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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

11月13日 東日本大震災復興支援シンポジウム





東日本大震災復興支援シンポジウムのチラシ

 震災シンポジウムに参加して  (応用人間科学研究科対人援助領域M1 丸谷佳嗣)
  2011年3月11日、日本は再び震災の恐怖を目の当たりにしました。日本中が亡くなられた方々を悼み、少しでも前に進もうと努力しています。しかし、メディア等から流れる東北の様子は、今もなお悲しさ漂う情景が映し出されます。「復興の目処」という言葉も見聞するようになりましたが、現状を見るに実感が湧きません。
  しかし、震災シンポジウムに参加したことで大きな二つのことを感じました。一つは、非常に多くの方々が自分たちにできることは何か、思案し実行され、今やそれは国境を越え支援が行われていることを、より身近で感じることができました。自分たちにとって何ができるのか、漫画を描く、カフェを作る、おもちゃを送るなど方法は様々ですが、そこには誰かのためにという想いが共通しているように思います。そして、個々の人が、それぞれの国が、問題意識を交換し合い考える、どちらかが一方的に要求するのでもなく一方的に教授するわけでもない、そんな「場」となっていたこと。これは非常に感動的でありました。今後も、様々な人が集う今回のような「場」に参加したいと心から感じました。
  二つ目は、震災で家を失い避難を余儀なくされていた子どもたちが、おもちゃを持って笑っていたことがとても印象的でした。望まぬ状況に立たされながらも笑顔で遊ぶ子どもたちを見ると、震災復興に何らかの形で関わっていた人たちは、小さくとも確かな成果が感じられたのではないでしょうか。この小さな実感が、笑顔を持った子どもたちが、東北に在るといことは、現状に対する悲観を和らげてくれる様に感じました。
  震災は誰にでもどんな人にでも訪れるものです。そこには多くの悲しさや辛さ、怒りなど感情が渦巻くことでしょう。しかし、このシンポジウムのなかで、協力し前に進めることができるのも人であると感じることができました。
  日本は混迷の中を進んでいます。私たちは、その現状の中で自分のできることやすべきことを選択し実行していかなればなりません。東北にて震災の被害を受けた方々は、その選択の幅に大きな制限が発生しています。しかし、多くの人が協力していくことで、今までの「普通」を取り戻すことに近づくことができると、そう思えるような素晴らしい一日となりました。


 その場で生きるひとりひとりの生に目を向けて (立命館大学 衣笠総合研究機構 ポストドクトラルフェロー 安田裕子)
  国際シンポジウム「第2回東日本大震災復興支援シンポジウム 対人援助者がコミュニティに入るとき―持続的な復興支援をめざして―」に参加させていただいた。以下では、3つのシンポジストによる報告を聴講して感じ考えたことを、報告の内容に即してまとめたい。
  まず最初に、多田千尋氏によって報告がなされた。多田氏の専門は「アクティビティケア」、すなわち、遊びと芸術の栄養失調へのケアである。東日本大震災への支援として、おもちゃコンサルタント(全国で4000人登録)、おもちゃ一式(呼びかけに対し、世界各国から一週間で一万個届けられた)、畳6畳分の床材をワンユニットにして、東北の地域150箇所に入り、そこで遊び場を組み立て、2~3時間一緒に遊んで、おもちゃをおいてかえる、という活動をしてきたという。その場で一緒に遊ぶプロセスで、自然と多世代交流が生まれてきたという、その活動のキーワードは「遊び支援隊」。今回のような甚大な被害がもたらされた被災地支援に際し、レスキュー期はいのちや胃袋、つまり、人命救助や救援物資などに主眼を置いた支援が必須であるが、時が経ち、復旧・復興期に入ると、心のケアの要素を含んだ支援が不可欠となる。支援を提供する際には、現場が今いつの段階にあるのかを見極める必要があるのだが、多田氏が始めて被災地に入ったのは4月7日。3月11日に大震災が起こって1ヶ月も経たないこのタイミングにおいて、「果たしておもちゃをもっていくことが支援になりえるのだろうか?」「ふざけている!と、かえって被災者の気持ちを苛立たせてしまわないだろうか?」という、一抹の不安を感じながらの被災地入りであったという。
  しかし実際には、次のような素晴らしい3つの効果があった。それはひとつに、地域に「楽しさ」環境を創り出したことである。その仕掛けとして、おもちゃがあるわけだが、とりわけ積み木の活躍ぶりは素晴らしい。それは、「崩れた時に、世界で一番美しい音を出す」という、フランスのカプラ社の積み木である。組み立てて遊び、崩して遊べるというカプラ社の積み木。その奏でられる音という付加価値もあって、遊んでいる子どもたちの「今・ここ」での熱中を引き出すのはもとより、子どもがもともともち合わせている、ワクワクする力を活性化させるという、なんとも素敵な魔法の積み木である。そこここで、積み木で遊びながら、子どもたちの姿勢が変わり、表情が変わる。子どもたちはどんどんと前のめりになっていく。表情が豊かになっていく。そこには既に、魅力的な遊び空間が創出されているのである。そして2つ目に、多世代の気持ちを引き出した、ということである。遊びのなかで、つぶやきはしゃぎ出す子どもたち、過去の体験談を語り始めるお年寄り。そして、多世代が集い遊ぶその場において、お互いがお互いの声に耳を傾け始めるのである。それはまぎれもなく、おもちゃと絵本と漫画の融合によってもたらされた、多世代交流の場の創出である。そして3つ目の効果として、やりがい創出があげられる。被災地において、手厚いケアを受けるほどに、元気をなくしていくお年寄りが見られたということ。逆に、お年寄りたちは、自分が役に立っているということで、活き活きした表情を取り戻していく。たとえば、遊び道具を片付ける時に、お手玉をガサッといっしょくたにして収めるのを見て、お手玉は袋に入れなきゃいけないよ!と、袋をサッと縫い上げてしまったお年寄り。そんな様子に感心すると、「困ったことがあったら何でも言ってくれ」と、張りのある声が聴きとられる。こうしたことは、支援という営みを考えるうえで、非常に重要なことであるだろう。人は、たとえ大変な状況にあっても、支援されるだけの受け身の存在では決してない。経験や知恵を活かせるようなこと提供し、為されたことに対して感謝の念を示すというやりとりが、「ひと肌脱ぎたい」お年寄りにやり甲斐を与え、活き活きした有り様を引き出す、地域ケアとなっていたという。また、このことを通じて、おもちゃのなかに、お手玉作成ユニットのような未完成のものを入れるという工夫につながった点も興味深い。その場で、そこにいる人びとの言動や表情に目を凝らすことによって、新たなやりとりが生まれ、支援の仕方もまた変わってくるということを示す、具体的なエピソードがここにある。おもちゃを通じて、手の平に、心に、栄養補給をしてきたという「遊び支援隊」の活動は、まさに、人びとの生活文脈のなかで育んできた力を活性化する、コミュニティ支援だということができるだろう。
  こうした多田氏の活動報告に関する、George Kitahara Kich氏のコメントもまた興味深い。ケアにおいてsafe spaceは重要な原則である。多田氏は、おもちゃによって、個々人が多様に抱えている感情を安心して出すことのできるplay spaceという癒しの場を創出しているのだと、George Kitahara氏はいう。なかでも、やはり、積み木の果たす役割は大きいのだと。積み木を積み上げては崩れるというプロセスは、何かを失うことがあってもまた新たに築き直すことができるということを、象徴的に示しているのだという。子どもたちは、積み木を積み上げる行為を通じて、震災によって体験した表現しがたい様々な衝撃を自分なりに受けとめながら、今後の自分自身の人生に目を向けていこうとする、癒しのプロセスを経験している。積み木による「創造-破壊-新たな創造」という貴重な営みが、多世代が集うplay spaceにおいて共有されているのである。さらには、その積み木をこしらえる木材は、より大きな自然というコミュニティのなかで育つものである。そうした木を通じて多世代が交流するなかで、つぶやきが生じ、語りが紡ぎ出されるということ。こうしたメタファーは、後に実践報告がなされた団士郎氏の「木陰の物語」にもつなげて語られた(後述)。
  2つ目の報告は、河野暁子氏によるものであった。河野氏は、国境なき医師団の臨床心理士として、震災が起こった4日後の15日に東京に入り、およそ1ヶ月間のコーディネーション後、4月13日に被災地入りした。河野氏は、国境なき医師団の唯一の日本人臨床心理士であったという。もちろん、国境なき医師団であるから、世界各国に、被災地の東日本に支援に赴くことを申し出た臨床心理士はいた。しかし、河野氏は、被災した方々の支援を受ける時の気持ちを考えた。ただでさえ、地域の外からの心理的支援に対して警戒心を持たれかねないのに、日本人以外の心理士による支援がどれほど受け入れられるだろうか、という懸念があったのである。他方で、関東に住み大きな揺れを経験した河野氏自身に、被災地に入ることへの恐れがないわけではなかった。しかし河野氏は、日本人スタッフである自分ができることをという思いから、自身のネットワークを通じて日本人の臨床心理士に呼びかけ、被災地に入ることのできる人員を集め、被災地支援に臨んでいったのだという。
  こうした姿勢に反映されているように、河野氏は、被災地のニーズを拾い上げ、現地のシステムにのってすばやく柔軟に対応するという支援を心がけていた。その結果として、2箇所入った被災地(岩手県宮古市田老、宮城県南三陸町)で、それぞれ異なる支援が展開されたというのが興味深い。田老と三陸町でなされた直接支援と間接支援は、次の通りである。田老での直接支援は、診療所や保健所からの紹介を通じて行い、また、間接支援としては、ストレスチェックのチラシの作成と配布、医療従事者へのトレーニング、ボランティアのサポートなどを行ったという。なお、ストレスチェックのチラシの作成は、「絶対に自殺者を出したくない。絶対に孤独死を出したくない」という現場の思いを受けたものであった。南三陸町では、直接支援として心理サポートカフェ「あづまーれ」を設置し、間接支援としては、心理教育用のリーフレットの作成、災害FMインタビューへの出演協力などを行った。カフェ「あづまーれ」は、こころのケアを目的とするものではなく、被災者の方々がホッとくつろげる空間づくりが目指された。「あづまーれ」とは、この地方の言葉で「みんな、集まれ」という意味があるのだという。「あづまーれ」では、ホッとくつろげる場づくりを第一に、プラスチック製の皿やコップを用意するなど、物の質にもこだわった。結果として、被災者同士の交流の場として利用する人もいれば、心理士と話をすることを望み、災害時の体験や、避難所でのストレスや、大切な人びとを失った哀しみを語る人もいた。このように、被災者の声を拾い、地域の色んな人びとと関わり知恵を出し合いながら、ホッとできるくつろぎの空間を多様に創出するよう活動してきたというのは、まさに、コミュニティの土壌を肥やす活動であったと思う。
  本シンポジウム総合司会の村本邦子氏が述べたように、今回の東日本大震災は、地震、津波、原発という3つの出来事による甚大な被害が、時間的・空間的に途方もない拡がりをもってしまったといえる。ゆえにその復興には、長い年月・道のりが不可欠であるだろう。その有り様は、第二次世界大戦後の焼け野からからの復興と重なるものがあり、戦後復興の過程で飛躍的な高度経済成長と物質的な生活の質の向上を遂げた日本が、他方で、技術革新による様々なリスク―複数の原子力発電所の建設はそのひとつである―を負ってしまったことを省み、これからの復興の方向性を見据えていくのだと、村本氏はいう。村本氏の「社会変化の目撃者・証人(witness)として存在し続けたい」という思いには、そういう意図がある。こうして始められたのが、今後の10年間の支援を見据えた「東日本・家族応援プロジェクト」である。表層の利益に踊らされ、社会の誤った動向に流されてしまうこと、口を閉ざしてしまうこと、眼を見開かないでいることは、すなわち、加害に荷担してしまう結果になるのだというその言葉に、背筋がピンと伸びる思いがした。
  当「東日本・家族応援プロジェクト」は、青森県むつ市からのスタートであった。今後継続して被災地に入るなかで、開催地によって企画内容は少しずつ異なるが、必ず、団士郎氏による漫画展が開催され、それがひとつの目玉となっている。私自身、団氏の漫画には、「家族の練習問題―木陰の物語(1)~(3)」(出版社:ホンブロック)により、以前から楽しませていただいていた。
  3つ目の報告は、主として団氏によるものであった。団氏の家族を捉える視点は温かい。人はひとりひとり、リアルに今ここの「私」を生きている。人の数だけ物語がある、家族の数だけ物語がある。そのひとつひとつの物語に耳を傾け、目を向けることは、その個々の生き様を肯定することにむすびつき、当人の活き活きした有り様を引き出すのである。もちろん、語る当人に、必ずしも直接的にそうした効果がもたらされるわけではないかもしれない。しかし、その物語に耳を傾ける他者が、きっといる。George Kitahara氏は、団氏の活動を、コミュニティという場に個人個人の物語を入れていく営みであり、他者に対して他の人のストーリーを届けることが意図されている、と述べる。コミュニティにおいて、人と人との間で震災による喪失の体験が語られその個々の語りが変遷するなかで、個々人がそれぞれの経験をつなげ、また、人と人とがつながっていくのである。こうした団氏の、物語に対する真摯な姿勢とそれによってもたらされる効果は、「日頃なにげなく生きてきた日常が、バラバラになってしまった。それを再統合する試みである」(中村正氏)というフロアからの声や、「最大の暴力は存在を無にすることである。最大の暴力に対する最大の抵抗として、ひとりひとりの人生を無にしない、関心を示し続ける、witnessとして存在し続ける」(村本氏)という言葉と共に、私のなかで響き合った。
  無視すること、関心を示さないことは、人を孤独におとしいれる。「responsibility(責任)とは、応答(response)することである」。これは、私が以前に感銘を受け胸に刻んだ他者の言葉である。投げかけられたことに対して、何らかの反応を示すこと、さらには、自分の姿勢や考えを表明することの大切さ。こうしたことは、人の間で人に支えられて生きる、人としての責務であるだろう。もちろん、見えなくなってしまっていること、ゆえに、反応できないこともあるかもしれない。それに対しては物事を捉える目を肥やし感度をあげながら、少なくとも可視化された現象については、決して見て見ぬ振りをせずに、関心を示し続ける、そんな人でありたいものである。
  実際、ひとりひとりの声や物語に耳を澄まし、目を向けることで、わかること・学ぶことは多くある。他者の物語を通して気づく自分自身の何かがあり、よみがえる思いがある。こうしたことを通じて、人は、勇気づけられ、持ち前の力を活かすことができるのだと思う。このように、人と人の間で語り継がれるプロセスにおいて、震災による痛みの記憶の正常化がなされ、新たな物語が届けられ、その行き交う有り様が網目となって、―復興の道のりは長く遠いかもしれないけれど―やがてコミュニティの力となるのだと、期待を込めて思う。「東日本・家族応援プロジェクト」が、青森県むつ市に続き、岩手県遠野市で開催され、その後も福島県で予定されているように、今後10年という年月をかけて継続的に実施され、ひとつひとつの地域に赴き人びとと交流する営みが、数珠つなぎとなって、東北を、そして日本を、変えていく大きなエネルギーとなることを願っている。
  今回開催されたシンポジウムに参加し、「遠いからこそできること」という言葉も、支援を継続するひとつのキーワードとして印象深かった。それは、京都の地からの物理的な遠さだけをいっているのではないだろう。対人援助にかかわる様々な職種における「バーンアウト(燃え尽き)」という現象を思えば、時間的・空間的な被害の拡がりが想定される被災地復興に向けて、むやみに気張り・気負うことなく、自分の日常をしっかりと保ちながら、息長く支援する姿勢を持ち続け、できることをやっていくということが、非常に重要なことであると思う。私たちは、日常の裂け目に遭遇してはじめて、日常なにげなく生活してきた/できてきたことの有り難さを知る。日常が分断され、そこから紡ぎ出された、被災地におけるひとりひとりの人生の物語にしっかりと目を向けることを忘れずに、他方で、自分自身が日々の生活を営むことができていることの有り難さ・尊さをきちんと自身に突き付けながら、そこを起点として、自分になにができるのかを考えつつ、できることから行動に移していきたいという思いを新たにした。


 東日本大震災復興支援シンポジウムに参加して (女性ライフサイクル研究所 窪田容子)
  東日本大震災は、そこに暮らしていた人ばかりでなく、メディアを通してその様子をリアルタイムに見聞きした日本中の人たち、いや世界中の人たちにも大きな衝撃を与えた。司会の村本さんが、その影響を水面に広がる波紋に例えて話をしたが、コメンテーターのカリフォルニア研究所のKitaharaさんや通訳者、参加者が涙ぐみながら話される姿が、まさにそれを物語っているようだった。
  被災地と距離のある人たちの中で、被災地の支援に尽力した人たちも少なくないが、多くの人は何かをしたいと思い、しかしどうすれば良いのか分からず、募金などはしたけれど、どこかで何もしてないような無力感を抱えているのでないだろうか。私もその一人である。
  同じような衝撃的な体験をしても、何も行動できなかった人よりも、積極的に行動した人の方が、心理的ダメージが少ないという研究を読んだことがある。シンポジスト達の話を聞きながら、それは今回の大災害を直接的に体験していない人たちにとっても同様ではないかと思った。支援を通して、被災者に喜ばれ、そのことがまた支援者たちを力づけているように感じられたからである。被災地に入ったスポーツ選手や、著名な人たちが皆、自分たちの方が元気づけられたとメディアを通して語っていたのも印象に残っている。被災地にいなくても、遠く離れていても、今回の大震災でたくさんの人が衝撃を受けたのだ。そしてその後、積極的に支援活動に携わった人たちは、支援活動をすることで、自らも大災害の衝撃や無力感から回復していく力になったのでないかと思う。もちろん、それは過覚醒状態で、自分の心身を顧みず行う支援であってはいけない。
  私は、トラウマを抱える人へのカウンセリングに携わって15年になる。トラウマテックな体験により人は多くのものを失うが、とりわけ大きな喪失は、自分が暮らしているこの世に対する信頼感、安心感ではないかと常々思う。世界に裏切られた気がしたと表現した人もいる。明日何が起こるかは誰にも分からないけれど、どこかで今日と同じく明日は続いていくものだと思える安心感の上に、人は暮らしていくものだろう。しかし大災害(犯罪なども同様であるが)は、その安心感、信頼感を、突然、根底から打ち砕いてしまう。ここから回復していくためには、人とのつながりの中で、信頼感、安心感を取り戻していくことしかない。そのためには、何が役に立つのか。
  シンポジスト達が行った支援は、どれも現地の人々のニーズをくみ取った支援であった。また、被災者を被災者として一括りにするのではなく、個人個人を大事にし、個人個人の話に耳を傾け、個々のニーズに応じて柔軟に対応する支援であった。緊急時だからといって適当な物で間に合わせず、できるだけの配慮をする支援であった。個々のニーズを持った個人として尊重され、必要な支援を受けられること、コミュニケーションの場が得られること、そして被災者自身が何か役割を持ち、誰かに役に立てることが、信頼感、安心感の回復につながっていくことを改めて感じた。
  世の中への信頼感や安心感が崩れたその時に、社会からの温かい支援を得ることが出来れば、信頼感、安心感は回復していく。いや、危機を通して以前より安心感と信頼感が強固になっていくような社会であればと思う。そのために、私自身ができることは何だろうか。いろいろと考える機会を頂いたシンポジウムだった。


 シンポジウムに参加して (女性ライフサイクル研究所 津村薫)
  「寄り添う」という言葉の意味をあらためて考えさせられるシンポジウムでした。
  多田千尋さんの被災地あそび支援隊のご報告は、被災された方たちに寄り添いながら、遊びによってエンパワメントしたり、地元のシニアのやりがいを創出するなど、発表を聞いていると私までが胸が躍るような気がしました。嬉々としてお手玉を入れる袋を作るべく裁縫を始めた被災地の年配女性の話、すごいことですね。地元の方から出た「出番が必要なのね」という言葉、なるほどと頷きました。
  子どもたちが前のめりになって遊ぶ姿、夢中になれる素晴らしいおもちゃの数々。これまでのネットワークを活かして1週間で1万個ものおもちゃを集め、過去の災害から得た教訓を活かされての支援に取り組まれていて、日頃からの良いご活動ぶりが伝わってきました。遊びを通しての心の栄養補給、多田さんだからこそできた支援だとしみじみ思います。
  国境なき医師団の臨床心理士である河野暁子さんが被災地で展開された支援には、いくつかの重要なキーワードがあり、これに心魅かれました。「現地で求められていることを拾いあげ、すばやく柔軟に対応する。現地のシステムに乗っかって活動する」。良かれと思って一方的な支援をしてしまう流れもある中、こちらから心のケアを強調せず、話す人が何を話すかが決められるという、当事者主体で、現地の文化を尊重するありかたに強く共感しました。
  入った土地によって支援内容を検討されたり、どこで支援をするかを的確に選ぶといったアンテナの鋭さは、国境なき医師団のこれまでの支援の質の高さを物語っていると思いました。特に、つらい避難所生活を離れて少しでもほっとできるカフェを作ったというのは興味深かったです。そこで語り合う人々の写真が印象的でした。
  団士郎さんの漫画を通した支援も、日頃から家族の物語を描き続けてきた団さんだからこそできる支援なのだと思いました。「個別は普遍である」という団さんの言葉が印象的でした。団さんの著書は大好きで、シリーズで読んでいます。シンプルだけど深く、いつも人生の練習問題を解いているような気持ちになります。描かれた人生に圧倒されたり考えさせられたりで、涙腺が脆くなるため電車の中で読めない本ですが、これが被災地の方に届けられるのは、どんなにか力になることでしょう。
  他者の物語を他者に届ける。その他者から私たちは多くを学び、心が震えるような思いをし、刺激を受け、よし、また生きて行こうと考える。団さんの筆の確かさがあってこそですが、物語の持つ力をも強く感じました。
  日頃から取り組んでいるご活動あってこその支援。それを繋げたところにお三方のすごさがあり、良い支援が行われたのだと強く思います。
  立命のこのプログラムもこれまで取り組まれてきたテーマに支援
  コメンテーターであるGeorge Kitahara氏が、多田さんがこだわった床材やおもちゃを入れる箱の暖色や河野さんがこだわった心理サポートカフェの机・椅子・食器などを「訪れる人たちを尊重している」と意味づけされていたのは印象的でした。彼がこの未曾有の大災害に、共に強く胸を痛めてくださるお姿は印象的でした。被災地にも入られたという彼の涙まじりの言葉に、それを訳しながら思わず涙ぐまれた通訳の方、おふたりの握手に心が温まる思いがしました。
  黄辛隠氏の「被災地支援をするキーワードは理解すること、共にあること。彼ら自身がエネルギーを持っており、〇〇療法は重要ではない」Nguyen Thi Hoang Yen氏の「良き心を持って、相手のニーズに寄り添う」という言葉も印象的で、今回の発表にまさにぴったりなコメントだと思いました。
  今回のシンポジウムを主催され、皆で考える場を設定されたことももちろんですが、10年間、被災地に赴き支援プログラムを実施、目撃者であり続けるという、立命館大学大学院応用人間科学研究科としてのプロジェクトの姿勢には敬意を表したいと思います。
  あの揺れと、津波の映像、原発の恐怖に打ちのめされた日から8ケ月。被災していない私たちも傷ついた大きな大災害。それでも希望を見失わないで生きるとはどういうことなのか、それを学べる時間であったように思います。
  多田さんや河野さんが「何ができるのか?」とおそるおそる被災地に入って行ったという当初の心情を言われましたが、自分自身はごくごくわずかな義捐金を出すこと以外、今なお動けずに、そこに立ちすくんでいるのだと思います。
  そうこうするうちに記憶が薄れていったり、麻痺していったり、そうやって自分は多くの災害や紛争を忘れて生きてきました。
  自分自身が今後どうあり続ければよいのかと考え続け、たとえどんなに小さなことであろうと息長く行動することをやめないでおこう、微力であろうと被災地と共にありたいとあらためて思う1日になりました。
  質の高い良い支援のご報告に触れ、人が繋がることの大切さをあらためて感じました。ありがとうございました。


















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