立命館あの日あの時

「立命館あの日あの時」では、史資料の調査により新たに判明したことや、史資料センターの活動などをご紹介します。

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2023.04.11

立命館のモニュメントを巡る(第7回) 織田萬の寿像

織田萬先生の寿像1

 京都大学キャンパスに織田萬先生(以下、織田萬)の寿像があります。
この寿像は、「昭和12年に織田博士の古稀を祝しその功徳を伝えるため、京都帝国大学の門人等が大学構内に建立した」(注1)ものです。
 織田萬は、立命館大学とも極めて深い関係をもっていました。
 今回は、織田萬の寿像を通して「織田萬と立命館」について紹介します。

1.織田萬と立命館の関係の始まり
 そもそも織田萬と立命館の関係は、西園寺公望文部大臣に始まります。
 明治28年の秋、外国留学を考えていた織田萬は留学生に選定されたいと大森不入斗(いりやまず)の西園寺公望邸に本野一郎博士(注2)とともに訪問します。織田萬は設立を予定していた京都帝国大学の教官を希望しており、そのために外国留学が必要だったのです。
 西園寺は、織田萬の訪問の前に本野一郎博士の話から織田を留学させようとしていたといいます。(注3)
 織田萬は3年間のフランス・ドイツ留学を終え、明治32年に開設された京都帝国大学法科大学の教授となります。
 京都帝国大学が設立されたのは、明治30年ですが、その最初の書記官(初代事務局長)は中川小十郎でした。織田萬と中川は帝国大学の同期生でした。中川小十郎は、明治33年に立命館大学の前身である私立京都法政学校を創立しますが、織田萬はその当初から京都法政学校の教育や運営に携わりました。

2.織田萬の立命館での経歴
 織田萬は、講師となり講義をしました。夜間の校内生の講義は講述でしたが、明治35年からは校外生制度も始まり、校内生の講義を校外生用の講義録として作成し、『法学通論』と『行政法講義』を発行しています。
 大正2年の財団法人立命館設立にあたっては協議員となり、また翌年4月から昭和2年8月まで教頭、昭和6年7月から昭和20年5月に逝去するまで名誉総長、昭和11年3月から昭和15年4月までは学長事務取扱となっています。織田萬は佐々木惣一学長の辞任に伴い学長事務取扱となったのですが、学長とならなかったのは、住所が東京にあって、大学の所在地に住所がなかったためとなっています。また学長事務取扱の辞任は、田中昌太郎が学長に就任したことによるものです。
 このように織田萬は、終生立命館で教学を担いまた役職を続けました。学園の経営の責任者は中川小十郎でしたが、織田萬は学園の教学の運営に関して最も力を尽くしたと言えると思います。

3.織田萬の国内外の経歴
 織田萬は、慶応4(1868)年、佐賀県生まれ。明治25年に帝国大学を卒業し、大学院で行政法を専攻しました。そしてフランス・ドイツに留学し帰国。明治32年9月、京都帝国大学法科大学の設置とともに教授となり、行政法講座を担当しました。明治34年1月から明治40年5月まで法科大学長に就任します。
 関西大学(関西法律学校)では、明治33年に講師となり、41年に教頭、大正6年から11年まで学長を務め、以後顧問となっています。
 大正10年には常設国際司法裁判所裁判官に当選、昭和5年までハーグに赴任しました。昭和6年、帰国後京都帝国大学を退官しています。そして貴族院議員に勅選され、終身在任しました。昭和20年5月東京大空襲により戦没しています。

4.織田萬の立命館に対する思い
 織田萬は、著書『法と人』の「嗚呼陶庵公」で次のように語っています。(注4)
 「公の人生観、信条は「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」であった。その公の人生観の表象である立命館は、中川小十郎と私ども二三の僚友と語り合って京都法政学校を創りさらに立命館の名称を継承することを許された。私は微力ながら学校(立命館)の学事上の施設にたづさわり……公の精神を生かしていくのが学園の今後の仕事であると、(中川君と)互いに激励し老後の余力を傾注してこれに当たりたいと思っている。これが公の恩顧に酬ゆる唯一の道であろう」
 また織田萬は、学報(新聞)「立命館」の記事「學生諸君に與ふ」のなかで「立命の文字の典拠は公爵の文中にも見る如く、孟子の中の一節に「殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也」とあるのがそれであって、誠に千古不磨の金言であります。……要するに各自がその持って生まれた才能のありたけを磨き上げ、自分の人格を完成することを得れば、それで一個の人間としての務は果たされるのであって、成敗利鈍は顧みるところでないと云ふことであります。」と訴えています。(注5)

(注1) 吉岡達太郎著『須古村片影』1980年
 須古村は織田萬の出身地。現在の佐賀県杵島郡白石町(1955年に編入)
(注2) 本野一郎は西園寺公望が外務大臣を兼任した時の秘書官で、明治・大正期の外交官・政治家。立命館日満高等工科学校などで校長を務めた本野亨の兄。
(注3) 織田萬『法と人』所収「嗚呼陶庵公」 春秋社松柏館 昭和18年
(注4) (注3)に同じ
(注5) 学報(新聞)「立命館」昭和14年7月10日
 なお、「殀壽不貳……」の一文はいくつかの読みと解釈がありますが、ここでは織田萬の考えを紹介しました。
  
【参考資料】
   『立命館法学』第262号「織田萬年譜・著作目録」1998年
   『立命館百年史』通史一 1999年
   『京都帝国大学史』昭和18年
   『関西大学百年史』人物偏 昭和61年

2023年4月11日 立命館 史資料センター 調査研究員 久保田謙次

2023.03.23

<学園史資料から>『末川博随想全集』宣伝パンフレット

末川博随想全集パンフレット1

 1970年代に本学に在学されていた校友の方から、『末川博随想全集』の宣伝パンフレットをいただきました。

 表紙には「末川博随想全集 全九巻」「内容見本」「予約募集」とあり、B5判、巻頭1頁、内容11頁、巻末2頁からなる小冊子で、ハガキ大の「予約申込書」が綴り込まれており、『栗田出版会 刊行物ご案内 1972』というA5判4頁のパンフレットが挟み込まれていました。

 内容を拝見すると、当時の知識人による「推薦のことば」が14篇掲載されており、ほかに内容見本など出版物の内容を紹介する記事が掲載されています。

 ところで、文学部のある大学の図書館などでは「同時代評を探している」という相談を受けることがあります。「同時代評」とは、その文学作品の著者と同じ時代背景を共有している人による、その著者や著作の評価です。「同時代評」は、その著者や著作の時代性や進取性を読み取ったり、あるいはその時代そのものを再評価したりといったことに通じる資料です。この宣伝パンフレットはまさに末川博の同時代評ですので、それぞれ短文とはいえ、1970年代初めという時代の中での末川博を研究して行くうえでも、あるいは1970年代初めという時代を研究するうえでも、一級の資料ということがいえます。

 末川博は本学の名誉総長で、『末川博随想全集』は末川博の学問的論文以外の随想を整理、集大成したものです。弊所のほか、本学図書館や国立国会図書館にも所蔵されており、末川博を研究する際の必読書といっても過言ではない資料となっています。しかし、今回いただいた宣伝パンフレットについては、これらの図書館の所蔵図書目録データベースには見当たらず、入手困難な資料であることは間違いありません。

 たいへん貴重な資料をご提供いただき、誠にありがとうございました。

2023年3月23日 山田和幸



『末川博随想全集 全九巻 内容見本』目次

著者の言葉末川博巻頭
推薦のことば
 日本近現代史についての貴重な証言家永三郎1
 ほんとうのジャーナリスト大内兵衛1
 時代のちがいをこえた共通遺産久野収2
 温容の大儒桑原武夫2
 真実を求めてやまぬ人白石凡3
 大衆への影響力住谷悦治3
 一人の自由主義者の軌跡奈良本辰也4
 末川博随想全集野間宏4
 考える人間の心の糧藤田信勝5
 リベラルな末川先生細野武男5
 末川博先生松田道雄6
 七〇年代への指針安田武6
 学問、思想、行動が渾然と統一吉野源三郎7
 末川君の随想全集を若い学徒の伴侶に奨める我妻栄7
全九巻内容8
末川博略年表11
組方見本巻末
刊行者のことば    株式会社栗田出版会 社長 栗田確也巻末

2023.03.16

<学園史資料から> 揮毫「世界元来大 山川終不老」が意味するところ

末川博「世界元来大~」1

 2022年8月22日の史資料センターホームページの記事「<懐かしの立命館>寄贈された末川名誉総長の扁額」で、本学の名誉総長である末川博が総長だったときに揮毫し、本学自動車部にフォード社製の自動車を贈ってくださった大鳥居満也氏に、その御礼として贈られた横額が、大鳥居氏のご親族から本学に寄贈されたことについてご紹介いたしました。貴重な横額を寄贈いただいた経緯については、前記事でご紹介しておりますが、本稿では、揮毫された「世界元来大山川終不老」が意味するところについてご紹介します。

 結論から申し上げますと、はっきりとは分かりませんでした。

 末川の残した文章の中で、「世界元来大山川終不老」が意味するところにもっとも近いと思われる文章は以下のものです(※1)。

 私は、この京都の秋が好きである。澄みきった空をあおいで、「世界は元来大なり」と思い、「山川ついに老いず」と口ずさんで心なごむのも、この京都の秋である。若いころに読んだ「空ゆく雲をながめよ、千変万化、地上のいかなる景観にもまさる」という意味の英詩を思い出しながら、空をながめるのが、私の日課のようになっている。

 英詩の出典については不明ですが、太古の昔から変わらない、雄大でかつ清澄な景色を称える気持ちを込めているのではないかと思われます。

 また、インターネット上に、本学ワンダーフォーゲル会の1981年の機関誌と思われる「漂雲」という冊子がアップされており(※2)、その巻頭に、末川の言葉として、

雲のさすらいに.あてどはないけれど.山にも川にも. 道があるように.
われらのさすらいには. 遠くてとうとい道がある.
山川終不老世界元来大

と記述されています。こちらも雄大な景色を称えているようですが、その雄大な自然の中を力強く歩む人間の尊さも感じさせます。

 最初に引用した文章で、「世界は元来大なり」「山川ついに老いず」と読み下している通り、この十文字の文章は、意味としては「世界元来大」と「山川終不老」の間で切れます。そして、どうやら前段と後段はまったく出典が異なるようです。

 さて、横額を寄贈いただく際に寄贈者からお聞きしたところでは、これが贈られたのは1956年以降だろうということでした。その後、1962年に末川によって書かれた次の文章が残されています(※3)

 物好きな知人や友人から何か一筆書いてくれと頼まれると、ことわることもなく、下手な字を書くことが多い。…こうなると、いつも同じ文句ばかり書いているのも気が引けるし、また自分でも面白くないので、何を書こうかと迷うことがしばしばである。学校を卒業していく学生たちへは若い諸君向けの処世訓めいたものを書いたり、結婚した新家庭へは未来をきずく教訓めいた文句を列べたものを贈ったりしているのだが、頼まれる人の筋によってはそうはいかぬことがある。

 他人のものを拝借するとなると、古今を通じ和漢にわたり、無尽蔵といってよいほどの宝の山がある。…私の知識と教養が貧弱であり、それに字を書く場合の事情に制約されたりこちらの気分に左右されたりして、おのずからそこには大きな限界がある。そういう限界のなかで私が利用させてもらっているのは、だいたい中国の詩人のものであるが、そのなかでも古いところでは陸放翁の詩が多く、新しいところでは魯迅の語が多い。

 放翁の詩に心をひかれたのは、河上肇の遺著『陸放翁鑑賞』を見てからのことである。

 「桃園憶故人」という詩のなかで「残年我に還る従来の我」とうたっている通りに、私が詩歌を解する素質と詩歌を語る資格のないことは、従来の我であって、強弩の始も末もないけれども、私自身は自ら力めてきた積りだからである。しかも、同じ詩中の「世界元来大」という字句は、まことに爽快雄渾で、私は、好んでこれを書いている。

 揮毫の経緯を推量するような資料は何も残っていませんが、引用したこの文章から察するに、あまり自ら進んで揮毫するようなことはなかったのではないかと思われます。自動車部に高級車を贈っていただいた大鳥居氏に何か御礼をしたいと末川が申し出て、「いえいえ御礼なんて結構ですよ」と言う大鳥居氏に、「いえいえ何か心ばかりのものだけでも」と末川が押し、「それなら先生のお好きな言葉を一筆書いていただければ、大切にいたしますよ」と大鳥居氏が答えるというようなやりとりを、末川の残したこの文章から想像するのも一興かもしれません。

 末川が先の文章で言及している河上肇の『陸放翁鑑賞』は、本学図書館の末川文庫に所蔵されていて、利用者が閲覧できるようになっています(※4)。読んでみますと確かに、

桃園憶故人

一弾指頃浮生過  一弾(いちだん)指頃(しけい)に浮生過ぐ。
堕甑元知當破    甑(そう)を堕さば元と當に破るべきを知る。
去去酔吟高臥    去々酔吟高臥。
独唱何須和     独唱何ぞ須ゐむ。
残年還我従来我  残年我に還る従来の我
萬里江湖煙舸    萬里江湖の煙舸(えんか)
脱盡利名韁鏁    脱っし盡(つく)す利名の韁鏁(きやうさ)
世界元来大     世界元来大

一弾指頃:一瞬間と云ふに同じ。
堕甑:甑は土やきの槽。昔し後漢の孟敏、甑を荷して地に堕し、顧みずして去りし時、人その意を問へば、甑既に破る之を視て何の益かあらむ、と答へし故事に本づき、この一句あり。
去々は、去れ去れ、速に去れ、といふ意味。
韁鏁はきづな、束縛。

と記されています。目先の利益に捕らわれがちな人の世の小ささと、そこから離れたところにある「爽快雄渾(※5)」な世界を対比しているように思えます。本学で中国文学を専門にする研究者に照会したところ、これは詩ではなく、唐宋以後に行われた詞という歌謡文芸の作品なのだそうです。

 これで前段は出典がわかったのですが、後段の「山川終不老」は『陸放翁鑑賞』には見当たりません。ただ、衣笠キャンパスの末川記念会館にある末川の座像に「青山白雲深 一湲身廻曲 心事連広宇 山川終不老」と刻まれており、これも末川が好んだ言葉であることが分かります。

 これについても研究者に照会したところ、座像の四句は押韻されておらず一首の詩ではないとのこと。すべての出典を明らかにはできないものの、「山川終不老」を始めそれぞれ古今の詩人が詠んだものからお気に入りの句を列べたものでしょう、とのことでした(※6)。

 末川がどうしてこの言葉を選んで揮毫したのかについて、確実なことはやはり分かりませんが、本学の学生のために高価な私財を投じていただいた寛大なお気持ちに対して、これを雄大で清澄な自然になぞらえることで、感謝と称賛の気持を表したのではないかと考えられます。

2023年3月16日 立命館 史資料センターオフィス 山田和幸

※1 『末川博随想全集 第八巻 京洛閑話』(栗田出版会, 1972年2月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.491~「京の四季:京都の空と瓦と土」より引用。初出は、1969年9月27日『京都新聞』

※2 http://ruwv-ob.cute.coocan.jp/index.files/user_img/kumo1981.pdf 2023.2.27アクセス

※3 『末川博随想全集 第七巻 若い諸君へ』(栗田出版会, 1972年5月. 立命館大学図書館 所蔵, 立命館史資料センター 所蔵)p.32~「放翁の詩と私」より引用。初出は、1962年7月『中国詩人選集』二集「陸游」付録

※4 河上肇 著. 『陸放翁鑑賞』(三一書房, 1949年. 上下巻. 立命館大学図書館 所蔵)

※5 雄渾 : 雄大で勢いのよいこと。書画の筆勢や詩文などが力強くよどみのないこと。また、そのさま。

"ゆう‐こん【雄渾】", 日本国語大辞典, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2023-03-01)

※6 「青山白雲深」は元の李繼本『一山文集』卷一「松下鼓琴圖」詩の末に「我欲往聽之、青山白雲深」とあること、「山川終不老」については、最近の臺灣の詩人がこれをつかっていることが、ネットにみられることなどを教示いただいた。

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