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2015/12/25

No.50 第50回記念特集号 学生インタビュー vol.1
●1969年卒業:古谷 寛さん

産業社会学部を選んだ理由

Q:さんしゃを選んだ理由やきっかけはなんですか?

 僕は四日市公害のように、企業が好き勝手する世の中に疑問を持っていた。そこで産業社会の悪とは?善とはなんだろう?というものを勉強できるチャンスかなと思った。そして、初めて出来た学部だからそんなに応募してこないし、あまり勉強しなくてもパスするのではないかと思ったけど、それはそうでもなかったんだよ(笑

Q:といいますと?

 300人ほどの定員に900名ほどの学生が入学したけど、受験には8~9千人ほどが来て、結果10倍近い倍率になった。僕が受かったのはレベルが低いのか、僕が優秀なのかこれは未だに分からない(笑

Q:立命館大学を選んだきっかけは?

 安かったから。学ぶということは、僕はどこの学校へ行っても同じだと思っている。だから、学費が安くて自分の働いたお金で行けるというのが一番いいじゃない。だけど今は入学金が100万円だって?

Q:高いですね。

 なんでそんなことになったのかな?立命館の一番大切なことは、本当に勉強したい人が、ローコストで学べるという創業の精神にあると思う。僕達はそれが誇りだったよ。

 もちろん、いつまでもそれがいいとは限らない。でも大学の経営というものは誰がお客さまかと考え、それだけのお金をとるならばどこよりも負けない素晴らしい学園に仕上げなくてはならないと思う。

Q:産業社会学部にいらっしゃったときに印象に残った出来事や出会いはありましたか?

 お金以上に勉強しないともったいないからとにかく勉強した。だから自分が習いたいことを他学部とかにも勉強しに行った。一生懸命、学ぶことに飢えていたよ。

Q:どんな授業を受けに行ったのですか?

 産社に入ってみたら社会学とか社会科学といったベーシックなところは、本を読んだら分かるから、新しい未来の産業社会を開拓していくような、社会調査学とか計量社会学とか、産業心理学とかを学びに行った。

 そして経営者の心理というものを学ぶというのが一番大切だと気付き「経営者というのは三年経ったら新しい人材にタッチした方が良い」ということに行き着いた。組織のリーダーというのは、三年経っても辞めないのはなぜか。最初はしおらしくしているが、一年過ぎて無難に過ごしたら二年目はちょっと慣れて横着になってくる。そして二年の終わる頃には、気に入らないと思ったら転勤させたり、自分の耳障りのいい人を近くに置きだす。三年経った時には「私は何でも出来る」と万能感をもって自由自在にやりだし、誰もものを言わなくなり影で言うようになる。これが組織の病気の始まりなんだ。

 また競争相手もあり、一つのことをやっていける企業の寿命は平均三十年だ。その中で次の成長できる新しい事業を作り出せないと、二十年位経ったら成熟し落ちていき、三十年経ってだいたい潰れていく。イオンだって同じだけど、イオンが宝暦八年から二五五年くらい続いてきたのはそれが分かって先を見ていたから。三十年が一つの寿命としたら、二十年月のときまでに次のことを作り上げてきたから280社も子会社があるんだよ。本業のスーパーに来るお客さまは、物を買うだけでは満足しない。そこでイオンクレジットサービスやイオン銀行を作り、普通に買い物に来られる個人相手にリボとかクレジットカードで買い物できるとか、都市銀行と同じ機能を持ちながら個人のお客さまに住宅ローンとか教育ローンとかを低利で貸すことが出来るようにする。僕達はお客さまあってのビジネスだから、お客さまが困っていることを一番安いコストで提供するのが僕らの仕事だ。

 では大学のお客さまは誰か?生徒やその家族。その人たちが本当に良い大学でよかったねと言う大学を作ればいいわけだよ。西園寺公望さんの精神だよ。それが長い間に、学費や入学金も他所と同じくらい取ってもいいだろうとなってしまう。そうでなければ運営できないというなら自分達の給料を下げたらいいのに、それを生徒の学費に持っていくのはおかしいのではないか?教職員たちにいいお給料を出し、学費を安くするのが大学経営ではないかと僕は思う。

産社での学びと現在との繋がり

Q:産社で学ばれたことが現在の活動にどのように繋がっていると思われますか?

 僕は22歳で入社して、三年間でこの業界のチェーンストア理論とスーパーマーケット理論という、欧米の成功した理論をマスターしよう思った。マスターして実践して、まだ今も実践している。僕達は何も新しいことを一から考える必要はないんだよ。必ず二千年の歴史の中によく似たことがあるから、それを断片的にでも引っ張り出してきて、つなぎ合わせて自分の理論を作り上げる、ビジネスを組み立てるということが経営者なんだ。それを僕は26歳でした。

 だから26歳でジャスコから放り出されたとき、みんな左遷されたと言ったが僕は経営者になれる「しめた!」と思った。みんなは大きな組織の中に帰属したがるから、就職する時に出世できない大企業を目指してしまう。

僕が岡田屋を選んだのは性別、国籍、年齢、学歴、この4つでいっさい差別をしない、ということを面接の時に言われたからだ。大学を出ていなくても大学を出た人を抜けばいいし、先輩を抜くために入ってくるんだろうと。自分で会社を作っていく、こんな嬉しいことはない。入社したとき14店舗しかなかったのが、今は何もかもあわすと1万店舗を超えている。立命館出身、産社出身でもこのような考え方で進んできたら、トップバリュ、マックスバリュ等々自分の思い描いたものを全部実現できた。それが全部自分の歴史なんだ。

 実現出来るというのはチャレンジしないと絶対出来ない。チャレンジしたら失敗するに決まっている。経営って野球といっしょで3割打者で、チャレンジしたら7つ失敗してもいいんだ。会社を揺るがすような失敗はだめだけど、成功するにはチャレンジしないとだめ。寄らば大樹の陰の考え方で大半の人がチャレンジしない。何もしないでしている格好している人はいっぱいるけど、失敗がないからすぐ分かる。だから僕が勤めた会社で減点制はいっさいとらなかった。それよりも権限がある役職の人がその権限を使わず、自分で責任をとりたくないから上司にお伺いを立ててから動く人を、それ以上いっさい登用しなかった。人間っておもしろいもので、経験主義じゃないけれどやっぱりある程度失敗をしないといざと言う時に判断できないし、過去の歴史を全部調べて、これはなぜ失敗したのかをいつも考える人でなければいけない。だから僕は産社で学んだいくつもの本が宝なんだ。当時の学んだ本はそのまま全部持っていて、産社の50周年記念誌にもその写真が載っている。それは命なんだよ。自分が目を通したものは自分の歴史そのもので、目を通したということは自分の命が入ったと思うから僕は本を捨てたことがない。そんなもの無造作に扱えない。だからうちの中は本だらけで本がたまるたびに、部屋を一つずつ作っているんだよ。大工さんには「また増えましたか」って言われる(笑

●古谷 寛(ふるたに ゆたか)

卒業年月日 1969年3月 卒業
出 身 地 滋賀県
現 住 所 滋賀県
勤 務 先 イオンDNA伝承大学 学長
ゼ ミ 名 -
所属サークル
団 体
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