コラム

Column

震災とコミュニティ

神山まるごと高専 准教授 佐野淳也

1995年の阪神淡路大震災。2011年の東日本大震災。この2つの大災害において、僕はそれぞれ1年間ずつ、現地で復興支援に関わる活動に従事した。1995年は、大学を出たばかりの24歳のとき、2011年はキャリアの踊り場である40歳の時だ。

そして、2024年元旦に起きた能登半島大地震。今回は、現地に赴くに至っていないが、新聞報道等で被災地の状況を見聞きするにつき、この30年間に渡り同じテーマが語られ、そしてその重要性が訴えられ続けられてきたことがわかる。

それは、こうした災害時になればなるほど、近隣のコミュニティや相互扶助関係が重要となるということであり、そのコミュニティをどのように維持・発展させる形で住民たちが長い復興期を乗り越えていくのか、またそれを支えていけるのかという課題である。

1995年の阪神淡路大震災の際には、阪神高齢者・障害者支援ネットワークのスタッフとして、神戸市西区の西神第7仮設住宅という当時最大の仮設住宅にて被災者支援に従事した。第7仮設は甲子園球場の2倍の面積に120棟が並び、ピーク時は1800人が暮らしていた。震災は1995117日に発生し、神戸市内においては家を失った多くの被災者が地域の学校や公民館に避難していた。4月からの学校再開を急ぐ神戸市は、郊外の造成地に大量の仮設住宅を急造し、高齢や障害のある世帯を優先しつつも、抽選で被災者をどんどん仮設住宅に割り当てていった。結果、被災住民たちはそれまで長い時間をかけて形成されてきた近隣コミュニティからは切り離され、神戸市内全域からバラバラに各仮設に入居することとなった。

その結果、何が起こったか。住み慣れた場所からいきなり仮設に入居した被災者たちは、高齢や障害を持つ世帯の割合も高かった。その上、いきなり隣近所は見知らぬ人となり、一からコミュニティをつくっていかないといけなかった。神戸市内の医療・福祉関係が震災後に立ち上げた阪神高齢者・障害者支援ネットワークでは、看護師や社会福祉士などの専門職がボランティアとして登録し、西神第7仮設住宅の1060戸をくまなく周り、全世帯のケース記録をつくり、要援護度に合わせて訪問を繰り返した。高齢の単身世帯であったり、持病や障害を持つ世帯には特に手厚く訪問を行い、訴えを聞くたびに必要な行政サービスや社会資源へとつないだ。

しかし、震災から半年が過ぎ、夏になったときに「隣の部屋から異臭がする」との訴えがネットワークに届いた。聞けば、隣近所もそこに住む男性の姿を、ずっと見てみないという。警察の立ち会いのもと部屋に踏み込むと、そこには亡くなってから約2ヶ月経ったご遺体があった。孤独死だった。遠くに暮らす息子夫婦もめったに訪問することもなく、いつの間にか亡くなり、隣近所もボランティアも2ヶ月それに気づかないままにいたのだ。

このことは、支援ネットワークのメンバーに大きな衝撃を与えた。専門職の訪問やケアだけでは、こうした孤独死は防ぎきれない。特に単身の男性は、積極的にボランティアともコミュニケーションを取ろうとせず、孤立する傾向があった。どうすればいいか。住民どうしでケアしあう相互扶助の関係性、つまりコミュニティ形成を、総力を上げて支援していくしかない、との結論に至った。

市に要望して、仮設住宅の中に集会所スペースを新たに設けてもらった。そこにボランティアが常駐し、「ふれあいカフェ」として住民がいつでも立ち寄れるようにした。いつしか住民たちは互いに誘い合わせながら、ふれあいカフェに集い、全国からやってきた若いボランティアたちと日々語り合うようになった。楽器演奏ができる住民により音楽会が開かれ、そこから発展して仮設住宅内で住民とボランティアによる運動会も開かれるようになった。長屋形式の仮設住宅の壁の薄さが故に、入居当初は「隣の物音がうるさい」と苦情を述べていた住民たちも、コミュニティができるにつれ「お隣さんの気配や物音がすると安心する」と語るようになった。また逆に物音がしないときには、心配してお互いに声をかけあったり、また隣で倒れたような物音がしたときには、ボランティアといっしょに部屋をノックして安否確認を行うようにもなった。

こうして、仮設住宅内でのコミュニティが創られるに従って、第7仮設住宅においては「孤独死」が段々発生しなくなっていった。

こうした教訓は、東日本大震災の折にも引き継がれ、仮設住宅には最初から集会場スペースが設けられたり、またバラバラではなくなるべく集落や地区ごとに同じ仮設に入居していくなどの工夫が行政により行われるようになった。

翻って、今回の能登半島地震では、どうか。自治体があらかじめ定める「指定避難所」ではなく、近所の集会所などを自分たちで「自主避難所」にして生活する被災者が多くいる、と報道されている。行政側は、支援の手が行き届かないとして「指定避難所」への移動を促しているが、いっぽう「自主避難所」にあえて残り続ける被災住民の方たちからは「昔ながらの家族的なつながりの中で安心して支え合えられる」との声もあるという。

こうした能登の人たちの行動には、「非常時にこそ積み重ねてこられたコミュニティの力が大事」との教訓が、まさに体現されているのではないか。そしてこうした住民たちを支える側に求められるのは、いかにこうしたコミュニティの力を壊さず、仮設住宅などのハードを整え、バラバラの世帯ではなく、コミュニティの単位で移転できるようにするか、ではないか。

30年経ったいまも、この災害時におけるコミュニティの重要性が行政施策として充分に取り入られないまま、課題として繰り返されていることに驚愕を覚える。そして改めて、西神第7仮設で「孤独死」を発生させた社会背景が、今回の能登の震災で再び繰り返されないことを切に願う。つまりそれは、住民のコミュニティの力を削ぐことなく、維持し強めていくことは、ハード面や専門家のケアと同じくらい、いやそれ以上に孤立と震災関連死を防いでいく、という重要な教訓なのだ。

写真提供:神戸市 神戸市西区の西神第7仮設住宅(1995年当時) 

ボランティア|VSL研究会|地域コミュニティ|小辻 寿規
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