佐藤満HomePage] [「福祉国家の構造と政治体制」目次

政治勢力重視論─1

(政党重視論):キャッスルズ


 ウィレンスキーの議論は、イデオロギーや政治体制が福祉国家の原動力にはなっていない、という一見常識に反する事を、厳密な方法をもって論じた点でインパクトがあった。そして、当然ながら、政治的な要素が福祉国家の原動力になっていないはずはない、という、いわば「常識」のサイドからの反論がなされることになる。そして、この反論が、福祉国家を成り立たしめた政治構造の分析、ひいては、福祉国家に結び付けられる諸政策出力をもたらしやすい政治体制とそうでない政治体制の相違の分析をうみだしていくのである。
 批判はまず、ウィレンスキーの方法に向かう。ウィレンスキーの方法自体が厳密に定義されているがゆえに、批判は具体的にできるという意味でたやすいと同時にウィレンスキーと同程度もしくはそれ以上の方法的厳密さが求められることになり、その意味で論争は建設的なものとなる。ここではウィレンスキーの説明、被説明の両変数ともに定義上の問題を問い、かわるものを提起するなかで、独立変数としての政党勢力分布を強調したフランシス・G・キャッスルズ(Francis G. Castles)の研究(Castles 1978)を取り上げる。
 まずは、独立変数に関するキャッスルズのウィレンスキー批判を見てみよう。たとえばキャッスルズはウィレンスキーのイデオロギーの定義を批判する。イデオロギーが福祉国家の成立ちに関係ないものになってしまっているのは、その定義が間違っているからだ、という批判である。彼が言うにはイデオロギーというものはウィレンスキーが語ったような「平等の計画」もしくはその対極の「機会の平等」とかいうものの程度という単純な尺度の上で測定されるものではなくて、どのようにして平等な社会を達成するかの戦略にかかわるものである。キャッスルズの分析が主たる関心の対象にするのはスカンディナヴィア諸国の「機能的社会主義(functional socialism)」もしくは「中道(the middle way)」(注3)を追求している社会民主主義政党の成功因(Castles 1975, 76)であるから、こうした政党のイデオロギーと「生産手段の国有化による、資本主義の報償システムに対する正面攻撃(マルキシズムのこと:筆者)」を一緒にしてしまう分析を行ったのでは、イデオロギーは福祉出力の差を説明しなくてあたりまえだ、というわけである(Castles 1978, pp.54-5)
 従属変数についてもキャッスルズは単なる福祉分野への公共支出だけでは各国の福祉への取り組み、福祉政策の成果は測定できないとし、GDPに占める政府収入の比、GNPに占める教育に対する公的支出の比、新生児死亡率、の3項を一定の方式(注4)により指標化し、これの平均をとることでこれらを総合した、「純粋福祉指標」を作る。さらには、これに一人あたりGDPから作った指標を算入し、「福祉国家供給指標」を作る。
 この二つの指標がキャッスルズの提起する従属変数である。公表された国際比較可能な数値の操作により従属変数を作るという意味ではまったくウィレンスキーの方法を踏襲しているが、導き出したい結論は、福祉国家は主として産業化により作り出される、という以上に、政治的にも作り出される、というものであった。
 キャッスルズは産業化の程度を示す経済関係の変数の重要性は承認する。しかし、経済の豊かさは、かなりの資源を福祉支出に割くことができるかどうかを決めているには違いないが、いったんそういう敷居(threshold)を超えてしまった国々の間の違いを説明するのは豊かさの程度ではなく、政治である、ということである(Castles 1978, p.72)。二つの指標はこういう主張を実証するために作り出されたものであるといえる。
 「純粋福祉指標」のうち、政府収入の対GDP比と教育への公的支出の対GDP比は福祉に向けての政府の努力を指標化したものであり、新生児死亡率は成果を指標化したものである。OECD加盟国二五ヵ国(ユーゴを含む)より上位一五ヵ国を抜き出し「純粋福祉指標」と一人当りGDPを比較したとき、両者にはまったく相関はない。敷居を超えていると思われる国々の間での福祉の実践の相違は経済的指標により説明されない、ということである。
 では、こうした国々の福祉に対する姿勢の差を作り出しているのは何か。キャッスルズは、「純粋福祉指標」に「他の指標と併用することで比較対象の二五ヵ国それぞれの労働者階級が手に入れることのできる実際の福祉の水準を近似的に示す(Castles 1978, p.65)」一人当りGDPを算入し、実際の福祉水準と考えられるものを示す「福祉国家供給指標」を作り、これで各国の順位づけを行い、実際そうした国々の間では何が異なっているのかを検討していく。
 まず、キャッスルズは本稿でも先に触れたウィレンスキーの中央集権仮説に言及している(Castles 1978, p.72)。福祉国家供給指標の上位の国々はほとんど中央集権的な体制をとる国々で、逆に下位の国々には連邦制国家が多い。また、純粋福祉指標と一人当りGDPの乖離が大きい国(すなわち豊かであるのに福祉支出の少ない国)の上位四ヵ国(オーストラリア、スイス、アメリカ、西ドイツ(注5))は、みな連邦制国家である。キャッスルズはウィレンスキーのこの仮説を支持し、福祉改革を追及する政治集団にとっては分権的政治体制はかなり重大な阻害物となっているようであると述べている。

福祉国家供給指標順位と右翼政党の強さ
福祉国家供給指標
順位
1945-1972
平均得票率
政党
スウェーデン114.75保守党
ノルウェイ217.95保守党
オランダ39.97自由党
デンマーク417.53保守党
カナダ534.95保守党
ルクセンブルク614.61民主党
フィンランド715.46国民連合
スイス822.30カソリック保守党
フランス923.20人民共和派(45-56)
ゴーリスト(58-68)
アメリカ1049.95共和党
ベルギー1114.95自由党
イギリス1244.02保守党
ドイツ1344.32キリスト教民主同盟
オーストラリア1446.16自由/国民党
オーストリア1545.20人民党
Castles 1978, p.76)

 福祉国家の差異をもたらす独立変数として、次に挙げられるのが政党の配置である。福祉国家供給指標の上位四ヵ国はスウェーデン、ノルウェイ、オランダ、デンマークである。スカンディナヴィア三国については強力な社会民主党優位のシステムが高レベルの福祉を達成した、と言えそうであるが、オランダの存在ゆえに強力な社民党は福祉国家の十分条件ではあっても必要条件とまでは言えない、ということだ。では、オランダの場合などはどのような説明をすればよいか。福祉の推進役としての社民党への言及に続いてキャッスルズはそれを阻害する勢力について語る。絶対数では少なくても歴史的、政治構造的に特権的階層が力を持ってしまい、それが単一の右翼政党に組織されてしまうと富の再分配はなし難い。こういう強力な組織があるところでは福祉国家は成立し難く、逆に右翼組織が弱いところでは福祉国家は成立しやすい。代表的右翼政党の一九四五年から一九七二年までの得票率を比較したとき、上の表に見るように福祉国家供給指標の上位の国家はおおむねそうした右翼政党が弱く、下位の国家では得票率の高い強力な右翼政党が存在することがわかる。

 こうしてキャッスルズは、ウィレンスキーのような公表された数字による国際比較を行うという方法により、いわゆる先進国間の福祉国家のありようの違いを浮かびあがらせ、そうした違いもたらすものとしていくつかの有力な独立変数を提示した。彼の議論は福祉国家の構造と体制を考察するとき、かなりの貢献をしたものだと考えられるが、最大の貢献はおそらく、ウィレンスキーの前段の議論(収斂理論)と、後段の、中範囲の理論として語られている、先進国の政治構造の違いが福祉国家のありように与える影響の議論を、「敷居(threshold)」という概念を用いて明瞭に切り分けたところにある。彼の議論を踏襲することで、「政治」が有意であるのかないのかという議論に深入りすることなく、われわれは政治のありようの違いが当然、福祉国家のありようを異なるものにする、という議論をすることができるのである。

 キャッスルズの議論の概要とその評価については以上であるが、彼の意図とは別に彼の議論が面白い論点に気付かせてくれるところがあるので、少し触れておく。キャッスルズはOECD加盟諸国二五ヵ国からさらに高度に発展した国家一七ヵ国を選び、最終的にはデータに欠落のない国家をそろえて一五ヵ国にしぼっているのだが、その際、日本は最初の一七ヵ国に入っていない。なぜ、彼が日本をOECD加盟国のなかの福祉のパフォーマンスでは上位に属する国家としなかったのか、の理由は、福祉に関する国際比較を行うための枠組みについての留意点を教えてくれる。
 データは、教育支出についてが一九七五年、他は一九七七年のものであるが、日本を排除したのは政府歳入の対GDP比が低いからだということである(p.67)。他の国々については一人当りGDPが三、○○○ドルに満たない国を除いた、ということだが、日本のみはこれを満たしてはいるが、政府歳入が少ないから除いた、ということである。この指標は「市場メカニズムではなくて中央、地方の政府が国家の資源配分に関する調停者となっている度合(p.60)」を示しているということだから、福祉というものは基本的には国家が行うものである、ということが前提にされていることがわかる。ウィレンスキーにおいても福祉の指標は公的支出であった。もちろん、福祉が私的スキームでは実現し難いものであることは当然であり、福祉が公的施策であるというのはどちらかというと定義に近いところがあるが、日本における「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」は、欧米のように国家と個人という対抗関係に必ずしもぴったり重ならないようにも思える。キャッスルズは「低い」と分類した日本が、福祉の結果を測定する指標として出した新生児死亡率では非常に高い成績を収めていることに若干困惑ぎみであるが、国家と社会と分けたときの社会のサイドに福祉を担ってしまう「公(たとえば企業)」があるのだとすれば、低い政府のコミットメントと高い福祉パフォーマンスは両立しないことはない。ミグダル(Migdal, Joel S.)風にいえば、「弱い国家」を「強い社会」が支えているスタイルであるが(注6)、国家間の統計をつかった比較研究でこのあたりをフォローすることは難しい。日本の福祉政策を検討するときには留意すべき点なのかもしれない。

次章へ