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龍泉寺

龍泉山公園のふもとにある寺。東晋の咸康二年(336)創建、清の光緒元年(1875)に再建されたそうだ。訪れた時はちょうど修復中で、正殿もぼろぼろだった(写真右)。
額が今にも落ちてきそうで、はらはらしたよ。でも修復前の貴重な姿を見ることができて、幸運だった。
お寺の敷地内には僧侶などの宿舎があって、法衣が干してあった。大きな鼠がゴミ捨て場にうろちょろしていて、お寺よりも皆の関心がそっちに向いていたよ。


朱舜水先生紀念堂(宗孝祠)

龍泉寺のすぐ近くに位置する。 
朱之瑜(1600-1682)、字は魯嶼、号を舜水という。余姚の出身で、1659年に日本の長崎に渡り、徳川光圀に国師として迎えられた。その後水戸で儒学を伝え、水戸学の発展へと繋がった。朱舜水はついに祖国へ帰ることなく日本で亡くなったという。
龍泉山公園内にも日中文化交流の先駆として没後三百年紀念の碑が建てられていた。そういえば王陽明故居にも学術交流を記念した日本の学者や団体による碑が建てられていたよ。でも悲しい哉、龍泉山公園の碑は経年により破損し、誰かが「日本」の字を削ろうとした跡があった。近年の国際情勢のせいだろうか。心無いことをする人はどこにでもいるね。
この紀念堂の職員さんは親切だった。ちょうど訪れた時がお昼休みに入る時間だったんだけれど、頼んだら快く入れてくれた。帰り際に日本から来たことを告げると、にこにこして頷いてくれたよ。


市内で昼食をとり、その後郊外に向かう。

黄宗羲墓

余姚市南東の郊外、陸埠鎮に位置する。ややわかりにくい場所にあったが、運転手の余さんが付近の住民に聞き込みをして何とかたどり着けた。
黄宗羲(1610-1695)、字は太冲、号は南富、梨洲先生と呼ばれた。余姚の出身で、清初の浙東学派を代表する人物。『明夷待訪録』や『明儒学案』、『宋元学案』(未刊、全祖望が補完)の著者として有名だね。
この墓地は生前に自身で決めたらしい。桃園の中にあって、花が咲いたら子孫がお花見しながら墓参りできるようになっている良いところだった。桃園のそばに別のお墓もあって、「誰のだろう」とみんなで興味津々で近寄っていったら、散歩に来ていた地元の熟年カップルが「それは一般人のお墓だよ」と苦笑しながら教えてくれた。

このお墓は文化大革命の時に壊されてしまい、再建されたものだそうだ。
少し離れたところに、黄宗羲の墓と向かい合うように父親である黄尊素の墓がある。立派なお墓で、一般人の墓としては珍しく神道があり、それを挟むように石の羊・虎・馬の像が配置され、神道を抜けて階段を上がるとお墓がある(写真下左)。一見、黄宗羲の墓と比べると古いままのように見えたが、『文物地図集』の解説によると1967年に墓穴もろとも壊され、1986年に再建されたそうだ。
黄尊素は明代末期、東林党の幹部で、宦官魏忠賢の迫害により投獄され、虐殺された。その後東林党諸士の名誉が回復されたとき、若き黄宗羲は父親を死に至らしめた関係者の尋問に立ち会い、隠し持っていた錐で刺したり殴りかかったりしたという。当時は「姚江黄孝子」と世間で称えられていたっけ。

敷地内には黄宗羲が晩年隠居して著述活動に専念していたという龍虎草堂が再建されていて、凛々しい黄宗羲が迎えてくれたよ。中では彼の著作などを展示していた。その横には地鶏の養鶏場があり、鶏がたくさん竹林でのびのびと動き回っていた。黄宗羲とは関係ないけど。いや、当時もこんなのどかな風景の中で暮らしていたんだろうな。


五桂楼

余姚市西南の郊外、梁弄鎮に位置する。Googleや百度の地図で検索すると、何故だか山の中が示されるのだが(余さんはカーナビを使っていたがそれも同様だったらしい)、ネットで一つだけ実際の場所に近いところらしき地図を示した頁があったので、それを頼りに行く。山を越えて古い街並みの集落にたどり着き、数回の聞き込みの結果、ようやくたどり着いたが、表通りから住宅地の中の入り組んだ狭い路地を複雑に入ったところにあり、地図では描ききれないことに納得。
五桂楼は清・黄澄量が嘉慶12年(1807)に建設した蔵書楼。黄氏の先祖が南宋の時、五人兄弟ともに進士に及第し官職に就き、故郷に錦を飾ったときに高僧が詩を贈り、その句にもとづいてつけられた名前だそうだ。かつては「浙江第二蔵書楼」と称えられたという。

邸宅(現在は一般の方の家)の横に建てられた蔵書楼で、現在は管理の人がいれば開けて見せてくれるようだ。訪れたときはいたので入らせてくれた。重要文化財とはいえあまり観光客が訪れることはないのだろう、碑がちょうどよい靴干し場になっていた。
二階建だが、公開しているのは一階のみ。一時蔵書が散逸したこともあったようだが、子孫の努力により、『姚江黄氏五桂楼書目』四巻に3666種の書目を存している。しかし現在はその蔵書はすべて博物館に収められ、ここには残っていないという話だった。

集落の大通りの方には浙東抗日根拠地旧跡があり(そちらは立派な建物だった)、管理人のおじさんに「何処から来たんですか」と訊ねられてY先生は少し迷った後「上海から」と答えられていた(確かに嘘ではない…)。おじさんはいろいろとどの部分がいつの時代のものだとか、細かく解説をしてくれたよ。
去るとき、隣の家の小型犬が振り向きながらの姿でちょっと面倒くさそうに吠えていたのが可愛かった。


通済橋

再び余姚市の中心部へ。姚江にかかる橋。創建されたのは宋の慶暦7年(1047)で、当時は木の橋で「徳恵橋」と名付けられていた。至順3年(1332)に石橋に建て替えられ、現在の名前に変更、現在のものは清代に再建されたものだそうだ。

橋の上の石獅子といろいろ昔の話をしながら夕日を眺めたよ。獅子は笑い上戸で、ぼくの話に大笑いしていた。






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