平井嘉⼀郎さんの93年の歩み
History
Life and Achievements
ニチコン株式会社創業者平井 嘉⼀郎
明治・⼤正・昭和・平成、
⽇本の発展と歴史に重なる⽣涯と功績

1907 1950
遊ぶ、学ぶ、働く、
何事も一生懸命に
平井嘉一郎は、明治40年12月24日、現在の京丹後市大宮町で父勇蔵、母ゆきの次男として誕生。幼少期は近くの山や川、少し離れた日本海で、日が落ちるまで元気いっぱいに遊び飛び跳ねる毎日を過ごしました。その頃、母が「嘉一郎や何事も一生懸命にやり遂げるのですよ。怠けておれば御天道様がいつも見ておられるのですよ。そしてその事は自分が一番解っているはずですから、何事にも精一杯の努力をするのですよ」と幾度となく言い聞かせたといいます。母の教えは嘉一郎の心に深く刻まれ、座右の銘「天知る 地知る 己知る」を生みました。
長善村立誠和尋常小学校を優秀な成績で卒業、その後立命館大学専門学部法律科及び大阪城東商業学校を卒業後、立命館大学法経学部経済学科を卒業します。第二次世界大戦直後の昭和21年日本漁業株式会社常務取締役に就任、経営者としての卓抜した手腕をふるい始めました。

0歳
12月24日 京都府中郡長善村(現・京丹後市大宮町)で父勇蔵、母ゆきの次男として誕生
第一次世界大戦
12歳
長善村立誠和尋常小学校を卒業

1920(大正9)年

1928(昭和3)年
21歳
立命館大学専門学部法律科(別科)を卒業
満州事変
24歳
大阪城東商業学校を卒業
25歳
立命館大学専門学部法律科(本科)を卒業
27歳
経理事務所を開業
第二次世界大戦
32歳
立命館大学法経学部経済学科を卒業

1940(昭和15)年頃
玉音放送・第二次世界大戦終結
38歳
日本漁業株式会社の常務取締役に就任
日本国憲法公布
41歳
同社の専務取締役に就任、経営者としての手腕をふるう
湯川秀樹がノーベル賞を受賞(日本人初)
1951 1973
奇跡的な経営再建から、
世界への飛躍
昭和26年、株式会社関西二井製作所(現・ニチコン株式会社)は、資金難、給料の遅配、工場の一部焼失等の問題が重なり、創立1年目にして倒産寸前の危機的状況にありました。
嘉一郎は、経済界及び労使双方からの懇願を受けて経営責任者に就任、嘉一郎は直ちに会社の経営分析を行い、技術潜在力に着目して業容拡大に全力を注ぎ、一年足らずで会社経営を立て直します。その間、労働組合と三日三晩にわたる交渉の末、平井社長を中心とする労使一体の団結体制を確立します。有言実行で、真の創業者として認められた嘉一郎は昼夜を問わず奮闘、会社繁栄のため取り組みました。昭和30年代後半は高度成長期の波に乗り、新工場を次々に建設、株式上場、海外進出等を加速します。創立20周年を迎えた昭和45年、資本金300万円、70名でスタートした会社は、資本金15億4224万円の企業に成長していました。
43歳
3月 創立1年目の株式会社関西二井製作所(現・ニチコン株式会社)の代表取締役に就任
44歳
5月 同社の経営再建に成功
労働組合と三日三晩にわたる交渉の末、労使一体の団結体制を確立
テレビ放送開始
三種の神器(テレビ・洗濯機・冷蔵庫)
49歳
株式会社関西二井製作所代表取締役社長に就任

1954(昭和29)年
51歳
京都商工会議所1号議員
皇太子のご結婚
52歳
京都経営者協会常任理事
関西二井製作所 創立10周年、資本金3億8000万円

1960(昭和35)年

1962(昭和37)年
54歳
4月 日本コンデンサ工業株式会社に社名変更
関西電子工業振興センター理事
京都工業会常任理事
56歳
日本コンデンサ工業 初の海外拠点「シカゴ駐在員事務所」開設
紺綬褒章受章
57歳
紺綬褒章受章
オリンピック東京大会開催
東海道新幹線開業
59歳
紺綬褒章受章
61歳
日本電子機械工業会(現・電子情報技術産業協会)理事
63歳
日本コンデンサ工業 アメリカ電子部品の老舗スプラーグ社と共同出資で「ニチコン・スプラーグ」を設立
創立20周年、資本金15億4224万円
紺綬褒章受章
大阪万国博覧会開催
札幌で冬季オリンピック開催
円・変動相場制に移行
1974 1997
結婚を機に、さらに盤石な
企業基盤を構築
昭和49年11月28日、晴天の近江神宮で、嘉一郎は信子夫人と結婚。
結婚後の嘉一郎はさらに優れた、経営判断・経営手腕・経営能力を遺憾なく発揮します。結婚を機に、国内外の事業所には常に夫人を同伴し、時間の許す限り視察を重ねました。嘉一郎にとって信子夫人は、公私にわたる良き相談相手で、何事も安心して話せる良きパートナーでした。
当時、日本経済は大不況・オイルショックに見舞われ、ドルショックで未曾有の危機に直面していましたが、大きな危機を切り抜け、会社の礎をより強固なものとしました。情熱的な取締役と社員にも恵まれ、結婚を機に会社業績も右肩上がりに順調に伸び続けました。嘉一郎にとって何よりも心強いのは夫人の存在でありました。

67歳
11月28日 近江神宮で信子夫人と結婚
日本コンデンサ工業 週休二日制(1週40時間)を実施
社員の福祉向上を最優先する大英断に社内外から高く評価

1974(昭和49)年
初の静止気象衛星ひまわり1号打ち上げ成功
71歳
日本電機工業会理事
勲三等瑞宝章受章

1979(昭和54)年
73歳
日本コンデンサ工業 創立30周年、資本金20億6000万円
日本の自動車生産台数世界一(1100万台)
74歳
日本コンデンサ工業 海外転換社債3000万スイスフラン(約34億円)を発行
引き続き昭和58年には同じく5000万スイスフラン(約55億円)を発行し、海外での実力評価を実証する
78歳
関西経済連合会評議員
79歳
10月 販売会社「ニチコン販売」を吸収合併し、ニチコン株式会社に社名変更
昭和天皇崩御、「平成」と改元
消費税3%導入
日本の出生率の少子化(1.57ショック)
82歳
ニチコン創立40周年、資本金131億円
社会貢献事業として、「少子化対策寄付金」総額1億1400万円を寄付
(本社のある京都府をはじめ、工場立地自治体、関連会社自治体など13自治体に寄贈)

1990(平成2)年
86歳
滋賀県に開設された立命館大学びわこ・くさつキャンパス内に「ニチコン記念研究室」を開設
阪神・淡路大震災
消費税5%に引上げ
1998 2016
売上1000億円達成、
思いは社会貢献へ
創業当時、売上5000万円たらずの会社にあって、嘉一郎は目標売上1000億円と言い続けました。そして社長在籍四十有余年の平成10年3月期決算で、見事1057億円の売上を達成。嘉一郎は、目標達成を機に代表取締役会長に就任、その後も高所からの指導・教育を行う毎日が続きました。いつも通り会社に出掛け、役員一同と昼食をとり、「じゃ、みんな頼むよ」と元気に退席した4日後の平成13年1月20日、嘉一郎は夫人に見守られ、眠るが如く自宅において静かにその生涯を閉じました。
嘉一郎は晩年、最愛の夫人と過ごす時間が多くなり、穏やかな幸せな日々のなかで、創業40周年の頃から積極的に取り組んできた社会貢献活動にも力を注いでいました。夫人は嘉一郎の遺志を引き継ぎ、私財を以て社会貢献事業を続けています。

90歳
ニチコン株式会社 1000億円の売上目標達成を機に代表取締役会長に就任
長野で冬季オリンピック開催
日本銀行がゼロ金利政策導入
92歳
ニチコン株式会社代表取締役名誉会長
立命館アジア太平洋大学の開設に際し、留学生奨学金等を支援
93歳
1月20日 自宅にて逝去
FIFAワールドカップ日韓開催
平井嘉一郎の遺志を引き継ぐ信子夫人は「平井嘉一郎研究奨励賞」を創設
立命館大学法学研究科ならびに法務研究科の大学院生を対象に、国内及び国際社会の発展に貢献・活躍する有為の人材育成を支援

第一回授与式
2006(平成18)年
12月24日 平井嘉一郎生誕100年記念の集い
この集いを機に、嘉一郎の遺志を引き継ぐ信子夫人は、私財を以て様々な社会貢献活動を継続的に取り組むことを決意
京都新聞社会福祉事業団に少子化対策として、毎年12月24日の嘉一郎生誕日に支援

「少子化対策寄付金」贈呈
2007(平成19)年
11月 嘉一郎生誕地の丹後大宮町に「平井嘉一郎文庫」を設立し、毎年5月に図書の寄贈を行い、
文庫事業として「平井嘉一郎作文コンクール大会」を実施、優秀者を東京ディズニーランドに招待
東日本大震災
嘉一郎の足跡を永く顕彰するため「平井嘉一郎財団」を設立
1月 立命館大学衣笠キャンパスへの「平井嘉一郎記念図書館」寄贈を発表
消費税8%に引上げ
12月24日 「平井嘉一郎記念図書館」竣工
4月1日 「平井嘉一郎記念図書館」開館
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