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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト


11月29日~12月4 日 福島市「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2011」




11月29日~12月4 日 福島市で「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2011」を開催しました。 

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

  東日本・家族応援プロジェクト3番目の開催地は福島。福島市中央児童相談所との共催、福島市の協力を得て、チェンバ大町という市民活動サポートセンターで開催された。福島は放射能汚染の問題を抱え、「事態は改善していくもの」というのとは違う事情にある。チェルノブイリのトラウマについて書かれた25年前の論文によれば、住民のストレスは、コミュニティの絆が破壊されたこと、安全基準の混乱、生活変化、食べ物の安全性の不確かさからきており、人々の反応は、信頼感の喪失と不信感の蔓延、不安と抑うつだったという。想像を超える状況を心に描きつつ、居住まいを正して福島の地を訪れた。

  支援者支援セミナーは、7名の参加者とスタッフ3名、計10名のグループで、オブザーバーという形の関係者たちを含む空間のなかで行われた。皆それぞれ、子どもや保護者の支援に関わり、日々悩みながら懸命にお仕事をされている方々である。「先生、ボク、ヒバク?」と聞かれて答えに詰まり、「本当に大丈夫なんでしょうか?」と保護者に尋ねられ、「安全基準ですから、大丈夫ですよ」と答えながらも、確信が持てない(「人ごと」だと思っている人を除き、この状況に確信を持って「大丈夫」と言える人などいるだろうか)。心のなかに黒い思いが渦巻いているが、おいそれと不用意な発言はできないし、吐き出すところがなくて、「王様の耳はロバの耳」のように、穴を掘って叫びたいとおっしゃっておられた。

  それぞれに子どもや家族もある。無意識に野菜の選別をしている自分に気づき、関連の仕事をされているパートナーに申し訳なく思う方。家族は口にしないが、自分はここの水を飲むと決めておられる方。一人ひとりの基準や価値が違うために、家族が違ったものを食べる食卓。多くの方々が経験しているエピソードだろう。同時に、土地への思いがひしひしと伝わってくる。

  子どもワークショップには、20名ほどの子どもたちとその保護者たち(母、父、祖父母と総勢50名は超えただろう)が集まってくれた。福島の家族は、多くが週末ごとに県外へ出て、子どもたちを外で遊ばせているのだという。安全な公園があっても、行く途中にホットスポットが散在しているので、子どもだけで外に出すことができない。そんななかで、子どもを持つ親たちは、屋根のある無料の遊び場情報には敏感なのだと児童相談所の方がおっしゃっておられた。

  東京おもちゃ美術館から頂いたおもちゃは、子どもにも大人にも好評。とくに、崩れた時に世界で一番美しい音がするという積み木カプラは大人気だった。私自身は、「クリスマスカレンダーを作ろう」のプログラムをやったが、かわいい子どもたちが、それぞれに迷いながら工夫を凝らして個性的なツリーを飾り、お菓子を貼りつけていく様子は何とも愛おしかった。来てくださった家族を見ていると、保護者の暖かい眼差しに見守られて、子どもたちがどちらかと言えばお行儀よく遊んでいる様子に、不安な状況だからこそ、家族の絆や一体感が高まるのだろうと思った。養護施設でも、ふだん連絡を取ってこなかった親たちが、「子どもは安全か?」と聞いてくるという。こんな時、人は自分にとって本当に大切なものは何なのかという原点に立ち戻るのかもしれない。

  毎年、庭に6本ある柿の木から、2千個もの干柿を作って、友人知人に配ってきたという男性が、12月8日の検査で安全基準だったら今年も作るのだと話してくれた。突然、青空を背景に柿がぶら下がっている明るくのどかな田舎の光景が浮かんできた。「作れたらいいですね・・・」と言うと、「できたら少し送りますよ」と言ってくださった。どうか、干柿が届きますように。不確かな状況のなかでも、何か、毎年、変わらず楽しみにできることがあったらいい。そして、子どもたちが親の眼を盗んで悪さできるような日が一刻も早く戻ってきて欲しいと願う。

  プロジェクト終了後、セミナー参加者の方から、「村本先生はじめNPOの方々、そして支援者支援セミナーを開催してくださった皆様、今日は本当にありがとうございました。震災以降大変な事も多かったのですが、こうして御支援を頂き、たくさんの方々の、様々な角度からのお話を伺うことが出来、とても心強く思って感謝しております。 福島では、これからどうなっていくのか未来が見えないままに日々が過ぎて行きますが、子ども達のため、保護者のため、今日先生に教えていただいたように希望を持ち人とのつながりを大事にして行こうと思います。そして、楽しみ!を見つけながらやって行こうと思います!今日の1番の楽しみは、村本先生はじめ皆さまにお会いできたことです!ありがとうございました」とのメッセージを頂いた。

  児童相談所の方からも、「プロジェクトによる御支援ありがとうございました。職員一同、2日間にわたって貴重な経験をさせていただきました。なんとなく目に見えないモヤモヤとした感情をかかえながら、それでも当たり前に1日1日を過ごしているというのが、大半の福島県の人々の現在なのだと思います。大人が日常を取り戻し、当たり前に過ごす姿を示すことで、子ども達も穏やかに過ごせるはずと考えています。他県の皆様からはわかりにくく見えにくい福島の今を周囲の皆様に少しでもお伝えいただければ幸いです。先生方から元気をいただいた得難い2日間でした。ありがとうございました」とのメッセージを頂いた。

  頻繁に行くことはできなくても、距離のある外部にいるからこそできるかもしれないこと、Witness(証人)であることを心に刻み、プロジェクトで出会った福島の方々のことを思い浮かべつつ、福島の情報に耳を傾け、よりよい未来を祈り続けたい。

福島レポート    (応用人間科学研究科教授・団士郎)

  三回目の漫画展だが、今回初めて、ギャラリー会場に一日常駐することにした。土曜日の午前10時過ぎから夕刻まで、別室でWSプログラムの行われている間、チェンバおおまちの展示会場にいた。

  B全パネル21枚が並べられたスペースは、明るく見やすいギャラリーに仕上がっていた。作者紹介や順路表示など、展示の細かい差配はずっとクレオテックKKの平田さんが同行して行ってくれている。漫画家として、こういう作業をあちこちで経験のある私には、ちょっとしたことで綺麗にも、見苦しいものにもなるのを知っている展示会場の仕上げに、ノーストレスなのは有り難いサポートだ。

  展示会場の向かい側にブースを仕切った小売店がいくつかあった。地元ベンチャーへの支援策の一環で、会場を一年間に限って商業スペースとして起業有志に貸し出しているそうだ。そこに手作り小物の工房を出している女性と、隣にネイルサロンを出している女性がパネルをみて、会場で配布した小冊子にサインが欲しいとやってきた。 少し話すと工房の店主は浪江町で店舗が被災した人だった。

  「店をたたもうと思っていたのだけれど、手作り品を預かっているお客さん達がみんな、またどこかで再開するのでしょう、それまで預かっておいて」と口々に言った。それで、その気になってあちこち探してみたが、家賃負担が大きくてなかなか決まらなかった。それが、浪江とは離れているんだけど、ここが借りられることになって。オープンの日には遠くからみんな来てくれたんです。このブースの借りられる期限は一年なので、来年には新しい場所を考えなければならない。震災で夫の勤務が栃木になったので、そちらと行き来もしやすい、馴染みになったお客さんにも車で来てもらえる場所を探してほぼ決まったんです」という。

  この話を受けて、ネイルサロンの彼女は、「私はもう二ヶ月ほどで一年になるので、出るんだけど、いろいろあったけど友達と共同で経営する場所も決まっている。福島はこんな時期だけど、やっぱり頑張る」という。

  3・11がたくさんの人の人生設計や、長年の夢に、大きな負荷をかけることになったのは想像できる。しかしそれでも、そこから又始まる一歩を踏み出した人がギャラリーの前にいた。そしてその人達が、初対面で漫画展をしている関西人の私に、とても饒舌に語った。いつまでも直後の被災者のままではない。しかし、次に歩み出す物語も又、誰かに話さなければいられないのだろうと思って聞いていた。

  そうしていると、関西方面からの5人連れがやってきた。週末、何度目かの南相馬入りだという大阪摂津市で保健師をしている卒業生Uさんと、高知と徳島の保健師さん。厚労省の役人だという人も個人として、そして被災地に関わるルポルタージュをWEB紙「風」に書いているSさんだ。着いたばかりでと言いながらじっとマンガをみて、熱い感想を述べて、出発していった。

  4階で開催しているプログラムの継ぎ目に、参加者が複数、ギャラリーにも足を運んでくれた。その感想を読むと、被災地にとっての家族の物語の重要性とはどのようなものか、様々なレベルで届いている実感を得た。

  来年1月に立命の同僚・荒木教授のチームで、二本松市で行なう別の復興支援プロジェクトチームを受け入れるスタッフの一人が、福島会場の様子を見せて欲しいとやってきた。

  その後、復興支援室のスタッフ、そしてワークショップを共催している京都NPOセンターのN君も来場。家族応援パネル漫画展や復興支援プロジェクトのプログラムの意図が、実際に会場に来てみてよく分かった。これは被災地だけではなく、あちこちに避難して暮らす家族にも届けたいものだと語った。京都市も二百家族以上が避難してきている。その家族のために京都開催もあるのではないかと話す。

  物的支援から次の段階にはいる「心の支援」というテーマは、そう簡単なことではない。自分自身の中から意欲や勇気が湧いてくるように、外から得たい元気の素は、どのような形で届かなければならないのか。これはなかなか難しいテーマであって、簡単に癒しや心のケアなどと言っていれば実現するようなものではない。

  わかりにくい場所の、奥まったスペースで開催した漫画展だったが、来てくださった方達は、いろいろメッセージを残していってもくれた。地元のみならず神戸から来て、偶然遭遇したという人は、まさかここで私の作品に出会えるとは・・・と書いていた。

  10年継続開催と表明していると、現地、福島中央児相の人たちとも、又次は・・・というコミュニケーションになる。今回の区切りが、次の始まりでもあるという繋がりは、花火のような派手で寂しい余韻ではなく、耕したり、種を植えたりする気分に似て暖かい。

  20年以上前に私は、福島の児相に出向いたことがあったのをすっかり失念していたが、その時にいた人たちに再会し、新しいことが始まったのがとても良い気分だった。

福島市を訪れて    (立命館大学心理教育相談センター・カウンセラー・渡邉佳代)

  福島市は福島第一原発から50~60kmの距離にあり、震災の被害だけではなく、現在も放射能の影響が懸念される街です。私自身、福島市の事前調査と放射能の影響について調べていくうちに徐々に不安が大きくなり、福島に行くまでの道のりと到着してからの現地で、様々な感情を体験しました。このように湧き上がる様々な感情は、福島市で生活している人たちにとって「日常」なのかもしれないと思うと、とても胸が痛みます。

  今回のプロジェクトでは、12月3日の支援者支援セミナーのコファシリテーターと、子どもワークショップの『風船で遊ぼう』を担当しました。支援者支援セミナーの参加者からは、やはり放射能に関する不安が出され、先の見通しが持てない中で答えの出ないしんどさを共有しました。支援者として、保護者や子どもをどう支えるのかに戸惑い、そして支援者自身も不安を抱えながら、いかに自分の軸を持つのかといったことが大変難しいことを痛感しました。

  セミナーでは、支援者役割は自分と自分の家族が後回しになりがちなことから、その中で「私」がどう思っているのかという自分に立ち返り、次に役割として考えることが村本先生から提案されました。改めて「私」の声に耳を傾けた時、自分自身の傷つきに気づいて、「自分の感情を出せる場がほしい」「泣ける場がほしい」という声が出され、支援者支援セミナーで支援者の後方支援をする意義を強く感じました。自分に湧き上がる様々な感情を共有することに躊躇ったり、罪悪感を抱くことは、どんなにかつらいことだろうと、私自身も現地で体験して感じました。

  団先生の漫画展の感想ノートにも、パネルを見て自らの体験を振り返ったり、誰かに思いを馳せたり、現在の福島の状況を応援するものだったり、心のこもった様々なメッセージが寄せられていました。おそらく、それぞれの人は別々にパネルを見たのでしょうが、パネルを通して、そして感想ノートを通して、福島の人たちが体験や感情を分かち合い、重ね合うことで、このスペースが交流の場を生み出しているように感じました。改めて、団先生の漫画展が、このプロジェクトの中核に置かれている意義を再確認しました。

  こうした福島の人たちの声に耳を傾けた時、逆境の中でも人とつながり、希望を見出そうとされる人たちの姿に胸を打たれました。今も続く放射能の影響の中で、遠くに離れていて私たちができることは、関心を持ち続け、関わり続けていくこと、そして細々とでも何かできることを考えて実行することだと改めて感じました。福島の人たちがそこで生き抜こうとする姿を見続けていきたい、そして様々な声に耳を傾けていきたい――今回はまさに「証人(witness)になること」という言葉が、深く重く自分の中で実感できたように思います。

  午後からの子どもワークショップでは、親子連れでたくさんの子どもたちが参加してくれました。腹式呼吸を遊びながら体験する『魔法の風船』では、子どもたちが最後まで「お腹の中には、ホッとリラックスする風船が入っているんだよ」と言ってくれて、とても嬉しかったです。次のクリスマスカレンダーづくりは、1日1個のお菓子を食べながら、クリスマスを楽しみに待つアドベントカレンダーです。保護者の方も子どもたちのカレンダーづくりのお手伝いに大奮闘! 小さな子どもたちも、一生懸命にお菓子をカレンダーに貼り付けて、いつに自分の大好きなお菓子を食べるのかを考えている姿に、ほっこり胸があたたかくなりました。できあがった記念に写真を撮ったり、どこにカレンダーを貼ろうかと子どもと一緒に考えていたり、ワクワクするひと時を一緒に味わえたように思います。

  セミナーで聴かれた「震災の前と後とでは、生活が変わってしまった」という声を思い出すと胸が張り裂ける思いがします。でも、これまでにも変わらずにあるものや、やってきたこと、そして「今年もサンタさんは変わらずにやってくるよ」「クリスマスを楽しく過ごそうね」といった思いを一緒に感じられる時間になったとしたら、とても嬉しく思います。これからも変わらずに、私たちもこの季節を福島の人たちと過ごしたいと願っています。

福島の子どもたちと接して (応用人間科学研究科 対人援助学領域 井篠 和之)

  日が沈んで暗くなった頃に到着した福島駅を出て、まず印象的だったのは駅前広場の木々を彩る青いイルミネーションでした。美しく、華やか・・・・・・。それは、私が頭の中でいつの間にか構築していた「3.11後の福島」のイメージを覆す、・・・・・・というよりも、忘れさせるような、そんな景色でした。そこからは強い人の意思が伝わってくるような気がしました。事後に調べてみると、毎年行っているものだとのことですが、それでも今年それを準備した人たちの心には昨年までとは異なるものがあったことでしょう。人が作り出した美しい景色。人が生み出した災禍に襲われた土地で、人々を力づけるものもまた人の手によって作り出されている。人の強靭さ、しなやかさを感じさせられます。

  今回の「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2011」のプログラムのひとつ、「遊びのワークショップ」には沢山の子どもたちが参加してくれました。その中で一人の男の子と出会いました。ワークショップ「ふうせんであそぼう」での風船でのラリーで、その男の子と私がペアを組むことになったのです。男の子と私のペアは、最後まで一度も落とさず、幾組かのペアの中で一番となりました。褒められて男の子が見せた、恥ずかしさと誇りの入り混じったような表情。スタッフの「大きくなったら何になりたい?」との質問には、男の子は「ハイパー・レスキュー」と答えました。

  ワークショップが終わって、参加者の方々が帰っていかれる時間、男の子が私に話しかけてくれました。「僕たちコンビネーションが良かったよね。一番取れたもんね」と誇らしげに見上げる顔。「ハイパー・レスキューに成れるようにがんばってね」と声をかけると、傍らにいた保護者の方が「あれ?あんたハイパー・レスキューやめたって言ってなかったっけ?」と。男の子は恥ずかしそうに俯きながらもはっきりと「なる!」と言いました。

  実際の経緯は分かりませんが、想像は私の頭を廻ります。まだ幼いながらも、何か自信を失うようなことがあったのかもしれない。それで一度は諦めたのかも。しかし、今日、男の子はゲームを楽しみ、一番を取った。そこで得た自信が、再び目標を取り戻させたのかもしれない。・・・・・・想像です。本当のところは分かりません。しかし、一時の楽しさだけではなく、自信を身に着けてもらえるような場を提供できたのだとしたら、それはとても嬉しいことです。自信は大切だということは、言うまでもないかと思います。しかし、遊びとはいえ競争に勝つことで得た自信は、競争で負けたときに失われてしまうかもしれません。この先の長い人生において、負けを感じる時というものは何度もあるでしょう。私たちは子どもたちに何を提供したら良いのでしょうか。楽しさはその一つではないかと思います。誰かが勝てば誰かが負ける競争とは違い、誰かが楽しければ誰かが楽しくなくなるというものではありません。寧ろ、みんなも楽しいからこそ、自分もより楽しくなる。

楽しい経験をすることで、楽しい未来を信じられるように。

そしていずれは、楽しい未来を自分で作っていけるという自信を身につけられるように。

福島の苦境の中でも、子どもたちがそれらを得られるように、その手助けができるように、私も学び続けていきたいと思います。


11月29日~12月4 日 「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2011」(チラシ)



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