佐藤満HomePage] [「政策過程モデルの検討」目次

3−1.「内環・外環」モデル


 まず、最初に村松モデルの部分的過程カテゴリーの定義を見ながらこのモデルが包括的であるか否かを検討することにしよう。およそモデルに対する異議申し立ては、まずこの包括性に関して行われると考えてよい。「重要であるのに見えてこないものがある」というわけである。ここで取り上げる他の二つのモデルも、「内環・外環」モデルに対してこの点をついて提起されたものであると捉えることができる。
 村松モデルには「政策過程」と「イデオロギー過程」の二つの部分的過程がある。日本の政治過程は、「既存の価値の権威的な配分を行う『政策過程』」を内環に、「既存の政治・行政体系にたいしてそれとは異なった価値体系をもって対決しその変革を迫る勢力と、現体制を保持しようとする勢力の対抗過程である『イデオロギー過程』」を外環にして、同心円状に描かれる(村松1981、290頁)。
概念図
 だが、その二つの部分的過程の和が日本の政治過程全体を余さず表しているか、つまりこのモデルは包括的かどうかについては若干の疑問が残る。ここでいう「イデオロギー過程」は、現体制を維持強化せんとする勢力と体制に不満な勢力の間の顕在化した激突が想定されており、それは「政策過程」の非効率性を示すものであると評価されている。村松の行論からは、たとえば成功裡になされれば表面化することのあまりない体制の維持強化策をめぐる政治過程が、その「イデオロギー過程」に含まれるのか否かが明らかでない。
 システムが全体として産出する価値の中に新たなアイテムを創出したり、価値の総量を増加、維持したりすることで間接的に体制への支持を調達しようとする政策や、もっと直接的に人々の意識に働きかけて支持を調達しようとする政策が、彼のモデルではいずこに位置するものであるのか、そもそも居場所があるのかどうかがわかりにくい。政治的無関心層は外環のなお外に存しているという記述(村松1981、291頁)からは、そうした現体制の価値を国民の意識に内在化していく政策は脱落しているようにも思われる。
 しかし、非効率的な「イデオロギー過程」の存在こそが、反面、「政策過程」に効率性、有効性をもとめさせるのであり、「イデオロギー過程」の意味するところには逆説的にではあるがそうしたものも含まれていると読めないことはない。二つの過程を並列的にではなく同心円状に示した意図は、イデオロギー過程が「政策過程」に一定の方向性を与えることを示すことなのだろうからそういう読み方もありうる。しかし、たとえば篠原の「政治政策型」の場合は、教育・マスコミを通じての「予備支持量の増大」が明示的に含まれている(篠原1962(上)、26-7頁)ことと対比して考えれば、村松の場合の含まれ方は、図1をにらみつつ「この『イデオロギー過程』の中にそういう体制維持のための政策はふくまれている」という形で指摘できるような含まれ方ではない。逆説的な含まれ方をしているというのはそういう意味である。つまり、もしあるとするなら、体制維持のための政策は、「イデオロギー過程」以外のところに、「イデオロギー過程」の存在ゆえにあることになるのである。
 ここでいう「『イデオロギー過程』の存在ゆえに」に関しては、同心円状に描かれていることにより、示すことに成功していると言える。しかし、もしこのモデルが包括的なものであるとするならば、「『イデオロギー過程』以外のところ」とは「政策過程」の中だということになる。ところが、「既存の価値の権威的な配分」という「政策過程」の定義に、価値の創出、増産、維持や、システムへのそれこそイデオロギー的な支持調達などが含まれているかどうかは大いに疑問である。
 むろん村松の「政策過程」は、「イデオロギー過程」のような非効率的なものに足をすくわれないように、必ずシステム維持に結び付く政策出力をもたらすという共有の性向をもつのだと解し、既存の価値を配分する政策の中からここでいうシステム維持のための政策をとりたてて抽出する意味がないと考えたものだと捉えられなくもない(9)。が、そうだとするならば、一般に政策の分類を想定する時にまず念頭に浮かぶであろうシステム維持のための政策を、同じものとは考えにくいものの中に置いているのではないかという非難を免れない。特に、研究者間で定義にぶれが生じないという点を評価する、フローマンの基準の「信頼性」に照らして考えると、明らかに評点が低くなってしまう。
 たとえば、山口定は村松の「イデオロギー過程」の中にこのシステム維持のための政策が含まれると読んでいると思われるが、これも無理からぬところがある。なぜなら、山口は「イデオロギー過程」を篠原の「政治政策型」を含むと捉えているからである(山口定1985、62頁)。この「政治政策型」は強権的に体制の安定を図るものと、先に引用したように、教育・マスコミを通じて「予備支持量を増大」させることで体制の安定を図るものがふたつながら含まれており、そのいずれにせよ、その意図する体制安定化の実現という点では失敗して顕在化したイデオロギー的対決に結び付くか、それが成功裡に行われて政治過程の表層には浮かび上がってこないかは区別されていない。そしてその事例には、強権的に体制安定を図り結果としてイデオロギー的対決の顕在化を招き支持の調達につながらないものが上げられている(篠原1962(上)、 26-30頁)。これと村松の「イデオロギー過程」は確かに重なる部分を多く持つだろう。しかし、ここで問題にしているのは篠原の「政治政策型」に含まれていて対決の政治に結び付かないものである。村松は「イデオロギー過程」の定義にこれを含めてはいない。おそらく、逆説的に含まれているのであろうから、「政策過程」の側に含めて考えるのが妥当なのだろう。ともあれ、そもそもモデルの中に位置は与えられているのか、また、仮に与えられているとしても、どちらの部分的過程に属すものであるのか、おそらく研究者の間で高度の合意は有り得ないだろう。
 また、「政策過程」は、多元的なアクターが「積極的な妥協や取り引きの方法で」価値を配分するということだが、それならば山口の指摘にもあるように(山口定1985、62頁)「利益過程」ぐらいに言い換えるべきだろうし、もし、既存の体制を前提に利益配分をおこなう過程のみが「政策過程」の語で語られているのならば、さきほどから論じているシステム維持のために意図して行われる心理的な支持調達の政策や、たとえ具体的な利益の配分を政策出力の中に含んでいても、主として長期的な観点から体制を支えるために投入される経済政策などが十分には捉えきれないうらみが残る。
 フローマンが示した基準に則していえば、村松の部分的過程概念は、包括性を満たしていると考えるならば相互排他性や妥当性、信頼性に疑義が生じ、それらを満たしていると考えるならば包括的ではないということになろう。カテゴリーそのものが確定しにくいので、測定レヴェルについては名義的なものを越えているかどうかは明らかではない。しかし、二つの部分的政治過程を単に並べるのでなく、同心円状に配置した図により、なんらかのスケール上に一定の順序で並んでいるのだと示唆されていると言える。そのスケールについては、体制指向性とか政策出力の分散の程度とか、いろいろなものが想像できるが、村松自身がカテゴリーの定義の中で語っているのは体制をどの程度意識するか、であろう。体制がほぼ空気のような存在と化してほとんど意識されていない「政策過程」と、体制に関する強烈な意識のみが場を支配している「イデオロギー過程」という分類になるのではないだろうか。

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