館長さんより

名誉館長さんより

 ぼくは東京で1940年に9人きょうだいの末っ子として生まれましたが、2才のとき、日本がアメリカと戦争を始めて、とうとう東京の空にも爆弾が降ってくるようになったので、4才のとき福島県にひっこしました。夜になると、空に向けて何本ものサーチライトの光の筋(すじ)がうごめき、アメリカの爆撃機をさがしていました。雨がふる寒い夜に、お母さんにおんぶされて赤土のせまいトンネルのようなところに逃げこんだ思い出もあります。上から4人までの兄たちは、戦争に行ってしまいました。本当なら学校に行ったり、社会で働いたりして、知識や技術を身につける若い人たちが、たくさん戦争で命を落としました。私が生まれた東京の下町は、1945年3月10日の「東京大空襲」で全滅し、一晩で10万人もの人が死にました。

 大きくなって大学に行って勉強し、原子力や放射能の専門家になりました。その後40年あまり、原発の危険性について人々にうったえてきましたが、残念ながら福島原発で大事故がおこってしまいました。ぼくは、くやしくてなりません。今も毎月福島に行って、放射能のことを調べ、どうすればもっと安全に生活できるかを人々にアドバイスしています。

 人間が、命の危険を感じずに、力いっぱい生き生きと生きられる社会をつくるために、みんなで考え、自分にできることにとりくんでいきましょう。ミュージアムがそんな場になることを願っています。

2015年4月

 

安斎 育郎さん

立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長 安斎 育郎さん

平和大好きの安斎先生は、中学のころから手品(マジック)にとりくみ、いろいろなところで人々を楽しませてきました。東京大学の学生時代には、手品部のキャプテンでした。