立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

  • 無
  • 有

立命館あの日あの時内記事を検索します

2026.10.13

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(14) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第68号 表紙写真「秋日の下に胸を張って(昼の合同体操)」
昭和11年10月発行

禁衛隊14-1
【写真1】全生徒による昼休みの体操

 中川校長が生徒の健康管理と維持に極めて厳しかったことは、今までに何度か紹介してきましたが、今号はその徹底ぶりを紹介する写真です。生徒たちは毎日、登校直後の禊(乾布摩擦)に続き、昼休みには体操を行っていました。体操の内容は詳しく記されていませんが、すでに陸軍戸山学校での体操が配属将校などによって全国的に普及されていたことから、ラジオ体操(昭和天皇即位を記念して1928年12月から開始)のような簡易体操ではなかったのではないかと考えられます。

 この第68号の最後には清和会報で卒業生会員の動向が紹介されています。軍人で昇進した人物もあるなかで、田中伊三次(中学校昭和5年卒業)が弁護士として事務所を開設(大学広小路学舎の近くで寺町通り丸太町を上がった場所)したと書かれています。(注)

注:田中伊三次は立命館大学法学部在学中に市議会議員に当選。卒業後に弁護士となり、府議を経て衆議院議員に当選、戦後も政治家への道を諦めず、通算で15期も衆議院議員に選出されている。その間、2回法務大臣に就任。ロッキード事件問題では調査特別委員長を務めた。


(2)第69号 表紙写真「御眞影奉迎(十一月三日明治節)」昭和11年11月発行

禁衛隊14-2
【写真2】校庭での御真影奉迎の様子

 11月3日は明治節で、立命館中学校商業学校では祝賀式を挙行していました。【写真2】のように明治天皇の御真影を迎え、午前8時から講堂で拝賀式。8時半から校庭で分列式を行った後、午前9時からは運動遊技会を行っていました【写真3】。

禁衛隊14-3
【写真3】第68号に紹介された運動遊技会のプログラム

 種目内容を見ると、全生徒が楽しんで競うというものでした【写真4】。

禁衛隊14-4
【写真4】パン喰い競争の様子

 午前11時からは賀茂川の河川敷で飯盒炊事(当時はこのように呼ばれていました)。中川校長も生徒たちと一緒に飯盒で炊いたご飯を食べていた写真も紹介されています【写真5】。

禁衛隊14-5
【写真5】中央に立って生徒たちの作業を見守る中川校長

 午後1時からは再び学校に戻って遊技会の後半で、最終種目は職員による抽選競争が行われ、一等の景品には自転車があったことが記されています。こうして楽しい明治節行事は午後2時に終了し解散となりました。
 この第68号には一般的に知られていない【写真6】のような写真が紹介されています。完成間近の中川会館3階の総長室には、中学校商業学校の生徒全員の寄附によって贈られる中川総長の木像が飾られることになっていました。11月3日の明治節の日に生徒全員に披露されたのでした(この木像は現在、立命館の学宝として保存されています)。

禁衛隊14-6
【写真6】中川総長の木像

(3)第70号 禁衛隊記念誌記号
 表紙写真「捧げ銃(十一月二十二日御所建禮門前にて)」昭和11年12月発行

禁衛隊14-7
【写真7】分列式最後の「捧げ銃」

 毎年恒例となっている11月22日の禁衛隊記念式の様子を表紙と16枚にわたる「禁衛隊記念式グラフ」写真で紹介しています。立命館大学の校庭に集合した中学校商業学校の生徒たちは、スピーカーを通して国清殿内での中川総長の式典式辞を聞いた後、学生と共に、御苑での閲兵分列式のために移動しました。山国隊から伝わる軍楽隊の演奏を先頭に、行進の後列には禁衛隊名物となった槍隊が続きました。
 分列行進の最後に建禮門前で【写真7】のように全員よる「捧げ銃」行い、中川総長の発声で万歳三唱して終了となりました。その後、生徒たちは学校へ戻り、名物「禁衛隊お粥」でお腹を膨らませて【写真8】一日の行事を終えたのでした。

禁衛隊14-8
【写真8】お粥を美味しそうに食べる生徒たち

 この頃の各号には、学内行事の報告が丁寧に記載されていますが、11月13日には朝鮮各地の小学校教員による学校参観があったと紹介されています。

2026年10月13日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.09.28

学園の変遷と自然の変化―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第3回

 かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。

 第3回は、昭和20年(1945年)から立命館に勤務し、北大路・広小路・衣笠の3つの学舎・キャンパスを駆け抜けた生物学者・菊池立身教授。氏が記録したのは、建物の歴史ではなく「キャンパスに生きる草木や虫たち」の姿でした。

 かつて衣笠キャンパスの池に自生していた綺麗な水を示すプランクトン、工事や人の行き来にともなって広がった外来種、そして正門近くに植えられた巨木メタセコイアの由来――。

 学園の目まぐるしい発展と引き換えに変化していった自然の姿を、温かい眼差しで捉えた貴重なエッセイ。当時のキャンパスの匂いが伝わってくるような「生きた証言」です。

 

 

学園の変遷と自然の変化(『立命館学園広報』第57号(1975.9.20)〈立命館70年余話〉より)

菊池立身

 

私の立命館での生活は、三つの学舎を次々に本拠にして移っていったことになる。昭和20年秋に非常勤として当時の立命館一中に勤めだし、21年専任になり、昭和20年代はだいたい北大路学舎に勤務。昭和27年、法学部に移り、30年代は広小路学舎に勤務。昭和38年の二部改組で、生物学・地学実験室が衣笠キャンパスに移り、広小路・衣笠往復の勤務。実験室も今はない木造建物を2度、移転利用した。昭和43年、理工学部に移籍となり今日に至ったわけである。しかし、北大路にいたときも、新制度の高校の教頭をしていたので、広小路や衣笠にもときどき行っていたし、生物学が各学部に開講され、どの学舎にもよく出入りしていたが、特に理工学部は生物学実験で関係が深かった。

専門の関係で、三つの学舎を移動しながら、その自然環境にいくらか関心をもっていたので、これまでこの欄にあまり出なかった話を書いてみようと思う。

もっとも自然の変化の著しいのは衣笠キャンパスであろう。しかし、キャンパス自身としてあまり変わらないように思われる北大路・広小路も京都全体の変化の中で生物を含めて長い間にはずいぶん変わっている。広小路学舎についていうなら、施設がずっと少なかったこと、緑化に乏しく殺風景だったことは、すでにこの欄で何度も紹介されている。

私が広小路学舎に移ったのは、文系学部にも自然科学系の教員と施設が必要であるという、当時の設置基準の関係で、故江原真伍先生と私が、生物学・地学実験室の設営に当たるためであった。現在高校におられる西村寮平氏と堀井篤氏が助手で移って来られ、江原先生はおもに理工学部におられたのではじめのころは3人で組んで仕事をしていた。貞廣太郎氏の実験担当は、すこし後のことである。

実験室は現在二部の占めているところで、二部事務室が地学実験室、委員長室・講師控室が生物実験室、前の廊下に準備室があった。その前の尚学館のあたりに道場があり、その付近はかなり植物やこん虫なども豊富で、実験材料を手近にえることができた。学生数が少なかったので 、実験室は文系学生にもかなり利用できたし、理工学部も学生数が少なく、生物実験の受講者は衣笠から通いで実習に来る時期がかなり続いた。私は理工学部にも講義に行っていたので、午前中は等持院、午後は学生といっしょに広小路ということもしばしばだった。

生態実習のプランクトンは、衣笠学舎の池で採取し、持ち帰って広小路実験室で調べるのである。池は、今あるものよりも2号館のある場所にあった池の方をよく利用した。つまり理工学部の事務室のある建物はその池を埋めたてて建設されたわけである。新1号館との間の空地の少し高い部分に松が生えているが、そこは池のへりの名残りだと思われる。その池は現在の池とともにプランクトンが豊富で、きれいな水に多いサヤツナギという種類が多く、農薬が流れこまないので他の池よりもよほど実習に適した池だった。

 

かつての記憶3-1

 

ここで衣笠キャンパスに話題を移そう。戦前の話は別にして、戦後の衣笠での大変化のはじまりはグラウンドの新設であったと思われる。この話もすでに方々で紹介されているが、木造の理工学部の校舎の東側は衣笠山の山麓の松林であり、裾野は田園で、畑や田のあいだに笹原も混じっていた。そこを当時新兵器のブルドーザーで削ったように思うが、とにかく地ならししてグラウンドができ、公認球場となり、プロ野球にも貸した時代があった。その名残りが今のグラウンドにも少し残っている。

キャンパスの拡張は体育施設が先行したように思われる。以学館の前身は小グラウンドやテニスコートがあったような気がするし、その北にはバレーやバスケットのコートがあった。衣笠山の裾野を削ったことは現在の地形にも反映しているし、近ごろまで山の草や木がかなりキャンパス内に残っていた。今でもグラウンドの西側にカンサイタンポポが残っているし、理工新館建設のため撤去された物理実験室棟周辺の空地に、カンサイタンポポがセイヨウタンポポの侵略に対抗して共存しつつ残っていて生態学上興味のある場所があったが、今はない。理工学部の前進のためには当然のことだが、ちょっと惜しい気もした。

衣笠キャンパスの生物的自然は特色があり、田畑に多い農地的植物と、衣笠山の山麓の山の植物、そして等持院裏と付近に多かった園芸商の圃場的植物が混在していて、小動物のすみ方もそれに応じた特色をもっている。それにさらに、立命館のキャンパスになってからの植樹緑化が加わっているわけである。

キャンパス内でもっとも目立つシロツメクサ(ホワイト・クローバ)は帰化植物だが、他の多くのイネ科の雑草とともに農地型の代表であり、山の植物としては樹木でいうと、池の西にあるエゴノキの巨木や、構内特に理工学部校舎周辺に散在するアラカシ、ウラジロガシなどがある。圃場的植物の1例としては、池の付近にバイモが自生していた。後の緑化の古い例は2株のメタセコイアで、理工学部正門から等持院裏を東行する道の角の巨樹は戦後日本にもたらされた中の古い方で、理工学部教授だった河路甲午郎先生の御尽力があったと聞いている。しかし、山地植物はだんだんに減りつつあり、帰化植物の殺風景な連中が勢力を増しつつある。しばらく前まで図書館の向かいにセイタカアワダチソウの侵略に対抗して、アキノキリンソウが残っていたし、カラスウリが紅い実をつけていた。

 

かつての記憶3-2

 

植物の話は一応やめて、学園の発展と自然環境の話にもどろう。二部改組、二部事務室開設で、生物学・地学の実験室が衣笠に移転した。場所は現在の修学館の西にあった木造建物であった。私の広小路・衣笠往復時代になるわけである。昭和40年に現在の学而館の建物の西北部分に当たる化学科木造棟の空いたあとに引越した。隣の木造棟が撤去された空地に、いろいろな野草雑草が芽生えるのを、生態実習で調べて、意外に山の植物が入っているのに驚いたことがある。しかし量的に多いのはこのころは圧倒的に帰化植物であった。大学紛争中、電気工学科の封鎖の際、とばっちりを受けて机や椅子を封鎖資材に持ち出され、被害を受けたのも実験室がここにあった時代の思い出である。さらに、現在の基礎工事務室(二部事務室衣笠分室)の階上に移転するのである。自然環境の話が引越しで中断したが、実習のプランクトンの話をもう一度例に出すことにする。衣笠学舎の池の水量はずいぶん滅り、プランクトンの質も、浅い泥底型に変わった。これは観光道路の開通以後の周辺の環境変化、衣笠山の変化とも関係しているので、学園だけの問題でない。池の東側の小溝の前身は水量豊富な流れであり、周辺には山地型の植物が豊富だった。体育館の南東を南下する流れがあり、その名残りの小さい溝にタデ科植物が細々と今も残っている。セイタカアワダチソウの侵入についても注意しているが、30年代後半から目立ちだし、経済・経営学部の移転の工事に関係が深いように思う。トラックの往復も分布拡大に関係があるようで、そういう資料を持っている。小烏やこん虫の話もいろいろあるが紙面の関係で今回は割愛する。

 

記憶のあいまいな点も少なくないし、書かなかった話題もまだ数々残っているが、学園の前進とよりよい環境づくりが考えられねばならない時に少し変わった自然環境の話もまたなんらかの意味があるのではないだろうか。

 近ごろは、自然観察も一般によくされるようになったし、衣笠キャンパス附近にも観察に向いた場所が残っている。キャンパス自身も生態学的観察の好対象である。誌面を借りてのお願いもあつかましいが、身近な自然の変化について、古くから御在職の皆さんに情報の提供をお願いして最後にしたい。

(理工学部教授・生物学)

 

2026年9月28日 立命館 史資料センター

2026.09.07

昭和初期の立命館中学校・商業学校 (13) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1) 第66号 表紙写真「中禅寺湖畔に於ける修学旅行団」昭和11年7月発行 神宮参拝旅行号

禁衛隊13-1
【写真1】 (表紙写真)中禅寺湖畔に於ける修学旅行団

 立命館では毎年春の時期に中学校商業学校の五年生が伊勢・熱田・明治の三神宮と靖国神社等への参拝を中心とする旅行を6月6日から6泊7日の期間で実施していました。
 第1日目は午前5時半に京都駅に集合し、駅前で朝拝を行った後、午前6時発の奈良電で八木駅乗換で山田駅着。皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)を参拝。再び汽車で名古屋駅へ出発。熱田神宮を正式参拝した後に旅館泊。

禁衛隊13-2
【写真2】隊列を組んで内宮参拝行進

 第2日目は箱根へ。観光ホテル到着後に二重式火山見学しホテルへ帰着。
 第3日目は鎌倉へ。鶴ヶ岡八幡宮、長谷観音を拝観して東京駅へ。宮城御拝し、中川総長邸を訪問してから宿舎の駿河台ホテル着。(生徒の感想では「ホテルとは名ばかりで、まるで馬小屋の様であった」と書かれていました)
 第4日目は明治神宮・靖国神社正式参拝。乃木神社参拝、泉岳寺・震災記念館を参詣し、再び駿河台ホテルに帰着。
 第5日目は上野駅から日光へ。見学や臨地講演を聞いて中禅寺湖畔の旅館着。

禁衛隊13-3
【写真3】日光明智平展望台より華厳の滝中禅寺湖を望む

 第6日目は日光から新宿駅へ。淺川駅の車中から多摩御陵遥拝。午後9時前に上諏訪駅着で旅館へ。
 第7日目は午前9時30分上諏訪駅発で、諏訪盆地、木曽川渓谷、日本アルプスを見学し、午後8時45分に京都駅へ帰着して解散。
 参加者は126名。不参加者は全生徒の3分の1以上の75名(理由は家庭の事情29名、病気15名、勉強13名、その他18名)でした。
 6泊7日の列車中心の旅程は、移動するだけも大変なものでした。それでも生徒たちのエネルギーは逞しく、行程や女性バスガイドとの交流を楽しみ、宿舎では疲れを知らないかのように時間を楽しんでいたようで、この旅行を記した大特集は36ページにも亘っていました。その中の一人は「The Sixth Day」と英文で投稿していました。

 この6月の学校行事では、6月16日に防空演習を実施。6月20日には桃陵師団(京都伏見にあった陸軍第16師団の通称)凱旋を歓迎するため、全校生徒が隊列を組んで河原町四条を下がった場所まで行進したと記載されています。


(2)第67号 表紙写真「愛宕山幕営地全景」愛宕幕営号  昭和11年9月発行

禁衛隊13-4
【写真4】表紙・愛宕山幕営地全景 

 7月1日からは夏季特別短縮授業が実施され、午前中を「全校静粛」厳守で学科勉学に集中し、午後からは教練体操武道作業などの訓練を行うこととして9月21日まで続きました。
 その頃の中川校長は、自身が竹刀を持って剣道の稽古をしたことがないと言いながらも学生剣道連盟の会長を引き受けていましたが、立命館の生徒たちには、剣道は運動ではなく、武士道として精神を錬磨するものであると強く指導していました。第67号には中川総長訓話で「禊は、我国に於いては、最も古くからおこなわれてゐる、最も大切な行事であり、教育上の要件である。傳統的な、日本の教育の要件だ。之と剣道とは同じことである。」と書かれていました。

 この号の特集は、愛宕山での幕営(野営)訓練で生徒たちの様子を伝える12枚の写真が、「愛宕幕営グラフ」と題して掲載されています。中学校商業学校三年が7月23日から2泊3日で実施した後、他学年が順次実施していきました。

禁衛隊13-5
【写真5】北野天満宮参拝後、北野駅から京福電車で愛宕山の幕営地へ向かう生徒たち

禁衛隊13-6
【写真6】日の出に向かって遥拝

禁衛隊13-7
【写真7】銃器の手入れが綿密かを配属将校が点検

禁衛隊13-8
【写真8】最も楽しかったのかもしれない飯盒炊事

 それまで「立命館禁衛隊」誌に見られていた生徒たちの伸び伸びとした詩や随筆などの作品数が減少してきました。禁衛隊精神が毎日の学校生活で前面に出されるようになった立命館の教育は、今号の特集のように次第に戦時体制の様相を色濃く呈するようになっていきました。

2026年9月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

最新の投稿

RSS