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2017年度 立命館西園寺塾 12月16日講義「近代日本とアジア」を実施

2017年12月16日(土)
 ・13:00~15:25 講義1
          講師:東京工業大学リベラルアーツ研究教育院 教授
                     中島 岳志
 ・15:35~16:30 講義2
 ・16:30~17:00 質疑応答


【指定文献】
 『アジア主義 ―西郷隆盛から石原莞爾へ』 中島岳志【著】 潮出版社

 

▼受講した塾生のレポート(S.K.さん)▼
 本講義を経て、思想や哲学との向き合い方とは、「心の在り方」として観念的に受け入れるものだけではなく、実務・実践においても有効だと気付いた。
 世にある「理念」と呼ばれるものを、「統制的」「構成的」に分けて考えると、これらへの向き合い方が明確になる。統制的理念とは、儀礼で「かのようにふるまう」という際の「か」であり、実在・実現しえないが、目指すべき高みである。構成的理念とは、「ふるまい」であり、一定の形やルールに当てはめたものである。
 西田幾多郎(多と一の絶対矛盾的自己同一)、ヴィヴェーカーナンダ(アドヴァイタ・不二一元)、岡倉天心(アジアは一つ)、ガンジー(山の頂は一つ、到達方法は複数)は皆同じことを述べている。このようにアジアで広く通底する普遍的な理念である点で「アジア」主義と銘打たれてはいるが、本質的には東洋も西洋も超越している。
 一方、講義前に感じた「アジアという表現に潜む偏り」は、ある面で的を射ていた。今でも西洋思想の中核は合理主義である。現実と夢を考えるにあたり、井筒俊彦は「自分と蝶、いずれが他方の夢を見ているかの区別に意味がない」と統制的に受け入れたのに対し、デカルトは(自身は気付いていたかも知れないが)「我思う」という主観を拠り所にした。
 主観を拠り所にすると相対主義に陥る。その延長上で「相手を認め」ても、「相手とは違う」との前提は揺るがない(=「矛盾」の認識にとどまる)。この場合、世の中の多様性が拡がるほど、孤立的・分離的になり、終末的で利己的な考えに至る。この考えが真実かどうかの論理的な解法はないが、こういった心の在り方では幸せになれないように思う。
 自らの考えや理念を整理する際、哲学や観念など(内面)と、学問・事業・社会像などの表現(外面)との境界線の引き方、その表現を通じた意思疎通相手との認識の合わせ方に難しさがあったように感じていたが、統制的な側面と構成的な側面を明確にすることで、整理が進めやすくなるように感じた。

 

▼受講した塾生のレポート(K.H.さん)▼
 近代における日本とアジアの関係性を問う内容についての講義だったが、導入部分のEUのあり方、そこから導き出せる連邦国家、もしくは隣国との連携における必要性など、大変わかりやすく、興味深いものだった。確かにヨーロッパとアジアは、大陸続きであるか、海を隔てた島国であるかの違いや宗教における価値観の違いもある。それでもEUが「中途半端な安定」を生み出せたことは、アジアにおける連携に大いに参考になるだろう。ヨーロッパのように「キリスト教」といった大陸で共有されている宗教があることが、「同胞」としての連携を生み出していることに繋がっていることは紛れもない事実であろう。しかし、この宗教といった核となる存在を持たないアジアは、だから連携できないのかというと、それだけでなく、歴史といったものも大きく影響している。それは明治維新後の「強国日本」による侵略行為などが過去の遺産として、根深い溝を生み出してしまったことも影響している。この150年間に起きた史実の中で、国学から受け継がれた「一君万民」という発想が明治維新へとつながり、アジア主義に発展し、それが帝国主義的な捉え方となったことで生まれた悲劇の歴史だったとも言える。
 今回のテーマである「アジアとしての思想の共有によるアジア主義」といった中島岳志先生の講義の主旨は理解も納得もできるものであったが、一方で西洋への対抗心から生まれたアジア主義という発想は、どこか西洋へのコンプレックスにも感じられ、東洋で生まれた思想や哲学の優位性を誇張するがために、西洋的発想と対比することがむしろ腑に落ちなかった。我々日本人はアメリカの受け入れと共に欧米化してきた生活環境で育ち、アジアが希薄化した時代を過ごしてきた。そういった環境において、どのようにアジアを意識し、どのようにアジアにおける連携を図ればよいのか。特に中国・韓国・北朝鮮といった東アジア地域における連携は、一筋縄ではいかない根深い問題が山積していて、これを乗り越えるだけの思想的一体感を生み出すことは至難の業ではないだろうか。
 それでも未来に向けて地域としての「アジア」が手を結べるようになるためには、各国の歩み寄りでしか実現はできない。それは「アジア」としての全体最適とはなにかを定義づけること、それによる意義を明確にするリーダーシップを誰が発揮するのか、それだけでもおそらく簡単には決まらないであろう。その先にあるアジアとしての未来には大いに期待できるのだろうと思いつつも、思想の一体感を醸成するのは厳しい…というのが、今回の講義における正直な感想である。

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