立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2026.03.31

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅴ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅴ)「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第34号 表紙写真「荒木陸軍大臣の立命館禁衛隊観兵式」(昭和8年6月)  
禁衛隊表紙Ⅴ1
 【写真1】

 1933(昭和8年)年4月14日午後5時、荒木貞夫陸軍大臣が広小路の立命館中央講堂国清殿の明治大帝聖像奉拝のために来校しました(注1)。その後、荒木大臣は夕暮れのそぼ降る春雨の中、京都御苑において立命館禁衛隊大学、中学校、商業学校各部隊の観兵式にのぞみました。建礼門前で大臣による激励の言葉があり、最後は荒木大臣の発声で「聖上陛下万歳」の奉唱が行われたのでした。
 この後、6月1日には山本達雄内務大臣が、同じく明治大帝聖像奉拝のために立命館大学を訪れています。


(2)第35号 表紙写真「禁衛隊軍楽隊」(昭和8年7月発行)
禁衛隊表紙Ⅴ2
 【写真2】

 1933(昭和8)年6月25日の日曜日午後9時、JOOK(NHK京都ラジオ放送局)の開局1周年の記念放送番組の一つとして、立命館禁衛隊軍楽隊の演奏が行われました。禁衛隊の軍楽は、明治維新の際に京都府下山国村の人たちが勤王(官軍)の従軍をした時に用いたもので、その曲が禁衛隊にも伝授され、中等学校の生徒にとって相応しい行進曲として立命館禁衛隊で演奏されていました。曲名の記載はありませんが、おそらく山国隊軍楽隊と同じ隊の行進曲が約20名の生徒たちによって演奏されたと思われます。

(3)第36号 表紙写真「中川校長就任式」(昭和8年9月)
禁衛隊表紙Ⅴ3
【写真3】

 1933(昭和8)年9月、中川小十郎総長は、1928(昭和3)年4月以来の2度目の中学校・商業学校の校長を兼任しています(注2)。【写真3】は、校長の前を隊列を組んで行進する生徒たちです。10月10日には天皇が福井県での陸軍大演習統監の帰りに京都へ立ち寄るということで、立命館禁衛隊は御大典(昭和3年10月)の時と同じように警備を行うことで緊張が高まっていました。中川校長は、9月9日から2度にわたって生徒全員に腸チブス(原文のまま)の予防接種を行っています。また、大阪造幣局に依頼して禁衛隊胸章【写真4】を作成してこれも生徒全員に着用を義務付けていました(注3)。

禁衛隊表紙Ⅴ4
【写真4】

 また中川校長は、就任早々、2名の生徒を成績特別優良で操行至極方正として、全国的にも聞かない特別進級を行ってもいます。
 このようにして中川小十郎校長は、1941(昭和16)年まで総長兼務ながら中学校・商業学校の改革に大きく取り組んでいったのでした。 

(4)第37号 表紙「立命館禁衛隊 宣誓」(昭和8年10月)
禁衛隊表紙Ⅴ5
【写真5】

(5)第38号 表紙写真「禁衛隊宣誓文」(昭和8年11月)
禁衛隊表紙Ⅴ6
【写真6】

 「立命館禁衛隊」第37号本文には中川小十郎総長が「立命館禁衛隊の由来と国清殿に奉祀せる明治天皇の聖像」と題した文の中で、宣誓について次のように説明しています。
 我々は禁衛隊を組織して微力ながら禁闕守護の微衷をいたしたいと云ふことになって、三千の學徒の間に何時の間にか、その評議が一決した、一決した以上は宣誓がなければならぬ、署名式がなければならぬと云ふので、十月の二十三日にいよいよその式があげられた。その宣誓の文句は左の通りであった。

1928(昭和3)年10月23日に発表された宣誓文を、中川総長が謹書したのが第38号の【写真6】でした。


(6)第39号 表紙写真「御楯の井」(昭和8年12月) 
禁衛隊表紙Ⅴ7
【写真7】

 この【写真7】には以下のような説明文が加えられていました。
御楯の井は去る十月聖上京都御所御駐輦禁衛隊奉仕の際校庭に新に掘削されたもので、その名は萬葉集の「けふよりは かへりみなくて大君の しこの御楯といで立つわれは」によるのであって禁衛隊にゆかりも深い名称でもある。
 立命館中学校商業学校では、毎朝、皇居に向かって遥拝を行っていましたが、就任した中川校長の指導によって2学期はじめから、この井戸から汲み上げられた地下水を使って、身を清める禊を行い、その後に遥拝を行うことになったのでした(立命館禁衛隊第58号で詳記)。

2026年3月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
              
注1: 1929(昭和4)年11月3日の禁衛隊全員集合の記念会合席上で、学園の守護神を明治大帝とすることに一決したと記されている(立命館禁衛隊第37号 昭和8年10月発行)。
注2:1929(昭和4)年2月まで総長兼任で校長に就いていた。
注3:立命館 史資料センター所蔵

2026.03.17

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅵ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第40号 表紙写真「国清殿聖像前に點ぜられた『消えずの燈明』」(昭和9年1月) 

禁衛隊Ⅵ1
【写真1】

 前回(Ⅴ)で紹介したように、立命館学園では明治天皇を学園の守護神として祀ることに決定し、1932(昭和7)年8月、その奉安所である国清殿を立命館大学(広小路学舎)の校地内に竣工しました。9月22日には西園寺公望公が大学を訪問していました。
 その後、中川小十郎総長は、国清殿正面に銅製灯篭一対を奉献しました。1933(昭和8)年12月31日、この灯篭に奈良の橿原神宮御神灯の齋火を頂くため、総長の孫である中川重一、草木英一(注1)、塩崎達人(注2)の3名が派遣されました。往復4時間以上をかけて提灯で持ち帰られた齋火は、梨木神社の宮司・神官らによって燈明点火の儀が執り行われ、「消えずの燈明」として灯り続けたのでした。


(2)第43号表紙  1934(昭和9)年6月発行
    表紙写真【写真2】の説明文はなし
禁衛隊Ⅵ2
【写真2】

 広報誌「立命館禁衛隊」の表紙を飾る写真はしばらく中断し、この1934(昭和9)年6月のものになります。写真は、まだ木造2階建て北大路学舎であった校庭中央に掲げられた大きな鯉のぼりです。当時の天長節(昭和天皇の誕生日)4月29日の日に、皇太子誕生の初節句を祝って立てられたものでした。本文中説明には「中央に五十間(注:1間は約1.8m)の杉丸太、五間の真鯉、三間の緋鯉は壮観な姿」とあります。写真から大きさが見てとれますが、五十間という長さは現実離れした誇大表示か誤植としか考えられません。
端午の節句の5月5日には全校教職員が校庭に整列して皇太子殿下万歳三唱が行われています。それが【写真3】です。
禁衛隊Ⅵ3
【写真3】(立命館 史資料センター所蔵写真)

 1937(昭和12)年には、立命館中学校商業学校の校舎改築のため掲揚できなかったため、大学(広小路学舎)の校庭で鯉のぼりが挙行されました【写真4】。鯉のぼりの風習はごく普通に見られた光景でしょうが、一般民家でもまだ二階建ての少なかった時代に、皇太子の節句を祝うための巨大な鯉のぼりは、人々の目にどのように映ったでしょう。
禁衛隊Ⅵ4
 【写真4】立命館大学「立命館学誌第200号」(立命館 史資料センター所蔵写真)

(3)第44号 表紙写真「東京見学旅行」(昭和9年7月)

禁衛隊Ⅵ5
【写真5】

 1934(昭和9)年5月、中学校商業学校2校各2組の4グループ(引率教員各3名)に分かれて二泊三日の行程で東京伊勢方面へ修学旅行を実施しています。急な決定であったようで、生徒の感想文(「立命館禁衛隊第44号」掲載)にも驚いたと書かれていました。
 それ以前には、遠足や飯盒炊爨を実施していましたが、修学(見学)旅行としては初めての行事でした。5月24日~6月7日に中学校(32、33名)商業学校(40、38名)の5年生たちが、2泊のうち1泊を夜行(寝台ではない座席車両)という強行日程で参加したのでした。
 
 第1日目 京都駅 8時20分発(蒸気機関車「櫻」号) 自由席で乗車時間約8時間(専務車掌は偶然にも先輩卒業生)~ 国府駅で電気機関車に乗り換え ~ 東京駅着 
 東京駅の混雑の中、禁衛隊中隊旗を先頭にゲートル姿で皇居へ行進
 東京でのガイドは立命館出版部の職員2名。(軍隊のような隊列行進に他の宮城参拝客らは唖然と見つめていた、と生徒の感想文に書かれていた)。
 第1泊目を中川総長邸(東京市淀橋区諏訪町で現在の新宿区西早稲田)で宿泊することになっていたため、生徒たちは山手線に乗車して新宿駅から総長邸へ向かいました。年頃の男子生徒たちは、夜は遅くまで、朝は早くから騒いだようで、旅行後の総長夫人への礼状すべてに騒いだことへの詫び文が添えられていました。
 第2日目は、バス2台(小型で車体黄色、バスガイド2名添乗)に乗車して、陸軍士官学校、靖国神社、乃木希典邸、泉岳寺(四十七士の慰霊)、宮城で再び礼拝。そこで【写真5】の記念写真撮影。【写真5】はその時の中学校5年1組でバスガイドと立命館出版部職員。その後、銀座にある立命館出版部を見学。建物の前で校歌を高らかに合唱して自由行動。4時間ほどの銀ブラ後、東京駅に集合して夜行列車に乗車。
 第3日目の朝食は名古屋での駅弁。そして、伊勢神宮参拝。昼食を駅前で食べて、再び汽車に乗り、午後5時過ぎに帰洛。
 こうして、立命館付属校で初の修学旅行は、驚異的な強行日程三日間をこなして終えたのでした。

(4)第45号 表紙写真「作業の獲物」(昭和9年9月)

禁衛隊Ⅵ6
【写真6】

 立命館中学校商業学校には耕作作業という時間が設定されていました。1932(昭和7)年に入学した1年生たちは、わずか1坪ほどの土地を掘り返して草花の種をまく程度で、花が少し咲いただけでした。2年生になると、学校から1里(約4㎞)ほど離れた場所に千三百坪の土地を買い取り、農園にするためほとんど毎日通い鍬をふるって耕し、イモ、ナス、トマトなどを植えていました。そして、3年生となった1934(昭和9)年には、荒れ地は見事な農園となり、7月の大収穫の日を迎えたのでした。【写真6】のように積まれたジャガイモは生徒たち一人に1貫目あまり(約3.8㎏)支給されました。「立命館禁衛隊」第45号には、持ち帰って家族らと食べた時の感想が書かれていますが、汗を流して作物の収穫を得た喜びと味わいの感激が、生徒たち大きな体験と共に伝えられていました。
 こうした勤労体験は、後に学徒勤労動員の農作業で活かされていくことになるのでした。

注1:中川総長の好栄夫人(兄は草木家の当主で邦彦。邦彦の長男が戦死したため次男の英
一が草木家当主となった)。1931(昭和6)年に中学校商業学校の職員として就職し、
後に大学職員となったが1935(昭和10)年に退職。
注2:清和中学校第5回(1911年)卒業生。京都帝大文科哲学専攻卒。立命館中学校校長
を経て、立命館学誌編纂委員。その後、大学教授。 

2026年3月17日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.03.13

<学園史資料から>1970年前後の学生下宿事情

 史資料センターでは、学園の歴史にまつわる様々な事歴を保存・利活用しています。また、様々な学園の事歴の調査研究もしています。今回は1970年前後の学生下宿事情について、調べてみました。
 1972年1月20日付「立命館学園広報」(11頁)に、「学生下宿の深刻化と自治体に対する要望・請願」という学生部学生課の記事が掲載されています。「大学に対する学生下宿の提供申込数は減少の一途をたどっている。これに加えて部屋代の高騰、礼金や敷金の要求など、学生の下宿条件は日ごとにきびしくなっている。」「この原因は、なによりも地価の高騰および住宅難にあり、加えて物価上昇に伴う諸経費の増加が影響を与えていると思われる。また、地理的条件と部屋の状態をみると、京都の旧市内の下宿提供住宅は全般的に老朽化がいちじるしく、部屋の構造も襖一重といった状況で、少しでも良い部屋を希望する場合は左京区岩倉方面、東山区山科方面、宇治、乙訓郡、長岡などといった周辺の新興住宅地まで足を向けないと確保できない実情である。」と述べられています。この記事で示された数値の詳細は、「(表1)新入生の下宿決定状況」、「(表2)新入生への下宿提供数と取消率」をご参照下さい。(表1)の「来学者数」は、学生部窓口に下宿希望を申し込んだ新入生数。大学として協定料金内での下宿の確保に一層努力しつつ、地方公共団体に対して学生下宿確保の具体的諸施策を講ずるよう請願・要望を行っています。

下宿事情1

下宿事情2

 その後、1973年2月20日付「立命館学園広報」(9頁)で「教職員各位へ 新入生のための下宿の確保について協力方のお願い!」が掲載され、大学教職員にも下宿確保についての協力を求めています。「(表3)1973年度の下宿協定料金」にこの時の協定料金を示しています。なお、教職員への協力依頼は1974年1月、1976年1月、1977年1月、1979年1月、1981年2月の「学園広報」にも掲載されているので、余程切実なものだったようです。

下宿事情3

 ちなみに「全国大学生活協同組合連合会」による「第60回学生生活実態調査概要報告」(2025年2月28日)によれば、下宿生の「住居費」が2024年度で平均56,090円になっています。「バス・トイレ付」が標準仕様だと思われますが、随分と状況がかわってきていますね。
 イメージ写真として、1983年~84年の下宿の様子を示しています。

下宿事情4

立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

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