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2017年度 立命館西園寺塾 6月10日講義「BIG HISTORYのなかの資本主義」を実施

2017年6月10日(土)
 ・13:00~14:30 講義
          講師:立命館大学国際関係学部 教授
                     山下 範久
 ・14:45~17:00 ディスカッション

【指定文献】
  『21世紀の貨幣論』フェリックス・マーティン【著】東洋経済新報社
  『サピエンス全史 上・下―文明の構造と人類の幸福』
             ユヴァル・ノア・ハラリ【著】河出書房新社

▼受講した塾生のレポート(M.U.さん)▼
 今回の講義のテーマは、マネーの膨張や科学技術の急速な発達に対して、今、我々が感じている違和感は近代化を進めた結果生じている現代の問題でなく、認知革命以降の人類が歩んできた歴史に内在している問題であり、これらマネーの膨張や科学技術の進化にみられる無限性に対して自分はどう向き合っていくべきかということであった。
 我々が感じている違和感は、人類が過去に経験した認知革命・農業革命・科学革命に匹敵する大きな転換期にきている兆しであると考える。
マネーの膨張でいえば、信用創造等により実際の預金の何倍ものマネーが市場で取引され、膨らんだ市場は急速に収縮する。2008年の金融危機を例にとれば、経済のグローバル化とあいまって、その影響範囲は一国に収まらず、大きな財政負担を強いられた国もあるほどのインパクトを与えた。今後も同様の危機が発生するリスクを内在しており、何度も発生すれば、いくつかの国が破たんするだろうと推測される。
 科学技術でいうと、核技術の保有国の裾野が広がってきている。また遺伝子の解明により新たな生物の創造や飛躍的に進む医療技術と機械の融合によるサイボーグ化、そして人間の活動範囲は地球に留まらず宇宙までおよび、軍事利用される可能性もある。AIの急速な発達は生活を便利にし、人類を労働から解放する可能性がある一方、これまで直面したことのない大規模な失業を生む可能性もある。
 違和感の正体とは何か、それは生物工学の進化により人類が人類でなくなる可能性、そしてマネーの膨張や科学技術の進化により、一国ではなく、人類自体が自ら破滅する可能性が、これまでの人類全史上一番身近かつ簡単になっていることから生じているのではないだろうか。
 サピエンス全史は最後に、「私たちは何になりたいか」ではなく、「私たちは何を望みたいか」というのが真の疑問ではないかと問いかけている。講義で欲求と欲望は区別されており、欲望とは他人に認めて欲しいという承認欲求であり、非常に近代的な考え方ではあるが、現代においてその欲望が非常に低下しているという話があった。欲望・目的のない社会では進化はますますスピードがあがり、コントロールがきかなくなるという。それは日本が目的のないまま戦争の道を歩んでいった過程にも似ていると感じた。しかし、昭和初期と違い、現代ではその影響は最早一国に留まらない。
 認知革命以降、人類が手に入れ、進化の原動力となった「虚構を生み出す力」は無限性を伴っていたが、そのまま無限性をもとめるのか、ここで踏みとどまるのか、人類史上の分岐点にきているのかもしれない。無限性を止める制度として、21世紀の貨幣論ではナローバンクと自己責任を示唆している。イスラム金融もひとつのヒントになるだろう。そして科学技術の進化という点で企業人である我々が取り組むべき課題は、この世界を変える技術ではなく、環境や食糧問題といったこの世界を今の姿に留める技術ではないだろうか。


▼受講した塾生のレポート(T.K.さん)▼
 今回の講義では、課題図書のテーマを追いながら、「ヒト」とは何であるか「ヒト」が⾃ら⽣み出した技術により「ヒト」を超えることが出来てしまう時代に「ヒト」に留まる意味は何かなど、⾮常に⾼度な哲学的考察を⾏うことになった。
 チンパンジーとヒトの差異は、⽣化学的(ゲノム配列)にはほぼ同⼀ですが、進化論的に「結果的に」得た「虚構」を信じる特性によって、DNA に規定された⾏動を超え、「宗教(科学)」「帝国」「貨幣(資本主義)」を作り上げ、現在のヒトの覇権につながっている。そして遂にはそのゲノムや脳内ホルモンなどをもコントロールするテクノロジーを⼿に⼊れてしまったことは、ヒトは重すぎるテーマを抱えてしまった気がする。
 「⼈間は⼈⼯物を利⽤することで情報処理をオフロードすることが得意」であり、いろいろなツールを作り出し、そのモジュールを脳内に「インストール」して利⽤できるが、これはヒトが最初からサイボーグ化を進めているのではないか、という論も⾮常に興味深く感じた。実際、既に私の記憶構造は、PC のツリー状のファイル形式で作り上げられ、その記憶の実体としても外部のPC やクラウドに外在化されているので、⽬の前にある現実的な話として拝聴した。
 技術的に不⽼不死や成りたい存在(亜⽣物含む)などの「ポストヒューマン」になれる時代に、それをどう受け⼊れていくか、もしくは否定するかという議論にもなった。この議論⾃体も楽しいものでしたが、個⼈的には、「ヒューマン」と「ポストヒューマン」が併存する世界が現実化することに興味がある。通常の進化はDNA の変質によって⾏われるので、⾮常にゆっくりと世代交代が進むはずですが、「ポストヒューマン」の発⽣は、既に確⽴されつつある「技術」と、虚構が⽣じさせている「宗教(神に近づくことを許すか否か)」「資本主義(それを施すだけの費⽤が払えるか)」に依存するだけであり、ある世代内で起こり得ると思っている。その世界にはどうしても「格差」は⽣じるであろうし、最悪の場合、ホモ・サピエンスがネアンデルタールなど、他の⼈類を虐殺した歴史をなぞってしまうのではないか、そんなことも考えた。
 上記、⽣命科学が現実化することは、不⽼不死や若返り、美味しいものを、病気になること無く⾷べ放題など、これまで⼈類が宗教的な枠組みでの「天国」に⾏けば享受できると思っていたものだったような気がする。今、現世で「天国」⽣活が出来るとなったのに、これはこれで悩み始めるというのは、やはり「宗教」という虚構がそうさせるのであろうか。

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