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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

11月4日~11月8日 宮古市「東日本・家族応援プロジェクト 2016 in 宮古」




「家族応援プロジェクト2016 in 宮古」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   2016年11月4日(金)~11月8日(火)、「シートピアなあど」にて、社会福祉法人若竹会さんと宮古市社会福祉協議会の共催を得て、家族漫画展、11月5日(土)に「団士郎漫画トーク」「東北の自然と人々のくらし」「アートで遊ぼう」「支援者支援セミナー」のプログラムを実施しました。

   宮古を訪れるのも4回目です。1年ごとに街中の変化を感じます。あちこち工事中で、大きな壁に海が見えなくなり、大きな車が行き交っていました。会場となった「シートピアなあど」の2階から外に出ると、おおらかな海に抱かれた船々、すがすがしい秋空を悠々と天がける鳥たちの姿があり、「ああ、今年も宮古に来たな」と何だかホッとして、心身が緩む気がしました。

   「アートで遊ぼう」では、かわいらしい3きょうだいと一緒に塗り絵をしました。上のお姉ちゃんが懐いてくれて、おんぶしたり抱っこしたり、久しぶりに子どもと触れ合う暖かさと柔らかさを楽しませてもらいました。年齢から考えれば、「ちょうど震災前後に生まれたのではないかしら、ご家族は大変だったろう」と思いましたが、とても大切に育てられてきたことが伝わってきて、「人の力はなんてすごいんだろう」と思いました。赤ちゃん連れで駆けつけてくださったスタッフの姿もあり、こうして新しい命がつながっていくこと、子どもたちの笑顔に希望を感じました。

   今年の支援者支援セミナーは、中村正さんと一緒にファシリテートしました。出された事例や参加者の特性を踏まえながら、どのような形式で事例を検討するのがよいか、ずいぶん悩みました。事例提供者がパターナルな支援についての問いかけをしていたので、答えはひとつでないポリフォニックな視点が浮き上がるようにと考えました。ワークを通じて見えてきた世界は参加者の協働作業で生み出されたことを実感しました。事例提供者と参加者にとってもなにがしか役に立つものであればいいなと思います。

   交流会では、たくさんの話を聴かせて頂きました。4回目になって初めて聴く話もありました。また、今回の台風被害について、水に浸かった場所が大震災の時と同じで、フラッシュバックしてしんどくなった方々があったことや、「何とか立ち上がってようやくここまで来たのに、また振り出しかと、前よりダメージが大きい」とおっしゃる声もありました。いつもは来てくださる社協の方々も、今年は岩泉の支援で忙しく、来ることができなかったようです。そんななかで参加してくださったみなさん、若竹会のみなさん、プログラムをお手伝い頂いた横道廣吉さん(NPO法人かわい元気社事務局長)、須賀原チエ子さんと尾林星さん(NPO法人輝きの和)、本当にありがとうございました。来年もまたよろしくお願いします。

   帰りは、恒例になった田老の学ぶ防災に参加しました。3度目になりますが、定点から見る風景とガイドさんの語りの変化に1年という時間の流れを感じます。一方で、城山公園から見た大槌の様子はあまり変わっていないように見えました。最後は遠野の大平悦子さん宅にお邪魔し、囲炉裏を囲んでおいしい土地のものを頂きながら、遠野の昔話を聴かせていただきました。なんと豊かで満ち足りた時間だったことでしょう。岩手でのプロジェクトは毎年、紅葉の美しい季節です。

 2016 宮古(応用人間科学研究科教授・団士郎)

   宮古市への道中、JR山田線沿いの河川は、先日の台風被害で、無残な爪痕を残して流れていた。東日本大震災からの復興に費やされたエネルギーが、また台風で持って行かれてしまった喪失感、無念感は想像に難くない。山田線の不通状態を目にすると、いったいいつになったらスムーズな移動路は確保されるのだろうと思った。代替バスに頼らざるを得ない状況は、高齢者や子供たちの移動を阻み、不便な場所という固定化も引き起こしてしまうだろう。安定的でスムーズな移動手段が確保されないことが、沿岸部を僻地化してしまう。岩手県内に入ってから宮古までの遠さはやはり、何度訪れても半端ではない。

   漫画展会場にはプログラム前日の夕刻についた。道の駅「なあど」でのパネル展示は、いつものようにきれいにされていたが、商業施設のロビーであることから、当然いろいろなポスター等の掲示物が壁にある。そのため、ギャラリー空間としては少々残念な気がいつもしてしまう。地元以外からの立ち寄り者があり、なみはあるが展示期間中、見てくれる人が途絶えることはない印象だ。むしろ、「なあど」は地元の人はあまり行かないという意見があった。

   昨年来場して、その前年の冊子をずっと持ち歩いていたと語っていた方が、今年も駆けつけてくださっていた。私たちが毎年訪れて、継続開催の約束を果たしていることが、何か少し元気の素になれているかと思う。

   宮古では土曜日一日で様々な企画を実施したので、入れ替わり立ち替わりの来客印象がある。漫画トークは、毎年楽しみにきてくださる方や、地元世話人組織の方たちなど、いいメンバーで小会場の席はそこそこ埋まる。

   用意されていた懇親会場は和やかで居心地のいい時間を作り出していた。ざっくばらんさも、回を重ねるごとに生まれるリラックス感も含めて、宮古プログラムの今日的到達点だろう。

   日曜日は毎年フィールドワークで沿岸部被災地を訪ねる。田老の「学ぶ防災」プログラムに今年も参加したが、津波が防潮堤の向こうから押し寄せるのを田老観光ホテルの6階から撮ったビデオ、今年初めて、その現場で上映されるのをみた。

   これまでも二度、見たことがあったが、今は窓の外に穏やかな海が見えるその場所で、あの津波映像を見ると、なんともいえない恐怖を覚えた。大きな堤防に守られているからと、安心してゆっくり避難するおばあさん。津波の警報を告知しながら通り過ぎる消防車。この一瞬後には、皆津波にのまれる運命にある映像である。ビデオを撮りながら,目にしている大津波の危険を叫ぶ撮影者の声が届くことはなかった。

   そして現在、さらに高い防潮堤の建設が急ピッチで進んでいる。津波に勝る防潮堤などあるのだろうか?高い防潮堤を築くことが、さらに大きな津波を予感させる。どうして津波に勝つのではなく、津波の時は逃げるという先人の知恵が反映されないのだろう?と通りすがりの傍観者ながら思わずにおれない。もし、沖の白波が大きくなっていくのが浜から見えたら、誰もが高台に向かって駆けだしただろう。

 「東日本・家族応援プロジェクトin宮古2016」に参加して(応用人間科学研究科教授・鵜野祐介)

   2016年11月4日~6日、宮古のプロジェクトに参加した。私自身、宮古を訪れるのは今年が4回目となる。東日本大震災から5年半が過ぎ、復興の進捗具合にさまざまな格差が現われているという報道をよく耳にするようになった。また、宮古の北側に位置する岩泉町が今年8月の台風10号によって大きな被害を受けたことも聞いていた。そうした情報の真偽をこの目で確かめることも今回の訪問の目的のひとつだった。

   <台風10号水害の爪痕>

   4日午後3時。盛岡駅に降り立つと、数日前の寒波で雪化粧を施された岩手山が迎えてくれた。駅の長いコンコース(連絡歩道橋)の、岩手山を望むことができる場所にある、石川啄木の詩碑(プレート)が目に留まった。「ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな」。一年ぶりにこの地を訪れた異邦人にとっても、まことに「言ふことなし」の山である。

   昨年までは盛岡から宮古まで行くのに利用していた山田線が、台風10号被害により不通のため、今回はバスを利用せざるを得なかった。午後3時45分、盛岡駅を出発し宮古へと、国道106号線を東へ。紅葉は今が盛り、晴天にも恵まれてとても美しかった。途中、災害復旧工事や新道敷設工事のための片側通行区間が何ヶ所もあった。水流にえぐりとられた路肩や、株ごとひっくり返ったまま水に打たれる大木を何本も目にした。東京オリンピック2020関連の土木事業に金も人も流れ、東北地方でのこうした事業が滞っているとの報道が思い出された。一応工事は行われていたが、進捗状況は予定よりも遅れているとのこと。「復興五輪」とはやはりかけ声倒れのようだ。

   本州最東端に位置する宮古市だけに、日の入りが早い。午後4時を過ぎると暗くなりはじめ、5時半頃には真っ暗になっていた。18時10分、宮古駅前に無事到着。

   翌5日。昼食を摂りながら、この日絵本を読んでいただいたNPO法人「輝きの和」の須賀原チエ子さんから、台風10号水害が宮古の人びとに残した爪痕について話を伺う。5年前に津波被害を受け、今回再び被災した地区の住民には、復旧作業の負担による身体的ダメージももちろんのことながら、「またか。いくら頑張ってみても今度また同じ目にあうのではないか」という徒労感や絶望感といった精神的ダメージの方がもっと大きいという。また沿岸部から離れており5年前には被災しなかった閉伊川の上・中流域の地区で今回、土砂災害や水害に遭ったところもあった。今回の災害を通じて、「災害が多い町、住みづらい町」というマイナスイメージが宮古市全体に拡がっているのでは、と須賀原さんは危惧しておられた。宮古の人びとの「レジリエンス=それでも上を向いて歩いていこうとする力」を支え育んでいこうと立ち上げた我々のプロジェクトの真価が、今こそ試されている気がした。

   <プログラム「故郷のうたと絵本とむかしッコ>

   この日、私が企画と進行を担当したプログラムは、前回(昨年)もお願いしたNPO法人かわい元気社事務局長の横道廣吉さんによるスライドショーを用いての「鞭牛和尚」他の伝説の紹介に、今回新たにNPO法人「輝きの和」の須賀原チエ子さんと尾林星さんによる絵本読み語りと昔話紙芝居が加わった。準備段階での打ち合わせができず、こちらが企図する「世代を超えて皆で東北・宮古の良さを体感してもらう」ための方策について具体的なアイデアをお示ししなかったため、3人の方がたは戸惑いとともに手探りの状態で準備を進めるしかなかった、という感じがうかがえた。この点、企画責任者として反省しなければならない。それでも、地元の方がた同士が連携し協力してプログラムを作り上げていくという形のスタートが切れたことは大きな収穫だった。

   今後、①尾林さんの画と横道さんの文による紙芝居版「静御前 早池峰絶唱」を共同制作し、上演していただく、②(今年、多賀城でやったように)参加者全員が輪になって座り、宮古の伝承手まりうたを歌いながら、数珠回しのようにお手玉送りをする、③宮古(岩手)伝承の動物昔話や笑い話を方言で語っていただく、といったプログラムを実行してみてはどうだろうか。その他の案も併せて、須賀原さんを中心に皆さんで検討していただき、楽しい企画を作り上げていかれるよう願っている。

   <田老「学ぶ防災」>

   11月6日朝、宮古市田老地区を皆で訪れ「学ぶ防災」プログラムに参加した。私自身は今回が3回目だったが、昨年と同じ女性のガイドさんが担当して下さった。爽やかな青空がひろがっていたものの、高さ10メートルの防潮堤の上に立つと、海からの強い風にあおられて、時折ガイドさんの声もかき消されるほどだった。

   新たな防潮堤の建設を含む復興事業の進み具合について、必ずしも多くの市民が望むような形にはなっていないことが、その説明の端々から窺えた。と同時に、多数派意見の合意形成を図ることの難しさも伝わってきた。「防潮堤はいらない」という想いはおそらく、毎日海を眺め、海とともに生きてきた住民の多くが抱いておられるに違いない。けれど、「それでもこれがあることで安心できる」という気持ちも正直なところだろう。そんなジレンマを抱えたまま、工事用車両が行き交い、日々変貌していく町の風景を呆然と眺めている人も少なくないのではないか。

   ともあれ、6階まで昇って津波のビデオ映像を観ることができるようになった「たろう観光ホテル」にはぜひ多くの人に訪れていただきたい。この場に立って津波の高さと破壊力を実感することが防災意識を高める何よりの方法だと、改めて感じられた。

   <大平悦子さんのむかしッコ>

   6日の午後、今回のプログラムの最後に、遠野の語り部として国内はもとより海外でも活躍しておられている大平悦子さんのご自宅にお邪魔し、むかしッコ(民話の語り)を聴くことができた。数年前に移築し、藁ぶき屋根を葺いたという古民家の囲炉裏端で、大平さんご自身が用意してくださった南瓜入りぜんざいや果物に舌鼓を打ちながら、柳田国男の『遠野物語』に収められたオクナイサマの話や「猫の浄瑠璃」の話、「豆腐とコンニャク」をはじめ遠野地方に伝わる昔話のいくつかを、解説も交えながらゆったりと語って下さった。

   囲炉裏の中で燃える薪がバチッバチッと音を立てて爆(は)ぜ、立ちのぼる煙が目に沁み、その匂いが全身に浸み込んでいく。焚き火から伝わる熱で顔は火照っている一方で、煙を逃がすために開けられた窓と入口の引き戸から入りこむ冷気で、背中の方は肌寒く感じられる。ぜんざいをすすり、お腹の中まで温まった後、リンゴをかじると頭がシャキッとする。視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚、昔の人もこんなふうに五感を通して身体ごと「むかしッコ」を体験していたのだろう。

  

   「心の復興」という言葉が聞かれるようになって久しい。音楽や演劇をはじめとする芸術文化の活動がこれに貢献するとして、プロ・アマを問わず、今も多くの個人や団体が被災地を訪れて、ひとときの感動と興奮を現地の人びとに与えている。そうした活動に対して異議を唱えるつもりはない。ただ、それはあくまでも「祭り」にすぎない。そして嫌でも「祭りのあとの淋しさ」が訪れる。その時、「祭りのあとの淋しさは/たとえば女でまぎらわし/もう帰ろう もう帰ってしまおう/寝静まった街を抜けて」(岡本おさみ詞、吉田拓郎曲、吉田拓郎「祭りのあと」1972年より)と歌うしかないのだろうか。

   感動と興奮の祝祭空間を離れ、日常性に回帰した後もなお「心の豊かさ」を持ち続けるための方策が今、求められている。そして、「むかしッコ」の中にこそ、その可能性を見出すことができるのではないか、と私は考えている。週1回でも、月1回でもいい。地元の住民同士が集まり、先祖の代から地元に伝わる話を地元の言葉で語り合い、聴き合う。心づくしの手料理と飲物に舌鼓を打ちながら、ゆったりとしたひとときを共有する。できればお年寄りから幼い子どもまでいろいろな世代の人びとが、また新参の住民や観光客も、そこに参加できるといい。

   英国スコットランドにはかつて「ケイリー・ハウス」と呼ばれる、地域の人びとが寄り合い、うたや語りを楽しむ集会所があった。日本にもかつての村落社会には同様の場所が当たり前のように存在していた。このような「シェアリング・スペース(分かち合う場)」をどのような形で、またどのようにして再構築・再創造していくか――。東日本・家族プロジェクトの残り4年間、私自身の命題となりそうな予感がしている。大平さんのお宅でのひとときは、これを考える上でのひとつの理想的なモデルケースとなる貴重な体験であった。末筆ながら、紙面をお借りして大平さんご夫妻に心からお礼を申し上げたい。

宮古で支援者支援セミナーを担当しました(応用人間科学研究科教授 中村 正)

   支援者支援・間接支援は応用人間科学研究科がめざす対人援助学の柱のひとつです。臨床実践・支援は直接的な援助が基本となります。直接支援は二者関係がもとになりますが、グループ、集団、施設、地域等、対象のとりかたは広くすべきだと思います。

   支援者支援・間接支援は直接援助とは異なるものです。しかしスーパーバイズとは違います。伝統的なスーパーバイズには臨床実践者や支援者を指導するという関係が明確になってしまいます。クライアントと援助者、その援助者とスーパーバイザーという同心円的でもあります。これはあまり推奨できません。

   とはいえ、援助実践を反省し、省察する仕組みは不可欠です。当該の援助者集団やシステムの自己反省の仕組みは、リフレクティングとして、伝統的なスーパーバイズの仕組みとは異なる仕方で組み込むこととができます。たとえば、支援されることが多い「当事者」の参加、直接支援者を支援するように機能するグループワークの展開、グループワークを活用した援助者支援の仕組みの導入等です。一方的な指導にならないようにスーパーバイズそれ自体を組み替えることです。

   今回は村本さんと一緒に進行役をしました。提案された事例の登場人物の役割になって当該の事例全体を見直していきます。登場する人物に別れてドラマ化します。就労支援をされている若者当事者、その若者の親、就労先の指導者、就労支援をしている支援者(今回の事例提供者)です。20人程度のセミナー参加者を4つのグループに分けて事例全体をながめて意見を出し合います。役割のなかでもいろんな声がでてきます。それは複数の物語を構成していきます。時には同じ役割のなかでも矛盾する声が共存しています。物語は錯綜します。人生のように一筋縄ではいかないのです。もともと当事者も支援者も多声的な意見をもっています。それらが時間の経過とともにある一つの流れとして形成されていきます。

   支援者が考える就労支援の方向性や内容を押しつけるのではなく、当事者が自己決定できるようにしていく支援とは何かが大切だということを研修していきます。支援者はいずれフェードアウトしていくものです。支援者の内部にも逡巡する声があるはずです。それを声に出し合いながら、自己決定していくことのできるような方向性へと当事者の声を尊重していきます。

   しかし当事者がきちんと自らの意志や欲求を言葉にできずにいることにも配慮が要ります。また、自己決定の支援といっても自己責任を押しつけることではありません。うまくいかないときにはまた誰かに支援を求めることのできる力も育み、支援から自立をし、自らやけどもしながら生きていくことそれ自体を尊重できるようになることをめざします。若輩者を指導する一方的なスーパーバイズではない導きと気づきのあり方にもとづく研修は心理社会的な臨床と支援には不可欠な取り組みです。

    私はいままで青森県下北のプロジェクトにしか参加していなかったのです。今回は宮古の港街に来ることが出来ました。復興は慌ただしく港を変化させていくようです。また来年も来ることが出来たら、さらに変貌した街になっているのだと思います。しかし何があっても変わらぬもの、それは対人援助を介してつながる力だと思います。

東日本・応援プロジェクトin宮古に参加して学んだこと(対人援助学領域M1 村上 成美)

   11月4日から6日にかけて、東日本・応援プロジェクトin宮古に参加させていただきました。宮古に訪問させて頂くのは始めてであり、宮古の歴史や震災について事前に調査を行いました。

   宮古に訪問し、実際にその地域を見ること、地域の方の声を聞くこと、その地域の方と時間を共にすることで、事前の調査だけでははかり知れなかったこと感じ、理解することが出来たように思います。そして、地域の方の語りからは、声に出して語れる物語、また、震災に遭遇され6年たった今でも、声には出せない心の中の物語があることを教えて頂きました。

   盛岡から宮古駅までのバスでの移動中、乗客に話かけられる年輩の男性がいらっしゃいましたその男性は盛岡から宮古に向かう道中の土地の名前や景色の見どころ、台風での水害でのことなど詳しく話されていました。しかし、乗客の方が、「災害(東日本大震災)の時は大丈夫でしたか?」と問われると。「災害ってどの災害?」話しをそらすような返事をされました。しかし、バスが到着する頃、「市役所の前は船着き場になっていた、ということは太平洋や浄土ヶ浜の海とつながっているということや」と話され、短い会話の中で、精一杯心の中に納めている震災当時のことを伝えて下さった様に感じました。

   団先生の漫画トークの後、年輩の女性が話しかけて下さいました。自分も震災に会い津波で家を流されと話して下さり、団先生の漫画トークと聞き、「話せないことにも意味をもつということを学んだ」「私に話せる内容の中に生きる自分と、話せない内容の中に生きて行く自分。どちらも大切にして生きたい」と団先生の漫画トークと出会いに自分の中の心の折り合いを見つけられたのかなと感じました。そして、私に「修論を書いてそこからが始まりですからね」と反対に元気を下さり、震災プロジェクト、そして宮古に伺って、暖かい出会いをいただいた時間となりました。

   フィールドワークでは、”田老の学ぶ防災”に参加させていただき津波の怖さや避難の重要性を痛感しました。また、語り部の大平さんのお宅に訪問させて頂き、囲炉裏で焚かれている火の音と共に聞かせていただいた、遠野の民話はその光景を浮かび上がらせるような不思議な、ほっこりとした時間をとなりました。

   今回、宮古の震災プロジェクトを通し感じたことは、震災プロジェクトに重ねてこられた、先生方や先輩方が地域の方と積み重ねて来られた今までの時間が、今回の訪問のこの時間つながっているということでした。積み重ねることで得る信頼関係、安心感、そして、広がっていく輪を参加することによって感じることができました。

東日本・家族応援プロジェクト 2016 in 宮古に参加して(対人援助学領域 M1 平松 祐佳)

   今回東日本プロジェクトに参加して、実際現地にいってみないとわからないことがたくさんあることに気づかされた。事前にどういう場所であるか、どれくらいの被害があったのかについては調べていったが、それでも実際現地にいってみると、調べていただけではわからないことが数多くあった。離れた場所で、どういうのが支援であるとか考えていても、現地の状況はその時その時によって変化しており、こちらが考えているような支援が必要ない時もある。現地の人が主体となって活動することに意味があり、その活動のお手伝いをするというような形の支援の仕方もあるのだということを学んだ。

   また、宮古については特に台風被害によって復興が少し遅れており、恐ろしいのは災害そのものだけではなく、それが復興するまでに膨大な時間がかかることなのかもしれないと思った。実際宮古を訪問する際、盛岡からの路線が台風の影響で長期間運転を休止していた。現地の人の話を聞いて、震災と台風という、二つの自然災害が時期をずらして起こった時の被害や心理的なダメージは、ただ被災したときとはまた違うものであるように感じた。支援とは何か、復興とは何か、離れた地で生活している私に何ができるのかについて考え直す機会であったように思う。

   このプロジェクトは10年継続することを前提に活動しているということであるが、長期間関係を持ち続けるということで、単なる支援・被支援関係だけではない、また別の関係性も生まれてくるのはないかと考えることが多々あった。何かの目的に焦点をあてて支援するとなると、それが解決したらその関係性はなくなってしまう。しかし、とにかく関わり続けるということで、その時その時に現地で生まれた課題に対し協力して対応していく関係が築けるのではないかと思った。

宮古 (対人援助学領域 M2 永井千晴)

   私は昨年に続き2回目の宮古訪問であった。今年は9月に上陸した台風10号の爪痕も残っていた。震災後,復興に向けて街づくりや住民のケアがなされてきたが,台風10号の被害のように復興も一進一退の作業なのだなと感じた。住民の方たちの苦労や大変さは,私たちでは想像できないこともあるだろう。

   宮古についてからは,昨年お世話になった若竹会の方や学ぶ防災の方に再開することができた。向こうも私たちのことを覚えていてくださって,再会を喜んでくださった。また,新しく若竹会の新しい職員の方や,輝きの和のスタッフの方に出会いった。彼らに「また来年もよろしくお願いします」と言われて,このように人とのつながりが広がっていき,また再会を喜び合うことができることをうれしく思った。このプロジェクトの力だと思った。

   震災に関してここで多くを語ることはできないが,彼らの話を聞いて私が皆さんに伝えたいことは防災意識である。「津波に気をつけなさい」と聞いてピンとこない人もいるだろう。海のない街で育った私もそうである。しかし,今や私たちを脅かす災害は津浪だけではない。地震,台風,土砂崩れ,火災など様々である。これらの災害は突然襲ってくる。先日発生した博多駅前の道路陥没も,誰一人予想していなかっただろう。一人でいるとき,どこかに出かけるとき,今災害に遭ったらどう逃げるか。どうやって生き残るか。自分の命を守るために,家族と生きて会うために,私たちは防災意識を高める必要がある。宮古に行ってきて,これは大げさなことではなく本当に必要なことなんだと強く思った。

宮古プロジェクト2016 (対人援助学領域 M3 伊藤恒介)

   宮古へ足を運んだのは今年2回目だった。今年は盛岡駅から岩手県北バスに乗って宮古へ向かった。バスに揺られながら改めて自然の豊かさや美しさを感じ旅路となった。この美しい自然が時には牙をむくわけだが、それでも宮古に住む人たちにとっても大切な景色なのではないかと思いながら景色を眺めていた。実際、宮古でお話をさせていただいた人の中には、「なんだかんだ宮古の自然が好きなんだよね。」と話しておられて、そう思える環境が近くにあることを純粋にうらやましく思った。

   一方で、前回も伺った田老地区の「学ぶ防災」では、復興地の今を見ることができた。ゆっくりだが着実に復興は進んでいるようにも見えたが、ガイドの方が涙ぐみながら語ってくださった話はやはり心に響くものであった。田老に訪れると、防災に対する意識をしっかり持たなければということを毎回考えさせられる。ちょっとした心の油断が命取りになることを肝の銘じておきたい。

   宮古から花巻空港に向かう途中、遠野で大平悦子さんの語りを聞くことができた。囲炉裏を囲んで、薪がパチパチ鳴っている空間に大平さんの語りを聞くことは至福の時間で、「また明日からがんばろう」となんとなく思えた。これが「語り」の力なんだろう。

   宮古にうれしかったことがある。それは現地で共催している若竹会の皆さんと会えたこと、そして2年ぶりに行った私を覚えていてくださったことである。久しぶりに、それも会うのも2回目の私に「弟のようだ」と言ってくださる、こんなうれしいことがあるだろうか。遠い土地にいる年に1回会える兄に思いをはせながら、また来年を楽しみにしたい。

「東日本・家族応援プロジェクト in 宮古 2016」に参加して ~ 「また来年」という約束~ (対人援助学領域修了生 奥野景子)

   宮古に行くのは、今年で四回目になる。若竹会のみなさんと一緒にプロジェクトをするようになってからは、三回目になる。初めましての人もいれば、お久しぶりですの人もいる。遠く離れていると思っていた宮古までの旅路にも慣れ、現地に顔なじみができ、いつもの場所やいつものお店ができた。「あぁ、そーそー変わらないな」と思うこともあれば「あら?なんやろ?ちょっと変わったんかな?」と思うことも「あぁ、へぇ~、変わったんや~」と思うこともあった。

   「故郷のうたと絵本とむかしッコ」というプログラムの中で、講師である横道さんからある和尚さんのお話があった。そして、その和尚さんの銅像が宮古市内に二か所あるとあった。それを聞いた私は‘ん?’となった。さらに、横道さんが「歩道橋の~~~~~のところと、りんごの看板があるバス停の~~~~~のところに……」と言った瞬間‘あっ!あの銅像のことや!!’と思った。毎年、市役所前の歩道橋に行き、そこから海の方へ散歩に行くのが私の中でひとつの流れになっている。そして、何年か前に歩道橋の近くで見つけたお坊さんらしき銅像のことがなぜか気になっていた。そして、それと同じものをたまたま町中で見つけた時も不思議に思っていた。横道さんの話を聞き、その銅像のことがわかり、その銅像がだいたいどこにあるのかがわかった自分がなぜかすごく嬉しかった。ただ、翌日になって和尚さんの銅像に会いに行こうといつもの散歩に出掛けたが、思っていたところに辿り着けず、結局和尚さんとの再会は果たせなかった。それでも「まぁいっか。来年誰かに教えてもらえばいいや」と思って、その場を後に出来たのがまた嬉しかったりもした。

   このHP原稿を書くにあたって、今まで自分がどんなことを書いてきたのかを改めて読んでみた。一年目の時は東日本大震災という現実を目の当たりにした自分自身の思いについて書き、二年目の時は若竹会のみなさんとの出会いやこれからのことについて、三年目の時はこのプロジェクトや宮古と自分自身の生活のつながりについて書いていた。そして、今年は何を書こうかなと思いながらPCに向き合っている。

   先に書いたように、宮古という土地やそこで出会った人たちと自分との距離や関係性が変わったことは、大きな気付きだったように思う。それ以外に印象的だったのは、やっぱり東日本大震災という出来事が過去に起きたということを改めて感じたことだと思う。今回宿泊したホテルは去年、一昨年に泊まったホテルとは違うところだった。そして、例年の見慣れた景色とは少し違うものに出会うことがあった。ホテルの横の消防団の倉庫の壁には津波到達点を示す看板が貼られており、それを見てなぜかハッとさせられた。東日本大震災が起きたということを忘れていた訳ではなかったが、なぜかハッとさせられた。宮古に対してそれだけを意識していない自分がいたと言えばいいのだろうか。実際、「‘東日本大震災の被災地’としての宮古」ではなく「‘宮古’での東日本大震災」といったように宮古という土地やそこで生活をする人たちに自分の視野の軸はあるように思う。ただ、東日本大震災と出来事があったのも事実で、それだけじゃない現実があるのも事実で……と、頭の中を色々なことがぐるぐると回りだしてしまう。たぶん、忘れてはいけない過去があり、忘れてはいけない今があるんだと思う。そのどれもを知り、そのどれもを覚えておくことは、なかなか難しいのだと思う。それでも、自分が大切だと思うことについては知りたいし、覚えておきたいし、考えていきたいなと改めて思っている。

離れて暮らす者の想いを動かす地 (対人援助学領域修了生 清武愛流(清武システムズ))

   宮古に訪れ今回が、4回目。毎度、離れている地だと感じる。空路で行っても花巻から車がなければ宮古に行くことはできない。

   ようやく山田線が使えた去年一昨年は、陸路で行った。盛岡から山田線に乗り、ざっと7時間程度はかかる。この時間には、緩やかに進む電車と共に、山と川の美しさからのどかさを知る。

   しかし、今年は改めてそれだけではない、自然と人の生活の営みが共存している宮古を改めて感じた。私は初めて、盛岡から宮古駅までバスで向かったのだった。今年の台風の影響で、宮古までの路線が使えなくなっていたからだ。

   このような私の体験から、改めて気づくことがあった。東日本大震災でも、なかなか支援が届かなかったこと。また、今でもそれは、地理的な難しさから生まれていることも想像できる。メディアで知る限りでは、行きやすい地よりも宮古市の復興状況は取り上げられていない。ひいては、行きやすい地のことや分かりやすい「復興」状況を知る機会が多い。もしかすると、そのことが、返って支援が届きづらさの残る場所のことを忘れさせやすくしているのではないだろうかとふと思った。

   そこで、私はシートピアなあどで開催された家族漫画展やその周辺で関わりあったことを記しておきたい。

   「災害といっても、もうどの事か分からないね」と話された方がいた。皮肉を混ぜたような、苦境の想いの向けどころのないような状況が震災から5年以上経った今でもあることを痛感した。だが、こうした皮肉が言えることもこの地の人のユーモアであり、しなやかな軽快さだと思った。しかしながら、継続的な支援の難しさの要因は地理、そして自然の摂理にもあると感じたことにかわりなかった。

   それでも私は、宮古市に行きたい、もう少し知りたいと思うのだ。当初から宮古市、なかでも、末広町商店街がお気に入り。着いたらすぐに行く、和菓子屋さんがある。店員さんはお婆ちゃん。後輩の奥野を引き連れ、お店までお散歩。今年は、閉まっていたのに、私は「こんばんは!また来ました!!」と近所の子どものように声をあげていた。そして、お婆ちゃんは、閉まったシャッターの横のドアから、「どうぞ〜」と私たちを招いてくれた。私にとって定番の動きが、違う地だからこそ、受け入れてもらえる感じがし、心地よく感じる。

   少し変化していることがあった。去年と違い、お婆ちゃんの髪型はショートカットになっていたこと。それから、目の前にあった同店舗は、復興住宅に変わっていたことだ。

   どんな思いでどのような状況の中決断されたのだろうか…と気になりながら、小冊子をお渡しした。そして今年は、お婆ちゃんの写真を撮って帰った。

   そもそも、なぜ少しでも時間があれば、近所を好んで散策してしまうのだろうか…共催している若竹会さんの職員の方や後輩からも、なぜ宮古が好きなのか尋ねられ、改めて考えていた。

   最終日の朝、奥野と海沿いまで散歩をしながら、「奥野、末広町商店街が好きなのは、色々な人が混ざっているからかも…俺らも混ざっている。障害があると分かる人が、バス停や駅に集っている、子どもや親、中学生や高校生がウロウロしていたりたむろしている…みな、よく知らない人であるのだろうが、無関心や遠ざけるような素ぶりはない、知っていれば、大きな声で挨拶を交わしている光景もある。こんな町、最近少ないし、あえてそうしようと活動する人もいる。ここのような地域社会を人は欲しているんじゃない?でも、実はここにその日常はあるぞ…」人はそもそも多様であり、それを活かす良さを見つけていきたいと思っている自身に気づく機会となっていた。

   さらに、この通りには、昔栄えていた時期から今もなお想いを寄せている人と話し、より一層興味が惹かれている。足を運ぶたびに僕のお気に入りになっている理由をようやく言語化し始めた。

   これらを通し、この記述が宮古市の復興の経過と元々ある社会的な動向の危うさと良さ、何より宮古市に住んでいる人の想いある場があるということを読んで下さった方届けられたらと思う。私は、この経験を自身の実践と今後のプロジェクトに活かしていきたい。


漫画展


漫画トーク



アートで遊ぼう



故郷のうたと絵本とむかしッコ



スタッフ交流会




田老「学ぶ防災」



大平悦子さんのむかしッコ



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