立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2025.09.19

<懐かしの立命館>懐かしの銭湯

 現在ではバス・トイレ付の学生アパート・学生マンションが主流だと思いますが、京都で下宿生活をしていて、銭湯に通った思い出のある方々も多いでしょう。
 立命館大学校友会創立100周年記念の「みんなの思い出」メッセージにも、「風呂は、龍安寺商店街の谷口湯に行ってました。」(1992年経営学部卒業)、「風呂がなかったので、近所にあった銭湯『小松湯』『扇湯』『金閣寺湯』へ通いました。当時の銭湯代は230円ぐらいでしたが、仕送り日の前には隔日に利用するなど切り詰めていたと思います。」(1988年経営学部卒業)、「風呂といえば、白沙村荘の近くに銀閣寺湯という銭湯があり、そこでの羨ましくも妬ましい光景を思い出します。巷は、かぐや姫の神田川という曲がヒットして数年後の頃で、男湯と女湯との間で『外で待ってる』『ハーイ』とかいうカップルのやりとりが何組もあり、森見登美彦氏流に言えば、『呪いの言葉をわめき散らし』たいような気分によくなったものです。その銭湯の近く、白川通今出川の交差点から銀閣寺へ通じる途中の疏水添いの小径は、4月の桜の花の散り際にはピンクの絨毯を敷いたような美しさで、私にも銭湯でのカップルのように、いつか春が来るのではという妄想を抱かせてくれました。」(1980年法学部卒業)といった思い出が語られています。
 ところが、最近はその数が減少の一途を辿っています。原因は様々です。林宏樹『京都極楽銭湯読本』(淡交社2011年)(以下「同上書」と表記)によれば、「約十年に一度やってくる釜の更新時期が廃業するひとつのタイミングのようだ。数百万円の費用を掛けて釜を更新しても、あと十年、自分たちの身体がもつかどうかわからないため、暖簾を下ろされるパターンだ」と書いています(135頁)。後述の「経営者の年齢構成」グラフ(2008年調査)を見ても60歳以上が75.3%と銭湯経営者の高齢化がわかります。また「利用者の年齢構成」も年齢層が高いことがわかります。さらに、風呂付の住宅の増加や新型コロナウイルス蔓延なども影響していると考えられます。
 京都府公衆浴場生活衛生同業組合加盟の銭湯数は、1955年に586軒、1975年に502軒、1990年に372軒、2000年に301軒、2010年に236軒、2020年に163軒、2025年に143軒となっています。

 同上書に1964(昭和39)年当時の京都府の浴場組合加盟銭湯一覧(そのうち2010(平成22)年末現在営業中の銭湯)が示されていましたので、そこに2025年現在の情報を加えてまとめてみました。京都市北区と上京区、中京区にある銭湯に絞っていますが、皆さんが利用していた銭湯はありましたか?なお、1964年当時には「〇〇湯」としていた名前が、今日では「〇〇温泉」と名乗っている所も多くなっています。もっとも現実に温泉もあったようです。同上書では、「とかく暗い話題の多い銭湯業界だが、2006年5月に、京都市右京区西京極の大門湯(現、天翔の湯大門)で、地下千メートルから温泉が沸いたという明るいニュースが届いた。街のお風呂屋さんが自前で温泉を掘削し、見事に掘り当てたのだ。泉質は療養泉にも認定される「ナトリウム―塩化物泉(純食塩泉)」で、泉温35.5℃。浴用した場合の適応症としては、神経痛や関節痛などがあるほか、引用も可能なのだとか。ご主人は、療養泉であることが確認された日、一日中成分表を眺めておられたというから、その嬉しさがどれほどだったか窺える。」と書かれています(115頁)。

 さて、銭湯の大人の入浴料ですが、1959年は16円(+洗髪料10円)、1965年は28円(+洗髪料10円)、1966年から洗髪料が5円に値下がりし、1972年に48円(+洗髪料5円)、1973年は60円で洗髪料は廃止、1975年は100円、1981年は200円、1990年は250円、1995年は300円、2000年は350円、2005年は370円、2010年は410円、2024年は510円、2025年は550円と、値上がりが続いてきました。

*注:円グラフは、同上書のグラフの数値をもとに筆者が編集しました。
懐かしの銭湯1

懐かしの銭湯2

懐かしの銭湯3


懐かしの銭湯の営業状況推移表はこちら→ ※別ウィンドウで一覧表が表示されます。

2025年9月19日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2025.07.29

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校商業学校(Ⅰ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

 史資料センターには戦前の立命館中学校・立命館商業学校時代に発行された広報誌「立命館禁衛隊」が創刊号から保存されています。
 立命館禁衛隊は、1928(昭和3)年11月10日の京都御所での昭和天皇即位の御大典に当たって、立命館の全教職員、学生、生徒が御所を警護するという目的で結成されたものです。その一年後の1929(昭和4)年10月、広報誌「立命館禁衛隊」は、「立命館中学校竝に立命館商業学校の人心の統制学術の奨励を目的」(注1)として創刊され、
禁衛隊表紙1
 【写真1】第1号表紙

以後ほぼ月刊で1938(昭和13)年2月の第83号まで発行されています。その後は不定期で刊行されました。
 今回は、広報誌「立命館禁衛隊」表紙に掲載された写真から昭和初期の立命館付属学校の姿を紹介します。
 
(1)第1号表紙写真 1929(昭和4)年10月発行「中学校・商業学校教職員 全校生徒集合」
 
禁衛隊表紙2
 【写真2】
 創刊号を飾る表紙の写真は、1929(昭和4)年9月3日午後1時に中学校と商業学校全員が校庭に集合して記念撮影されたものです。生徒は夏服に制帽。教職員も白色を基調とした服装で、見事な姿勢で整列をしています。
 前日2日午前8時に両校職員生徒一同が校庭に集合し、朝礼が行われ、その後に授業が行われています。放課後の職員会議では、「立命館禁衛隊」発刊の件、学校と家庭との連絡の件、一般訓育に関する件、防寒具を外套に統一する件などが議題とされたと記録されています。
 
(2)第3号表紙写真 1929(昭和4)年12月発行「立命館禁衛隊旗 授与式」

禁衛隊表紙3
 【写真3】
 立命館が昭和天皇即位大典のための御所警護を行ったことに対し、天皇から賜金をいただくことになり、これを基に「天賜立命館禁衛隊」の文字が錦糸で刺繍された禁衛隊旗2本が制作され、大学と中学商業にそれぞれ交付されることになりました。
 そして、昭和天皇即位の翌年11月10日が「禁衛隊記念日」と定められました。この日は早朝から降りしきる雨の中で禁衛隊旗の授与式が行われました。校庭に中学商業の生徒約千名が凹の字に整列し、中央には中川小十郎参謀長(総長)と塩崎隊長(校長)。中川参謀長は、全生徒教職員に向けて「この隊旗は禁衛隊精神の象徴である。この隊旗を主持して禁衛隊精神を発揮せよ」と述べられ、隊旗は生徒旗手へと渡されたのでした。
 雨中の校庭での分列式を終え、最後は塩崎隊長の発声で天皇陛下万歳を三唱して隊旗授与式は終わったのでした。

(3)第4号表紙写真 1930(昭和5)年1月発行「山国村協一尋常高等小学校に於ける塩崎校長の講話」

禁衛隊表紙4
 【写真4】
 立命館では、「立命館禁衛隊映写班」として、御大典の時からフィルムによる記録撮影を行い、校友会で撮影機映写機などを購入して活動を活発化していました。そして、禁衛隊広報の一環として、京都市内の小学校など様々な場で上映することが計画されていました。すでに禁衛隊の行進曲にもなっていたのが、時代祭でも知られる山国隊の鼓笛でした。軍楽の発祥地ともいわれる山国村から禁衛隊の写真を見たいとの依頼を受け、12月3日に上映会を開催することになりました。塩崎校長が講話を行った後に映画が上映されました。
 映画は、学校準備の「立命館禁衛隊」8巻(1巻400フィート)
     「感激の東郷大将」「高山彦九郎」各1巻
     「不破數右衛門(赤穂浪士四十七士)」全6巻の長編もの 

(4)第12号表紙写真 1930(昭和5)年11月発行「射場開式 天地四方祓 小笠原清道範士」

禁衛隊表紙5
 【写真5】
 立命館中学校商業学校では、1930(昭和5)年4月に弓道場が新設され、同時に弓道部が誕生していました。そして、10月5日午前8時半から弓道射場開きの式典が開催されました。
 塩崎達人会長(中学校長)の開会の辞の後、大日本武徳会師範である小笠原範士による式射禮が行われ、次いで巻藁前を行ったのが本校顧問の田島錦治立命館大学長でした。その後に射禮として大学や高等学校、京都・大阪の中学校などから多くの選手出場があり、午前の最後を清和中学校卒で立命館の校医であった藤野幸太郎の射禮で終えました。昼食後は競射が行われ、表彰の後には田島学長による万歳三唱ですべてを終了しました。

2025年7月29日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

 注1;「立命館学誌」127号 (1929年10月発行)

2025.07.22

<学園史資料から>「明治村」に移設されている「坐漁荘」について

 立命館史資料センターホームページで<立命館あの日あの時>「立命館大学衣笠キャンパス学術・文化資源紹介<立命館の学祖・西園寺公望>」2020123日)や<懐かしの立命館>「西園寺公望公と佐乃春の料理」20171003日)、「西園寺公望公とその住まい 後編」20151210日)で紹介しており、Facebookにて見学第一報報告を行いましたが、愛知県犬山市の「明治村」に移設されている西園寺公望が晩年に過ごした静岡県興津の「坐漁荘」を見学しました。

オリジナルの建物は大正九(1920)年に創建された数寄屋造りの建物で、昭和四(1929)年に洋間やサンルーム、湯殿、台所等が増築されました。それらすべてと庭もできる限りそのまま移設されています。ここに紹介している写真は、ガイドの許可を得てすべて筆者が撮影したものです。


明治村の坐漁荘1

 

 まずは建物の外観ですが、外塀は舟板塀で、少し赤味がかっています。

明治村の坐漁荘2

 時間指定で建物ガイドがあり、建物内部について説明して頂けます。早速中に入って説明を聞きましょう。

 主屋は木造2階建てで、梁や鉄筋を工夫し、強い海風に耐えられるような工夫が込められています。

明治村の坐漁荘3

 居間にある大きな机は、公望の特注ということでした。少し低い気がしますが、ここに座って机に肘をつき、庭を観ながら好きな読書をしていたのでしょうか。

 明治村の坐漁荘4

 次に洋室です。室内に設置されている調度品は、すべて「坐漁荘」で実際に使われていたもので、フランス留学経験があった公望は西洋の暮らしに慣れ親しんでおり、洋式の家具を愛用していました。愛用の竹製ステッキが飾ってありました。

明治村の坐漁荘5

明治村の坐漁荘6

上下階の南側の建具には、紫外線を透過する「並厚ヴァイタガラス(vita glass)」が使用されています。

明治村の坐漁荘7

 お風呂場はヒノキ造りで、浴槽が深めです。この建物には、公望の好みを反映して竹がふんだんに用いられていますが、湯殿は白竹を張り込めた舟底天井となっています。

明治村の坐漁荘8

2階座敷の障子を開け放つと、遠い山並みを背景に入鹿池を見渡す美しい景色が広がります。興津に建てられた当時は、右手に清水港から久能山、左手には伊豆半島が遠望されました。

明治村の坐漁荘9

 台所はガスレンジこそありませんが、いわゆる「アイランド・キッチンテーブル」がある結構モダンですっきりした雰囲気です。三つのかまどがありますが、料理を一から作っていたのではなく、たいていは取り寄せた料理を温めていたとのことでした。

明治村の坐漁荘10

格子の向こう側には警備員のための部屋がありました。また当時は連絡や警備の関係で、建物内各所に呼び出しボタンが設置されていました。ボタンが設置されていた所は、洋間、ベランダ、化粧室、湯殿、二階応接、御居間、書庫、便所の8か所で、ボタンを押すと、女中部屋の表示盤に部屋番号が表示され、女中や書生を呼び出せる仕組みです。

明治村の坐漁荘11

明治村の坐漁荘12

「坐漁荘」と名付けられたこの建物は、呂尚の故事「坐茅漁」が由来で、「座ってゆっくり魚を捕る」という意味が込められています。しかしながら、引退後も公望の元には事あるごとに政治家の来訪がありました。決して”ゆっくり”とは言えない晩年であったようです。

 明治村の坐漁荘13

2025年7月22日 立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

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