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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

研究科長メッセージ

  応用人間科学研究科は、『諸科学の連携と融合』を合言葉に、対人援助学という新しい学問領域の創造に取り組んでいます。私たちの目指す対人援助学は狭い意味での臨床や実践にとどまらない、広い意味での対人援助を創造していきたいと思っています。日本や世界の社会や政治にも必要に応じて積極的にコミットしていくことも求められてくると思いますし、また個人のニーズだけでなくて社会のニーズにも応えていく、そういう姿勢も求められてくると考えています。そういう意味で私たちの目指す対人援助学は個人に対しても、社会に対しても、開かれたものでなければならないと考えております。
  このような理念をもつ研究科ですから、当然3月11日に起こった東日本大震災に対しても研究科として何ができるのか、何をなすべきなのかを積極的に問いかけ、考えていく姿勢が求められてきます。今回の地震、津波は1,000年に一度といわれ福島原発の放射能汚染は「想定外」といわれていますが、その可能性を予測していた人々が少なからず存在していたことも明らかになりつつあります。今、なお、これから地域の再生・復興まで何年かかるか見通しがもてない状況が続いていますが、復興に向けての力強い歩みも始まっています。日本の人々、世界の人々からの支援を受けて、困難な状況の中にも新たな可能性が生まれつつあります。東日本大震災被災地では、100年先、1000年を見通した新しい時代にふさわしい復興計画が進みだすことでしょう。
  私たちも、このような現地の復興の動きに呼応して、10年先を見通した対人援助学の分野での支援をしていこうと考えました。東日本大震災が日本の社会や個人に与える影響の大きさを考えると、新しい対人援助学の創造を目指している本研究科にとっても、復興支援の課題は正面に据えて取り組むべき課題であると考えました。この私たちの決意と、対人援助学という新しい学問の創造と実践を目指すという立ち位置を考え、ささやかですが研究科プロジェクトとして、『東日本・復興支援プロジェクト-対人援助学による家族・コミュニティ支援プロジェクト-』をスタートさせました。とりあえず、まずは10年、続けていきたいと思っています。人により添い、家族に寄り添い、コミュニティに寄り添って人々が復興の物語をつくっていく声に耳を傾けます。時代と社会のwitness(目撃者・証人)として耳を傾け、物語を語りついでいきます。ささやかですが活動の記録を残し、対人援助学の役割を問うていきたいと考えました。
  ボランティア活動を通しての対人援助、心理臨床活動を通しての対人援助、あるいは援助者を援助するという活動を通しての対人援助等、様々なかたちでの対人援助を実践して時代と社会に関わっていきたいと考えています。

2011年9月
応用人間科学研究科長 荒木穂積

東日本・復興支援プロジェクト~対人援助学による家族・コミュニティ支援プロジェクトを立ち上げました

  東日本大震災は、地震、津波、原発という三種類の災害をもたらし、その影響は、空間的にも時間的にも途方もなく大きな拡がりを持ち、今なお予測不能です。そのような状況下にあっても、大きな喪失と混乱を抱えながら、生き延びた人々は生き続けます。家族は生活を営み、子どもは成長し、援助者は支援を続けていくでしょう。人々は、これらの災害から、どのように立ち直っていくのでしょうか。どのようにコミュニティを再生し、くらしを立て直し、家族の生活や営みをとりもどしていくのでしょうか。
  私たち応用人間科学研究科も、「対人援助学の創造」を掲げ、十年の歴史を刻んできた研究科として、その専門的知識、技術、ネットワークをフル稼働させて震災復興支援に寄与する方法を模索したいと考えました。私たちの日常生活と無理なくつながり、同時代を生きるものとして長期的な関わりができるようにと考えたとき、なるべく現地のみなさんの負担の少ない形で東日本のいくつかのコミュニティに入り、その時、その土地、その場所ごとの現況を把握しながら、現地に暮らす家族やコミュニティをエンパワーする対人援助プログラムを提供し、そんな営みのなかで、現地の人々とネットワークを構築し、協働できたらと思いました。
  とりあえず、まずは十年、そんなプロジェクトをさまざまな形で展開していきます。そのなかで、家族や支援者、コミュニティに寄り添い、人々が復興の物語をつくっていく声に耳を傾け、時代と社会のwitness(目撃者・証人)として存在し続けることができたらと願っています。

2011年7月
プロジェクト代表 村本邦子(応用人間科学研究科教授/副研究科長)


開催したイベントの報告ページ

 ・ 2月3日 震災復興支援プロジェクト第1回報告会

 ・ 11月29日~12月4日 福島市「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2011」    (チラシ)

 ・ 11月1~6 日 岩手県遠野市「東日本・家族応援プロジェクトin 遠野2011」    (チラシ)

 ・ 11月13日 東日本大震災復興支援シンポジウム    (チラシ)

 ・ 11月1日 特別支援教育の再生と創造に向けて    (チラシ)

 ・ 10月17日 震災復興支援プロジェクト第1回報告会

 ・ 9月19~24日 青森県むつ市「家族応援プロジェクト~団士郎の家族マンガ展と家族応援セミナー」

 ・ 7月2日 応用人間科学研究科10周年記念シンポジウム



今後のイベント






2月22日~24日 「特別支援教育の再生と創造に向けて」(チラシ)

1月23日~1月9日 「東日本・家族応援プロジェクト in 二本松  2012」



二本松レポート (応用人間科学研究科教授・徳田完二)

  東北本線二本松駅で電車を降りると、日が暮れたばかりの町は一面真っ白だった。数センチの積雪だが、「こんなに積もるのは、ここではめずらしいんですよ」と、腹ごしらえに入った駅前食堂のおかみさんが何度も言った。東西に広がる福島県は、太平洋沿いの「浜通り」、少し内陸に入った「中通り」、さらに内陸部の「会津」に分かれるが、浜通りにある二本松市は、基本的に太平洋側気候なのだろう。

  雪景色の城下町で、2012年1月28日・29日の2日間、「東日本・家族応援プロジェクトin二本松 2011」と銘打った支援活動に参加した。ここでは、その活動のうち2日目の午前に行われた「支援者のためのグループ交流会」を中心に報告しようと思う。

  二本松市には東京電力福島第一原子力発電所に近い浪江町からの避難者が多く暮らしており、浪江町役場も二本松市の施設「男女共生センター」のイベントホールを間借する形で業務を行っている。わたしたち支援チームの2泊目の宿所はその役場の上の階だった。玄関付近には浪江町の子どもたちの書いたメッセージがびっしり貼ってあり、「ふるさとを失ってもわたしは負けない」「またみんなでサッカーしよう」「浪江焼きそば大好き!」などの文字に思い思いの絵が添えられていた。

  支援活動の会場は二本松駅前の「二本松市市民交流センター」。その建物の1階にはB級グルメとして評判の浪江焼きそばの店と喫茶店があった。どちらも浪江町から避難してきた人たちが運営していた。浪江焼きそばは、焼きうどんと見まがうほどの太い麺に黒いソースをたっぷりからめた独特の焼きそばである。ガラス張りの店の周囲には他県から寄せられた応援メッセージがたくさん貼ってあった。

  「支援者のためのグループ交流会」は「創作スタジオ」と名づけられた、キッチンと電動糸鋸のあるちょっと不思議な部屋で行われた。一般参加者は10名来てくださり、今回のプロジェクトにご協力いただいた地元NPO法人のスタッフ6名と立命館の教員3名を入れて19名の交流会となった。一般参加者は、保健師さん、子育て支援センターや家庭児童相談所のスタッフ、小学校教員、スクールカウンセラーなどで、この中には浪江町の仮設住宅から雪道を車で来られた方が1名、隣の本宮市からの参加者が1名おられた。

  はじめの自己紹介だけで1時間かかった。それぞれの立場で体験したことが少しずつ語られたので、この地域の状況をさまざまな角度から垣間見ることができた。後半は、就学前児を対象に仕事をしている参加者と、それ以外の参加者との2グループに分かれた。うまい具合に人数はほぼ半々になり、わたしは後者のグループに入った。男女は半々、年齢は20代から80代までという多彩な顔ぶれだった。

  自己紹介で語られたことも含め、印象に残ったことを思いつくまま書いてみる。

  被災に関わる家族の問題は大まかに2つに分かれるようである。一つは、震災前から抱えていた問題が、震災という巨大なストレスをきっかけにあらわになるというもの。もう一つは、避難生活という、これまでになかった状況が新たな問題を作り出すというもの。後者ついては、例えば、仕事の関係で父親だけが他の家族と別れて住むようになったことで、夫婦関係に溝ができてしまったとか、狭い仮設住宅で朝から晩まで顔をつきあわせることで家族関係がぎくしゃくしてきたとかいったことである。いずれのエピソードも人間関係におけるほどよい距離の重要性について考えさせられるものだった。

  また、放射能被害というもののやっかいさをあらためて感じた。

  こと放射能については、参加者自身がみなその被害者であり続けているためなのであろう、多くの参加者が自分自身の体験について熱心に語った。二本松市周辺でも放射線量が高いところがあるのだが、その危険性にどう対処するかについて方針が定めにくいらしい。人によって考え方が違うだけではなく、一人の人の中でも考えが揺れるとのことである。子どもを放射線の危険からどう守るかについて両親の考え方が異なり、それがもとになって夫婦関係が悪化する例もあるようだ。

  どの程度の放射線量なら安心かについての基準が明示されないため、ある種の行動選択は個々人の判断に任されるという。たとえば、学校の昼休みに子どもたちを校庭で遊ばせるのかどうかについてはそれぞれの子どもの保護者が決めることになっていて、親が校庭で遊んでよいと言った子どもは校庭に出て遊び、そうでない子どもは校舎内にとどまるという具合にである。

  学校はかなり大変な状況だという。子どもたちは落ち着きがなく、ちょっとしたことですぐにキレることが増えているとのこと。年度途中の8月になってから教員移動があったため、よけい落ち着かないという状況もあるようだ。

  また、原因はわからないが、骨折する子が続出し、気管支ぜんそくが増えているとも聞いた。骨折については、放射能汚染のために野菜の摂取量が減って栄養が不足したり、戸外で運動できないために骨が弱くなったりしているせいではないか、などの推測が話題になった。

  一挙に命も物も破壊する地震や津波と異なり、目に見えない放射線は、人々を慢性不安状態の中に陥れることによって、じわじわと個人や人間関係やコミュニティを変質させていくもののようである。

  最後に、外からの支援者が被災地に出向くことの意味について書いておきたい。

  交流会が終わったあと、参加者の一人が「外部の人が入ってきてくれたので、はじめて自分自身の放射能についての体験を話すことができた。地元の人だけの集まりだったら、他の人たちも今日のような話はできなかったと思う」と言ってくださった。それを聞いて、外部からの支援者の持つ意味ということが腑に落ちた気がした。

  ひとことで言うとそれは「客人(まろうど)」としての意味ではないかということである。いっときだけその地にとどまるだけの人に、所詮たいしたことはできない。何かできるとすれば、閉め切った部屋に少しばかり外の空気を入れるような役割であろう。もめ事にしろ、相談事にしろ、企画会議にしろ、第三者が入ることによって、視野が広がったり、気分が変わったりすることはまれならずある。第三者は、当事者だけの、ある意味では窮屈な関係にいくばくかの変化を与え、適度な距離感を生み出す。このような第三者性をうまく生かすような支援を考えることが、外部から現地に入って活動をするときのポイントの一つになりそうである。現地の支援者がしていることに少しでも近づこうとするのではなく、あくまで「客人」としての立場にとどまり、その役割をうまく果たせるよう工夫することが望まれるのではないか。

  考えてみれば、カウンセリングを行うカウンセラーは日常生活でクライエントと利害関係を持たないからこそ援助者としての役割を適切に果たせるのであった。上で述べた「客人」の第三者的意義はカウンセラーの持つ特徴の一部と重なるものがあるだろう。

  ともあれ、今回のプロジェクトがそれなりに意味のあるものになったのだとすれば、それはひとえに地元NPO法人スタッフの行き届いたご協力・ご配慮があったからこそである。こころより感謝申し上げたい。

1月23~1月29「東日本・家族応援プロジェクト in 二本松  2012」(チラシ)


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