2026.03.04

なぜ人々は戦争に熱狂し、そして忘れたのか? ——詩から探る戦争と社会の記憶

なぜ人々は戦争に熱狂し、そして忘れたのか? ——詩から探る戦争と社会の記憶

『「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史』
立命館大学 文学部の小関素明教授が、新著『「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史』(人文書院)を刊行されました。本書は、公益財団法人 髙梨学術奨励基金「2025(令和7)年度 刊行助成」を受けて刊行されたものです。

新著の写真

本書では、戦時下の詩人たちがどのように戦争を語り、敗戦後には社会の戦争への意識や向き合い方がどのように移り変わったのかを、詩作・詩論を手がかりに読み解いています。

■ 研究の背景と目的
「大東亜戦争」は、国家の呼びかけだけでなく、多くの国民が自発的に支持し、熱狂が広がった戦争でもありました。しかし、敗戦後にはその熱狂が急速に人々の記憶から薄れ、戦争に自分たちがどう関わっていたのかを振り返る意識も弱まっていきました。こうした現象を理解するため、小関教授は戦時・戦後の詩人たちの表現に着目し、「なぜ戦争は美化され、なぜ戦後には戦争が忘却されていくのか」という問いに文学表現から迫ります。

■ 本書で明らかにされること
本書では、戦時下の詩人たちが“天皇の意志”と重ねるように戦争を美化し、社会の高揚を後押ししていた様子や、敗戦後にはその熱気が急速にさめて、戦争への向き合い方を振り返る意識が薄れていった経緯を描いています。また、そうした変化に違和感を抱いた一部の詩人が、既存の言葉では捉えきれない社会のゆがみに向き合い、新しい表現を模索していた点にも触れています。こうした動きから、当時の人々が戦争をどのように受け止めていたのかを読み解く手がかりが得られます。

■小関素明教授からのコメント
 多くの国民や表現者たちがなぜ戦争に呑まれていったのかは、わかっているようでよく分かっていない。私はこれまで天皇制を重要な構成要素とする近代日本の公権力の構造と特性の研究に取り組んできたが、最終的にはこの問題と切り結んだ研究をしたいと思っていた。戦争に熱狂した人々は、革命によって国家を否定するのとは逆に、国家に同化し、戦争に賭けたといえる。その熱量は何に由来するのか。

 また敗戦後は多くの国民たちは、かつての熱狂が無かったかのごとく「日常」に帰っていった。こうした現状を目の当たりにして誰も違和感を抱かなかったのか。

 こうしたことの散文を題材に明らかにするには限界があるように思えた。それにかわるものとして詩のなかに込められた詩意を手明かりに、それを読み解こくことを試みたのが本書である。詩や詩論といった自分にとって馴染みの薄かった対象を扱ったこともあり、どこまでこれらの難問を解き明かすことができているか不安でもあるが、とりあえず、現時点での私の解答が本書である。本書を書き終えて、あらためて天皇制の巧妙な作用、教条主義的な平和主義の危険性、そして人間にとっての言葉の可能性と限界を再認識せずにはいられなかった。

 戦争のなかには、近代日本のすべてが集約されている。それは紋切り型の断罪ですますことはできない。言葉では捉えようのない、人間精神の彼岸と此岸にまたがる広大で深淵な世界を、少しずつ言葉に回収していく終わりのない作業の醍醐味と緊迫感を読者に伝えることができれば、私にとって望外の喜びである。

関連情報
「大東亜戦争」幻想化と「戦争責任」の精神史 - 株式会社 人文書院
研究者学術情報データベース
髙梨学術奨励基金