立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2026.01.27

<学園史資料から>学園祭パンフレット広告にみる「時代の流れ」

はじめに

 立命館 史資料センター所蔵の学園祭パンフレットから、「時代の流れ」を感じる広告をピックアップしてみました。皆さんにとって懐かしいものはあるでしょうか?
 まずは、日進月歩が盛んだったワープロやパソコンの広告を取り上げます。なお、これらの広告は、立命館大学学園祭パンフレットの裏表紙や冊子中に掲載されたものです。

1.ワープロ・パソコン広告の推移

【1988年】〇NEC 「パーソナルワープロ文豪mini5HL」
学園祭パンフレット広告1

【1989年】〇NEC 「PC-9801 LX5C」「カラーラップトップ98、日本初、新発売。」
学園祭パンフレット広告2

【1990年】〇NEC 「98NOTE SX」
学園祭パンフレット広告3

【1991年】〇NEC 「98NOTE NV、98NOTE SX/E
学園祭パンフレット広告4

【1992年】
〇NEC 「PC-9801 NS/L、PC-9801 NL
学園祭パンフレット広告5

【1993年】〇NEC 「文豪ミニ5UV」
学園祭パンフレット広告6

【1994年】〇NEC 「新98NOTE PC-9821 NE2」
学園祭パンフレット広告7

〇FUJITSU 「FM TOWNSⅡ」
学園祭パンフレット広告8

【1995年】〇NEC 「98NOTE Light/LT2」
学園祭パンフレット広告9

【1996年】〇NEC 「98NOTE Aile」
学園祭パンフレット広告10

【1997年】〇NEC 「Mobile Gear」
学園祭パンフレット広告11

【2005年】〇Panasonic 「レッツノートW4」
学園祭パンフレット広告12

【2007年】〇Panasonic 「レッツノートW5」
学園祭パンフレット広告13

2.「学園祭」パンフレットにみる「気になる広告」について

 次に、広告の中で気になったものについて取り上げます。

【1963年学園祭パンフレット】〇寶酒造株式会社 「タカラビール」
 このビールは知りませんでした。「タカラビール」は1957年に発売されましたが、大手ビール会社との競争の中で1967年に撤退しています。
学園祭パンフレット広告14

【1965年学園祭パンフレット】〇トヨタパブリカ京都株式会社 パブリカデラックス 
 トヨタパブリカは、1961年から1988年まで生産・販売された小型乗用車でした。700cc、32馬力、4人乗りということです。現在の軽自動車は排気量660ccがほとんどなので、同じ程度のパワーだったのでしょうか。
学園祭パンフレット広告15

【1974年学園祭パンフレット】〇三谷伸銅株式会社
 「ぜひご入社・ご入部を―剣道部、空手道部、野球部、重量挙げ部、華道部、茶道部、書道部、謡曲部、英会話部一同」
 単なる「広告」ではなく、就活に向けて企業側からアプローチしていて面白いと思いました。いろいろな部活動が行われていたんですね。
学園祭パンフレット広告16

〇京都トヨペット
 「卒業生一同(32名の校友の卒業年と氏名を掲載)」
 こちらも就活向けでしょうか。立命館校友が大勢いることをアピールしています。現在では「個人情報」の流出問題が気になりますが…。
学園祭パンフレット広告17

〇特殊電機株式会社 
「当社には北野専務をはじめ立命館大学卒業者が10数名在籍しています」
 こちらも就活向けでしょうか。立命館校友が専務を筆頭に働いている企業として、目が向きますね。
学園祭パンフレット広告18

【1976年学園祭パンフレット】〇MKタクシー 
「働きながら学ぶ最適の環境を準備しました」
 立命館大学に二部(夜間部)があった頃の広告なので、転職向けまたは二部を志す学生に向けた広告だったのでしょうか。
学園祭パンフレット広告19

【1978年学園祭パンフレット】〇王将チェーン 
「この券1枚で餃子一人前無料になります」
 なんとこの広告を「クーポン券」として活用しているところに感心しました。
学園祭パンフレット広告20

【1981年学園祭パンフレット】〇INODA MOTOR’S
 「立命OBがお待ちしております」
 こちらも就活向けでしょうか。立命館校友がいることをアピールしています。
学園祭パンフレット広告21

 以上、学園祭パンフレットの広告をピックアップしてみました。いかがだったでしょうか。皆さんの記憶にあるものが見つかりましたか?

立命館 史資料センター調査研究員 佐々木浩二

2026.01.21

<懐かしの立命館> 立命館オルゴールと「学生歌」について

 立命館 史資料センターには「立命館オルゴール」がいくつか保管されています。この度、そのオルゴールを集めてみたところ、それぞれ木彫りの彫刻や色調が異なっていることが判明しました。
 また立命館校友向け冊子『立命』の1965年~1968年まで、「母校の卒業記念品 立命館オルゴール」の広告が載っており、「母校のシンボル存心館からあの感激の校歌が流れます」、「校歌・赤き血汐・全曲入り」、「なつかしの校歌の全曲奏鳴が全く素晴らしい」といったうたい文句が描かれていたため、ずっと「あかき血潮~」の校歌がオルゴールになっているものと思い込んでいました。ところが今次、オルゴールを鳴らしてみたところ、なんと校歌は1台のみで、他は「学生歌」のオルゴールでした。

オルゴール1
【赤き血汐~のオルゴール】


オルゴール2
【学生歌①】               【学生歌②】

オルゴール3
【学生歌③】

 「赤き血汐」バージョンは、時計台部分が高く、植え込みが二つ付けられています。「学生歌」バージョンの①と②は植え込みが一つあって似ていますが、地面の形や彫り、屋上の彫り方や色調が異なっています。「学生歌③」には植え込みがありません。
 それぞれ木彫りで製作されたもので、工房によって彫り方や色合いが異なっていたものと思われますが、それぞれ個性があって面白いです。
 広告には「母校存心館縮図型現職木彫民芸品」として3,300円の値段がついているので、当時としては高価なものだったと思われます。週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史 上』(1990年第3刷)の159頁で昭和40(1965)年の白米10㎏が1,125円、昭和43(1968)年では1,520円という時代なので、実際に購入した学生はそれほど多くないのではないでしょうか。
 いずれにしてもオルゴールは健在であり、懐かしいメロディを聴くことが出来るので、感涙ものです。

オルゴール4
【校友向け『立命』誌の広告1965年】

 さて、上述の「学生歌」ですが、学園創立六十周年を記念して学生、教職員、校友から応募したものです。応募総数がのべ77件あり、当時理工学部1回生の岩崎紘久さんが入選しました。なんと賞金は7万円でした。この歌は「かがやける 明日をのぞみて~」で始まります。ちなみに佳作3点の賞金は各1万円なので、懸賞としてはかなり魅力的な企画だったようです。学園創立六十周年を盛大に祝い、記念学園歌はソノシートとして作成・配布されました。学生歌のオルゴールは、六十周年を記念して作成されたものだったようです。

オルゴール5
【学園新聞への懸賞募集広告1960年】

オルゴール7
【学生歌ソノシート表・裏】

立命館 史資料センター 調査研究員 佐々木浩二

2025.12.12

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅳ) 広報誌「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から



(1)第25号表紙写真 1932(昭和7)年2月発行
   「京洛の覇者 立命館中学校相撲部」

禁衛隊表紙Ⅳ1
【写真1】

 この当時、相撲は中学校スポーツの中でもメジャーな競技で、各大学主催の中等学校相撲大会が開催されるようになっていました。1931(昭和6)年10月には立命館大学主催第1回全国中等学校優勝大会が開催され、立命館中学校の選手が優勝と3位に。また、11月の同志社大学主催第4回京都中等学校優勝相撲大会では第1回大会以来の優勝を果たしています。表紙【写真1】はその時の優勝記念写真で、その後も相撲部は活躍していました。


(2)第28号表紙写真 1935(昭和10)年9月発行
「浦上範士射――五月七日」
  


禁衛隊表紙Ⅳ2
【写真2】

 1932(昭和7)年3月、武徳殿で開催された第32回関西連合競射大会において、立命館中学校・商業学校からは各2チームが出場。中学校4年の伊藤英夫が大学生や一般も含めた百名ほどの出場者の中で第2位に入賞しています。商業4年の伊藤節夫と共に17歳にして弓道初段を允許されています。
 この頃になると弓道部の活動は目覚ましい活躍として報じられていました。前年の1934(昭和9)年5月には京都武徳会による武徳祭が開催され、演武のために全国からも有名な弓道師範が京都を訪れていました。5月3日には学習院と東京帝国大学師範の大内儀一範士が来校し、講堂で生徒を直接に指導していました。続いて、表紙【写真2】の海軍大学校師範浦上榮範士が7日に校庭で日置当流の妙技を披露されました。浦上範士は、立命館中学校・商業学校生徒が前年秋に東京で開催された明治神宮体育大会に出場した際、特別にお世話をいただいたという経緯もあったのでした。
 この年の6月には第4回京都中等学校弓道連盟競射大会が立命館大学道場で開催され、立命館商業学校が優勝を果たしました。


(3)第29号表紙写真 1932(昭和7)年10月発行
 「塩崎校長 奉射
    七月三十一日・官幣中社御上神社 」 





禁衛隊表紙Ⅳ3
【写真3】
 1932(昭和7)年7月、中学校と商業学校の弓道部では、夏期講習を終えてから生徒22名(中学2年2名、3年9名、4年5名、5年1名。商業3年4名、4年1名)と引率教員団5名(団長は塩崎達人校長)で、7月31日から8月3日の日程で滋賀県の東江州の史蹟踏査を行いました。
 立命館の弓道流派である日置流に最もゆかりのあるのが滋賀の御上神社(注1)であったことから、第1日目には御上神社楼門前で校運の隆昌と武運長久を祈願する禮射一手の儀式を塩崎校長の奉射によって表紙【写真3】のように行われました。続いて生徒代表2名、校医で塩崎校長と清和中学校同級生であった藤野幸太郎師範代【写真4】(注2)が禮射を行いました。
禁衛隊表紙Ⅳ4
【写真4】

 その後は三日間で滋賀県八日市の連隊と沖野が原飛行場を訪問。観音寺から安土。そして長命寺を訪れてから京都へ帰っていったのでした。


(4)第31号表紙写真 1932(昭和7)年12月発行
  「大阪御親閲記念」


禁衛隊表紙Ⅳ5
【写真5】

 1932(昭和7)年11月16日、天皇による親閲式が大阪城東練兵場で行われ、分列式に参加をするために近畿圏内の中等学校と高等学校生徒、専門学校生徒、大学生、青年団、在郷軍人、女子学生と8万人もの若者が集合しました。雨中のなかでの親閲式にもかかわらず、表紙の【写真5】の天皇と分列式行進を見たいと集まった観衆は数万人と記されていました。
 戸山陸軍軍楽隊の演奏する行進曲が流れるなか、立命館中学校(35名)と商業学校(30名)生徒たちは、京都第十三集団第一大隊第十七中隊として行進しました。日頃から禁衛隊としての精神と訓練をこなしているだけあって、生徒たちにとっては最高の姿を天皇に披露できたと感激していました。
 この親閲式に参加をした生徒たちの感想が、この第31号に掲載されていますが、この中の中学5年生の一人は最後に
 「その一日こそ吾等が一生の光栄の日であり、且又、己が一生の憶ひ出の頁を飾るであらう」と結んでいたのですが、その人物は、中学校卒業(昭和8年3月)してすぐに入隊。中途幹部候補生の試験に合格し首席で卒業。翌年、北満州の松花江のほとりで戦死しました。あまりにも若すぎる生涯を終えることとなったのでした。


(5)第32号表紙写真  1933(昭和8)年3月発行
 「東久邇宮殿下台臨
    明治大帝聖像奉拝式
     禁衛隊観兵式

禁衛隊表紙Ⅳ6
【写真6】
 
 立命館学園では、明治天皇を学園の守護神と仰ぎ、明治天皇の聖像の謹製を学内国清殿に奉安することとして、1933(昭和8)年1月14日、東久邇宮稔彦(注3)を招き学園で奉拝式を挙行しました。京都の第十六師団長、京大総長、京都府知事、京都裁判所所長をはじめ、府下の公私立学校関係者、校友、保護者、教職員学生生徒など多数が迎えるなか、表紙の【写真6】のように、中川小十郎総長の先導で東久邇宮稔彦が大学構内へ入場してきました。
 奉拝式の終了後には、「東久邇宮殿下御観閲立命館禁衛隊観兵式」が御苑広場にて行われました。この観兵式には荒木陸相や山本師団長も立ち合い、式後は御苑から烏丸通り~四条通~河原町通~大学(広小路)まで行進を行ったとあり、翌日の大阪朝日新聞には
「立命館の軍事教練は師団管下のみならず、全国的に名声をあげてゐる。」と歩武堂々の行進の様子を紹介していました。

2025年12月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
                
注1:滋賀県野洲市にあり、近江富士と呼ばれる三上山をご神体として祀る神社。
注2:中学校・商業学校の校医であった藤野と塩崎とは清和中学校第5回(明治44年)卒業の同級生(年齢は藤野が6歳上)であった。
注3:東久邇宮稔彦は、明治天皇の娘婿にあたり、昭和天皇にとっては義父の弟という当時の天皇と深い縁故関係にあった皇族。敗戦処理を行った総理大臣として知られる。

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