立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.06.06

パリ講和会議全権大使西園寺公望に随行したキャビン・トランク

 第一次世界大戦が1918(大正7)年11月1日に休戦した。アメリカ・イギリス・フランスなど連合国は講和会議を開催することとなり、1919年1月18日に第1回総会が開会された。
 日本政府(原内閣)は、西園寺公望を全権大使(全権委員)とすることを11月27日に決定し、講和会議出席者が12月3日に裁可された。
 首席全権として西園寺公望のほか、次席全権に牧野伸顕、その他全権として珍田捨巳(駐英大使)、松井慶四郎(駐仏大使)、伊集院彦吉(駐伊大使)が選ばれ、随員として永井松三、長岡春一、佐分利貞男、松岡洋右、吉田茂など、また西園寺全権の随員として侍医・三浦謹之助、西園寺八郎、公爵・近衛文麿、西園寺八郎夫人・新子、医学博士・勝沼精蔵などが随行した。
 牧野全権は12月10日に東京を発って海路アメリカ、ロンドンを経由し、1月18日にパリに到着した。
 西園寺全権一行はパリへの往路・帰路に客船を利用しているが、本稿は、その航路に使われた西園寺公望のキャビン・トランクの紹介である。

キャビン・トランク1

【写真:西園寺公望のキャビン・トランク】

 キャビン・トランクは、現在エース株式会社の「世界のカバン博物館」に所蔵されている。1998年5月、西園寺公友氏より寄贈された。経緯は、立命館が1990年に創立90周年を迎えるにあたって『西園寺公望傳』刊行を計画、その際西園寺家に所蔵されていたことが判明し、寄贈するに至ったとのことである。

 近衛文麿は、随行した往路で日記を残している。
 近衛の日記によると、西園寺全権大使一行は、以下のような行程でパリに向かった。

 1919(大正8)年1月11日、西園寺公望は東京駅を出発、原総理が国府津駅まで同乗し、侯爵は三ノ宮駅に到着した。1月12・13日は神戸にて静養した。
1月14日 曇 日本郵船会社の丹波丸(注1)に乗船し、出帆
1月15日 曇 門司入港、下関の山陽ホテルに投宿
1月16日 晴 山陽ホテル出発、門司港出帆 玄海洋上
1月18日 雨 揚子江口通過、上海着 アストアハウスに投宿 荷物の着否を取調べ
1月20日 快晴 本船に帰船、出帆 揚子江口を出てボナム海峡通過
1月23日 曇 香港入港
1月24日 半晴半曇 香港出帆
1月26日 晴 安南沖通過
1月29日 曇 新嘉坡投錨
2月1日 晴  ペナン入港
2月2日 快晴 ぺラック島通過
2月3日 快晴 スマトラ通過
2月5日 晴 セイロン島南東端通過
2月6日 快晴 コロンボ入港
2月8日 快晴 コロンボ出帆
2月13日 曇 ソコトラ島到達
2月15日 晴 アデン沖
2月18日 快晴 セントジョーンズ島を見る
2月20日 晴 スエズ運河 ポートセッドに入港、ホテル投宿
2月21日 晴 ポートセッド出帆
2月22日 晴 地中海に入る
2月25日 晴 ストロンボリ―島通過
2月27日 曇 マルセーユ入港
3月1日 晴 巴里に出発 列車にて
3月2日 晴 巴里着

 会議は、五大国(米・英・仏・伊・日)首脳者会議や五大国の十人会議など議題に応じて開催されたが、西園寺全権は五大国首脳者会議に出席、その他の会議は牧野全権や、珍田全権、松井全権が出席した。
 西園寺公望は3月15日に五大国首脳者会議に出席したのをはじめ、3月17日、3月19日、3月21日、3月22日、3月24日と五大国首脳者会議、4月11日に平和会議第四回総会、4月28日の平和会議第五回総会、5月6日平和会議第六回総会などに出席し、6月28日にはヴェルサイユ宮殿にて平和条約調印式に出席し五大国全権委員として調印した。調印式には、敗戦国ドイツ、連合国側は日・英・米・仏・伊の五大国をはじめ、ベルギー、ブラジル、キューバなど21か国が調印した。

 西園寺公望は講和会議を終え、7月8日にロンドンに行き、10日にイギリス皇帝に拝謁した。近衛文麿とは7月8日に別れ、近衛はヨーロッパ各国、アメリカを訪問して帰国した。
 西園寺公望は7月13日には荷物の整理を行い、17日に仏国外務大臣と大使館に暇乞いをし、19日に熱田丸(注2)に乗船した。
 1919(大正8)年8月23日に神戸港に帰着、翌24日に東京に帰った。
 東京からパリまでの往路は51日、復路は37日であった。
 〔ちなみに、現在、東京(成田)からパリまで飛行機で平均12.5時間ほどである。〕
 
 この歴史的な第1次世界大戦のパリ講和会議の往路・帰路の移動に、このキャビン・トランクも常に随行したのである。
 キャビン・トランクには所有者を、K.SAIONJI と朱書きされている(注3)。
 パリ講和会議の資料や、西園寺侯爵の身の回りのものを運んだのであろう。ちなみにパリでは、何度となく洋服屋に足を運んでいる。

 西園寺公望は、パリ講和会議に全権委員として出張するにあたり大勲位に叙され、菊花大綬章が授与された。
 帰国の翌年、大正9年9月には、勲功により公爵に叙せられた。

(注1・2) 丹波丸は明治30年に建造で6102トン、熱田丸は明治42年建造で8523トン。ともに日本郵船の船で、欧州航路に就航した。丹波丸は昭和9年売却、熱田丸は昭和17年に戦争により沈没。
(注3) 西園寺公望自身は、明治38年に「ローマ字ひろめ会」の初代会頭になっているが、SAIONNZI と表記した。パリ講和会議での署名もSaionzi である。

付記:参議院事務局『立法と調査』2011年12月No.323に、宇佐美正行氏の「パリ講和会議と日本外交」の記事が掲載され、憲政記念館開催の「大正デモクラシー期の政治特別展」でこのキャビン・トランクが展示されたことを記している。

2023年6月6日 立命館 史資料センター 久保田謙次

2023.05.2

千葉県鴨川市に残る西園寺公望揮毫の二行書

西園寺公望二行書1
【写真:西園寺公望二行書 鴨川市郷土資料館所蔵】

 千葉県の鴨川市郷土資料館に、西園寺公望揮毫の二行書を訪ねました。

 「花陰流影散為半院舞衣 水響飛音聽来一渓歌板」 陶庵主人公望書
 箱蓋に、公爵西園寺公望公書  蓋裏に、昭和二年初夏拝観 中川小十郎謹識

      花陰影を流し 散じて半院の舞衣と為る
      水響音を飛ばし 聴くに一渓の歌板来る
 翻字と訓読は、城西国際大学の岩見輝彦助教授(当時)『城西国際大学紀要』第5・6巻 1997年・1998年によります。

 西園寺公望の書で二行書は比較的少ないと思われます。
 西園寺公望がいつ揮毫したのかはわかりませんが、昭和2年の初夏に中川小十郎が箱書を書いていることも注目されます。
 昭和2年に西園寺公望と中川小十郎が直接この書について、関係したかどうかは不明です。
 この頃、西園寺は興津の坐漁荘を住まいとしていましたが、4月半ばから6月末まで京都の別邸清風荘に滞在、一方中川は何度か東京と京都を往復しています。
 この二行書は、戦後池田内閣や佐藤内閣の大蔵大臣を歴任し、城西大学を創立した水田三喜男の夫人が出身地である鴨川市の郷土資料館に寄贈した「水田コレクション」のうちの1点です。
 水田は、京都帝国大学に昭和3年に入学し、昭和6年に卒業しますが、その経歴からは西園寺や中川との直接の交流があったとは思えません。水田は、文化・芸術作品の収集にも力を注ぎ、明治・大正時代の伊藤博文、山縣有朋など著名な政治家の書も収集していました。そうした中で西園寺公望の書を入手したと思われます。

 早春の房総を訪ね、この書から西園寺公望の風流を詠う光景を思い浮かべ、そして西園寺から中川へ、さらに水田三喜男へと渡っていった道のりに想像を馳せた次第です。

2023年5月2日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.04.26

<懐かしの立命館>北大路学舎(立命館中学校・高等学校)初の女子生徒たち ~立命館夜間高等学校~ 戦後京都の夜間定時制高校の歴史とともに

1) はじめに
 1905(明治38)年9月に清和普通学校が大学と同じ広小路学舎内に誕生し、1923(大正12)年には北大路学舎(現、立命館小学校所在地)へと移転しました。その後の発展によって、狭隘な校地に年間で最多3,300名以上もの男子生徒を抱える旧制の中学校として、学園の付属校は男子校としての長い歴史をもっています。
 戦後も同じ校地に新制の中学校高等学校として展開し続けてきましたが、1988(昭和63)年に中高の男女共学と広大なキャンパス(京都市伏見区深草)への移転という大改革を実現したのでした。付属校の男女共学はこの時に始まったと考えられがちですが、それまでにも付属校で女子生徒を受け入れたことがあります。以前にこのサイトで、京都市からの委託という特殊事情で女子生徒を受け入れた立命館神山中学校の歴史を紹介しましたが【注1】、今回は北大路学舎で女子生徒を受け入れた歴史について紹介します。
 その初めての女子生徒誕生を紹介する資料が、1950(昭和25)年10月発行の立命館高等学校新聞局の立命館タイムスです【写真1】。
北大路学舎初の女子生徒1
【写真1】「立命館タイムス」第15号 1950年10月13日発行

 この記事によれば、1950年9月、立命館夜間高等学校(以下、立命館夜間高校)の補欠募集の試験に女子3名が合格し、入学を許可されたと記されています。記事中、「女人禁制」の伝統を破って男女共学実施や「勇カン」「芳キ」という表現には、生徒記者たちの興味津々の心情がよく表れています(実際には、4月入学が10代と20代の2名。10月編入が20代の1名)。
 北大路学舎の歴史で初めての女子生徒たちはどのように入学し、学校生活を送っていたのかを、当時の社会的背景とともに調査してみました。

2) 立命館夜間高校の誕生
 付属の夜間学校は、京都私学の中で最も古く、1937(昭和12)年の立命館夜間中学と商業学校夜間部から始まります。当時、創立者中川小十郎から両校設置の命を受け奔走したのが城内辰尾【写真2】で、城内は後に立命館夜間高校校長に就任しています。

北大路学舎初の女子生徒2
写真2】 城内辰尾立命館夜間高校学校長
(1951年度 夜間高等学校卒業記念写真集より)

 立命館での夜間における中等学校は、第四中学校や工業学校夜間部などと校名や教育内容を変えながら展開し、1950(昭和25)年3月に最後の生徒へ卒業証書を贈って戦前からの旧制中学校としての歴史に幕を下ろしました。
 戦後、新制の高等学校としてこの夜間学校のタスキを繋いだのが、1948(昭和23)年4月に開校した立命館夜間高校でした。この高校の特色を当時の副校長であった松井美知雄は次のように語っています。

校長城内辰尾先生の訓育方針である「紳士たれ」を教育方針として現在まで生徒の訓育指導に当たってきたのでありますが、特に本校は創立以来校長を中心として教師、生徒を打って一丸とした一大家族的学園であり、(中略)先生方は全部夜間専任であった事等は、府下幾多の公立定時制高校に比べてその比を見ないのであります。これはわが校の特色として大いに誇るべき点でありましょう。(中略)15歳位の年齢の者もあれば、先生よりも年上の40歳にも達しているという妻子ある紳士等もあり、年令の枠を外した文字通りの家族的雰囲気の中で授業を受けているのは特に本校の目立つ特色の一つでもありましょう【注2】。

設置の目的は「主として晝間實務に從事する勤勞青年に對して夜間を利用して日本國憲法の精神に則り(中略)、一般的な教養を高め、個性の確立に努めると共に文化の創造と發展に貢献する」とされています【注3】。教員がすべて専任制という恵まれた夜間独立制を採用したことによって定時制ではなく夜間高校として出発し、教育を展開しました。そして、学則の第二条には「本校は日本國憲法の精神に則り主として晝間實務に從事する男子に對して(中略)高等普通教育を行うことを目的とする」として、民主主義教育を進める勤労男子のための学校であることを明確に謳っています。新制の立命館中学校と立命館高等学校の学則には「男子」という文字は記されていません。同年では私学で明徳(女子高で商業科と宗教家科)、同志社商業(男女共学)の2校が設立されています。立命館夜間高校は京都府の公私立夜間・定時制高校で唯一の男子夜間高校として設立されたのでした。

3) 夜間・定時制高校誕生と社会状況
 新たな学制により義務教育の公立中学校が誕生し、男女の中学校進学率は一気に増加しましたが、その生徒たちが卒業すると、次には高校進学や就職問題が発生してきます。 
 その対策として、1948年8月には京都府下の公立定時制高校が本校19校、分校34校、京都市内10校設立されました【注4】。これは全日制高校に入学できなかった一部生徒が入ってきたことなどもありますが、「経済的な理由によって昼間働き夜学ぶ生徒が男女で激増したことによるものと見られ、府教委ではできるだけ多くを収容したい意向である」とされていました【注5】。
 就職問題も深刻でした。1949(昭和24)年4月時点で京都府下の中学卒業生は20,272名で求職希望者4,439名(男子2,402名、女子2,037名)に対して就職者2,102名(男子868名、女子1,234名)【注6】という状況でした。特に、戦後に女性の社会進出が高まってきたにも関わらず就職は厳しく、夜間・定時制高校はこうした女子が、在学中に就職する可能性を残して就学できる受け皿として不可欠の役割を果たしたのでした。
 その上に、公立定時制高校の授業料は年額480円で、私学に比べて低額(1948年7月、立命館夜間高校では月額を50円値上げして200円)であったため、1950(昭和25)年4月、京都市内の公立定時制高校の入学志願者は、市内10校へ約2,200人(定員1,800人)が押し寄せるという状況でした【注7】。
 このように公立定時制高校が大人気であった状況に対して、当時の京都市高教組は「大きな年齢差があっても熱心な勤労青年が集まる定時制高校でありながら、バラエティに富む教育運営などが見当たらず画一的で、夜間教育の目的と意義を忘却した言説をなすものが多い」という内容で意見書を提出し、定時制高校の在り方に危険を訴えていました【注8】。
 
4) 中退学者問題
 戦後インフレは異常な物価上昇を続けて国民生活を困窮させていたため、全日制高校への進学者は、家計のひっ迫から授業料滞納などで中途退学する生徒が目立ち、定時制高校へと転校する生徒が増えました。このような状況であったため、公立校が授業料減免、私立校では奨学制度などの強化(立命館高校では1952年度に初めて奨学生制度を導入し、一人年間1万円で25万円の予算を計上)をはかるなどの対策を講じましたが、とても追いつけないというのが実状でした。1948年4月から1950年3月まで2年間での中退学者は立命館高校125名のうち家事の都合、授業料未納、立命館夜間転校への転校を理由とする者が全体の約60%にあたる67名。
 立命館夜間高校723名のうち家事の都合と授業料未納を理由とする者が全体の約80%にあたる572名。
 また、立命館夜間高校の学費だけをみても、1948年4月に月額150円であったものが8月には200円、10月には220円、1949年4月には500円へと値上げ。私学全体で学校経営は大変厳しい状況にありました。

5) 立命館夜間高校での学校生活
 立命館夜間高校の学則によれば、4年制で定員640名(1学年160名)の学校規模で開校されましたが、生徒数は大幅に定員超過になっています【表】。これは既述したように中学卒業生の増加に対して、公・私立の高校が積極的な生徒の受け入れをしなければいけない社会的要請があったからでした。立命館夜間高校1年の入学試験は面接のみで、定員を超過した場合に限って試験を行う方式をとっていて(2年以上の学年は、学科試験が国語、数学、理科、英語、社会で他に人物考査を実施)。立命館夜間高校へ進学を希望する生徒にとって入学は広き門でしたが、学校生活を維持することは厳しかったのでした。

北大路学舎初の女子生徒3
【表 夜間高校の生徒数変化】
(生徒数と卒業生数「立命館百年史 資料編三 統計」よる)
(中退学数は、立命館中高所蔵「中退学者記録簿」による)
(新入生募集人数は、当時の新聞広告記事による)

 授業は、午後5時から午後9時までの4時間授業で行われました。始業に間に合うためには、勤務を終えて着替える間もなく職場を出て、夕食もとらずに登校するという生徒も多く、服装は作業着や背広姿などまちまちでした。授業が終わってから帰宅して夕食などをとる生徒もいて、健康を害する生徒もいたようです。学則の生徒心得には「本校生徒は常に自主自立の精神を養うと共に、相協力して明朗闊達な校風の樹立につとめ、心身ともに健全なる国民としての資質を作るように心掛けなければならない」とされていました。立命館夜間高校は、男子校として勤労と勉学との両立のために体力と健康維持が強く求められる学校でもありました。

北大路学舎初の女子生徒4
【写真3】 夜間高校北校舎と東校舎

6) 初の女子生徒の入学と卒業
 3)で紹介したように市高教組が要望書を提出して公立定時制高校の危機を訴えるなか、立命館夜間高校では男子校としてスタートした3年目に1950年度に向け初めて女子生徒募集を発表しています【注9】。その結果、1年生男女300名の募集に対して2名が4月入学、3年生1名(2年生以上は男女若干名の募集)が10月編入学しています。この3名を紹介したのが、最初に紹介した学校新聞記事でした【写真1】。1950年度の女子3名は以下のとおりです。
Aさん(1933年生まれ)は、府立定時制高校を1年生で中退した後、1年生で入学して翌年3月に中退。
Bさん(1923年生まれ)は、1年生で入学したが、翌年9月2年生で中退。
Cさん(1926年生まれ)は、高等女学校を卒業後、1950年10月に3年生に編入し、翌年3月卒業。公務員技術職として勤務。

 翌1951(昭和26)年度に向けては、1952年度から校名を夜間高校から定時制高校に変更することと併せて、再び1年生男女300名(2年生以上は男女若干名)募集を発表しています。その結果、6名の女子生徒が入学・編入学しています。
Dさん(1930年生まれ)は、1年生で入学したが、同年11月に中退。
Eさん(1934年生まれ)は、高等女学校を卒業後、1951年9月2年生に編入、翌年3月に中退。公立定時制高校へ転校。
Fさん(生年月日未記載)は、4年生で編入したが9月に除籍。
Gさん(1935年生まれ)は、公立全日制高校1年で中退し、11月に編入、翌年2月に除籍。
Hさん(1932年生まれ)は、高等女学校卒業後、4月4年生に編入、翌年3月卒業。在学時代からの会社勤務。
Iさん(1928年生まれ)は、高等女学院卒業後、9月4年生に編入、翌年3月卒業。公認会計士として勤務。

 1950年から51年の2年間に北大路学舎で在学した女子生徒は9名でしたが、卒業したのはこのうちの3名でした。女子生徒は少なかったうえに大部分が中退や除籍となりましたが、最終的に初めて卒業したのは1952年3月に卒業した3名(この年度の卒業生は230名。うち大正生まれは16名)でした。この学年を記録する写真は見開き2ページの卒業記念クラス写真集が1部母校に残されているだけです。

北大路学舎初の女子生徒5
【写真4】 1952年3月卒業 1組クラス写真 (当時の制服は自由服)

7) 施設状況
 北大路学舎は1937(昭和12)年から翌年にかけて完成された鉄筋3階建てのものでしたが、戦後になっても改修はされないままに経過していました。そのため、窓の開閉も不具合なものが多くあり、教室の窓は割れても予算不足から入れ替えもままならない状況でした。
 トイレは1階だけにしか設けられていなかったため「2階以上の教室の生徒は、屋上で用便を済ます風習が新築当時から継続していると伝えられている」【注10】という報告もある状態でした。
 1951年の校舎図では、トイレは1階にしか示されておらず、この頃の女子生徒たちは男子と共用でトイレを使用しなければならない状況だったのです。後に2階以上に男女別のトイレが設置され、水洗化工事が完了したのは1963(昭和38)年のことでした。

8) 中高男子校と夜間共学校
 今まで述べてきたように、北大路学舎では夜間高校だけが男女共学を実施し、昼間の中学高校は男子校という変則的な学校として教育を進めてきました。男女共学を実施するためには、現存する校舎校地に限界があったわけですが、この点について、学園の末川博総長は、次のように述べています。
 

わが立命館高校では古くからの伝統もありまた施設の関係などもあって、男女共学とはなっていない。だが、男女共学には一長一短があって、立命館高校のあり方が必ずしもまちがっているとは考えられない。(後略)【写真5】

当時の末川総長自身は男女共学の実施には積極的でなかったことがわかります。

北大路学舎初の女子生徒6
【写真5】 「立命館タイムス 第108号」1968年5月14日

 立命館夜間高校は、経営事情から1952(昭和27)年4月に高等学校の授業課程を昼夜二部制の高等学校定時制に変更しました。それ以降の立命館高校定時制では女子生徒も増え、定時制の全国弁論大会で女子が優勝し、女子の生徒会長が誕生するなどの活躍があり、私学の定時制としては大きな発展を遂げたのでしたが、全国的な定時制生徒減少の波は厳しく、1968(昭和43)年3月、立命館高校定時制はついにその灯を消すことになったのでした。
 それから20年後の1988(昭和63)年、キャンパス大移転と男女共学を実現しました。現在では、女子の人数が半数を超える男女共学校として京都府長岡京市で教育を発展し続けていますが、女子生徒の開拓者ともなった夜間高校の大先輩たちの歴史をご紹介しました。

2023年4月26日 立命館 史資料センター調査研究員 西田俊博

【注1】<懐かしの立命館>立命館中学校・高等学校初の女子生徒たち~立命館神山中学校~https://www.ritsumei.ac.jp/archives/column/article.html/?id=282
【注2】立命館創立五十年史 p.786
【注3】立命館夜間高等学校設置認可申請書(昭和23年3月31日京都府知事提出)
設置の目的
【注4】京都新聞1948年6月3日付朝刊
【注5】京都新聞1949年4月22日付朝刊
【注6】京都新聞1949年4月28日付朝刊
【注7】京都新聞1950(昭和25)年4月7日付朝刊
【注8】京都新聞1950(昭和25)年5月28日付朝刊
【注9】京都新聞1951(昭和26)年2月5日付朝刊
         募集人員 第一学年 男女約300名
              第二、三、四学年 男女若干名
         願書受付締切  推薦 三月三十一日  一般 四月十七日
【注10】北大路高中校の現状と課題に関する資料(1955年発行)

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