立命館大学人文科学研究所は、グローバリズムが、政治や経済、文化や社会の諸領域に生み出している諸問題を理論的に解明し続けています。

立命館大学人文科学研究所

人文科学研究所について

トップ > プロジェクト研究2008年度 > 近代日本思想史 > 第3回

2008年度研究会報告

第3回(2008.9.19)【夏季集中研究会】

テーマ 「占領期における『4-H Club』の成立」
報告者 キム ヨンミン(国際関係研究科DC1)
報告の要旨

占領期、日本の農業と農村における諸問題-生活改善と農業技術向上-を解決するために導入された「アメリカの経験」としての「4Hクラブ」は、農林省の行政指導を主軸とし、GHQ地方軍政部の独自の活動、民間からの啓蒙活動が相まって急成長する。1948年から1952年の間、約2万4000ものの4Hクラブが誕生したのである。

独自のキリスト教信仰を活動の基盤とし、海外への移民と教育事業を展開していた日本力行会は占領期に4Hクラブの普及事業に積極的に乗り出した。それには、日本力行会の設立者である島貫兵太夫の時代に築きあげた、戦前の人的・知的資源が大きな役割を果たす。また、日本力行会の第2代会長であった永田稠はアメリカを「キリスト教の国」とみなし、アメリカの4Hクラブ活動を「宗教活動」として認識し、戦後日本の復興の為に4Hクラブを導入しようとしたのである。日本力行会は講習会の開催、「4HCリーダー養成所」の設立、そして、「社団法人日本4Hクラブ」の設立を通じて体系的に4Hクラブ普及事業を展開した。そして、そのかたわら、出版活動を通じても4Hクラブを日本に紹介したのである。

永田稠は「新生日本」のためには、「宗教の力」と「民主主義」が必要だと考えた。この二つの要素は、「われわれ-日本-」にないものであり、「かれら-米国-」にはあるものだと考えられたのである。そして、「4Hクラブ」の活動を「宗教」と「民主主義」の実現手段として考えたのである。永田稠にとっては、「キリスト教」と「民主主義」こそが4Hクラブを日本に導入すべき本当の理由であったのである。日本の「過去」に欠如したものを「アメリカ」に求め、それを通じて「新生日本」の「未来」を描いたのである。これが永田稠の「アメリカニズム」であり、その理想の実現手段として4Hクラブを選択したのである。このように、彼は4Hクラブ活動こそ、「民主主義の権化」であり、「キリスト教」の実践だと信じ、4Hクラブの普及事業を展開したのである。

キム ヨンミン

テーマ 占領期の新聞にみる憲法論(1)-帝国憲法見直しを巡る議論―
報告者 梶居 佳広(非常勤講師)
報告の要旨

日本国憲法制定に際して日本の新聞(特に地方紙)がいかなる議論を展開していたかについて、数年来論説を中心とした資料集編集に取り組んできた。本報告は資料集編集の成果に拠りつつ、改めて日本の新聞(全国紙、地方紙)における憲法論議について、今回は1946年3月の憲法草案要綱発表までを検討した。

大日本帝国憲法を見直し・改正する議論が表面化したのは1945年10月であったが、全国紙(『朝日』『毎日』など)は、当初美濃部達吉や宮澤俊義の寄稿を掲載するなど改正慎重の立場を取った。これに対し、同盟通信(11月以降共同通信)は、全面的改定を主張する鈴木安蔵の寄稿や論説資料を加盟地方紙に配信している(なお鈴木は配信を中心にその後もしばしば持論を新聞に掲載している)。ただし多くの地方紙はこれらの配信記事を載せてはいるが、さらに積極的に憲法(というか天皇制)論議を展開する新聞は少数であった。

1945年年末以降、各種憲法草案(特に憲法研究会)の発表とこれに対する日本政府側の現状維持的姿勢への批判から全国紙・地方紙とも憲法問題を議論に取り上げるところがでてきた。そして『東京』『京都』は憲法研究会の案を評価し、『毎日』『北國毎日』なども「天皇は元首」としつつも政治的権力を否定する立場をとった。さらに『読売』は第1次争議の影響からさらに急進的な方向での改正を主張している(一部地方紙寄稿では「明治憲法改正」でなく「新憲法制定」との認識もみられた)。一方、『北海道』は改正不要論を主張し、『中部日本』『新潟』も時期尚早、ないし急進的改正には異議を唱えていた(ただし『北海道』は2月末の争議の結果、180度態度を変える)。

『朝日』や多くの地方紙のように、憲法問題に対する自社の見解を示さない新聞も数多く(『朝日』憲法関連記事は多い)、その意味でこの時期の憲法論議は低調なものであった点は否定できない。これは憲法問題が天皇制問題と絡んで議論しにくいテーマであったことが背景にあったからだといえる。不敬罪の残存や占領軍(GHQ)の方針が未確定であったことも各社の筆を鈍らせたように思われる。従って、3月の憲法草案要綱発表以降、各新聞にとって占領軍の方針・路線が明確になったこともあって、一斉に論説で憲法問題を論議するようになったといえよう。その際注目すべきは、今回検討した各社の論説をみる限り、「君臨すれども統治しない」形での天皇制維持や議会の権限拡充を(間接的な言い回しにせよ)支持する新聞が多数であったことである。この点、草案要綱での「象徴天皇制」という表現は、各新聞社にとって「予想外」「驚天動地」であったかもしれないが、それまでの論説・社論から考えると、比較的容易に受容できたように考えられる。

梶居 佳広

テーマ 「創立期官営八幡製鐵所の職員層について」
報告者 長島 修(経営学部教授)
報告の要旨

製鐵所の職員は、中央集権国家の官僚機構の中に位置づけられていて、厳格な複線的階層秩序が形成されていた。技術系等と事務系等に分かれており、複線的な系統を構成し、その中身も相違していたのである。職員(官吏)という範疇でみると、雇は判任官ではなかったが、その中身は非常に高度な現場知識をもち、判任官(技術および事務系統)への予備軍であり、一方では、低い給与のおそらくは判任官への上昇は考えられない日給の雇いがあった。雇いは、官制による定員制のバッファーとしての機能と現場のさまざまな技術を蓄積した下級職員としての性格をもったのである。国家資本であるが故の定員制の矛盾は雇いによって柔軟に調整されえたのである。また、学歴主義の矛盾(学歴と現場技術の乖離)は、雇いによって、緩和されていた。採用基準に見られるように、確かに学歴は職位を決定する重要な要因であったが、民間会社や官庁を渡り歩いて、一定の現場技術を身につけた職員(とりわけ技術者)の重要性を看過すべきではない。 

技術系等の職員である技師高等官は帝国大学出身者および高等工業学校出身者によってしめらており、そうでない場合は、特殊な優秀な技術をもっている場合においても技手とされた。判任官である技手は、技師へのステップとしての帝国大学および高等工業学校出身者と技能を磨いて入ってくる工手学校出身者によって占められていた。しかし、技手から技師への道は、帝国大学出身者と高等工業学校の出身者にほとんど、限られていた。技手もまた二つの層に事実上分かれていた。技術雇いになると工手学校出身者で産業革命期近代的民間企業(鉄道、鉱山、紡績)、釜石田中製鐵所で一定の現場での技能・技術をもった下級技術者が製鐵所に大量に集積されたのである。そのことが、外国からの技術(設備の一括)導入にもかかわらず、早期に技術確立を促し、自立した操業を可能にしたのである。

職員は、取締り=監視と管理監督(業務遂行)という二つの役割をもっていた。所謂、雇および判任官以上の職員と区別され、日常的に職工と対峙し、現場作業にコミットしてきたのが、下級補助職員であった。

守衛は、取締り的側面を代表する職位であり、助手、筆工、図工などは技師の業務補助的側面を代表するものであった。製鐵所では、前者を取締掛員、後者を現場掛員と位置づけてきた。取締掛員は、空間的、時間的に区切られた場所で、職工の動静を観察し、職工の反抗を押さえ規律を強制する役割を担った。課業の標準化がなされておらず、生産も安定しない段階では、職工の管理は困難をきわめたのである。しかも、職工の作業に対する充分なインセティブが働かないような体制であれば、それだけ彼らを一元的に工場の中で、抑圧するシステムを築いておかなければならなかった。守衛は、取締りの最前線にあり、守衛長はとりわけ、取締りの要の位置にあった。こうした守衛を前面にたてた監視体制は、次第に後退していったと予測される。それは、懇談会による意思疎通のシステムが作られることによって、次第に後景に退いていったものと思われる。

現場掛員は、業務遂行の最前線で作業(生産現場及び事務)補助として配置されていた。彼ら、現場掛員は、直接職工を指揮するわけではなく、職工の指揮監督、作業に実際の影響力を持っているのは、工手―組長―伍長などであった 。しかし、現場掛員は、メインテナンス業務や業務記録の作成など、常に現場と接触している職務であった。職員として、技術雇、事務雇などとともに末端でコミットしていたのが彼らであった。

守衛長など一部を除けば、賃金は職工以下の賃金に甘んじているものが多く、劣悪な条件に置かれていた。しかし、彼らは、精勤であり、能力が認められれば、雇への道が開かれていて、そこに一縷の望みを描くことができたのではないか。しかも、彼らはある場合には、職員に入れられ、またある場合には職員とはみなされないという、きわめて曖昧な身分でもあった。そして、身分の低さと曖昧さは、職工に対する横柄と厳格さという態度となって現れたりした。

こうした取締り=監視という側面は、労働者の工場規律への強制のためには、初期においては厳しく展開された。

長島 修

<<一覧に戻る

所在地・お問い合わせ

〒603-8577
京都市北区等持院北町56-1
TEL 075-465-8225(直通)
MAIL jinbun@st.ritsumei.ac.jp

お問い合わせ

Copyright © Ritsumeikan univ. All rights reserved.