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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト


2012年10月1日~10月7日「東日本・家族応援プロジェクト2012 in 宮城(仙台・多賀城)」




「東日本・家族応援プロジェクト2012 in 宮城(仙台・多賀城)」を開催しました 

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   昨年は、残念ながら宮城とご縁をつなぐことができませんでしたが、今年は、「特定非営利活動法人チャイルドラインみやぎ」「災害子ども支援ネットワークみやぎ」と応用人間科学研究科が主催、公益財団法人せんだい男女共同参画財団共催、仙台市教育委員会後援という形で、10月1日~6日、エル・ソ―ラ仙台にて家族漫画展、6日(土)、団士郎の漫画ト―ク「木陰の物語」と村本の「支援者のための支援講座」を、また、同主催、おおぞら保育園共催の形で、10月7日、多賀城市公民館にて、家族漫画展、団士郎の漫画ト―ク「木陰の物語」と村本の「支援者のための支援講座」を開催することができました。
 

    エル・ソーラ仙台は、仙台駅前にある31階建てのビル28・29階にある男女共同参画センターです。『女たちが動く~東日本大震災と男女共同参画視点の支援』(みやぎの女性支援を記録する会、生活思想社、2012)を読み、「宮城の女性たちのネットワークはすごいな」と尊敬の念をもってセンターを訪れましたが、チラシやリーフレット、ポスター、資料や図書など見るだけでエンパワーされる思いでした。支援者支援セミナーには40名ほどの方々が集まってくださいましたが、途中のバズセッションについて、参加者の方が「どんなテーマで話していても、どうしても最後は被災体験の話になるのよね。私たち、まだ十分に被災体験が話せていないから・・・」とおっしゃっていたことが印象的でした。


    多賀城は初めて訪れる場所だったので、少し街を案内して頂き、仮設住宅や今回、共催してくださった「おおぞら保育園」も見学させて頂きました。おおぞら保育園の前身である「クローバー保育園」へも足を運びましたが、取り壊してしまうと建築物が建てられなくなるからとそのままになっているそうで、先生方も子どもたちもこれを目にするのは辛かろうと胸が痛みました。現在は、トレーラーハウスで保育をされていると聞き、「トレーラーハウスでの保育って!?」と正直、不安な気持ちで行ったのですが、実際にはとても素敵な園でした。外壁に貼られた大きなパンダが出迎えてくれ、まるで「ハウス・オン・ツリー」のようにへちまの蔓に導かれて階段を上っていくと、こじんまりとした暖かな隠れ家があり、何か冒険が始まりそうなワクワク感がそこにはありました。園庭もなく、小さなスペースに16人の子どもが生活しているという現状は厳しいものですが、先生方の暖かく細やかな心配りのなかで子どもたちが育っていることを実感しました。

  
   セミナーでは、こちらでも、テーマは違うのにそれぞれの被災体験が語られていました。地震が起こった時、先生方が避難の方角を決断され、皆で手をつないで「さんぽ」の歌を歌いながら避難され、最後には子どもたちを両腕に抱えて走ったのだそうです。きっとそれまでの信頼関係に支えられ、子どもたちは安心して大人に身を委ねた体験だったのだろうと胸が熱くなりました。危機において信頼に応えられるという経験ほど人生を支えるものはないのではないでしょうか。そして、また、子どもたちへの愛情ゆえにこそ、大人たちも子どもを守るために力を発揮できたのでしょう。

  
   関西にいると、すでに被災地の情報は少なく、意識的に求めようとしてもなかなかよくわからないという現状があります。多賀城でこんなふうに震災を生き抜いた子どもたちと先生方がいらっしゃることを胸に刻みながら、自分も自分にできることを重ねていこうと力づけられました。


 宮城プロジェクトの報告日誌 (応用人間科学研究科教授 団士郎)

    宮城でのプロジェクトは今年初めてである。旧知の宮城教育大学・関口副学長の仲介で、チャイルドライン宮城の小林さんが窓口になって、関係する機関とつなげて下さって開催にこぎ着けた。現在、大都市仙台にはたくさんの支援行事やイベント、活動が鈴なり状態である。支援を受ける側のニーズとの突き合わせまでは分からないが、みちのくyosakoiとも重なって、大賑わいだった。

   10/5 夕刻、仙台到着早々、ホテルにチェックイン後、JR仙石線で多賀城市に出向く。世話役の小林さんが仕事に出向いている仮設住宅を訪ねる。高台の運動公園野球場のグラウンドにずらっと100余軒の平屋、壁面レンガ模様の住宅。最近、風呂の追い炊き機能が常備されたとか。仮設住宅設備が寒冷地対応仕様になっていないとか。突然、視察と称して被災者の生活空間に踏み込んだり、写真を撮ったりというのは不作法で、そういうトラブルもあちこちにあったやに聞く。当然だと思うし、そんなことを情報として集めたいわけでもない。

    集会所でお話を聞く。子ども達の居場所問題で、緊急事態の直後と違って、時間経過と共に高齢者と子ども達の共存が困難なところがでてきていると聞く。子ども達が放課後、仮設に戻ってきて夕刻2時間ほど、集会所の一部を使っての遊びランドを運営するに当たって、高齢者からの拒否や反対に遭うという。イベントとして、高齢者と幼児の組み合わせの催しの話を耳にすることがあるが、日常として、他所の子どもが常時騒ぐのはごめんだという高齢者の要望である。分からないとは言わないが、そういう「迷惑」主張の応酬で、私たちの社会は孤独化していったのではないのかとも思う。

    社会全体がそんな空気に包まれつつある時代に、被災したところから、新たなコミュニティや近隣住民の繋がりが生まれた話も聞いていたので意外な気もした。復興が元の生活への回帰を望んだら、おそらく失望に至るのではないかと思う。前進は厳しいことや馴染みのないことにも遭遇する。気遣う必要のない、我が儘が出来る安楽な状態が一番良いとは言えない。私も65歳を過ぎたから言うことだが、高齢者になったからといって、その努力から除外されるモノではないだろう。阪神大震災の後、話題になった高齢者の孤独死問題のように、起きてしまったトピックスにネーミングしているのではなく、今、目前の現実に、どう新たに向き合うかが突きつけられているのだろう。

   そして、こういう事態は、一つの出来事にだけ起きているのではないだろう。私たちの今日社会が、大きな災害に遭遇したとき、どのようなメカニズムが生まれ、時間経過と共に、何が明らかになってゆくのかは検証されなければならないと思った。その一環に、私たちの応援プロジェクトも位置付くと良いと思った。

    その後、コンテナで保育所を運営していると聞くおおぞら保育園訪問。黒川園長他、職員の人たちに、夕方のお迎えに保護者が訪れる横で、お話をうかがう。

    保育所、幼稚園と地域住民の間の騒音問題での訴訟の話を耳にするようになって久しい。私の居住地でも、住民たちの子どもの行動に対する冷たさを実感するエピソードが複数耳に入ってくる。世の中全般に、幼児や児童に関して排除的なのではないかと危惧する。ドイツでは児童の引き起こす騒音を、迷惑防止の対象騒音から外す法律が成立したと聞く。 綺麗に管理された社会は、不確定要因の多い子ども達の自由さを、追い込みはじめ、世論全般も、「迷惑」という名の下に入れ始めているのではないか。それは仮設住宅や避難所生活の周辺で、今後ますます浮上してくる課題なのではないだろうか。

   10/6 エル・ソーラ仙台 仙台は見た目、復興著しく、日曜日の人出、商店の活気、どこを見ても被災の痕跡は感じ取りにくい。むしろ少々日本全国の様々な気分からすると、突出して活気があるのかも知れないと思った。それが被災とどう関係しているかは、単純には言えないだろうが、一年半経った今、町並みから感じ取れる空気だ。 あちこちで復興支援のイベントや講座、講演会が開かれていて、ポスター、チラシ、告知は鈴なりである。ある程度の参加者確保を考えると、大都市開催は必然だろうが、継続的で細く長い、顔の見える支援を考えると、もう少し小さな規模の地方小都市での開催も浮上する。

   10/7 多賀城市文化センター 講演会への参加を、被災した地元保育所の保育士さん達の研修機会だと意識した設定になっている。無論一般参加もある。

   コンテナで保育再開したおおぞら保育園(川岸の元保育所跡を見に行ってみたが、廃墟だった。このクローバー保育園は廃園になったそうだ。経営者が園の継続運営を無理と判断したという。社会資源の存廃はどこにもあることで、今回の事態の中では、他でも聞いた話である。しかしそこに働く人たちの、その後の選択と、利用者の変わらないニーズに関しては、廃園になってしまったら議論の余地はない。)この保育園の保育士達が、継続して保育を求める利用者に応えて、施設の一部を間借りして期限付きで保育を再開したという。そしてそこも退去しなければならなくなった時、トレーラーハウスの発想からコンテナ保育園を開所した。その小さな空間におじゃました。  

   保育士達の津波時の状況を聞く。聞き出そうとしたというより、彼女たちが話しているとそこにいってしまうのが、やむを得ないような感じだった。話したい空気だから、口を挟まず聞いた。幼児を連れて避難所に急ぎ足に向かう列に、反対から親子で戻る人がある。自宅に戻っていったのだ。ガードを抜けて10分ほどで、そこはもう通れなくなり、戻った人たちは亡くなった。

   翌日自宅に残した犬が気になって戻った。腰上ほどの真っ黒な水の中を戻っていたら、急に穴に吸い込まれて、体が沈んだ。ダウンジャケットを着ていたのが幸いして、その浮力で、頭まで沈まずに助かった。マンホールの蓋が流されて空いていたのだった。家に戻るとケージに無事愛犬が生きていた。室内犬で一階のモノを置いていない部屋に居たため、潰されることはなかったようだった。水位はほぼ天井、あとわずかな隙間があったようで、どうして生き残っていたのかと思った。

   避難所から自力で出て行く人はたくさんいて、仮設住宅からも同じだ。しかし残る人も当然あって、それは高齢者が多い。逆に、若い家族連れは、子ども達の声や騒ぎ方が、隣家とのトラブルになるから、無理をしても早期に、民間の住宅に引っ越そうとする。子どもの安全を考えて、他府県に思い切って転出する人もいる。そんな中で、地元に残って子育てする親に、子どもの騒音がうるさいという人もある。

   やっと開始したトレーラー保育園にも、建築基準法に則っているのかと、クレームの電話が市役所にはいる。園長は地元の人たちと馴染もうと、休日には地域の草むしりに参加するという。

   社会は一色の主張や気分で形成されてはいない。誰もが追い立てられたような気持ちで、何かに不満をぶつけたくなっているのかも知れない。問題はみんな政府や、大きな行政システムにあり、市民は皆心優しいなどと妄言を語っている限り、復興プランも援助システムの構築も進まないだろう。外部からの援助団体、組織同士がもめたり、人のしていることを否定したりも、いくらもあるようだ。時と共に被災地も日本社会と相似形に戻りつつある。だから被災地の問題は今日の日本社会の問題であり、特定地域の特殊な問題なのではなく、私たち全体の問題なのだと認識を新たにしなければならない。


 円として繋がる~宮城での出会いを通して~ (応用人間科学研究科臨床心理領域M2 西木多賀子)

   今回、仙台市と多賀城市を訪問させていただいた。初日、先生たちと一緒に多賀城市に入り、見学させていただく仮設住宅に向かうタクシーの中で運転手さんに話しかけると、津波がどこまで来たかを話してくださり、津波の爪痕が残る建物を回ってくださった。海から2キロも離れている場所まで津波がきたことに驚く。「うちも津波で畳が全部やられてしまって。」「大変でしたね。じゃあ畳は全部入れ替えて。」「いや、そのままですよ。」「え?」「今仮設に住んでいるので。家はまだそのままです。」。正直ショックをうけた。仮設住宅から仕事にいき、仮設住宅に帰る。それがここでは当たり前の日常。そういえば、テレビではみていたが、実際に津波で被災された方から直接お話をきくのはこれが初めてだった。

   正直なところ、3月11日、京都にいた私は震災があったことを事実として理解はしていても、なにかふわふわしていて実感がないままでいた。逆にテレビで見れば見るほど、遠のいていってしまうような感覚さえあった。だからこそ現地へ行きたいという気持ちがあった。しかし、現地へいき、津波の後の残る建物や仮設住宅をみて、説明していただいたりお話をきいても、なかなかそのふわふわとした感覚はリアルにならなかった。しかし、1日目の午後にトレーラーハウスで保育園を再開されたおおぞら保育園の黒川先生にお会いしお話をおききしたり、2日目になり、先生方の講演会で仙台の人たちとかかわったり、山形大学の上山先生とお話しさせていただいたり、実際に現地で震災を体験され、今日までとにかく動いて、生きてこられた方々とかかわっていく中で、やっと私の中で震災があったことが動き出した感じがした。

    今回のプロジェクトに参加し、たくさんの方と出会いお話を聞き、浮かんだイメージは「円」や「循環」だった。団先生の講演の中で「直線的因果論ではなく循環的因果論で考える」というお話をされたことが、今回のプロジェクトを自分なりに理解するキーワードになった。

    被災者の人とのドラム演奏を通じた支援をされている方とお話をさせて頂いた中で、あるおばあさんのエピソードをお聞きした。そのおばあさんは津波で身近な人をなくし、まだ見つかっていない。以来、私は笑えない。笑ったらダメだと思っていたそうだ。もし笑っていたら、周囲の人にも「あの人まだ見つかっていないのに笑ってる」と思われてしまう。だから私はもう笑えない。幸せになれないと。それがそのイベントに参加し、みんなでドラムをたたきながら笑っている自分に気がついた。その翌日、おばあさんはお仏壇を買う決心をされたそうだ。

    また、避難所にいた子どもたちの声として見せていただいたものの中で一番ショックをうけたのは「もうゲームは嫌だ」というものだった。涙がでそうになった。大好きで毎日でもしたかったゲーム。でも毎日ゲームをしていたら、どんどん上手くなってきっとすぐクリアしてしまうのだろう。思った通りに行きすぎる。ゲームがうまくなりたかったはずでそれが普段なら嬉しいはずなのに。ゲームは得意な人と苦手な人がいるから、友達同士で教え合ったりしてそこに輪や流れがうまれる。みんな上手くなってクリアしても何も面白くない。ゲームは決められたプログラムされたことしかおこらない。「もうゲームは嫌だ」その気持ちが痛いほど伝わってきた気がした。

    ゲームはまさに直線的因果関係そのものだと思う。その中で震災数日後に設置された遊び場には、レゴやお手玉、けん玉などが用意されたそうだ。お手玉やけん玉の遊び方は自由だ。なにがうまれるかわからない。きっと子ども達は友達と遊ぶ中でいろんな遊び方をしたのではと思う。これは循環的因果論といえるのではないかと感じる。おばあさんのエピソードもそうではないだろうか。 

    外部からの支援では、「どこへ何をするのか」よりも「そこに至るまでのプロセス、どこから入っていくのか」ということが重要であるというお話をきいた。これも、その土地にある「円」や「循環」、それは文化とも言えるかもしれないが、を理解して入っていく、ということだと感じた。直線的な支援ではなく、循環的な支援。 「1年半たって来てくれるのは有り難いよね、嬉しいよね。」といって下さった言葉がとても印象に残っている。これからも、ゆるやかに、おおきな円の一員として繋がっていきたいと思う。


 おおぞら保育園のこと (応用人間科学研究科臨床心理領域M1 藤原佳世)

   沿岸のクローバー幼稚園に勤めていた保育士黒川さん。クローバー幼稚園の経営者の本業が被災。副業である同じく被災したクローバー幼稚園を廃業してしまう。子供たちの保育と解雇された保育士さんたちの雇用のため、黒川さんは2011年9月、被災しなかった障害児施設、太陽の家に間借りをして保育園を開く。ところが2012年12月、借りていた部屋を明け渡さなければならなくなった。そこで黒川さんは翌年1月27日、おおぞら保育園を高崎に開園した。被災したときに経営者だった人には市から補助金が降りるが、黒川さんは経営者ではなかったので、市の補助金は降りなかった。それでも黒川さんは市に相談し、協力を求め、市から土地を借りた。そして、建物を建てる資金はなかったので、コンテナを買った。

  
  コンテナというと冷たい、暗いイメージがあるが、このコンテナは明るく暖かい。側面には大きな開口部が取られ、正面にはくまさんマークがついている。児童は現在16人。来月からはさらに4人が加わる予定。主に0-3歳児。スタッフは8人がシフトを組んでパートタイム。黒川さん自身も被災者で、黒川さんの住んでいたアパートも流された。現在のアパートに引っ越すまで避難所からおおぞら幼稚園に通って来ていた。クローバー幼稚園を地震が襲ったとき、黒川さんたち保育士さんは、小さい子供たちをトランクの中に入れ、大きい子供たちを机の下に入れ、保母さんたちは建物が倒れないように柱を支えた。そのときたまたま幼稚園に配達に来ていた郵便やさんも一緒に柱を支えてくれた。その後、黒川さんたちは津波から逃れるため、園児を連れて逃げた。しかし園児の足では急いでもそのスピードはたかが知れている。黒川さんたちが一体どの道を行けば少しでも早く辿り付けるだろう?と思案しながら川沿いの道を引率していると、園児たちが「楽しいね」とお散歩の歌を歌いはじめた。その川沿いの道はいつものお散歩コースだった。避難先に指定されていた小学校に着いたときにはすでに大勢の人たちが詰め掛けていて、校門の中に入れなかった。そこで初めて後ろを振り返ったら、さっき歩いた散歩道に津波が押し寄せていた。「20-30分遅かったら、もうだめだった。」と黒川さん。小学校の中に入れなかったので校庭で、園児たちにブルーシートを被せて雪をしのいだ。

  「テラスを広げたいんですけど」。コンテナ内は素敵だけれどとても狭い。コンテナが立っている駐車場は砂利が敷いてあるので、その上で園児を遊ばせるわけにはいかない。現在、テラスを広げる案を模索している。

   最終日、団先生の講演の後、村本先生の講演「支援者のための支援講座」は参加者のメインがおおぞら幼稚園の保育士さんだったので、あらかじめ準備してあったパワーポイントの講義形式を、急遽、グループトークに変更。





お昼寝する子供たちの中には

今でも

ほんのちょっとの風や音にも目を覚まし

「怖いよう」と言うこともあるんです





エル・ソーラでの漫画展




会場となった多賀城市文化センター




村本先生の支援者セミナー




多賀城での漫画展




団先生の講演

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