立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2026.09.28

学園の変遷と自然の変化―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第3回

 かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。

 第3回は、昭和20年(1945年)から立命館に勤務し、北大路・広小路・衣笠の3つの学舎・キャンパスを駆け抜けた生物学者・菊池立身教授。氏が記録したのは、建物の歴史ではなく「キャンパスに生きる草木や虫たち」の姿でした。

 かつて衣笠キャンパスの池に自生していた綺麗な水を示すプランクトン、工事や人の行き来にともなって広がった外来種、そして正門近くに植えられた巨木メタセコイアの由来――。

 学園の目まぐるしい発展と引き換えに変化していった自然の姿を、温かい眼差しで捉えた貴重なエッセイ。当時のキャンパスの匂いが伝わってくるような「生きた証言」です。

 

 

学園の変遷と自然の変化(『立命館学園広報』第57号(1975.9.20)〈立命館70年余話〉より)

菊池立身

 

私の立命館での生活は、三つの学舎を次々に本拠にして移っていったことになる。昭和20年秋に非常勤として当時の立命館一中に勤めだし、21年専任になり、昭和20年代はだいたい北大路学舎に勤務。昭和27年、法学部に移り、30年代は広小路学舎に勤務。昭和38年の二部改組で、生物学・地学実験室が衣笠キャンパスに移り、広小路・衣笠往復の勤務。実験室も今はない木造建物を2度、移転利用した。昭和43年、理工学部に移籍となり今日に至ったわけである。しかし、北大路にいたときも、新制度の高校の教頭をしていたので、広小路や衣笠にもときどき行っていたし、生物学が各学部に開講され、どの学舎にもよく出入りしていたが、特に理工学部は生物学実験で関係が深かった。

専門の関係で、三つの学舎を移動しながら、その自然環境にいくらか関心をもっていたので、これまでこの欄にあまり出なかった話を書いてみようと思う。

もっとも自然の変化の著しいのは衣笠キャンパスであろう。しかし、キャンパス自身としてあまり変わらないように思われる北大路・広小路も京都全体の変化の中で生物を含めて長い間にはずいぶん変わっている。広小路学舎についていうなら、施設がずっと少なかったこと、緑化に乏しく殺風景だったことは、すでにこの欄で何度も紹介されている。

私が広小路学舎に移ったのは、文系学部にも自然科学系の教員と施設が必要であるという、当時の設置基準の関係で、故江原真伍先生と私が、生物学・地学実験室の設営に当たるためであった。現在高校におられる西村寮平氏と堀井篤氏が助手で移って来られ、江原先生はおもに理工学部におられたのではじめのころは3人で組んで仕事をしていた。貞廣太郎氏の実験担当は、すこし後のことである。

実験室は現在二部の占めているところで、二部事務室が地学実験室、委員長室・講師控室が生物実験室、前の廊下に準備室があった。その前の尚学館のあたりに道場があり、その付近はかなり植物やこん虫なども豊富で、実験材料を手近にえることができた。学生数が少なかったので 、実験室は文系学生にもかなり利用できたし、理工学部も学生数が少なく、生物実験の受講者は衣笠から通いで実習に来る時期がかなり続いた。私は理工学部にも講義に行っていたので、午前中は等持院、午後は学生といっしょに広小路ということもしばしばだった。

生態実習のプランクトンは、衣笠学舎の池で採取し、持ち帰って広小路実験室で調べるのである。池は、今あるものよりも2号館のある場所にあった池の方をよく利用した。つまり理工学部の事務室のある建物はその池を埋めたてて建設されたわけである。新1号館との間の空地の少し高い部分に松が生えているが、そこは池のへりの名残りだと思われる。その池は現在の池とともにプランクトンが豊富で、きれいな水に多いサヤツナギという種類が多く、農薬が流れこまないので他の池よりもよほど実習に適した池だった。

 

かつての記憶3-1

 

ここで衣笠キャンパスに話題を移そう。戦前の話は別にして、戦後の衣笠での大変化のはじまりはグラウンドの新設であったと思われる。この話もすでに方々で紹介されているが、木造の理工学部の校舎の東側は衣笠山の山麓の松林であり、裾野は田園で、畑や田のあいだに笹原も混じっていた。そこを当時新兵器のブルドーザーで削ったように思うが、とにかく地ならししてグラウンドができ、公認球場となり、プロ野球にも貸した時代があった。その名残りが今のグラウンドにも少し残っている。

キャンパスの拡張は体育施設が先行したように思われる。以学館の前身は小グラウンドやテニスコートがあったような気がするし、その北にはバレーやバスケットのコートがあった。衣笠山の裾野を削ったことは現在の地形にも反映しているし、近ごろまで山の草や木がかなりキャンパス内に残っていた。今でもグラウンドの西側にカンサイタンポポが残っているし、理工新館建設のため撤去された物理実験室棟周辺の空地に、カンサイタンポポがセイヨウタンポポの侵略に対抗して共存しつつ残っていて生態学上興味のある場所があったが、今はない。理工学部の前進のためには当然のことだが、ちょっと惜しい気もした。

衣笠キャンパスの生物的自然は特色があり、田畑に多い農地的植物と、衣笠山の山麓の山の植物、そして等持院裏と付近に多かった園芸商の圃場的植物が混在していて、小動物のすみ方もそれに応じた特色をもっている。それにさらに、立命館のキャンパスになってからの植樹緑化が加わっているわけである。

キャンパス内でもっとも目立つシロツメクサ(ホワイト・クローバ)は帰化植物だが、他の多くのイネ科の雑草とともに農地型の代表であり、山の植物としては樹木でいうと、池の西にあるエゴノキの巨木や、構内特に理工学部校舎周辺に散在するアラカシ、ウラジロガシなどがある。圃場的植物の1例としては、池の付近にバイモが自生していた。後の緑化の古い例は2株のメタセコイアで、理工学部正門から等持院裏を東行する道の角の巨樹は戦後日本にもたらされた中の古い方で、理工学部教授だった河路甲午郎先生の御尽力があったと聞いている。しかし、山地植物はだんだんに減りつつあり、帰化植物の殺風景な連中が勢力を増しつつある。しばらく前まで図書館の向かいにセイタカアワダチソウの侵略に対抗して、アキノキリンソウが残っていたし、カラスウリが紅い実をつけていた。

 

かつての記憶3-2

 

植物の話は一応やめて、学園の発展と自然環境の話にもどろう。二部改組、二部事務室開設で、生物学・地学の実験室が衣笠に移転した。場所は現在の修学館の西にあった木造建物であった。私の広小路・衣笠往復時代になるわけである。昭和40年に現在の学而館の建物の西北部分に当たる化学科木造棟の空いたあとに引越した。隣の木造棟が撤去された空地に、いろいろな野草雑草が芽生えるのを、生態実習で調べて、意外に山の植物が入っているのに驚いたことがある。しかし量的に多いのはこのころは圧倒的に帰化植物であった。大学紛争中、電気工学科の封鎖の際、とばっちりを受けて机や椅子を封鎖資材に持ち出され、被害を受けたのも実験室がここにあった時代の思い出である。さらに、現在の基礎工事務室(二部事務室衣笠分室)の階上に移転するのである。自然環境の話が引越しで中断したが、実習のプランクトンの話をもう一度例に出すことにする。衣笠学舎の池の水量はずいぶん滅り、プランクトンの質も、浅い泥底型に変わった。これは観光道路の開通以後の周辺の環境変化、衣笠山の変化とも関係しているので、学園だけの問題でない。池の東側の小溝の前身は水量豊富な流れであり、周辺には山地型の植物が豊富だった。体育館の南東を南下する流れがあり、その名残りの小さい溝にタデ科植物が細々と今も残っている。セイタカアワダチソウの侵入についても注意しているが、30年代後半から目立ちだし、経済・経営学部の移転の工事に関係が深いように思う。トラックの往復も分布拡大に関係があるようで、そういう資料を持っている。小烏やこん虫の話もいろいろあるが紙面の関係で今回は割愛する。

 

記憶のあいまいな点も少なくないし、書かなかった話題もまだ数々残っているが、学園の前進とよりよい環境づくりが考えられねばならない時に少し変わった自然環境の話もまたなんらかの意味があるのではないだろうか。

 近ごろは、自然観察も一般によくされるようになったし、衣笠キャンパス附近にも観察に向いた場所が残っている。キャンパス自身も生態学的観察の好対象である。誌面を借りてのお願いもあつかましいが、身近な自然の変化について、古くから御在職の皆さんに情報の提供をお願いして最後にしたい。

(理工学部教授・生物学)

 

2026年9月28日 立命館 史資料センター

2026.09.07

昭和初期の立命館中学校・商業学校 (13) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1) 第66号 表紙写真「中禅寺湖畔に於ける修学旅行団」昭和11年7月発行 神宮参拝旅行号

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【写真1】 (表紙写真)中禅寺湖畔に於ける修学旅行団

 立命館では毎年春の時期に中学校商業学校の五年生が伊勢・熱田・明治の三神宮と靖国神社等への参拝を中心とする旅行を6月6日から6泊7日の期間で実施していました。
 第1日目は午前5時半に京都駅に集合し、駅前で朝拝を行った後、午前6時発の奈良電で八木駅乗換で山田駅着。皇大神宮(内宮)、豊受大神宮(外宮)を参拝。再び汽車で名古屋駅へ出発。熱田神宮を正式参拝した後に旅館泊。

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【写真2】隊列を組んで内宮参拝行進

 第2日目は箱根へ。観光ホテル到着後に二重式火山見学しホテルへ帰着。
 第3日目は鎌倉へ。鶴ヶ岡八幡宮、長谷観音を拝観して東京駅へ。宮城御拝し、中川総長邸を訪問してから宿舎の駿河台ホテル着。(生徒の感想では「ホテルとは名ばかりで、まるで馬小屋の様であった」と書かれていました)
 第4日目は明治神宮・靖国神社正式参拝。乃木神社参拝、泉岳寺・震災記念館を参詣し、再び駿河台ホテルに帰着。
 第5日目は上野駅から日光へ。見学や臨地講演を聞いて中禅寺湖畔の旅館着。

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【写真3】日光明智平展望台より華厳の滝中禅寺湖を望む

 第6日目は日光から新宿駅へ。淺川駅の車中から多摩御陵遥拝。午後9時前に上諏訪駅着で旅館へ。
 第7日目は午前9時30分上諏訪駅発で、諏訪盆地、木曽川渓谷、日本アルプスを見学し、午後8時45分に京都駅へ帰着して解散。
 参加者は126名。不参加者は全生徒の3分の1以上の75名(理由は家庭の事情29名、病気15名、勉強13名、その他18名)でした。
 6泊7日の列車中心の旅程は、移動するだけも大変なものでした。それでも生徒たちのエネルギーは逞しく、行程や女性バスガイドとの交流を楽しみ、宿舎では疲れを知らないかのように時間を楽しんでいたようで、この旅行を記した大特集は36ページにも亘っていました。その中の一人は「The Sixth Day」と英文で投稿していました。

 この6月の学校行事では、6月16日に防空演習を実施。6月20日には桃陵師団(京都伏見にあった陸軍第16師団の通称)凱旋を歓迎するため、全校生徒が隊列を組んで河原町四条を下がった場所まで行進したと記載されています。


(2)第67号 表紙写真「愛宕山幕営地全景」愛宕幕営号  昭和11年9月発行

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【写真4】表紙・愛宕山幕営地全景 

 7月1日からは夏季特別短縮授業が実施され、午前中を「全校静粛」厳守で学科勉学に集中し、午後からは教練体操武道作業などの訓練を行うこととして9月21日まで続きました。
 その頃の中川校長は、自身が竹刀を持って剣道の稽古をしたことがないと言いながらも学生剣道連盟の会長を引き受けていましたが、立命館の生徒たちには、剣道は運動ではなく、武士道として精神を錬磨するものであると強く指導していました。第67号には中川総長訓話で「禊は、我国に於いては、最も古くからおこなわれてゐる、最も大切な行事であり、教育上の要件である。傳統的な、日本の教育の要件だ。之と剣道とは同じことである。」と書かれていました。

 この号の特集は、愛宕山での幕営(野営)訓練で生徒たちの様子を伝える12枚の写真が、「愛宕幕営グラフ」と題して掲載されています。中学校商業学校三年が7月23日から2泊3日で実施した後、他学年が順次実施していきました。

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【写真5】北野天満宮参拝後、北野駅から京福電車で愛宕山の幕営地へ向かう生徒たち

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【写真6】日の出に向かって遥拝

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【写真7】銃器の手入れが綿密かを配属将校が点検

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【写真8】最も楽しかったのかもしれない飯盒炊事

 それまで「立命館禁衛隊」誌に見られていた生徒たちの伸び伸びとした詩や随筆などの作品数が減少してきました。禁衛隊精神が毎日の学校生活で前面に出されるようになった立命館の教育は、今号の特集のように次第に戦時体制の様相を色濃く呈するようになっていきました。

2026年9月7日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.08.27

文人としての中川小十郎先生―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第2回

 かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。

 第2回は、1972年(昭和47年)発行の機関誌『立命館学園広報』より、長年にわたり立命館で勤務した浜田種子さんによる「文人としての中川小十郎先生」を復刻します。

 豪放磊落で親しみ深く、詩や書、禅、陶芸、新劇にも深い関心を寄せた創設者・中川小十郎。その豊かな文化人としての横顔や、職員との温かな交流、思わず微笑んでしまう逸話の数々を、身近で見つめ続けた著者が丁寧に綴っています。

 大学史だけでは語り尽くせない創設者の素顔に触れられる、貴重な証言です。


 
文人としての中川小十郎先生

 私はものの上ッ面ばかり見て、ついウカウカと齢を重ねてきた。そのうえに、物忘れがいいので昔の記憶をたぐりよせようとしても、片々と水の上に浮んだ水草のような、きれっぱししか見えてこない。そんな中から、文化人であられた中川小十郎先生の思い出をひろってみようと思う。

 いまの管理課の建物が東面して建っていたころ、入口をはいって左の階段を2階にあがると図書館、1階の右側の部屋が事務室、突当りが総長室であった。総長は京都に居られるときは、この部屋へ毎日出勤して事務をみたり、来客と談笑し、またいつも何か草稿を書いたり、読書をしておられた。ときどき事務室に顔を出され、老人特有の斑点のある大きな頭の下に童顔をほころばせて世間話に興じられるかと思うと、破鐘のような雷が竹上孝太郎理事(故人)の方角に落ちるときもあった。

 総長の声は大きくてよく響いた。初代理事長の池田繁太郎氏の学葬が校庭で行なわれたとき、中川総長の追悼の辞は、低く抑えた声ながら朗々とよくひびいて、「君は……」と呼びかけるような、そのせつせつと心をうつ哀惜の調子は、いまも耳朶に残っている。

 頼まれて、よく大きな白無地の扇子に詩文か“偈(けい)”のようなものを書かれたが、雅趣のあるひとつの風格をもった字であった。素焼きの陶磁器をつくらせて、呉須などで字を書いて焼かせた壷や茶碗は、いまにして思えば、いい味をもった作品であった。
 現在、中央図書館に保存されている、白磁に呉須で寒山詩を書きあげた大きな壷は、清水の陶工“祝峰”のロクロ技と調和して、見事な出来ばえである。その他のものは、どこに散ってしまったのであろうか。

かつての記憶2-1


かつての記憶2-2

 新劇が、いまのように大衆化されていなかった昭和9年ごろ、うまれてはじめて新劇なるものを観せていただいた。新築地劇場の劇団が、「にんじん」と「憂愁夫人」の2本を演し物に、日出会館で公演していた。この会館は、当時、日の出新聞というのがあって、その新聞社が建てたもので、ちょうど朝日会館のようなものだが、たしか烏丸丸太町を下がったあたりにあった。

 中川先生は、東屋三郎の後援をしておられたらしく、“三ちゃん後援会”と立札をした席がとってあって、そこで学校の職員4~5人で見物させてもらったのである。誇張されたわざとらしさもなく、淡々と平常の会話どおりに運んでゆく、そのセリフまわし、また外国映画そっくりに外人のしぐさを巧みに演じてゆく演技力には、ひどく感激したことをおぼえている。“にんじん”が終って、つぎの演し物との幕間に、「これが、にんじんのお父さんだよ、驚いたろう、ハハハ……」と、メイキャップを落とした素顔の上品な、三ちゃんこと東屋三郎を紹介してくださったのには、突然でびっくりさせられた。その時分の新劇の観客層であった、とりすましたインテリのなかに、もっさりしていたであろう私たちを引きつれて、おかまいなく、磊落にふるまっておられた。“にんじん”の翻訳本を小脇に、通路を歩いておられる姿は、青年のような稚気が感じられ、ほヽえましく思ったことであった。その三ちゃんの夫人の岸輝子が、京都公演の際には、中川先生の未亡人のもとに、晩年まであいさつにみえていたそうである。

 天龍寺の関精拙老師や、相国寺の山崎大耕老師とも親交が厚く、毎月、天龍寺管長を学校に招いて、禅の提唱に力をそそがれていた。揮毫にも、よく偈を用い、出征兵士に贈る国旗に、「一超直入如来地」をもじって、「一超直入南方空」などと書かれたりした。
 正岡子規が、『おろかちふ庵のあるじのあれにたびし柿のうまさの忘らえなくに』とよんだ短歌(うた)があるが、この“おろかちふ庵”のあるじ、天田愚庵和尚とは、伏見におられるころ、となり同士に住んでおられて交わりが深かった。
 禅に興味をもたれたのも、そういう親交のなかからであろうと思う。白雲荘の玄関にある石額の由来をみてもその片鱗がうかがえる。

 石といえば、これは最近に聞いた話であるが、ある日、看護婦の中村ナミさん(昭和46年8月に退職された)に「中村クン、きょうはこれから泥棒にいくから、ついてきなさい」と風呂敷をもたせ、どこへいくのかと思えば金閣寺の庭へつれていかれたという。そして、溝のあたりにころがっている石ころを、ステッキで指し、ソレダ、早く包みなさい、 早く、早く」と、持参の風呂敷に包ませられ、ソレッと、ふたりはあたふたと逃げ帰ったそうな。
 先生は、その盗んだ石をきれいに洗わせ、座敷に置いて楽しんで眺めておられたという。それがどんな石だったかは知る由もないが……。

 その当時は、事務職員の数も10数人という規模で、きわめて家族的な雰囲気のなかで仕事がすすめられていた。総長をはじめ竹上理事など、自由平等な考え方をもって、仕事のうえでは上も下もなく、男女の差もなく、その点で私たちは戦後の自由の解放をまつまでもなく、おおいにノビノビと働くことができた。
 中川先生の大きな頭は、絶えず生きいきとはたらき、時勢のながれを見極めて、機をみるに敏でこれはいいと思ったことは誰のいうことでもとりあげ、ただちに実行に移された。

 詩に興じ、筆をふるい、新鮮な感覚で演劇を愛し、それに倍して立命の充実・発展につくされた中川小十郎翁の断面をおもい起して、私自身も気のとおくなるほどながく勤めた立命館の、これからのいっそうの発展をねがってやまないものである。
(女史は本年(1972年)4月15日に退職された)

編集部注
 浜田さんは、昭和8年2月に立命館職員として奉職され、本年(1972年)4月に依願退職されるまで、大変ながい歳月を立命館とともに歩んでこられました。その間、終始、会計業務にたずさわられたベテランであり、制度改革で廃止された事務主任の職務にあって、職場のまとめ役としても貢献されました。ご健勝をいのり、こんごとも学園の発展のためにお力添をいただきたいと思います。

2026年8月27日 史資料センター

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