立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2026.04.28

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅷ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第53号 表紙写真「愛宕神社正式参拝(中学四ノ二)」 1935(昭和10)年5月

禁衛隊表紙Ⅷ1
【写真1】

 1935(昭和10)年5月に中学校・商業学校1年生から4年生までの生徒たちが学年毎に合同で愛宕神社へ正式参拝しています。そのため生徒も引率教員も正装(教員は背広や羽織袴、軍服)でカメラにおさまっています。このうち4年生は愛宕神社から亀岡馬路村へ向かい1泊し、翌日午後に帰校という行程でした。
 当日は、嵐電北野駅(当時の嵐電は始発駅が北野天満宮前の駅)前に商業学校午前7時半、中学校午前8時に集合し、嵐山駅で電車を乗り換え、清滝駅終点まで。その後はケーブルカーに乗車して頂上駅へ。そこから愛宕神社参道の山道を登りました。生徒の感想文には、5月ながら途中にはまだ桜とつつじが咲いていたと書かれていました。正装で腰に弁当を巻き、水筒をかけただけの姿の生徒たち250名が山頂の本殿を目指したのでした。
 この年から4学年までが愛宕神社を正式参拝することになり、最初の山門には「立命館禁衛隊第一回正式参拝」と張り紙がされてあったそうです。愛宕神社の祭神と併せて社務所横には好菴社と呼ばれるお社があり、中川総長の母方の祖父中川好菴の像が祀られていました。

中川総長と愛宕神社との関係は、立命館 史資料センターHP
<懐かしの立命館>「中川小十郎が寄進した愛宕山の石段」を参照。

【写真1】は下山時にクラス毎の記念写真として撮影されました。学年途中で中退学・編入する生徒も多くいたので、毎年の撮影でも顔触れが変わっていました。

禁衛隊表紙Ⅷ2
【写真2】【写真1】と同年に撮影された中学校3年1組

 以前に当史資料センターHPで【写真2】を紹介した際、偶然にも寄贈いただいた戦没者ご遺族とは別のご遺族から「戦死した自分の叔父が写っています」と連絡をいただいたという深い繋がりのある1枚です。
HP「1枚の中学校クラス集合写真~ご遺族から届けられた写真~」

【写真3】は、1946(昭和21)年から47年に卒業の立命館第二中学校同窓会名簿に掲載された中学校2年生時の写真です。1943(昭和18)年には制服が異なっていたことがわかります。それでも上着の右胸下には「禁衛隊」の記章が縫い付けられています。【写真2】とは異なり、配属将校が左右に立ち、生徒たちの緊張した表情が印象的です。

禁衛隊表紙Ⅷ3
【写真3】

(2)第54号 表紙写真
 「中川総長先生邸前に於ける中商五年生(東京見学旅行)」 1935(昭和10)年6月

禁衛隊表紙Ⅷ4
【写真4】

 前年が二泊三日(うち車中泊一泊)であった中学商業5年生の東京見学旅行は、翌年一週間の日程に拡大され、東京を中心に広範囲での旅行で実施されました。それでも、前年と同じく中川小十郎総長兼校長の邸宅に全員が宿泊しています。旅程のみ紹介すると、

(中学校・商業学校の第五学年63名)
5月20日 午前7時 京都駅集合。鳥羽行快急列車(原文のまま)に乗車し伊勢へ。
内宮・外宮に正式参拝。午後6時56分二見駅出発。沼津駅で電気機関車に乗り換え。
夜は普通座席の車中泊。
5月21日 藤沢駅下車。江ノ島・鎌倉を見学。 午後5時20分東京駅着。宮城奉賀。
省電で高田馬場駅へ。中川総長邸へ隊列行進。宿泊。
5月22日 観光バスにて東京市内見学。靖国神社・明治神宮を正式参拝。
  夜は再び中川総長邸に宿泊。
5月23日 上野駅から日光駅へ。東照宮・二荒山神社を見学、中禅寺湖畔の旅館泊。
5月24日 華厳滝見学後、日光駅から上野駅へ。その後は自由行動で、午後10時新宿駅集合。10時45分発夜行列車で長野へ。
5月25日 午前8時10分長野駅着。善光寺参拝。その後、車中から日本アルプス、親不知・子不知を眺めて、午後7時金沢駅着。 同窓会石川支部の諸先輩に迎えられて旅館泊。
5月26日 午前10時59分金沢駅発。午後6時17分京都駅帰着。解散。 

(3)第55号 表紙写真「槍術貫流指南の久保先生」 1935(昭和10)年7月

禁衛隊表紙Ⅷ5
【写真5】

 立命館禁衛隊の名に相応しい古武士の精神を吹き込もうとする中川小十郎校長による新たな取り組みで、槍術が中学校商業学校の必須科目に取り入れられました。【写真5】に写る教士は、植物園前で書店経営の久保澄雄氏で、南北朝時代の楠木正成があみ出した長さ二間(約3.6m)の長槍を使いこなす貫流の使い手で、当時全国でこの流派を伝える人物が5人しかいなかったという典型的古武道でした。

(4)第56号 表紙写真「勉強の第二學期が来た」 1935(昭和10)年9月

禁衛隊表紙Ⅷ6
【写真6】

 中川小十郎総長は、67歳にして2度目の校長兼任を1933(昭和8)年から務め、京都と東京を行き来し、中学校商業学校のある北大路学舎に頻繁に顔を出していました。1935(昭和10)年第2学期の始業式当日は雨であったため、式は生徒たちが教室に着席して行われました。式開始にあたり、中川校長は放送で全生徒に「頭右へ」と号令をかけて教員一同に敬礼をさせ、以下のような新たな指導を訓示しました(禁衛隊第56号に掲載内容)。

 「今までは入学した生徒を全員進級卒業できることを目標に指導してきたが、今後は専ら優秀で才能ある者と堅実な志をもった者だけを留めて指導し、不勉強な者や堕落者を容赦なく除名退学処分にしていく。但し、努力する者は除名の外はない。立命館は悪い事をしたから懲戒に処するとか謹慎を命ずるとか云ふ事は余りしないが、校長の主旨を理解せず学校の方針に反した行動をする者は用捨なく除名処分をする。」
「遅刻した者は、最初の一時間を教室に入れない事にし、東の道場【写真7】に入って修養してもらう。用意の円座の上にによって坐り凝念修養するのである。」
 立命館坐法は中川校長が少年の頃から伝授されてきた武士道作法で、禁衛隊第50号に掲載されていました【写真8】。

禁衛隊表紙Ⅷ7
【写真7】禁衛隊道場碑(史資料センター所蔵)

 また、禊についても校長公示で次のように述べています(禁衛隊第56号掲載)。
 「愉快に勉強を持続せんとするには、勉強の方法では駄目である。身体が健康でなければ根気が出てこない。どうしても身体を健全にして根気よく勉強を続けねばならぬ。根の張った勉強でなければ本当の学問はできない。それをやらんとするには、身体そのものが健全でなければならぬと云ふのが私の論法である。私が毎早朝励行せんと期している禊の行は実にこの点から出発しているのである。
 禁衛隊の精神は私の教育の指導精神である。私は教育家でもなく、また哲学者でもない、併し禁衛隊の隊長を以て自ら任ずるものである。」

禁衛隊表紙Ⅷ8
【写真8】立命館坐法の解説
 
 中川校長は学力を向上させるため、勉学意欲なき生徒には除名(退学)の厳しい指導を行い、学習持続力を高めるため禊によって健康な身体づくりを行うとしています。中川校長の指導熱は、このように「立命館禁衛隊」第55号・56号あたりから、中学・商業学校生に向けて次々と発揮され実行されていったのでした。

2026年4月28日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.04.02

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅶ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅶ)
「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第46号 表紙写真「朝拝」(昭和9年10月)
禁衛隊表紙Ⅶ1
 【写真1】

 中川総長が兼務で二度目の中学校・商業学校校長で就任したのが1933(昭和8)年9月で、それから様々な改革や行事が実施されていました。その一つが【写真1】の「朝拝」です。中川校長は、生徒のなかに呼吸器系の疾病で休退学するのが目立つことから、冬季の感冒を予防し、健康増進する効果があると考え、「冷水摩擦」を全校生徒に課しました。中川校長の陣頭指揮で「冷水摩擦」用に生徒全員(約1300名)へ一人1個のバケツが支給されてもいました。この「冷水摩擦」後、皇居に向かって全教職員生徒で行われたのが「朝拝」でした(「朝拝」がいつから正式に実施されるようになったかの公式記録に残されていませんが、「禊」という表現と共にほぼ同時期から使用されたのではないかと思われます)。

 
(2)第49号 表紙写真 校庭立札 (昭和10年1月)
禁衛隊表紙Ⅶ2
【写真2】

 【写真2】の右は「今上陛下御大禮記念櫻樹」、左は「大正天皇御大禮記念橘樹」で、北大路学舎校庭に植樹されました。当時、京都御所に勤めていた保護者の一人が息子の中学校入学(昭和6年4月)記念にと贈ったもので、御所紫宸殿の南階段下に植えられていた「右近の橘、左近の櫻」からの実生のものであったと書かれていました。

(3)第50号 表紙写真 「新装成りし寄宿舎」  1935(昭和10)年2月

禁衛隊表紙Ⅶ3
 【写真3】

 【写真3】は三代目となる中学校寄宿舎です。初代寄宿舎は、1906(明治39)年に清和中学校への改称と同じ時期に設立されていました(場所は不明)。しかし、学校との距離が遠すぎたという難点があったため、場所を新たな場所に移して1914、(大正3)年5月、校舎(大学と同じ広小路学舎)に近接の地である京都市上京区寺町通り今出川上がるの本満寺(日蓮宗)東南部の一角に二代目宿舎を設立しました(室数15、収容生徒50人)【写真4】。
禁衛隊表紙Ⅶ4
【写真4】

 この寄宿舎は、1934(昭和9)年9月の大台風被害を目の当たりにしたことで、耐震耐風補強し、内外を整備して生活の気分も一新するための工事に着手され、約2か月の期間で新寄宿舎が完成されたのが表紙の寄宿舎でした。
 主に低学年生徒が対象で、室数10(8畳×8、6畳×2)で1室2名、全収容人員18名と収容数は縮小されましたが、図書室(自学習室兼)や食堂、炊事場などが整備され、中川塾と呼ばれた学生(立命館大学部と専門学部のなかから選ばれた一部の学生)も生活していました。屋内では卓球台があり、屋外にはテニスコートもありました。
 立命館理事宅には竹上孝太郎(妻は中川小十郎総長の姪である孝で死別)が家族で暮らしていました。賄夫と呼ばれた専門の料理人がその家族と共に起居していました。毎月1日15日と生徒誕生日には赤飯で祝い、特別な料理が加えられました。
 朝6時半起床、当番の生徒二人が廊下の掃除をしながら鐘をカンカンと鳴り響かせて各室の者を起こして廻りました。午前7時朝礼の後で朝食、7時45分登校(北大路の学校までは鴨川堤防を歩いて約1,5㎞)。当番の号令で隊伍を整え、舎監(教員)と舎長(生徒)が前後を引率して出発しました。
 下校は個人差がありますが、夕食は午後5時。その後に入浴し、門限は午後6時。自習時間が午後6時半から9時半まで。消灯が午後10時。舎監の許可があれば、それ以後に図書室で時間外学習が認められ、夜遅くまで勉学に励んでいました。

禁衛隊表紙Ⅶ5
【写真5】寄宿舎内面図

(4)第51号 表紙写真 「校舎の一部」 1935(昭和10)年3月
禁衛隊表紙Ⅶ6
【写真6】

 中央に写っているのは校庭に設置された炊事用の竈です。もち米を蒸して餅をついたり、禁衛隊勤務時の夜食や雑炊を作ったりするのに活用されました。背景に写っているのが校舎で、3年後には鉄筋3階建ての校舎に完全に建て替えられ、この竈も別の場所へと移動しました。

2026年4月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博

2026.03.31

<懐かしの立命館>昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅴ) 「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

昭和初期の立命館中学校・商業学校(Ⅴ)「立命館禁衛隊」表紙に紹介された写真から

(1)第34号 表紙写真「荒木陸軍大臣の立命館禁衛隊観兵式」(昭和8年6月)  
禁衛隊表紙Ⅴ1
 【写真1】

 1933(昭和8年)年4月14日午後5時、荒木貞夫陸軍大臣が広小路の立命館中央講堂国清殿の明治大帝聖像奉拝のために来校しました(注1)。その後、荒木大臣は夕暮れのそぼ降る春雨の中、京都御苑において立命館禁衛隊大学、中学校、商業学校各部隊の観兵式にのぞみました。建礼門前で大臣による激励の言葉があり、最後は荒木大臣の発声で「聖上陛下万歳」の奉唱が行われたのでした。
 この後、6月1日には山本達雄内務大臣が、同じく明治大帝聖像奉拝のために立命館大学を訪れています。


(2)第35号 表紙写真「禁衛隊軍楽隊」(昭和8年7月発行)
禁衛隊表紙Ⅴ2
 【写真2】

 1933(昭和8)年6月25日の日曜日午後9時、JOOK(NHK京都ラジオ放送局)の開局1周年の記念放送番組の一つとして、立命館禁衛隊軍楽隊の演奏が行われました。禁衛隊の軍楽は、明治維新の際に京都府下山国村の人たちが勤王(官軍)の従軍をした時に用いたもので、その曲が禁衛隊にも伝授され、中等学校の生徒にとって相応しい行進曲として立命館禁衛隊で演奏されていました。曲名の記載はありませんが、おそらく山国隊軍楽隊と同じ隊の行進曲が約20名の生徒たちによって演奏されたと思われます。

(3)第36号 表紙写真「中川校長就任式」(昭和8年9月)
禁衛隊表紙Ⅴ3
【写真3】

 1933(昭和8)年9月、中川小十郎総長は、1928(昭和3)年4月以来の2度目の中学校・商業学校の校長を兼任しています(注2)。【写真3】は、校長の前を隊列を組んで行進する生徒たちです。10月10日には天皇が福井県での陸軍大演習統監の帰りに京都へ立ち寄るということで、立命館禁衛隊は御大典(昭和3年10月)の時と同じように警備を行うことで緊張が高まっていました。中川校長は、9月9日から2度にわたって生徒全員に腸チブス(原文のまま)の予防接種を行っています。また、大阪造幣局に依頼して禁衛隊胸章【写真4】を作成してこれも生徒全員に着用を義務付けていました(注3)。

禁衛隊表紙Ⅴ4
【写真4】

 また中川校長は、就任早々、2名の生徒を成績特別優良で操行至極方正として、全国的にも聞かない特別進級を行ってもいます。
 このようにして中川小十郎校長は、1941(昭和16)年まで総長兼務ながら中学校・商業学校の改革に大きく取り組んでいったのでした。 

(4)第37号 表紙「立命館禁衛隊 宣誓」(昭和8年10月)
禁衛隊表紙Ⅴ5
【写真5】

(5)第38号 表紙写真「禁衛隊宣誓文」(昭和8年11月)
禁衛隊表紙Ⅴ6
【写真6】

 「立命館禁衛隊」第37号本文には中川小十郎総長が「立命館禁衛隊の由来と国清殿に奉祀せる明治天皇の聖像」と題した文の中で、宣誓について次のように説明しています。
 我々は禁衛隊を組織して微力ながら禁闕守護の微衷をいたしたいと云ふことになって、三千の學徒の間に何時の間にか、その評議が一決した、一決した以上は宣誓がなければならぬ、署名式がなければならぬと云ふので、十月の二十三日にいよいよその式があげられた。その宣誓の文句は左の通りであった。

1928(昭和3)年10月23日に発表された宣誓文を、中川総長が謹書したのが第38号の【写真6】でした。


(6)第39号 表紙写真「御楯の井」(昭和8年12月) 
禁衛隊表紙Ⅴ7
【写真7】

 この【写真7】には以下のような説明文が加えられていました。
御楯の井は去る十月聖上京都御所御駐輦禁衛隊奉仕の際校庭に新に掘削されたもので、その名は萬葉集の「けふよりは かへりみなくて大君の しこの御楯といで立つわれは」によるのであって禁衛隊にゆかりも深い名称でもある。
 立命館中学校商業学校では、毎朝、皇居に向かって遥拝を行っていましたが、就任した中川校長の指導によって2学期はじめから、この井戸から汲み上げられた地下水を使って、身を清める禊を行い、その後に遥拝を行うことになったのでした(立命館禁衛隊第58号で詳記)。

2026年3月31日 立命館 史資料センター 調査研究員 西田俊博
              
注1: 1929(昭和4)年11月3日の禁衛隊全員集合の記念会合席上で、学園の守護神を明治大帝とすることに一決したと記されている(立命館禁衛隊第37号 昭和8年10月発行)。
注2:1929(昭和4)年2月まで総長兼任で校長に就いていた。
注3:立命館 史資料センター所蔵

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