立命館あの日あの時
「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。
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2026.08.27
文人としての中川小十郎先生―かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ 第2回
かつてこの場所にあったリアルな「記憶」を掘り起こし、後世へとつなぐ連載企画。
第2回は、1972年(昭和47年)発行の機関誌『立命館学園広報』より、長年にわたり立命館で勤務した浜田種子さんによる「文人としての中川小十郎先生」を復刻します。
豪放磊落で親しみ深く、詩や書、禅、陶芸、新劇にも深い関心を寄せた創設者・中川小十郎。その豊かな文化人としての横顔や、職員との温かな交流、思わず微笑んでしまう逸話の数々を、身近で見つめ続けた著者が丁寧に綴っています。
大学史だけでは語り尽くせない創設者の素顔に触れられる、貴重な証言です。
文人としての中川小十郎先生
私はものの上ッ面ばかり見て、ついウカウカと齢を重ねてきた。そのうえに、物忘れがいいので昔の記憶をたぐりよせようとしても、片々と水の上に浮んだ水草のような、きれっぱししか見えてこない。そんな中から、文化人であられた中川小十郎先生の思い出をひろってみようと思う。
いまの管理課の建物が東面して建っていたころ、入口をはいって左の階段を2階にあがると図書館、1階の右側の部屋が事務室、突当りが総長室であった。総長は京都に居られるときは、この部屋へ毎日出勤して事務をみたり、来客と談笑し、またいつも何か草稿を書いたり、読書をしておられた。ときどき事務室に顔を出され、老人特有の斑点のある大きな頭の下に童顔をほころばせて世間話に興じられるかと思うと、破鐘のような雷が竹上孝太郎理事(故人)の方角に落ちるときもあった。
総長の声は大きくてよく響いた。初代理事長の池田繁太郎氏の学葬が校庭で行なわれたとき、中川総長の追悼の辞は、低く抑えた声ながら朗々とよくひびいて、「君は……」と呼びかけるような、そのせつせつと心をうつ哀惜の調子は、いまも耳朶に残っている。
頼まれて、よく大きな白無地の扇子に詩文か“偈(けい)”のようなものを書かれたが、雅趣のあるひとつの風格をもった字であった。素焼きの陶磁器をつくらせて、呉須などで字を書いて焼かせた壷や茶碗は、いまにして思えば、いい味をもった作品であった。
現在、中央図書館に保存されている、白磁に呉須で寒山詩を書きあげた大きな壷は、清水の陶工“祝峰”のロクロ技と調和して、見事な出来ばえである。その他のものは、どこに散ってしまったのであろうか。
新劇が、いまのように大衆化されていなかった昭和9年ごろ、うまれてはじめて新劇なるものを観せていただいた。新築地劇場の劇団が、「にんじん」と「憂愁夫人」の2本を演し物に、日出会館で公演していた。この会館は、当時、日の出新聞というのがあって、その新聞社が建てたもので、ちょうど朝日会館のようなものだが、たしか烏丸丸太町を下がったあたりにあった。
中川先生は、東屋三郎の後援をしておられたらしく、“三ちゃん後援会”と立札をした席がとってあって、そこで学校の職員4~5人で見物させてもらったのである。誇張されたわざとらしさもなく、淡々と平常の会話どおりに運んでゆく、そのセリフまわし、また外国映画そっくりに外人のしぐさを巧みに演じてゆく演技力には、ひどく感激したことをおぼえている。“にんじん”が終って、つぎの演し物との幕間に、「これが、にんじんのお父さんだよ、驚いたろう、ハハハ……」と、メイキャップを落とした素顔の上品な、三ちゃんこと東屋三郎を紹介してくださったのには、突然でびっくりさせられた。その時分の新劇の観客層であった、とりすましたインテリのなかに、もっさりしていたであろう私たちを引きつれて、おかまいなく、磊落にふるまっておられた。“にんじん”の翻訳本を小脇に、通路を歩いておられる姿は、青年のような稚気が感じられ、ほヽえましく思ったことであった。その三ちゃんの夫人の岸輝子が、京都公演の際には、中川先生の未亡人のもとに、晩年まであいさつにみえていたそうである。
天龍寺の関精拙老師や、相国寺の山崎大耕老師とも親交が厚く、毎月、天龍寺管長を学校に招いて、禅の提唱に力をそそがれていた。揮毫にも、よく偈を用い、出征兵士に贈る国旗に、「一超直入如来地」をもじって、「一超直入南方空」などと書かれたりした。
正岡子規が、『おろかちふ庵のあるじのあれにたびし柿のうまさの忘らえなくに』とよんだ短歌(うた)があるが、この“おろかちふ庵”のあるじ、天田愚庵和尚とは、伏見におられるころ、となり同士に住んでおられて交わりが深かった。
禅に興味をもたれたのも、そういう親交のなかからであろうと思う。白雲荘の玄関にある石額の由来をみてもその片鱗がうかがえる。
石といえば、これは最近に聞いた話であるが、ある日、看護婦の中村ナミさん(昭和46年8月に退職された)に「中村クン、きょうはこれから泥棒にいくから、ついてきなさい」と風呂敷をもたせ、どこへいくのかと思えば金閣寺の庭へつれていかれたという。そして、溝のあたりにころがっている石ころを、ステッキで指し、ソレダ、早く包みなさい、 早く、早く」と、持参の風呂敷に包ませられ、ソレッと、ふたりはあたふたと逃げ帰ったそうな。
先生は、その盗んだ石をきれいに洗わせ、座敷に置いて楽しんで眺めておられたという。それがどんな石だったかは知る由もないが……。
その当時は、事務職員の数も10数人という規模で、きわめて家族的な雰囲気のなかで仕事がすすめられていた。総長をはじめ竹上理事など、自由平等な考え方をもって、仕事のうえでは上も下もなく、男女の差もなく、その点で私たちは戦後の自由の解放をまつまでもなく、おおいにノビノビと働くことができた。
中川先生の大きな頭は、絶えず生きいきとはたらき、時勢のながれを見極めて、機をみるに敏でこれはいいと思ったことは誰のいうことでもとりあげ、ただちに実行に移された。
詩に興じ、筆をふるい、新鮮な感覚で演劇を愛し、それに倍して立命の充実・発展につくされた中川小十郎翁の断面をおもい起して、私自身も気のとおくなるほどながく勤めた立命館の、これからのいっそうの発展をねがってやまないものである。
(女史は本年(1972年)4月15日に退職された)
編集部注
浜田さんは、昭和8年2月に立命館職員として奉職され、本年(1972年)4月に依願退職されるまで、大変ながい歳月を立命館とともに歩んでこられました。その間、終始、会計業務にたずさわられたベテランであり、制度改革で廃止された事務主任の職務にあって、職場のまとめ役としても貢献されました。ご健勝をいのり、こんごとも学園の発展のためにお力添をいただきたいと思います。
2026年8月27日 史資料センター
2026.08.20
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(12) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第64号 表紙写真「端午の節句祝賀式(槍術貫流極意型実演)」
1936(昭和11)年5月発行
第64号表紙を開けると最初に告示「非常呼集について」が書かれています。天災やその他の非常呼集のサイレンが鳴ってからの避難訓練で「急がずして、急ぐ」と沈着と敏速との姿勢が大切と説かれています。「一切の行動は、すべて無言にして、下腹に力を入れ迅速に集合地点に向かい、次の命令を待つ。」今も変わらない避難訓練の基本的心構えです。
4月29日は天長節と呼ばれた天皇誕生日で、戦前にあっては国家の重要な祝祭日でした。全国の学校で祝賀式が催されました。立命館中学校・商業学校の生徒たちも学校に集合し【資料1】のような式次で天皇の誕生日を祝し、終了後には記念饅頭【写真1】が配布されて下校しました。
【資料1】天長節式次
【写真1】復元された紅白記念饅頭
【写真2】表紙写真 校庭での祝賀槍術実演と生徒たち
表紙の【写真2】は、前年、昭和天皇に第二皇男子の義宮親王(現在の上皇の弟である常陸宮親王)が誕生されていたことを祝い、5月1日から校庭に鯉幟を一つ多く上げられました。そして5月5日の端午の節句(戦前は祝日でなかった)には【資料2】のように校庭を禁衛隊行進した後、全校生の前で槍術範士の模範演武が行われたのでした。
【資料2】
(2)第65号 表紙写真「軍艦旗翻る(五月二十七日)」
1936(昭和11)年6月発行
【写真3】防空監視櫓に翻る軍艦旗(旭日旗)
5月27日は海軍記念日。日露戦争における日本海海戦で日本が勝利したことを記念して祝されていた日でした。立命館中学校・商業学校では式典は催されませんでしたが、木造二階建ての学舎で最も高い屋根上の櫓に軍艦旗(旭日旗)を【写真3】のように掲げてその日を祝していました。この櫓は、防空演習で防空監視哨の5年生がマイクで「敵機見ゆ」という発声で開始となる北大路学舎のシンボル的存在でした。
この禁衛隊第65号には、立命館中学校の前身清和中学校の第1回卒業生で、滿川亀太郎拓殖大学教授の訃報記事が9ページに亘って掲載されていました。中学5年まで在学していた吉田中学校が不祥事により廃校となった後、中川小十郎によって清和中学校への編入の道を与えられ、僅か5か月足らずの在学期間にもかかわらず、中川総長を敬愛し、人一倍の熱い愛校心をもって、後輩たちへ母校と日本の未来を語っていた人物でした。
2026年8月20日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
2026.07.29
<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(11)「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から
(1)第61号 表紙写真「御眞影を奉迎す(紀元節)」 1936(昭和11)年1月
【写真1】禁衛隊に護衛されて正門を入場する御眞影
1936(昭和11)年が明けた1月8日から、禁衛隊道場という名で訓練の場とされていた運動場に宇治川の砂が搬入されました。各教室には練炭ストーブが設置されましたが、室内は暖まっても5℃程度だったそうです。この冬には感冒が流行し、関西でも小中学校が休校するほどの広がりを見せていました。2月になって大雪のため立命館でも臨時休校するほどでしたが、それでも毎朝の禊と遥拝は行われていました。
2月11日は紀元節と呼ばれる建国の祝日(紀元二千五百九十六年)で、建国の聖地とされていた奈良の橿原神宮でも天皇の勅使を迎えて祭典が催され、立命館学園からは教員が引率して中学、商業の生徒代表が参拝しました。校内の生徒たちは、御眞影の前で祝賀式が行われたのでした。
この禁衛隊第61号には、中川総長を高く評する新聞記事の一文が紹介されていました。
「凡そ大學長の中で立命館の中川翁ほど開放的なスバぬけた人物は又と一人、他に見られない、その是非を問ふにあらず、その膽量を愛する。」(注1)
禁衛隊第61号には、紀元節由来の記事に続き、神武天皇の軍勢を導いた八咫烏についての説明が記紀を引用して詳しく書かれていました。
(2)第62号 表紙写真 説明なし(校庭での軍事教練風景)
卒業生送別号 昭和11年3月
【写真2】
立命館中学校第三十回(59名)、立命館商業学校第三回(56名)卒業記念の特集号です。
この号の最初に「京都御所・二條離宮の拝観に就いて」と題して19ページにわたる解説が掲載されています。その文の最初に配属将校の陸軍歩兵大尉が、京都御所への拝観は光栄にも立命館の学生生徒だけが卒業時に限り許されていることであると心構えを述べています。
【写真3】卒業式式次第
式次第によれば、中川校長は欠席で、倉橋勇蔵幹事が代読しています。卒業証書に続いて皆勤賞が授与されて御真影奉掲殿閉扉。その後に優秀生徒へ優等賞と記念品がそれぞれ授与されています。成績優秀者よりも皆勤賞を優先するという学校の姿勢が窺われます。「赤き血潮」の新しい校歌が1931(昭和6)年7月が制定されていましたが、卒業式で君が代の斉唱だけとなっているのが不思議です。式典での校歌斉唱がまだ一般的でなかったのか、疑問の生じるところです。
この禁衛隊号には「立つ鳥の言葉」と題して生徒31名が思い出を語っていますが、その中に、寄宿舎で教職員やその家族たちと一緒に夜遅くまで送別会が催されたことが写真入りで紹介されています【写真4】。寄宿舎の卒業生は2名だけでしたが、下級生たちが落語、漫才、浪曲、寸劇、ハーモニカ独奏、そして教員の歌など余興が様々に趣向を凝らし和やかに卒業生を祝っていました。寄宿生活で寝食を共に過ごした温かな仲間意識と、家族的な職員との生活に、日常の学校生活で忘れかけていた故郷の温かさを感じていたのではないでしょうか。
【写真4】寄宿舎送別会での集合写真
(3)第63号 表紙写真「榮の入学式(四月八日)禁衛隊旗奉迎」
入学生歓迎号 昭和11年4月
【写真5】雨中で行われた禁衛隊旗と御真影奉迎式(右手向こうが北大路通)
雨の中を保護者と共に登校した新入生たちは、まず教室で担任から手拭とバケツを渡され、直ちに上級生たちと共に禊を行い式へと臨みました。
【御真影奉迎式】中学入学生は職員室前、商業入学生は東道場前(写真では正面右手と左手側)。上級生たちは禁衛隊隊形(写真手前と左手側)で整列。大学から自動車で送られてきた御真影が正門に到着するや、配属将校の「脱帽」の号令に続いて「御真影到着」の声。
咳払い一つ聞こえない運動場に雨の降る音だけが聞こえる中、上級生は「捧げ銃」、入学生と保護者は脱帽し、傘を閉じて「頭右」の号令で禁衛隊旗を先頭にして御真影が入場。
【入学式】新入学生と編入生、保護者が惟一殿(講堂)へ移動。御真影が開扉されて君が代斉唱。御真影を拝して閉扉。中川校長の教育勅語奉読後に訓示(校長の命令に背くとすぐに退学になるなど)があり、その後は入学生が退出。保護者への校長挨拶。父兄会(保護者会)代表挨拶を終えて、再び雨の運動場へ。全員で御真影を奉送した後に上級生と入学生とで挨拶交換し、中川校長の閲兵が行われた後、禁衛隊旗を奉送。在校生たちが解散後、入学生には禁衛隊記念の雑炊が接待され、記念の紅白饅頭が配られて式はすべて終了しました。
この時の商業学校三クラスの担任の一人が白川静先生(後の立命館大学教授)でした。
その二日後、禁衛隊入隊の宣誓式が行われ、禁衛隊バッジを制服に縫い付けて、入学生たちは全員禁衛隊員として学校生活を送っていくことになるのでした。
注1:中外日報の記事。発行年月日は未記載。
2026年7月29日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
