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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

12月1日~12月7日 福島市「東日本・家族応援プロジェクト 2014 in 福島」




「家族応援プロジェクト2014 in 福島」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   2014年12月1日~12月7日、きょうとNPOセンター共催、福島県・福島市・福島市教育委員会後援、特定非営利法人ビーンズふくしま協力という形で、4年目を迎える「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2014」を開催しました。今回は、会場を福島市駅近く、NHKと隣接する「子どもの夢を育む施設こむこむ」に移しての開催でしたが、明るく大きな施設で、賑わい、週末には開館前から親子が並んで待っているような状況でした。今年は諸々の事情から広報が遅れてしまいましたが、当日、「こむこむ」に遊びに来ていた親子がたくさん参加してくださいました。来年以降もこの会場でやれたらなと思っています。

   今回は、院生3名と1日早く出発し、フィールドワークを行いました。ビーンズさんがやっておられる仮設住宅での学習支援ボランティアに参加させて頂き、その夜は仮設住宅に泊まるという体験もしました。地元の食材を買って、夜は、みんなで鍋をしましたので、楽しく暖かいひとときでしたが、四畳半二間に布団を4枚敷いたらもうスペースはないという状況で、プライバシーもなく、家族で暮らすには大変だなあと実感しました。翌朝、3時間に1本しかないバスを待って街中へ戻り、もともとは飯館村にあった珈琲屋「椏久里」を訪ね、おいしいコーヒーとお菓子を頂きながら、店主・市澤美由紀さんのお話に耳を傾けました。ご著書を通じて飯館村への憧れを膨らませていましたが、飯館村で珈琲を飲んでみたかったなと思いました。プロジェクトを通じて、素敵な女たちと出会えるのは幸運なことです。

   今回、白河の原発災害情報センターと除染プラザの見学、それから、医療ジャーナリストの藍原寛子さんのお話をお聴きする機会にも恵まれました。プロジェクトも4年目になり、ようやく少しずつ福島のことを学び始めている気がします。答えはまったく見えませんが、私なりに福島のことを大切に考え続けていきたいと思っています。

 福島レポート (応用人間科学研究科教授・団士郎)

   土曜日、マンガ展会場に詰めているとポツポツ来訪者あり。二人ほど熱心に観て下さっている方がいて、そのお一方に話しかけてみると長い話が始まった。

   N町の住人で、津波被害に遭った女性だった。定年退職まで**をしていて、退職二年目の3月に被災。福島県内で三カ所の避難所生活を経て、身内の誘いで北海道Kに移住。そこで約三年過ごした。とても良いところで、みんな良くしてくれて、北海道の生活は本当に素晴らしかった。あちらの人たちは、夏は思い切り謳歌するし、冬は冬で楽しんで、わかさぎ釣りに行ってその後、地域の人とパーティしたり、本当に楽しかった。

   でもやはり、思うところがあって三ヶ月ほど前に福島に戻ってきた。今、復興途上の福島がまだ受け入れられない。除染や借り上げ住宅、被災補償など、いろんな煩わしいことが溢れていることに圧倒されていて、そういうニュースも避けたい気持ちが強く、生まれて初めて新聞を取っていない生活だ。

   最近、N町の同年配者達がみんな、帰りたいと言って戻りはじめていて、顔を合わせるとそんな話になる。若い子育て世代は新しい場所で、家も建てて暮らしはじめているし、我が家も子ども達はそうだ。でも、自分の年代はNに帰りたいと思う。町長が同級生なんだけど、よく頑張っていて、誰も彼のことは悪く言わない。体を壊してるんじゃないかと心配でね。

   *

   どのような被災状況であったかによる地域差、個人差があることは分かっていた。しかし、その後の避難生活、仮設住宅生活の過ごし方で、現状もまた様々であることに気づかされることの多い時期になった。

   今日の話で、被災地近くにいて復興を目の当たりにしながら過ごした人と、避難地で時をすごして、戻ってきた人の体験の落差にも気づかされた。

   現地の時の流れからの「置き去られ感」、という感覚を、私は今回初めて耳にした。そして十年、現地に通い続けようと決心している私達の前で、渦中の時間は、こんな風に変化してゆくのだということを、しみじみ噛みしめることになった。

   2011年開催から4年目になる福島でのマンガ展。今回の会場、「こむこむ」は人の集まる流れがある場所である。ここで今後、継続的プログラムを実施出来たらと思った。

   その一方で、奇妙な感じがぬぐえなかった。プロジェクト4年目で、当然来年も継続してと思っているが、現地が100%ウエルカムなだけではない感覚がある。スローガンの「忘れないで」は是だが、一方でもういかげんにしてくれ・・・と言っている感じがどこかにある。それはおそらく支援の内容とも深く関わっているのだろう。

   忘れるのは世間だけではない。「忘れる」という選択を、現地でも「総合的判断」として是にする流れがあるのではないか。そんなことを感じながらのギャラリー滞在だった。

 東日本・家族応援プロジェクトin 福島2014(応用人間科学研究科教授・尾上明代)

   震災プロジェクトは4年目であるが、私は最初の年は遠野に伺ったので、福島での実施は今年で3回目となる。現地で短時間出会った方々(JRの駅員さん、店員さん、ホテルのスタッフの方々など)から毎年少しずつ違う印象を受けている。初めの年は、とにかく夢中で福島を訪れる旅行者を歓迎したいという喜びの思いを強く感じた。(元々福島の方々は皆さん暖かく、お店等のサービス精神はとても良いということは、もちろんある)。2年目は、エネルギーが減少しているのではないかと感じた。会場の除染作業にも遭遇し、現地のNPOの方が、「作業を見るだけで気持ちが萎える」とおっしゃっていたことも印象的だった。そして今年は、また皆さん明るかった。しかし、この明るさは1年目と少し違い、さまざまな不安や心配をどこかに封じ込めて、普通に明るく振る舞っているような感じを受けた。たとえば放射能の問題は心配してもどうにもならないから、忘れて(大丈夫だということにして)日常を暮らしたい、という気持ちであろうか。また当然ながら、震災後の非常事態の状況が日常化して、以前ほど気にしなくなったということもあるかも知れない。

   私は(今年たまたま、児童相談所の研修会実施の依頼を受け、2月と9月にも福島市を訪れたが)、去年と一昨年は、震災プロジェクトでそれぞれ一泊二日しか滞在していない。そのような私が上記のような推測を安易にできるはずもないし、私自身が「そうではないか」と思う心を店員さんたちに投影しているだけかもしれない。しかし全身で感じ取る雰囲気というのは、確かにある。そして、重要なのは、その推測が当たっているか外れているかではなく、福島で生活していない者が、離れたところから、たとえ年1回であっても、同じ時期に同じ場所に現実に足を運び、その場に立つ、その場の空気を感じることではないだろうか。また同じ人(たとえ同一人物ではなくても、同じWS参加者、同じ駅の職員・ホテルのスタッフなど)に会ってことばを交わすということではないだろうか。現実的にその場に行くという行為、そしてそこで、具体的な方々と交流しつつ一つの支援を行うという、共時・共存在をするなかで、福島を忘れていない、共に歩んでいく、というメッセージをその方々に伝える。このことの重要性を改めて強く思う。支援者支援プログラム参加者のアンケートに、福島のことを(帰ったら)皆さんに伝えてほしいと、書かれていた。

   どこに住んでいても日本人であれば、福島の状況に心を寄せない人はいないであろうが、ほとんどの人が、観念の中で「大変だろう」と感じているだけではないかと思う。毎日の自分の生活を生きて行く中で、被災地への思いが、だんだん薄れていったとしても不思議ではない。そこで、現実に毎年続けて訪れる人になるということ自体に意味が出てくる。すると、たとえば私が福島を思うときは、「あの児童相談所の職員さん」、「あのタクシードライバーさん」「あのJRの駅員さん」という具体的な人々と、彼らの生きる「あの場所」を思い出すのだ。これは観念の中での福島とは、大きな違いだ。

   私は最初の年、福島に行くということで少し放射能に関して緊張感をもったのを覚えている。しかし、年ごとにそのような緊張は薄れていった。それは、福島市という場所が避難区域ではないことで、「安全」というお墨付きがあることとも関係している。現地の方々もしかりであろう。しかし、安全に関してさまざまな情報に触れる中で、本当に(特に子どもたちは)大丈夫なのだろうか、という不安は払拭できない。現に去年は、「放射能汚染について間違った情報が流れている。その実態を知るために線量測定などの活動を多く行っている」という方に出会ったし、またそのような内容の論文等も発表されている。言うまでもないが、このような状況で住み続けている方々の将来への不安、仮設住宅の方々のご苦労、帰還困難区域の方々の絶望はいかばかりであろうか。

   2月、児童相談所でお話しした職員の方が、「まだ原発事故はまったく収束していないのに、海外に輸出するとか、政府はまったく何を考えているのか、私たちがこんなに大変な思いをしているのに、本当に怒りを覚える」とおっしゃっていたが、まったくその通りである。

   毎年、ホテルでテレビを見ているが、12月5日の夕方のニュースで地元局は、福島市中心街の例年のイルミネーション点灯の様子を映し出し、とにかく明るく楽しいインタビューとレポート報道になっていたのが印象的であった。相変わらずの県内各地の放射線量のお知らせは、天気予報のときにやっていた。毎日毎日の天気予報と同じように、日常化しているコーナーであろうが、やはり異常な事態であることを忘れてはいけない。もう一つ興味深かった番組は、南相馬で農家民宿を続けている方の様子を紹介したNHKのドキュメンタリーである。震災前は、美味しい新鮮な野菜目当てに、毎年遠くから訪れるお客さんが多かったが、震災後は、多くの民宿が辞めざるを得ない状況になったそうだ。しかし、原発などで働く人やボランティアの人々の宿が必要で、ここで紹介されていた民宿は営業を続けており、辞めた民宿のことを思うと複雑な気持ちであると言う。しかし、野菜はきちんと検査して、安全なものを提供していると強調していた。これは、どこの民宿等でも同じはずであるにもかかわらず、である。

  

   プログラム実施当日、体調不調のため、体力を少しでもワークショップに向けて保ちたいと思い、朝、ホテルからタクシーで「こむこむ」へ行った。ほんの数分の乗車であったが、細やかな気配りのドライバーさんとの出会いで、心温まるとても良い時間になった。渡辺真理子さんという60代の方で、家の事情で55才からタクシードライバーを始めたそうだ。お客さんは、80代の一人暮らしの女性が多く、食料の買い出しのためにタクシーが必要な人たちだと言う。お得意さんがたくさんいて、私の乗車中にも電話がかかり、「ちょっと失礼します」とイヤフォン式のワイヤレスマイクで対応していた。スーパーに送るだけでなく、買い物自体も一緒にしてほしいと頼まれたり、ときには食事も、またお墓参り・お墓掃除まで一緒にすることもあるとのことだ。「タクシーの仕事を選んで良かったと思います。感謝されながら仕事をさせて頂いていることに感謝しています。人との出会いが私の宝です。」と話されていた。ほんの少し一緒に時を過ごしただけの一期一会の出会いだったが、おっしゃっていることを具現化されているような仕事ぶりを見せていただけて、良い一日のスタートを切ることが出来た。渡辺さんは、今後、「福島」と聞いて私が思いうかべる人の一人となった。

  

   午前は「支援者のためのドラマ表現ワークショップ」を実施した。今回、外部からの参加者は、毎年参加し続けて下さっている児童相談所の職員の方1名だった。このワークショップが目的を果たすためには、多視点からのアイディアが重要なので、手の空いていた院生・修了生皆に参加してもらうことにした。院生たちのサービスラーニングとしても、体験してほしかった。

   1回完結のドラマワークショップでは、ドラマに慣れていない人も緊張がほぐれるように、メンバー同士の関係性を創りながら、かつ表現すること・演じることに抵抗がなくなるようなワークをする時間が必要不可欠だ。前半の時間を使って、予定通り参加者の心身はたくさんの笑いとともにウォームアップされた。この笑いの共有自体にも意義がある。良質なユーモアやプレイフルネスは、全ての活動に活力を供給する源の一つと言えるからである。

   後半は、援助する・されるというテーマを探索した。「支援者」側にいる人も、いつもの役割をはずし支援される役をしながら、人生のいろいろな立場や状況をドラマで体験し、さらに困難な状況をどのように解決するか、さまざまな選択肢を試し、新しい視点や今まで思いつかなかった考えを出し合い、柔軟な感性を引き出すドラマワークを、限られた時間とは言え、充分に体験してもらえたと思う。参加者の創造性も短時間でアップし、一人一人にとっての気づきも生まれた。

  

   午後の親子向けの「みんなで楽しく劇遊び」には、2家族7人(お子さんは、2才から8才)が参加して下さった。直前まで参加人数やお子さんの年齢がわからないことで、企画と準備が大変だったが、結果的に親子とも非常に喜び楽しんでくれたことが何よりだった。歌、ジェスチャーなどの表現遊び、お母さんやお父さんに誉めてもらうゲーム、絵本や私が語ったお話を一緒に演じる劇、親が子どもを抱っこしてお話をする時間、など盛りだくさんのワークを効果的な順番で並べてプログラムを創った。福島に限らず、基本的に子どもは想像力を使ったドラマ遊びが大好きで、少し恥ずかしがり屋の子どもも、ウォームアップしてあげるとすぐにその表現やドラマの世界に夢中になるものだ。そして、どの子どもも輝く個性を上手に発揮してくれる。「いろんなことでほめてくれてうれしかった。」とアンケートに書いてくれた8才の女の子は、終了後、母親に「来年も絶対来たい!」と繰り返し言っていた。

   親御さんのアンケートには、次のような回答があった。

   ・子どもの違う一面が見えた。

   ・家族で表現活動に取り組むことができて良かったです。子どもだけでなく、夫の活動も。

   ・親子のふれあいの場を作って頂きありがとうございました。とっても楽しかったです。

   二つのワークショップとも、実際に心と身体をたくさん動かして、初めて会った人たち、また良く知っている家族同士が、実際に「出会い」交流することに意義がある。「こむこむ」では、多くの体験コーナーがあり、また同時に複数のワークショップが並行して行われているようだったが、様子を見てみると、子どもたちが参加し、後ろの椅子に親が座って終わるのを待っているような場面が多くあった。それらと違い、この劇遊びのワークショップは、「親子一緒にゲームや劇遊びで普段とは違う心身の触れ合いを楽しみながら、家族を見直す体験ができる場を作ります」という説明通り、親子や家族が文字通り一緒に新しい交流と発見ができるセッションを行うことができた。子どもさんの楽しむ様子、親御さんの驚く様子などを見て、実施した側としても非常に嬉しく思った。

  

   今回も、児童相談所の方、お子さんを含めたご家族、タクシードライバーさん、駅員さんやホテルのスタッフの方々と出会うことができた。そして現在の状況の中で日々の生活を生き、また他者の支援活動に勤しんでいらっしゃることを直接知らせていただけた。短時間であっても交流できたこと、ワークショップでは意味のある楽しい時間を共有できたことをありがたく思う。訪れてきたばかりの福島に思いを馳せながら、来年以降に続く出会いも、今から心待ちにしている。

「東日本・家族応援プロジェクト2014 in福島」に参加して(臨床心理学領域M2 洪潤和)

   今回が私にとって初めての福島であった。昨年今年と、むつでのプロジェクトには参加してきたが、それに対して私は何となく「引け目」のようなものを感じていた。むつは災害の被害を実際に受けたわけではなく、震災プロジェクトに参加していながらも、被災地には行けていないという「引け目」があった。もうすぐ修了が近づき、せっかく機会は用意されているのにこのまま行かないというのも自分としては納得がいかないと思い参加を決めた。 実際行ってみて、表面的には震災前と変わらない日常が営まれているかのように見えるが、よくよく注視してみると、そうではないという福島の現実を垣間見た気がする。特に今回はフィールドワークにも参加し、現地の人のお話を聞くことで、それぞれが抱える思いを断片的でありながら知ることができた。また、仮設住宅での学習支援を見学させていただいたり、そして実際に仮設住宅に泊まるというなかなかできない体験もし、避難生活がどのようなものなのか、その大変さを少しでも経験することができたのは私にとって大きかった。

   福島に実際に行くまでは、福島のことをどのように考えればいいのか、どう向き合えばよいのかが正直わからなかった。しかし、今回プロジェクトに参加したことで、福島について考える最初の糧は得られたように思う。表面的には何事もなかったかのように日常が営まれているが、よくよく注視すると、福島を取り巻く現実が浮かび上がる。放射線と被ばく、そして避難。津波の影響があったところとなかったところもある。様々な選択を手探り状態の中で福島の人々は突きつけられたのではないかと想像する。その現実はやはり実際に現地に行ってみないとわからない。その「見えにくさ」が福島の難しい部分だと感じた。福島の復興はまだ遠い。

   たぶんこの一回で、当たり前ではあるけれど、福島のすべてをわかったことにはならない。まだまだ見ることができていない現実や、人々の思いももちろんあるのだろう。しかし、遠方に住む者にとっては、表面的な姿だけを追うのではなく、そういった背後にある見えにくい部分を見ようとする姿勢や努力が必要なのだと思う。そして、自分たちが何かをしてあげようと意気込むのではなく、何となく寄り添い、福島のことを忘れてはいないというメッセージを長く送り続けること。そして、自身も被災者でありながら支援を続ける支援者の方たちを勇気づけること。このプロジェクトは、そういった役割を持っているのだと思う。

「東日本・家族応援プロジェクト in ふくしま 2014」に参加して ~ 二年目の参加経験から ~(対人援助領域M2 奥野景子)

   私は、このプロジェクトに参加して二年目になる。今年も去年と同様に、京都、宮古、福島でのプログラムに参加してきた。福島に足を運ぶのは、去年と合わせて2回目になる。

   今回の福島での活動を通して、自分自身の福島を見る視点が変わったことに気が付かされた。去年は、福島の街を散策している時に、放射能物質に対する意識が頭の中を離れなかった。町中で行われる除染作業や風景に紛れるように存在していた線量計は、私にとって非日常を意識させるものだった。しかし、今年の福島では、放射能物質をほとんど意識していない自分がいた。除染作業や線量計と出くわす機会がなかったということの影響も考えられるが、原発事故や放射能物質に対する意識が自然と薄らいでいた部分があったようにも思う。これを‘風化’というものに相当しないのかと聞かれると、それを否定できない自分もいる。でも、それを否定したい自分もいる。冒頭で「自分自身の福島を見る視点が変わった」と述べたが‘視点が変わった’のではなく‘視野が広がった’ように感じている部分があるからだ。今回の福島では、名物だと知らなかった美味しい餃子を食べ、地元の人の温かさに触れる出来事があり、自分と同じような悩みを抱えていそうな人にも出会った。福島は、人や文化や歴史とともに物語られるべきなのだと思う。その歴史の一つに東日本大震災や原発事故があることは事実だが、それだけで福島を語れる訳がない。忘れてはいけない、見落としてはいけない要素の一つであって、それだけにとらわれる必要はないのではないかと思っている。

   このプロジェクトへの参加を重ねていると、言葉にしたいのに上手く言葉にならないことがたくさん出てくる。上述したこともその一つである。もどかしい気持ちになることも多いが、きれいな言葉やわかりやすい言葉を並べて語ることはしたくない。わかったようなことを言うのは、あまり好きではない。きれいな答えを求めている訳ではないが、大切な何かを見つけたいという気持ちがあるのだと思う。

   これからの自分がこのプロジェクトや東日本大震災とどう向き合っていくのかは、よくわからない。でも、これからもこれまで通りに色々なことを積み重ねていけたらと思っている。

「東日本・家族応援プロジェクト2014 inふくしま」に参加して (臨床心理学領域M1 伊藤ゆきの)

   このプロジェクトに参加して印象的であったことは、福島に住んでいる人々がそれぞれの生活にまつわる微細な部分において考え方が異なることで、同じ所に住みながらもお互い話がかみ合わなかったり、話すことができなかったりするということであった。原発、避難、放射能、除染、等の問題は福島では身近でありながら、禁句でもある。フィールドワークで行った先々で現地の方の思いを聞くことができたのは、私たちが遠い京都という地に住んでいるからかもしれない。

   現地の方から「忘れられてしまう」「なかったことにされてしまうのではないか」という不安の声を聞いた。10年行き続けるというこのプロジェクトの意志は現地の方々のこうした不安に少なからず寄り添うものになっているのではないだろうか。

   福島が抱える問題はすぐに解決するものではなく、先行きも見えない。しかし、そんな中でも、「震災が起きても起きなくても変わらずに、自分が何をするか明確にしてやっていく」ということを語った現地の方がいた。先行きの見えない中で、光を差し込み、晴れ間を見せてくれる存在であった。いざという時、自分がどのような行動をとれるのかは、それまでに自分が何をするか明確にして生きているかどうかに関わるであろう。

   自分の人生において何に価値を置いて生きてきたのか、また生きて生きたいのかということを考えさせられた福島での4日間であった。

「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2014」に参加して(臨床心理学領域M1 中本友梨)

   約1年ぶりに福島を訪れた。4日間の滞在であった。

   早めに福島に入り、フィールドワークを行った。訪れた先の方々に、その方自身の生き方や震災についてのお話を伺うことができた。福島に住んでいらっしゃる方の生の声は、震災について毎回いろいろ考えさせてくれるきっかけを与えてくれるが、今回もこれまでより一層、震災を様々な側面から考えさせてくれるきっかっけを与えてくれた。個人の人生の中に「震災」を位置づけるとすると、「震災」はその個人それぞれにとって、多種多様な意味を与えるのだということを今回の訪問でお会いした方々から学ぶことができた。私は、その「個人の人生の中の震災」というものに耳を傾け続けたいと思う。被災経験はないが、福島と、そして、東日本大震災と関わり続けたいと考える一人の人間として、被災した方々のお話を、震災について考えるパワーにしていきたい。

   「震災は、この土地で生きてきた自分を奪っていくもの」と話してくれた方がいらっしゃった。「震災」はきっと、経験していない私が想像もできないほどの多様な意味を持つ出来事なのだろう。そのような出来事を体験した方々に対し、私個人の力では助けになるようなことはできないと思う。しかし、私は被災地を訪れて様々な物事を見聞きすることはできる、肌で感じることはできる。そのように実際に感じたことを自分の中で大切にし、そして、確実に被災地のことを誰かに伝えていけたらと思う。

   プログラムで見た福島の方々の笑顔を忘れず、今後、どのように福島に、震災に「寄り添って」いくのか考え続けたい。どのような姿勢でいれば、「寄り添える」のかを考えていきたい。また、来年も福島に行こう。

「東日本・家族応援プロジェクト2014 in福島」に参加して(対人援助領域M1 渡辺舞)

   今回福島市へ行ってきたのだが、私にとってはじめての東北訪問であった。東北へ、そして原発という大きな問題を抱えた福島という地へ実際に行き、現地の様子を自らの目で見ることができたということ、そのものが私にとっては非常に意味のあることであった。

   福島市街の印象であるが、一見何もなかったように日常が営まれている。福島駅周辺には買い物する人々、友人とお茶をする若者の姿がごく普通に見られた。しかし、一方でふと目に止まるのが、街にちらほらと見られる放射能の線量計、除染を終えた袋の山である。何とも言えない違和感を感じた。そういった風景を目にした上で、プログラムを通し現地の人と何気ないやりとりをする中、また福島に暮らす子どもの笑顔を見る中で、改めて原発という目には見えないこの問題の恐さというのを感じた。

   復興の目処もない、だからといって被害が全て目に見えるわけでもない。そんな中で自分の判断での色々な選択をせまられながら、様々な事情を抱えつつ福島に住む人々。時が経ち、政策や街の様子、外からの支援の形、多くのことが変化しつつ、しかし決して解決へと進んでいるわけではないことを実感する訪問となったが、特に今回の企画に協力して下さったNPOの方が「もうすぐ4年という月日が経つ中で、メディアで取り上げられることも減っているし、支援に訪れる人も減っている。一番怖いのは、この問題がなかったことにされてしまうのではないかということです」とおっしゃっていたのがとても印象的であった。この言葉を聞き、改めてこのプロジェクトの目的でもある「証人witness」であり続けることの大切さ、必要性を感じた。何か特別なことができるわけではない、しかし今回のように現地に行くこと、そしてそこに住む人々と交流し、問題という側面だけでないそこにある現実を知ることは私にでもできる。まずは、福島に行ったことで感じられたものを身近なところから、できるだけ多くの人に伝えていきたいと思っている。

福島市における「出会い」から考えさせられたこと 〜場がもつ力〜 (修了生 清武愛流)

   福島市を歩いていると、ぽつりぽつりと眼にする放射線測定器。私が暮らす街の光景とそう変わりがないのだが、同じであるとは言い難い思いが浮かんできた。眼に見えない放射能を意識する私がいたからだろうか。私がその地で暮らし、育ってきた者だとしたら、数値が見えるとはいえ、それを見て自身の生活様式を継続するにしても、変えるにしても、簡単に決断することはできないだろうと思った。暮らしてきた場やそこでかかわりを持った他者がいるからだろうと思う。実際、私は離れた地で暮らし、異なる経験の中で日々の生活を送っている。そうした状況の中で現地へ足を運び、継続し続けることができるサービスができないだろうか、それはいかにして可能となるのだろうかと考えている。

   今回、活動への参加は、私にとって3回目だった。いつも通り、漫画展のアテンドを行っていた。今年は、これまでとは違う会場『福島市子どもの夢を育む施設こむこむ』で開催された。『こむこむ』は4階建ての建物。フロアごとに用途が異なる場だった。子どもが遊ぶことができるスペースや勉強スペース、座ってお喋りができる空間などがそれを表していた。漫画展は4階の奥の部屋で開催され、4階まで来られた方が看板を見て来場されていた。私は、来られた方々に『木陰の物語』の小冊子をお渡ししながら、来場者が来るタイミングや世代にもこれまでとの違いを感じた。

   小冊子をお渡しした方々の世代を振り返ると、8〜70歳くらいまでだったと思う。これまで、中学生以下にお渡しする機会はほとんどなかったため少し戸惑いもあったが、もしかすると今必要なモノでなくても、いつかこういうことをしている人たちが居たと思う機会になるかもしれないと思った。展示会場の外で小冊子をお渡しした方が来場され、「なかなか良かったよ」と知人に紹介をした姿から思ったことだった。誰もが足を運ぶことができ、そこで知ったことや思いを自身でお届けしていくことができる、そんなきっかけが『家族漫画展』という場と『木陰の物語』の小冊子(モノ)にあるのだと思う。さらに、さまざまな世代が立ち寄る『こむこむ』という場であるため、場が意図していなかった場面に遭遇する可能性を創り出していたのだと思う。個々人の生活から課題を見つけ、創られる集まりとは異なる諸相を感じた。

    これらは、協力してくださっている現地の「ビーンズぶくしま」の方々、事前に会場を案内してくださり会場準備にご協力いただいた「こむこむ」のスタッフの方々と知り合うことができたからだと思う。一度お会いし、共に活動を行ったため、離れた地にいる時もその地について関心が向かい、翌年に再会と開催ができることを楽しみにしていることに気づいたからだった。さらに、福島に支援者が多く足を寄せていること、支援続行が難しくなり、離れていくプログラムもある話から、福島は大変である状況を感じた。これからもヒューマン・サービスのあり方を問い、私自身も同じ時代で日常生活を営む者として歩んでいきたい。




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