立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

最新の記事

サムネイル

立命館あの日あの時内記事を検索します

2024.03.12

今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その2)

 前回、今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その1)で、「不讀俳句短冊」と「木内老兄宛書幅」を取り上げ紹介しました(立命館史資料センターホームページ 2024年1月24日)。
今回は、その所蔵資料の中から、西園寺公望の松岡康毅宛書翰と富岡鉄斎宛書翰を紹介します。

《松岡康毅宛書翰》(松岡康毅あて西園寺内閣農商務大臣内示の書翰)

今治市河野美術館 西園寺2-1
   拝啓 過日者御来駕被下 感謝至ニ候其節御内 話致御承諾被下候件弥
  明後七日午前任命有之 候運ニ可相成と存候右ニ付 農商務大臣ニ推挙
  仕候心算ニ有之候此段 豫め得貴意候参堂 之上可申述と存居候處
  不得寸暇以書中申入候 餘ハ拝芝ニ譲承候 敬具
                      一月五日    公望
   松岡閣下

《松岡康毅書翰》
 拝復 今般は非常之知遇を辱し不堪感荷之至ニ候。唯今高諭之趣ニてハ
農商務大臣ニ御推挙被下候思召之由ニ有之。既ニ前日御内諭に応したる
上は一ニと努力仕候は申迄も無之儀ニ御坐候得共内務、司法二省之内ニ
候ハゝ従来多少経験も有之候。反之農商務之事ハ何れ之智識も無之、何分
ニも危懼之至ニ候間可相成ハ内務、司法二省之内へ御差繰被下候儀ハ相叶
申間敷哉。拝答旁願上候。敬具頓首
                      一月五日    康毅
   西園寺侯閣下
    〔この西園寺公望宛松岡康毅書翰は、『西園寺公望傳』別巻一1996年による〕

    この書翰に関し、『松岡康毅日記』明治39年1月5日に下記のように書かれています。

 「陪宴 西園寺侯より、農商務大臣推挙之積ト申来、即礼見、内司二省之中ニ差操
ヲ求ㇺ、農商務ハ、余之尤無経験所也、侯云、該省ハ、政党之侵入スル憂アリ、故厳
正監督ヲ要ス、君ヲ要トスルハ、元老ニモ内談済也云々」
 また、「明治三十九年当用日記補遺」1月5日に、
「西園寺侯へ返書 御示教拝読、今般ハ非常之知遇ヲ辱シ、不堪感荷候、御示教之
旨趣ニ而ハ、農商所務大臣ニ御推挙ニ而候との事ニ御坐候処、既ニ御内諭ニ応したる
上ハ、一意努力ハ申迄も無之儀ニ候得共、内務若ハ司法二相之内ニ候得ハ、従来多少
験経モ有之、稍見込之廉も有之候、反之、農商務省ハ毫も之事躰ニ対してㇵ、真ニ暗
黒界ニ斉敷、何共危懼之至ニ候、可相成ハ前段者二省之内へ御差操ハ相成事申間敷哉、
御参看願上候、恐々敬具 右之書案作リシモ、遂ニ自ラ往見して自陳ス」

とあり、この書案は書簡として使者の手で西園寺の下に届けられたか、松岡自身が持参したかどちらかのようだ、と解説されている。
    〔日本大学精神文化研究所『松岡康毅日記』1998年〕

 これらの書翰と松岡康毅日記は、明治39(1906)年1月7日に西園寺公望内閣(第1次)が成立するにあたり、西園寺公望と農商務大臣となる松岡康毅との間で交わされ、また経緯が記されたものです。
 松岡康毅は、農商務大臣の指名に対し、その分野は経験も無いので、内務大臣か司法大臣にしてほしいと述べています。西園寺公望はこれに対し、農商務省は政党の侵入(介入)する恐れがなく、また厳正な監督が要求されるので松岡康毅を指名したとし、元老にも内談済みだと言っています。(この元老が誰を指すのか不明ですが、西園寺首相奏薦に関与した元老は伊藤博文、山縣有朋、松方正義、井上馨と言われています。)
 また、『松岡康毅日記』同年1月7日に宮中での親任式、1月8日清浦前相よりの引継ぎ、「当用日記補遺」の1月9日に任命の経緯を記しています。
 こうして松岡は、明治39(1906)年1月7日から明治41(1908)年7月14日まで農商務大臣の任に就きました。
 ちなみに、この時内務大臣に任命されたのは原敬、司法大臣は松田正久でした。

 そもそも第1次西園寺内閣で農商務大臣に任命された松岡康毅とはいかなる人物だったのでしょうか。
 松岡康毅は、弘化3(1846)年阿波国板野郡生まれ。明治4(1871)年には司法省に入り、その後東京裁判所所長や、司法大臣山田顕義のもとで法律取調委員などを務めました。明治22(1889)年には日本法律学校(のちに日本大学)の設立評議員となり、また、明治24年には検事総長や、その後伊藤内閣で内務次官や行政裁判所長官を歴任しています。
 明治36(1903)年には日本大学の初代学長となり、大正11(1922)年に初代総長となっています。大正12(1923)年9月、関東大震災により神奈川県葉山にて逝去。
  

《富岡鉄斎宛書翰》(富岡鉄斎あて西園寺公望返信)

今治市河野美術館 西園寺2-2
  
  拝啓 秋冷相催候處弥御多祥 恭賀候過日は黒川氏ニ託し数品御
  恵贈被下毎々御芳情感謝の至ニ候 赤壁遊■流涎不啻候却説御下命
  額書試候得共醜之醜なるものにて 汗顔此事何分病臂不任意御叱
  喝被下度候いづれ遠からず入洛久々 拝芝と楽居候 草々頓首
                     九月三十日   公望
     銕斎先生 梧右
    額は書留小包にて差出候也 二枚入置候得共御不用の
    分ハ御破棄可被下候 明後日東京へ帰り候企ニ有之候
             東海道御殿場驛
                       西園寺公望
      京都室町中立売北
           富岡銕斎先生 親披
 
 この書翰は、大正11(1922)年9月30日に西園寺公望が御殿場の別荘(便船塚別荘)から京都の富岡鉄斎に宛てて送った書翰(返信)です。
 富岡鉄斎は9月18日に御殿場の西園寺公望に宛てて二通の書翰を送っていました。夕と夜に書かれたものですが、同封のうえ送付しています。

 謹啓 本年残暑執酷至今猶未全退去可厭也。雖然相公閣下択勝避暑清風世界異於塵
境而益御安泰之趣先般御玉翰中之趣致敬察仕候。其節為僕賜御玉筆之義感激仕候。即
別紙之寸法御執事迄申述候。御随意可被遊也。(中略) 新聞ニモ記載之如本年東坡之
元豊五千壬戌之秋泛舟於赤壁之下、右長尾雨山内藤湖南発起人飛檄四方之処何計会
員五百名に余り泛舟宇治川雑遝甚敷風白月白之清遊殆見俗化幹事之輩茫然措手ニ至
ル、哄然一番者文人墨客謳歌太平之楽事果如斯乎、右近隣宮内省御菓子虎屋主人東行
ニ相托小品献呈御咲納幸甚。
     九月十八日夕                        富岡百錬
    公爵西園寺相公閣下  執事

   擬東坡赤壁会候宇治万碧楼、壁掛東坡採芝像、外掛前後赤壁賦図及名書画頗多、酒用
   支那酒及支那茶用支那品、菓子亦同、各茶室月白水清。虎屋製壱個、今献宇治茶小壺
   及虎屋特製一匡蓋、赤壁遊々小余意也。
   何れ発起人衆編輯小冊紀事之意、若果シ入手之節可備高覧。赤壁遊之御供ハ家族、虎
   屋主人、但宵俄雨勘要之夜月不出ハ可惜也。
                                   鉄斎
 書翰に付した短冊に「御殿場 西園寺殿執事御中 京 富岡百錬 托 黒川正弘
氏」、封紙に「御殿場別墅 富岡鉄斎 拝具/西園寺殿 下執事御中 九月十八日夜
京近隣托虎屋主人」
    〔この書翰は、立命館大学編『西園寺公望傳』別巻一 1996年による〕
     
 西園寺公望は、この年8月に御殿場を避暑地と定め別荘を設けました。以後夏は興津の坐漁荘からこの地に来て過ごしました。
 西園寺からの書翰は、過日、黒川氏(虎屋)を通じて品を送ってもらったお礼を述べ、宇治川で赤壁の雅会を催したことを羨んでいます。
 この年9月7日鉄斎は、長尾雨山、内藤湖南の発起により宇治川畔・萬碧楼で開かれた赤壁雅会に参加し、会の費用に充てるため「赤壁四面図」と「前赤壁図」を描いて雨山に贈っています。この赤壁雅会は、北宋の蘇東坡が元豊5(1082)年壬戌の年に赤壁(湖北省黄岡市)に遊んだ故事にちなんで、840年後の壬戌の年に開催したものでした。
 額書云々の件は、やはりこの年に鉄斎が自邸に書庫「魁星閣」を建て、7月に落成。また10月には画室が完成し「無量壽佛堂」と名付けました。その額の書を西園寺公望に頼んでいるので、そのことを言っていると思われます。
 「無量壽佛堂 銕斎先生属 公望」 室町一条下ルの鉄斎邸の画室に架けられましたが、現在は宝塚の清荒神清澄寺の鉄斎美術館に所蔵されています。

 そもそも西園寺公望と富岡鉄斎の関係は、明治2(1869)年に西園寺が私塾立命館を開設した際に鉄斎を賓師(教師)として迎えたことにあります。しかし立命館は翌年閉鎖を命じられ、また西園寺自身もフランスに留学したため、その後は親交が途絶えました。
 ところが大正6(1917)年10月24日、京都の古書画即売会にて偶然におよそ50年ぶりの再会を果たしました。富岡鉄斎は大正13(1924)年12月31日に逝去しますが、それまでの間、親交を結んでいます。
  
  写真は2点とも、今治市河野美術館提供によります。
  また書翰の翻刻は、立命館史資料センター・長谷川澄夫調査研究員などによります。
  二、三翻刻に異同がありましたので、筆者にて調整させていただきました。

2024年3月12日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2024.02.14

公式YouTube配信動画「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」のご紹介

 「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪」という題名で、立命館 史資料センターの公式YouTubeチャンネルに二つのビデオを投稿しました。この動画では、立命館衣笠キャンパスの建物に使用されているタイルに焦点を当て、その由来や特徴などを紹介しています。
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」https://youtu.be/qYOjP4-_b9E
「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」https://youtu.be/lVCYBF4bOxA

 衣笠キャンパスのタイルとは、あの地味な建物の外壁に使われているタイルのことです。
 衣笠キャンパスを知っている人が思い浮かべる、茶色のような灰色のような色をした、あの建物の外壁には、実は特別なタイルが使われているのです。

youtube動画紹介「泰山タイル」1

 そもそもの事の始まりは、史資料センター職員が衣笠キャンパスで目にする外壁タイルの美しさに惹かれ、調べ始めたことによります。

 そのタイルが、清水焼の流れを汲む伝統的な手法を用いた手づくりの京都産タイル「泰山タイル」であることがわかり、また、タイルを製造していた泰山製陶所が1973年に閉所していることから、衣笠キャンパスの建物に使われているこれらのタイルは、かつての伝統技術によって作られた貴重なものであることが分かったのです。
<学園史資料から>衣笠キャンパス校舎の泰山タイル

 近年のレトロブームとともに、ますます注目される近代建築にとって、タイルは欠かせない意匠です。現在ではタイルそのものに注目する人も増え、様々なタイルを見て回る、街歩きのイベントなども人気を集めています。
 また、衣笠キャンパスにおいては、2023年に開催された「京都モダン建築祭」に以学館(外壁の一部に「泰山タイル」が使用されている)が選出されるなど、立命館の建築物も近代建築という視点で注目され始めています。
 しかしながら、これらの事柄はまだまだ知られていません。
 史資料センターでは、立命館のキャンパスの美しいタイルをもっと多くの人に知ってもらいたいという思いから、衣笠キャンパスのタイルの魅力を紹介する動画を制作しました。

 今回は「泰山タイル」の生みの親、池田泰山の孫であり、自身もかつて泰山製陶所にてタイル作りに携わり、現在は集成モザイク作家として活躍されている池田泰祐さんにインタビューを行いました。
 動画では、「泰山タイル」の詳しい解説とともに、衣笠キャンパスのタイルを実際にご覧いただき、立命館に使用された「泰山タイル」の特徴や、タイルから伺える事柄や印象などをお話ししていただいています。

 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 基本編」では、「泰山タイル」の歴史や衣笠キャンパスに使用されているタイルの特徴などを紹介しています。
 動画タイトル「京都の伝統が息づく 立命館のタイル探訪 もっと泰山タイル編」では、全てが手づくりというタイルの製造工程なども含め、より詳しく「泰山タイル」について紹介しています。
どちらの動画も4分程度でご覧いただけます。

 これらの動画は、映像制作会社ドルフィンスルー株式会社の代表、横川隆司氏の協力のもと、撮影・編集共に史資料センターの職員が行いました。
 今後も「泰山タイル」に留まらず、より多くの人に知って欲しい立命館に関することについて、動画配信も活用しながらわかりやすくお届けしていきます。

2024年2月14日

2024.01.24

今治市河野美術館所蔵「西園寺公望資料」(その1)

 愛媛県の今治市河野美術館に、西園寺公望資料が所蔵されています。美術館には今治市出身の河野信一氏の収集による資料およそ1万点が収蔵されています。河野信一氏は大正9年に帝国判例法規出版社を創業し、傍ら古今の筆墨典籍類を収集していました。そして昭和43(1968)年に今治市に一括寄付をしています。
 その中に西園寺公望の書幅・書翰・俳句短冊など9点があります。
 このほど美術館を訪問しましたので、今回は、そのうちの俳句短冊1点と書幅1点を紹介します。
 書幅の翻刻と、詩意註解の出典紹介については、立命館 史資料センターの職員によります。

今治市河野美術館 西園寺3
【写真 左:不讀俳句短冊、右:木内老兄宛書幅 今治市河野美術館提供】

 ≪不讀俳句短冊≫
  大磯にて
   花水を渡て来たか春嵐  不讀

 不讀は西園寺公望の俳号です。大森不入斗の望緑山荘時代(明治26年頃~)から使っていた俳号ですが、この句は大磯にて詠んでいます。
 神奈川県の大磯は、歴代の内閣総理大臣が8人も邸宅(別邸)を構えた地ですが、西園寺は明治32年末から明治45年頃まで住んでいました。伊藤博文の別荘滄浪閣の隣にあったことから「隣荘」と呼んでいました。
 西園寺公望は俳句にも並々ならぬ才能を発揮していましたが、この句は、のちの『陶庵公影譜』(昭和12年審美書院)の「公の俳句」にも公の代表的な十数句のなかに取り上げられています。

 ≪木内老兄宛書幅≫
 翻刻: 清風定何物可愛不可名所至如君子
     草木有嘉聲我行本無事孤舟任
     斜横挙杯属浩渺楽此両無情帰
     来雨携渓間雲水夜自明 中流自偃仰適与風相迎
         木内老兄 属 大正戊午■日 公望書
 詩意: 
清風と云うものは定んで何物である、但是れ愛すべくして何物と名くることは出来ない、至る所嫋嫋と吹いて君子の如く人に快感を覚えしむ、又風の為に草木も嘉聲を発する、我が一行は本より無事の人である、孤舟に乗じて舟の斜横に一任する、而して中流に於いて上下を偃仰する、適ま風と相迎へて、杯を挙げて以て浩渺に属する、此を楽んで人も境も共に無情である、両渓の間を帰り来れば、雲も水も夜自然と晴明である
 岩垂憲徳・久保天隨・釈清潭註解『蘇東坡全詩集』第三巻

 この書幅は、「木内老兄」に依頼されて揮毫したものです。木内老兄とは、木内重四郎と思われます。木内は明治30年代は農商務省で局長の任にあり、第一次西園寺内閣の年(明治39年)には朝鮮の統監府農商工務総長として赴任していました。そして大正5年4月から大正7年6月まで京都府知事を務めています。
 この書幅は大正7年に書かれていますが、4月に木内知事は京都府の先賢慰霊祭を行い、山縣有朋とともに西園寺公望も参列しています。
 前年には大京都市計画を立て、秋には京都の清風荘に西園寺公望を訪問しその計画について話しています。この大京都計画は、7年4月1日に周辺の十数町村全域と数村の一部を編入して面積2倍以上となる新京都市が発足しました。
 木内知事はその6月に事件に巻き込まれ京都府知事を免官になりますが、その際にも清風荘に滞在していた西園寺公望に挨拶に行っています。
 この書幅が揮毫されたのが、木内知事在任時のものか、その後かは不明ですが、木内重四郎に依頼され贈ったものであると言えるでしょう。
 (木内重四郎の履歴については、一部、馬場恒吾『木内重四郎傳』(昭和12年ヘラルド社)によった。)

2024年1月24日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

最新の投稿

RSS