現場に向き合い事実を追った報道こそが世界をつなぐ
箱田哲也さん(1988年文学部卒)
記者として沖縄・那覇支局員、韓国・ソウル支局長などを歴任後、朝日新聞社論説委員(国際担当)を務める
「日本と韓国の関係をはじめ、社会の出来事はすぐに答えが出ないことばかりです。一方、時間がかかってもお互いが歩み寄っていくには、事実にもとづいた対話を重ねることが必要だと思います。メディアは脚色をしない等身大の情報を世の中に発信し続けなければなりません」。新聞記者になって26年。常に変化する社会の最前線に立ち、取材した事実を大切に、読者の心に響く記事を目指して書き続ける。
大学に入学し、多様な人々や環境に触れるなかで、「世の中のことをもっと広く知りたい」と思うようになった。興味の赴くままに、他学部の授業も受講し、図書館で本を読みふけることもあった。しかし、自らの疑問に十分に答えてくれるものはなく、机の上の勉強だけでは物足りないと感じて大学を飛び出した。土木作業のアルバイトで過酷な労働現場を経験し、労働者の気持ちやお金の流れなどを学んだ。世界を知りたいと、発展途上だったインドへの一人旅にも挑戦した。道端に牛と人が一緒に倒れている、寝ているのか死んでいるのか分からないような光景を目の当たりにした。それまでは、ある程度は良いと思っていた世の中の不平等さと理不尽さに腹を立て、まったく何も知らない自分に絶望した。就職活動では、「まだ知らない世界を探求し、誰かに伝えたい」という気持ちから新聞社を志望した。
朝日新聞社に入社後、最初は鹿児島支局に配属された。行政の仕組みや警察組織の構造、裁判で使われる専門用語など、社会の仕組みを覚えることに必死だった。忙しくて大変だったが、一つひとつ新しいことを覚えることが面白かった。その後、心に残る二つの出来事に巡り合う。一つは、沖縄県での普天間基地問題だった。1995年に、沖縄でアメリカ海兵隊員による少女暴行事件が発生。沖縄は米軍基地を集中的に押しつけられていることへの怒りで爆発した。記者として“事実を伝えたい”、と沖縄への異動を志願。2年間取材を続け、多くの沖縄の人たちの想いであった米軍代替基地の県内受け入れ拒否のニュースを、いち早く日本全国に届けられたのは忘れられない仕事だった。

二つ目には、特派員として韓国に赴任した時のこと。2000年、金大中・韓国大統領(当時)の強いリーダーシップによって、北朝鮮の平壌で金正日総書記との南北首脳会談が実現した。同じ民族でありながら、半世紀もの間、遮断されていたリーダー同士の会談を、記者として当事国で報じられたことは幸せな瞬間だった。また、韓国での暮らしでは政治とは異なる、経済や文化における日韓の進展を肌で感じることができた。来年は日韓基本条約締結から50年を迎える。50年前、両国を行き来する人は年間1万人程度だったが、昨年は600万人もの交流があり、民間交流は拡大している。2011年の東日本大震災のときも、「日本に送ってほしい」と地元の人々が支援物資をソウル支局に届けてくれた。日本ではいま、韓国への風当たりが強いが、韓国人には情の厚い一面もある。沖縄でも韓国でも、事実を愚直に追い求めたからこそ、問題の本質に近づくことができたと思う。

「私は、大学受験で、何とか立命館大学に合格できたタイプです(笑)。だから、大学に行くのが嬉しくて、一人ではしゃいでいる感じでしたね。せっかくの大学生活、全力でやりたいことをやろうという気持ちで興味のあることに挑戦しました。その経験が、記者となった今も活きています。もし、学生のみなさんのなかに『自分は何がやりたいんだろう?』と悩んでいる人がいたら、悩んで時間を費やすより、360°放射状にアンテナを張って、ちょっとでも面白そうだなと思うことを見つけることに時間を使ってほしい。その中で少しでも面白いと思うことがあったら、とことんその分野の本を読んでみたり、現場に足を運んだりしてみるなどアクションを起こしてほしい。学生時代の“やりきった”という経験は、社会人になっても無駄にはならないはずです」。記事を書くという影響力と責任の間で、時に批判も浴びながら、伝えることの重要性を理解されてきた箱田さん。その言葉には、仕事を超えた生き様と、次世代への期待が込められていた。
ライターの目:
「26年間、記者をやっていても分からないことだらけです」と話す箱田さん。日本でも指折りのジャーナリストであるにもかかわらず、全く奢ることなく、謙虚に現場や事実を大切にしているその姿勢に感銘を受けた。現場を大切にするということは、簡単なようで、簡単なことではないように思う。取材をしたことが、自分の考えや予想と違っていた場合に、事実に真っ直ぐに向き合える度量や謙虚さこそ、彼の本当の魅力だと感じた。
大学に入学し、多様な人々や環境に触れるなかで、「世の中のことをもっと広く知りたい」と思うようになった。興味の赴くままに、他学部の授業も受講し、図書館で本を読みふけることもあった。しかし、自らの疑問に十分に答えてくれるものはなく、机の上の勉強だけでは物足りないと感じて大学を飛び出した。土木作業のアルバイトで過酷な労働現場を経験し、労働者の気持ちやお金の流れなどを学んだ。世界を知りたいと、発展途上だったインドへの一人旅にも挑戦した。道端に牛と人が一緒に倒れている、寝ているのか死んでいるのか分からないような光景を目の当たりにした。それまでは、ある程度は良いと思っていた世の中の不平等さと理不尽さに腹を立て、まったく何も知らない自分に絶望した。就職活動では、「まだ知らない世界を探求し、誰かに伝えたい」という気持ちから新聞社を志望した。
朝日新聞社に入社後、最初は鹿児島支局に配属された。行政の仕組みや警察組織の構造、裁判で使われる専門用語など、社会の仕組みを覚えることに必死だった。忙しくて大変だったが、一つひとつ新しいことを覚えることが面白かった。その後、心に残る二つの出来事に巡り合う。一つは、沖縄県での普天間基地問題だった。1995年に、沖縄でアメリカ海兵隊員による少女暴行事件が発生。沖縄は米軍基地を集中的に押しつけられていることへの怒りで爆発した。記者として“事実を伝えたい”、と沖縄への異動を志願。2年間取材を続け、多くの沖縄の人たちの想いであった米軍代替基地の県内受け入れ拒否のニュースを、いち早く日本全国に届けられたのは忘れられない仕事だった。
二つ目には、特派員として韓国に赴任した時のこと。2000年、金大中・韓国大統領(当時)の強いリーダーシップによって、北朝鮮の平壌で金正日総書記との南北首脳会談が実現した。同じ民族でありながら、半世紀もの間、遮断されていたリーダー同士の会談を、記者として当事国で報じられたことは幸せな瞬間だった。また、韓国での暮らしでは政治とは異なる、経済や文化における日韓の進展を肌で感じることができた。来年は日韓基本条約締結から50年を迎える。50年前、両国を行き来する人は年間1万人程度だったが、昨年は600万人もの交流があり、民間交流は拡大している。2011年の東日本大震災のときも、「日本に送ってほしい」と地元の人々が支援物資をソウル支局に届けてくれた。日本ではいま、韓国への風当たりが強いが、韓国人には情の厚い一面もある。沖縄でも韓国でも、事実を愚直に追い求めたからこそ、問題の本質に近づくことができたと思う。
「私は、大学受験で、何とか立命館大学に合格できたタイプです(笑)。だから、大学に行くのが嬉しくて、一人ではしゃいでいる感じでしたね。せっかくの大学生活、全力でやりたいことをやろうという気持ちで興味のあることに挑戦しました。その経験が、記者となった今も活きています。もし、学生のみなさんのなかに『自分は何がやりたいんだろう?』と悩んでいる人がいたら、悩んで時間を費やすより、360°放射状にアンテナを張って、ちょっとでも面白そうだなと思うことを見つけることに時間を使ってほしい。その中で少しでも面白いと思うことがあったら、とことんその分野の本を読んでみたり、現場に足を運んだりしてみるなどアクションを起こしてほしい。学生時代の“やりきった”という経験は、社会人になっても無駄にはならないはずです」。記事を書くという影響力と責任の間で、時に批判も浴びながら、伝えることの重要性を理解されてきた箱田さん。その言葉には、仕事を超えた生き様と、次世代への期待が込められていた。
ライターの目:
「26年間、記者をやっていても分からないことだらけです」と話す箱田さん。日本でも指折りのジャーナリストであるにもかかわらず、全く奢ることなく、謙虚に現場や事実を大切にしているその姿勢に感銘を受けた。現場を大切にするということは、簡単なようで、簡単なことではないように思う。取材をしたことが、自分の考えや予想と違っていた場合に、事実に真っ直ぐに向き合える度量や謙虚さこそ、彼の本当の魅力だと感じた。
- 取材・文
- 梅田友裕(政策科学部3回生)