭和6)年5月発行
   「優勝―立命館中学校―京都中等学校弓道連盟戦」
【写真5】
 立命館中学校商業学校には、既に1930(昭和5)年に弓道射場が開設されて(注5)対外試合にも出場していましたが、なかなかよい結果を残すことができずにいました。それが1931(昭和6)5月、立命館大学弓道場で開催された第2回京都中等学校弓道連盟競射大会で見事に優勝を果たすことができました。その後も弓道部は華やかな戦績を収めていくこととなりました。
2025年11月4日 立命館 史資料センター調査研究員 西田 俊博 
注1:清和中学校(明治44年卒)から京都帝国大学へ進学。卒業後に立命館中学校の教員となる。
注2:「立命館禁衛隊」第10号(1930年9月発行)に「野球部を語る」
注3:大阪朝日新聞(1930年7月25日)
注4:「立命館禁衛隊」第56号(1935年9月発行)中川校長の訓示
注5:史資料センターHP <懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅰ)
