立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2026.07.09
私設立命館點鬼簿(国崎望久太郎)―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第1回
かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第1回は、1974年(昭和49年)10月発行の機関誌より、激動の時代を駆け抜けた文学部の国崎望久太郎教授が、古い記憶を辿りながら書き残した貴重なコラムを復刻します。
昭和10年代、まだ文学部もなく「あわれなものであった」と振り返る立命館の創世記。そこには、人力車で初任給が配られた聖職としての教職の姿や、存廃をかけて猛勉強に励んだ夜間専門部の学生たちの熱気、さらには名古屋への学徒動員や京都空襲の生々しい恐怖がありました。
多くの仲間たちが鬼籍に入るなか、大学の発展の裏にあった先人たちの「忘却を許さぬ厳然たる事実」を、後世へと伝えるための貴重なアーカイブです。
※點鬼簿(点鬼簿・てんきぼ)とは: 過去帳(物故者の名簿)のこと。
私設立命館點鬼簿(国崎望久太郎) 第47号(1974.10.20)
古い記憶を辿って昔のことを語ることは、これまでほとんど無かった。そういうことには、私は興味がなかった。過ぎ去るものは過ぎ去らしめよ。行雲流水はわれわれの祖先以来の教えではないか。日本文学史のことに関係している以上、過去の年時の正確な確定への興味もないわけではない。しかし世代とか時代とかいう大ざっぱな時間帯で考える癖が、いつのまにか身についてしまった。それで古い立命館のことを想起してみても、漠然としたものでしかない。何年の何月何日のことだということは一切ない。「ムカシ、ムカシ、アルトコロニ」という形式をとる昔話と同様のものだ。
茫々たる過去のとりとめもない話である。自分が直接経験したことだといっても歴史的事実だなどと主張は出来ぬ。夢まぼろしのごとき話にすぎない。
その二三を書きとめておこうか。私は昭和11年か12年の頃、学校を出てすぐ—すぐと言うとすこし正確でない—8月頃、藤村作博士の推薦状をもって、中川小十郎先生におめにかかった。いまの図書館の書庫の1階管理課のあたりが、学長兼理事長室であった。雑然と薄暗く、すぐ隣りに便所があった。中川会館がまだ出来ぬ前であったろう。すくなくともわが立命館は天下の立命館大学ではなかった。文学部はまだ無く、文科は夜間の専門部のみであった。書物も建物もなかった。十分にはなかった。卒業しても中等教員の資格さえもらえなかった。あわれなものであった。
しかしそこには創建の熱意がみなぎっていた。中川先生の文科によせる期待は非常なもので、京都法政学校以来の伝統をもつ法学部にまけないような文科系をつくろうとする熱意があった。それは周囲におのずから反照していた。子規の先輩である天田愚庵を庇護したり、山田美妙斎と友人であった先生には、文人にたいする理解と同情があった。文人生活は、むしろ一種の夢であり憧憬であったと言ってよかった。西園寺公望の秘書として日本の政界の機微に参劃した先生の目には、猟官運動やその他の世俗的欲望の渦中の人間はおぞましい限りに映ったのだ。政界や財界の動きを知悉していた先生には、反射的に文人的な世界への憧憬が秘められていた。文科への期待には、それがあった。
だから中川先生にとっては、少くとも観念的には教職は聖職そのものであり、世俗的職業とは一線を劃すべきものであった。教職は聖職であるという立場からすれば、各先生には御礼を申上げるのが筋で、教育労働の対価などと考えることは、とんでもない事であった。ハンコをもって俸給をうけとりに、わざわさ先生が出向くというようなことは、聖職にふさわしくないことであった。学校としてもそういう非礼を行なってはならないのだ。かくてその日になると、のちに京都大学の事務長になった上野左門氏が、人力車に乗って、各先生方の御宅を訪れ、御礼の金一封を差上げるという次第であった。私は南禅寺北ノ坊町にいたが、家貨は28円であった。そこに上野氏は金30円を御持参下さるのが例であった。それが私の初任給であった。聖職とはすこしつらいものであった。
二部に在藉した学生諸君は、数はもちろんごく少なかったが、まず天下の俊秀であり、向学の念に燃えた人士のみであった。私はかれらから教わるのみであった。私より世間を知り、学問にも通じていた。年齢も同じ位かまたは年長でさえあった。浅田善二郎教授のあとをうけて『建礼門院右京大夫集』の講読を命ぜられたときは、人物関係が分らず、1年間しんどい思いをした。しかし彼等は同情して、ともかく抱擁してくれた。これらの古い友人諸君が毎年謝恩会をひらいてくれる。何ともありがたいことである。古い文科に関係のあった橋本循先生以下の旧職員がまねかれるが、国文関係では田中重太郎博士と私が出た。生き残っているということであろうか。小泉藤造、後藤丹治、清水泰、岡田希雄、宮島弘の諸先生も今やないのである。戦後いくばくもなくなくなられた。あの頃の国文関係では浅田善二郎教授が帝塚山学院大学に、田中重太郎教授が相愛女子大学に健在である。立命館に残っているのは、私一人である。発展と共に陣容も変って行った。
はじめ専門部二部は、卒業しても何の資格ももらえなかった。それを得るためには、卒業回生が、文部省の施行する学力検定を受け、それに合格しなければならなかった。中等教員の資格を授与できるか、どうかは立命館にとって、立つか倒れるか、存否に関わる大問題であった。そのため当時の学生諸君の勉強ぶりは大変なもので、その特訓ぶりもまた目覚ましかった。長野県立女子専門学校の教授であった小泉藤造氏が、文部省赤間専門学務局長の推薦をうけ立命に赴任してきたのも、そのためであった。検定試験のベテランと認められていたのであろう。無事、検定に合格して国文の基礎はかたまったし、以降はまず順調に発展の途についたと言えよう。この創世記の諸先生と卒業生の苦闘に似た努力は、われわれの忘却を許さぬ厳然たる事実である。創世記の古い卒業生に逢えば必ずこの時期の緊張感を懐かしく語った。
しかしそういう古い友人諸君も、ぼつぼつ點鬼簿中の人物になって行った。30年数も経ったから無理もないことだ。私が立命館に来たのは、この創世期にも似た混乱がすんだ直後であった。それでも先生方や学生の昂奮し緊張した空気が教室に残っていた。立命館大学文学部の「原蓄時代」であったわけだから、高度発展の時点からのみ見るわけには行くまい。歴史は無慈悲な歩みも避けないものだ。
まもなく戦時体制下に人り、勤労動員、学徒出征という時代になる。むしろこの時期が最大の危機であったかも知れない。禁衛隊だとか、里見岸雄による国体学の開講だとか、大東亜共栄圏のイデオロギーの浸透とか、体制的な動きもあった。文学部の末端にあった私には、そのあたりの動きは分らない。ただ豊川の海軍工廠や名古屋の愛知時計、野間の近くの大同製鋼、武豊の大日本油脂などの学徒動員について行った。細かい記憶はない。すべて茫々たる識域の中にかすんでいる。焼夷弾をさけるために、布団を頭にかむって、名古屋の市街が赤々と燃えるのを眺めた。野間の海岸で海苔を拾ってツクダ煮をこしらえた。万事終末だと不安になったり、絶望したりした。ものみなどうでもいいことに思えたりした。いま職員課になっている中川会館の2階が、文学部の事務室でもあり、会議室でもあった。来襲したグラマンが突如旋回して機銃掃射をし、あの部屋の硝子に穴をあけたことがあった。怖かった。立命館が空襲をうけたことを知っている人はあまりないだろう。あの時、ー諸にいたのは誰と誰であったか。「京都空襲を記録する会」の藤谷俊雄講師に知らしておく価値があるかもしれない。
やがて敗戦、末川先生指導による新しい出発がある。
天下の立命館に飛躍していくわけである。ごく最近のことであるが、何を思い何を考えていたのか、混沌そのものだ。一生懸命に考えたはずだが、何も残らなかった気がする。時勢にやっぱり流され泳いでいたに過ぎないようである。
私は一時帰郷し、やがてまた立命館に復帰した。復帰した立命館はまさに面目を一新していた。私も一新した気持で働いた。だが大学紛争が待ちかまえていた。それは衝撃であった。いまだに私には整理のつかない大問題である。十分に対象化できない。それに直面した同僚たちの辛労はみるも無惨であった。立命館を去った教授諸君の数はどれほどであろうか。残った諸君の苦労は一層大きなものであった。そのため、—そのためと言うことは正確ではないが、彼等のあるものは點鬼簿中の人になった。つぎつぎに倒れた。
武藤守一、高橋良三、井上晴丸、小椋広勝、山口竜夫、手島正毅、前芝確三、山元一郎、蓮尾千万人、平中苓次いずれも無理を強いられたのだ。進んで無理な局面に当った尊敬すべき人々だと思う。このほか11名の方が過去帳中に記録された。
いま私は研究室に井上晴丸の薊(あざみ)をかいた色紙を掲げている。趣きのある絵である。マルクス主義者であった彼は、マルクスのつぎの言葉を必ず読んだにちがいない。
「死は特定の個人にたいする類の冷酷な勝利のように見え、そして両者の統一に矛盾するように見える。しかし特定の個人はたんに特定の類的存在であるにすぎず、そのようなものとして死をまぬがれないものなのである。」
(『経済学・哲学草稿』)マルクスは人間の死のまぬがれがたさを知り、そのおぞましさを直視していた。點鬼簿中の人になったこれら友人たちの心の安らぎをいまは祈ることにしようか。立命館はいまー拠点へ向ってその前進を開始している。
(文学部教授)
2026年7月9日 史資料センター
2026.06.23
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅹ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第59号 表紙写真「記念の分列式」 学園創立三十五周年記念号
1935(昭和10)年12月
【写真1】建礼御門に向かって分列行進する禁衛隊の学生生徒
① 創立三十五周年記念式典と分列式
1935(昭和10)年、立命館大学は創立三十五周年を迎えました。その記念式典が、11月23日の新嘗祭(天皇がその年の新穀を神に捧げ感謝し、自らも新穀を食べる宮中行事)の祝日午前9時から大学国清殿で挙行されました。多数の来賓が参列し、御真影奉拝、教育勅語奉読後、中川総長の演説(学園の歴史と精神を約35分にわたり述べた)、織田萬名誉総長、佐々木惣一大学長らの祝辞が続き、西園寺公望公をはじめ170通の祝電が披露されて11時閉式されました。
その後すぐに禁衛隊行事へと移りました。来賓一同は、大学傍の清和御門から入って、建礼御門前に位置し、学生生徒約四千名の分列式が約1時間にわたって行われました。
【写真2】分列式を見守る前から中川総長、織田萬名誉総長、佐々木惣一学長ら
昼からは学内で祝賀会が開かれましたが、その席上、中川総長は自らのポケットマネーを1万円投じて百年後に莫大な基金として未来の学園に活用するという計画を発表しました。
当時は利子が低下傾向にあり、百年後の経済形態の見通しがつかないとして、三井や住友は引き受けを躊躇しましたが、関西信託は立命館と多年にわたる取引があったことから引き受けたのでした。
② 中川総長古稀祝賀会
そして、午後5時から京都ホテルでは学園の教職員と校友ら五百名が列席して、中川総長の古稀祝賀晩餐会が開かれました。この喜びを永く記念するためとして、大学の校友会員、職員、中学・商業の卒業生と父母や職員らによって五万円を拠金して中川会館を建設することになりました。新聞紙上には学内東南の空地に近日着工予定と発表されていました。
③ 立命館創立三十五周年記念大演習(11月24日・深草練兵場にて)
前日の大祝賀会に引き続いて、午前8時から立命館禁衛隊約四千名の学生生徒たちが、大学校門から繰り出して禁衛隊楽隊を先頭に深草練兵場へ集合。激烈な白兵戦を演じました。西軍は騎兵隊、高射砲隊、野砲隊、歩兵隊、タンク隊、杖衛隊、自転車隊、瓦斯隊、槍隊、飛行機二機に義勇側車隊の応援も加わり京都を死守して演習が終了。その後、各教練が行われて午後4時に皇居を遥拝し、万歳を三唱して解散しました。
当日は好晴の日曜日とあって、多くの来観者が大演習を見守ったのでした。
【写真3】騎兵隊
【写真4】防空高射砲隊
【写真5】野砲隊
(2)第60号 表紙写真「三学期の勉強始まる」非常時の春と我等の覚悟号
1936(昭和11)年1月
【写真6】禁衛隊道場前の掲示板
掲示板には「禊修行第二学期皆勤ノ者ハ各組ニ於テ前列ノ席ヲ與フ 昭和11年1月6日」と書かれていました。総長として二度目の校長兼務となった中川校長は、就任二年目を過ぎて、自ら描く教育の理想に向かって、中学生・商業学校生へ次々と新しい改革を打ち出し、禊や遥拝も定着、禁衛隊としての軍事演習も高い評価をえるようになっていました。後は、生徒の学業をいかにして向上させるかが課題でした。長期欠席や成績不良の生徒には退学処分も含めて厳しく臨みながら、優秀な生徒には更に意欲を向上させるために飛び級などを実施して、学校としての評価を高めようとしていました。この掲示板の公示もその一つでした。
2026年6月23日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
2026.06.09
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅸ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第57号 表紙写真「空の護り」 1935(昭和10)年10月
【写真1】照空燈、高射砲、聴音器、警報用サイレンなどを囲んだ生徒と配属将校
禁衛隊第56号には、前年夏に近畿地方で防空演習が実施され、立命館においても校内における防空施設を完備し、大規模な防空演習を実施したと記されています。この訓練を更に重ね、国家有事の際に不覚をとらないための心構えと防空思想の普及徹底をはかる必要があると考え、1935(昭和10)年7月17、18日の二日間にわたり、立命館中学校・商業学校では大規模な防空演習を行いました。この演習には東京警備参謀伊佐中佐が参観し、「東京方面には数々の学校があるが、こんなに立派に訓練され、遺憾なく実施できる学校は極めて稀である」と高く評価していました。
これによって立命館中学、商業の評判は高まり、京都師団管内配属将校の学校教練研究会第二日目(10月11日)、立命館の防空演習が視察されることになりました。
生徒たちが禊から朝拝、体操を行って教室へ戻った午前8時、対空監視哨生徒がマイクで「敵機見ゆ」との飛行機警報を発令して演習が開始。敵機が学校の上空に現れ、雨天体操場へ爆弾を投下し火災発生という想定で生徒全員が校庭に集合。三年生以下は鴨川河畔に避難し、そこで銃による応戦演習が行われました。
学校に残った上級生たちによって、まず兵器の埋蔵並びに重要書類を格納。屋上の高射砲隊や高射機関銃隊が敵機を射撃。これによって敵機を退却させたとして警報が解除されました。
その間、校庭には焼夷弾やガス弾が投下されたとして、防毒マスクを着用した消防班消毒班などによる迅速な活動が行われ、敵飛行機による来襲に備えての灯火管制の訓練も行われたのでした。
その他の防空施設としては、非常時望楼(木造校舎の屋根上)、兵器埋蔵設備、重要書類格納所、防火用砂、消火用ポンプ、非常用バケツ、集団防護設備、灯火管制用電気覆、非常用井戸、防毒衣防毒面若干、劇薬品格納庫等が紹介されていました。
兵器、劇薬や重要書類格納など学校レベルを超越する態勢がとられていたことがうかがえられます。当時は木造校舎でしたが、2年後には鉄筋3階建てで地下道(防空壕兼)も備えた頑強な学舎が建設されていくことになります。
(2)第58号 表紙写真「禊の朝」 1935(昭和10)年11月
【写真2】
中川校長による指示で、生徒たちは毎朝、禁衛隊道場のうちの「西の道場」で冷水摩擦を行うことになりました【写真3】。当初は、風邪予防のための健康対策として始まったものが、心も身体も清めるための修行とされるようになり、禊の後には皇城遥拝を行い、それから一日の授業が開始されたのでした。
【写真3】禊の場面 (史資料センター保存)
禊のために校庭から汲み上げる井戸は、中川校長の命名により「御楯の井」【写真4】と呼ばれ、払拭の水は清泉とされました。その傍には萬葉集の防人の歌「今日よりはかへりみなくて大君のしこの御楯と出で立つ我は」の歌碑【写真5】が建てられました。
【写真4】「御楯の井」石碑(史資料センター保存)
【写真5】「御楯の井」碑裏面の防人の詩(史資料センター保存)
【写真6】『立命館要覧』1934年版に掲載された「御楯の井」
さらに詳しくは、立命館史資料センターHP
「懐かしの立命館」 立命館中学校・商業学校の「御楯の井」をご覧ください。
2026年6月9日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田 俊博
