立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
最新の記事
2026.09.07
昭和初期の立命館中学校・商業学校 (13) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1) 第66号 表紙写真「中禅寺湖畔に於ける修学旅行団」昭和11年7月発行 神宮参拝旅行号
【写真1】 (表紙写真)中禅寺湖畔に於ける修学旅行団
立命館では毎年春の時期に中学校商業学校の五年生が伊勢・熱田・明治の三神宮と靖国神社等への参拝を中心とする旅行を6月6日から6泊7日の期間で実施していました。
第1日目は午前5時半に京都駅に集合し、駅前で朝拝を行った後、午前6時発の奈良電で八木駅乗換で山田駅着。皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)を参拝。再び汽車で名古屋駅へ出発。熱田神宮を正式参拝した後に旅館泊。
【写真2】隊列を組んで内宮参拝行進
第2日目は箱根へ。観光ホテル到着後に二重式火山見学しホテルへ帰着。
第3日目は鎌倉へ。鶴ヶ岡八幡宮、長谷観音を拝観して東京駅へ。宮城御拝し、中川総長邸を訪問してから宿舎の駿河台ホテル着。(生徒の感想では「ホテルとは名ばかりで、まるで馬小屋の様であった」と書かれていました)
第4日目は明治神宮・靖国神社正式参拝。乃木神社参拝、泉岳寺・震災記念館を参詣し、再び駿河台ホテルに帰着。
第5日目は上野駅から日光へ。見学や臨地講演を聞いて中禅寺湖畔の旅館着。
【写真3】日光明智平展望台より華厳の滝中禅寺湖を望む
第6日目は日光から新宿駅へ。淺川駅の車中から多摩御陵遥拝。午後9時前に上諏訪駅着で旅館へ。
第7日目は午前9時30分上諏訪駅発で、諏訪盆地、木曽川渓谷、日本アルプスを見学し、午後8時45分に京都駅へ帰着して解散。
参加者は126名。不参加者は全生徒の3分の1以上の75名(理由は家庭の事情29名、病気15名、勉強13名、その他18名)でした。
6泊7日の列車中心の旅程は、移動するだけも大変なものでした。それでも生徒たちのエネルギーは逞しく、行程や女性バスガイドとの交流を楽しみ、宿舎では疲れを知らないかのように時間を楽しんでいたようで、この旅行を記した大特集は36ページにも亘っていました。その中の一人は「The Sixth Day」と英文で投稿していました。
この6月の学校行事では、6月16日に防空演習を実施。6月20日には桃陵師団(京都伏見にあった陸軍第16師団の通称)凱旋を歓迎するため、全校生徒が隊列を組んで河原町四条を下がった場所まで行進したと記載されています。
(2)第67号 表紙写真「愛宕山幕営地全景」愛宕幕営号 昭和11年9月発行
【写真4】表紙・愛宕山幕営地全景
7月1日からは夏季特別短縮授業が実施され、午前中を「全校静粛」厳守で学科勉学に集中し、午後からは教練体操武道作業などの訓練を行うこととして9月21日まで続きました。
その頃の中川校長は、自身が竹刀を持って剣道の稽古をしたことがないと言いながらも学生剣道連盟の会長を引き受けていましたが、立命館の生徒たちには、剣道は運動ではなく、武士道として精神を錬磨するものであると強く指導していました。第67号には中川総長訓話で「禊は、我国に於いては、最も古くからおこなわれてゐる、最も大切な行事であり、教育上の要件である。傳統的な、日本の教育の要件だ。之と剣道とは同じことである。」と書かれていました。
この号の特集は、愛宕山での幕営(野営)訓練で生徒たちの様子を伝える12枚の写真が、「愛宕幕営グラフ」と題して掲載されています。中学校商業学校三年が7月23日から2泊3日で実施した後、他学年が順次実施していきました。
【写真5】北野天満宮参拝後、北野駅から京福電車で愛宕山の幕営地へ向かう生徒たち
【写真6】日の出に向かって遥拝
【写真7】銃器の手入れが綿密かを配属将校が点検
【写真8】最も楽しかったのかもしれない飯盒炊事
それまで「立命館禁衛隊」誌に見られていた生徒たちの伸び伸びとした詩や随筆などの作品数が減少してきました。禁衛隊精神が毎日の学校生活で前面に出されるようになった立命館の教育は、今号の特集のように次第に戦時体制の様相を色濃く呈するようになっていきました。
2026年9月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
2026.08.27
文人としての中川小十郎先生―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第2回
かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第2回は、1972年(昭和47年)発行の機関誌『立命館学園広報』より、長年にわたり立命館で勤務した浜田種子さんによる「文人としての中川小十郎先生」を復刻します。
豪放磊落で親しみ深く、詩や書、禅、陶芸、新劇にも深い関心を寄せた創設者・中川小十郎。その豊かな文化人としての横顔や、職員との温かな交流、思わず微笑んでしまう逸話の数々を、身近で見つめ続けた著者が丁寧に綴っています。
大学史だけでは語り尽くせない創設者の素顔に触れられる、貴重な証言です。
文人としての中川小十郎先生
私はものの上ッ面ばかり見て、ついウカウカと齢を重ねてきた。そのうえに、物忘れがいいので昔の記憶をたぐりよせようとしても、片々と水の上に浮んだ水草のような、きれっぱししか見えてこない。そんな中から、文化人であられた中川小十郎先生の思い出をひろってみようと思う。
いまの管理課の建物が東面して建っていたころ、入口をはいって左の階段を2階にあがると図書館、1階の右側の部屋が事務室、突当りが総長室であった。総長は京都に居られるときは、この部屋へ毎日出勤して事務をみたり、来客と談笑し、またいつも何か草稿を書いたり、読書をしておられた。ときどき事務室に顔を出され、老人特有の斑点のある大きな頭の下に童顔をほころばせて世間話に興じられるかと思うと、破鐘のような雷が竹上孝太郎理事(故人)の方角に落ちるときもあった。
総長の声は大きくてよく響いた。初代理事長の池田繁太郎氏の学葬が校庭で行なわれたとき、中川総長の追悼の辞は、低く抑えた声ながら朗々とよくひびいて、「君は……」と呼びかけるような、そのせつせつと心をうつ哀惜の調子は、いまも耳朶に残っている。
頼まれて、よく大きな白無地の扇子に詩文か“偈(けい)”のようなものを書かれたが、雅趣のあるひとつの風格をもった字であった。素焼きの陶磁器をつくらせて、呉須などで字を書いて焼かせた壷や茶碗は、いまにして思えば、いい味をもった作品であった。
現在、中央図書館に保存されている、白磁に呉須で寒山詩を書きあげた大きな壷は、清水の陶工“祝峰”のロクロ技と調和して、見事な出来ばえである。その他のものは、どこに散ってしまったのであろうか。
新劇が、いまのように大衆化されていなかった昭和9年ごろ、うまれてはじめて新劇なるものを観せていただいた。新築地劇場の劇団が、「にんじん」と「憂愁夫人」の2本を演し物に、日出会館で公演していた。この会館は、当時、日の出新聞というのがあって、その新聞社が建てたもので、ちょうど朝日会館のようなものだが、たしか烏丸丸太町を下がったあたりにあった。
中川先生は、東屋三郎の後援をしておられたらしく、“三ちゃん後援会”と立札をした席がとってあって、そこで学校の職員4~5人で見物させてもらったのである。誇張されたわざとらしさもなく、淡々と平常の会話どおりに運んでゆく、そのセリフまわし、また外国映画そっくりに外人のしぐさを巧みに演じてゆく演技力には、ひどく感激したことをおぼえている。“にんじん”が終って、つぎの演し物との幕間に、「これが、にんじんのお父さんだよ、驚いたろう、ハハハ……」と、メイキャップを落とした素顔の上品な、三ちゃんこと東屋三郎を紹介してくださったのには、突然でびっくりさせられた。その時分の新劇の観客層であった、とりすましたインテリのなかに、もっさりしていたであろう私たちを引きつれて、おかまいなく、磊落にふるまっておられた。“にんじん”の翻訳本を小脇に、通路を歩いておられる姿は、青年のような稚気が感じられ、ほヽえましく思ったことであった。その三ちゃんの夫人の岸輝子が、京都公演の際には、中川先生の未亡人のもとに、晩年まであいさつにみえていたそうである。
天龍寺の関精拙老師や、相国寺の山崎大耕老師とも親交が厚く、毎月、天龍寺管長を学校に招いて、禅の提唱に力をそそがれていた。揮毫にも、よく偈を用い、出征兵士に贈る国旗に、「一超直入如来地」をもじって、「一超直入南方空」などと書かれたりした。
正岡子規が、『おろかちふ庵のあるじのあれにたびし柿のうまさの忘らえなくに』とよんだ短歌(うた)があるが、この“おろかちふ庵”のあるじ、天田愚庵和尚とは、伏見におられるころ、となり同士に住んでおられて交わりが深かった。
禅に興味をもたれたのも、そういう親交のなかからであろうと思う。白雲荘の玄関にある石額の由来をみてもその片鱗がうかがえる。
石といえば、これは最近に聞いた話であるが、ある日、看護婦の中村ナミさん(昭和46年8月に退職された)に「中村クン、きょうはこれから泥棒にいくから、ついてきなさい」と風呂敷をもたせ、どこへいくのかと思えば金閣寺の庭へつれていかれたという。そして、溝のあたりにころがっている石ころを、ステッキで指し、ソレダ、早く包みなさい、 早く、早く」と、持参の風呂敷に包ませられ、ソレッと、ふたりはあたふたと逃げ帰ったそうな。
先生は、その盗んだ石をきれいに洗わせ、座敷に置いて楽しんで眺めておられたという。それがどんな石だったかは知る由もないが……。
その当時は、事務職員の数も10数人という規模で、きわめて家族的な雰囲気のなかで仕事がすすめられていた。総長をはじめ竹上理事など、自由平等な考え方をもって、仕事のうえでは上も下もなく、男女の差もなく、その点で私たちは戦後の自由の解放をまつまでもなく、おおいにノビノビと働くことができた。
中川先生の大きな頭は、絶えず生きいきとはたらき、時勢のながれを見極めて、機をみるに敏でこれはいいと思ったことは誰のいうことでもとりあげ、ただちに実行に移された。
詩に興じ、筆をふるい、新鮮な感覚で演劇を愛し、それに倍して立命の充実・発展につくされた中川小十郎翁の断面をおもい起して、私自身も気のとおくなるほどながく勤めた立命館の、これからのいっそうの発展をねがってやまないものである。
(女史は本年(1972年)4月15日に退職された)
編集部注
浜田さんは、昭和8年2月に立命館職員として奉職され、本年(1972年)4月に依願退職されるまで、大変ながい歳月を立命館とともに歩んでこられました。その間、終始、会計業務にたずさわられたベテランであり、制度改革で廃止された事務主任の職務にあって、職場のまとめ役としても貢献されました。ご健勝をいのり、こんごとも学園の発展のためにお力添をいただきたいと思います。
2026年8月27日 史資料センター
2026.08.20
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(12) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第64号 表紙写真「端午の節句祝賀式(槍術貫流極意型実演)」
1936(昭和11)年5月発行
第64号表紙を開けると最初に告示「非常呼集について」が書かれています。天災やその他の非常呼集のサイレンが鳴ってからの避難訓練で「急がずして、急ぐ」と沈着と敏速との姿勢が大切と説かれています。「一切の行動は、すべて無言にして、下腹に力を入れ迅速に集合地点に向かい、次の命令を待つ。」今も変わらない避難訓練の基本的心構えです。
4月29日は天長節と呼ばれた天皇誕生日で、戦前にあっては国家の重要な祝祭日でした。全国の学校で祝賀式が催されました。立命館中学校・商業学校の生徒たちも学校に集合し【資料1】のような式次で天皇の誕生日を祝し、終了後には記念饅頭【写真1】が配布されて下校しました。
【資料1】天長節式次
【写真1】復元された紅白記念饅頭
【写真2】表紙写真 校庭での祝賀槍術実演と生徒たち
表紙の【写真2】は、前年、昭和天皇に第二皇男子の義宮親王(現在の上皇の弟である常陸宮親王)が誕生されていたことを祝い、5月1日から校庭に鯉幟を一つ多く上げられました。そして5月5日の端午の節句(戦前は祝日でなかった)には【資料2】のように校庭を禁衛隊行進した後、全校生の前で槍術範士の模範演武が行われたのでした。
【資料2】
(2)第65号 表紙写真「軍艦旗翻る(五月二十七日)」
1936(昭和11)年6月発行
【写真3】防空監視櫓に翻る軍艦旗(旭日旗)
5月27日は海軍記念日。日露戦争における日本海海戦で日本が勝利したことを記念して祝されていた日でした。立命館中学校・商業学校では式典は催されませんでしたが、木造二階建ての学舎で最も高い屋根上の櫓に軍艦旗(旭日旗)を【写真3】のように掲げてその日を祝していました。この櫓は、防空演習で防空監視哨の5年生がマイクで「敵機見ゆ」という発声で開始となる北大路学舎のシンボル的存在でした。
この禁衛隊第65号には、立命館中学校の前身清和中学校の第1回卒業生で、滿川亀太郎拓殖大学教授の訃報記事が9ページに亘って掲載されていました。中学5年まで在学していた吉田中学校が不祥事により廃校となった後、中川小十郎によって清和中学校への編入の道を与えられ、僅か5か月足らずの在学期間にもかかわらず、中川総長を敬愛し、人一倍の熱い愛校心をもって、後輩たちへ母校と日本の未来を語っていた人物でした。
2026年8月20日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
