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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト


2013年12月1日~12月8日「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2013」




福島市で「東日本・家族応援プロジェクトin 福島 2013」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

    2013年12月1日~12月8日、東日本大震災中央子ども支援センター福島窓口、NPO法人きょうとNPOセンターとの共催、福島県、福島県中央児童相談所後援という形で、福島市市民活動サポートセンター・チェンバ大町にて、今年で3回目を迎える「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2013」を開催しました。

    今年も、支援者支援セミナーと子どもプログラム「クリスマスカレンダーをつくろう!」を担当しました。セミナーは9人のグループでしたが、子育てや介護など、家族が日常的に抱える問題が話題になりました。震災や放射線による負荷がかかるなか、それらが余計に大変になっている状況が感じられました。仮設でも認知症の進行が早くなっているとのこと。一方、町に避難した子どもたちが新しい環境を喜んでいたり、悩んでいたしがらみから解放されて楽になったとおっしゃる方もいたりするとのことです。そう言えば、昨年は、避難を契機にずっと不登校だった子が喜んで学校に行くようになったという話を聞きました。何がどんな影響を及ぼすかわからないものだとあらためて思います。 

   カレンダーづくりには、9人の子どもを含む計15名のご家族が来られました。「材料をたくさん用意しましたので、よろしければご一緒にどうぞ」とお誘いしたところ、お母さん方も参加され、工夫を凝らした素敵なカレンダーが出来上がりました。昨年も参加してくれた子どもたちが5人も来てくれたのですが、「今年はいつかな?いつかな?」と楽しみにして、チラシを待ってくれていたとのことでした。1年経って、子どもたちもほんの少し大人っぽくなっていました。継続して来ることで、子どもたちの成長を見ることができるのは嬉しいことです。今年は、昨年も参加した修了生がプリンターを用意してきてくれ、カレンダーと一緒に写真を撮ってプレゼントしました。  

    こうして時間の流れを感じる一方、「除染中です」の看板を掲げ、マスクをした作業員たちが除染作業をしている姿を見て、ふと我に返ります。これが福島の現在なのでしょうか。「支援はいらない。今は一緒に福島のことを考えましょうと言って欲しい」という声を聞き、「本当にそうできたら」と思いました。それにしても、「福島のことを考える」とは何を意味するのか、それを考え続けなければならないと思った三年目でした。 

 福島日誌2013(応用人間科学研究科教授 団士郎)

  三年目の福島 

    福島という土地への馴染みは、駅から会場までの街路、周辺の商店街など、全体感として手の内にはいってきている。そして改めて、観光に来ているわけでも、調査に来ているわけでもないことで見えているものがある気がする。積極的な現地調査ポジションではなく、三度目の訪問で見えてきている風景があるように思う。

  マンガ展 

    昨年同様チェンバおおまちの三階の一室で開設する結果になったギャラリーは、やはり空間的制約の大きい展覧会になった。室内の展示法は、今年のスタッフがよく考えてくれていて、部屋に一体感のある空間が作り出されていた。

   ただ、建物の三階にある部屋に入ってみなければならない展示は、通りすがりにも見てもらえるものとは大きく異なってくる。最初からマンガ展を目的的に来場する人以外は、滅多に訪れる人のない設えになる。  

    ギャラリースペースの設定には原則を打ち出して準備する必要があることを痛感。多賀城のロングラン展示もそうだが、出会い頭の遭遇的要素を含めておかないと、ギャラリー展示を多くの人に見てもらうのは難しい。

    長期間の展示と、そこでのマンガトーク参加へのお誘いを連動させる仕組みももっと考える必要があるだろう。

  マンガトーク 

    例年の事ながら、少人数の講演会である。届くべき人に届くことが意味あることではあるが、一方、年を重ねるに従って、裾野が広がる工夫も必要だと思い始めている。

    漠然とした告知から、リピーターとその周辺の人たちへの招待告知に展開させることも頭に浮かぶ。事前に小冊子「木陰の物語」配布を伴う告知をして貰った効果は、余り見られなかったのだろうか。  

    一年目、二年目と比べて、土日の福島駅周辺は賑わいを取り戻しているようにみえた。子どもの姿を見る頻度が極端に少ない気がするのは、場所にもよるだろうし、何処まで福島の現状が反映されているかは不明だが、週末の繁華街には、偏って二十歳前後の人々の姿が目に付いた。 

    元に戻ることはないが、三年足らず経った福島は、緊急事態とは異なった現在の姿を見せ始めている。そこで暮らす人々の行動の中に、被災の爪痕が個別化してあらわれ始めているのだろう。 福島に暮らす人々全体の中に、疲労感や届かなさ故の強い主張がそこここに感じられる。

    10年のプロジェクトは未だ三分の一が終わったところだ。

 福島プロジェクト(応用人間科学研究科教授 尾上明代)

    今年の福島プロジェクトは、私にとっては二回目の訪問だった。前日、会場での準備中、ロビーで地元の男性の方から声をかけていただいた。たまたま別の会合(アムネスティーの活動)で会場にいらしていたそうだ。翌日のプログラムにお誘いすると、線量を測りにフィールドワークに行くので参加できないとのことだった。 

    この方は、放射能汚染について間違った情報が流れていること、その実態を知るために線量測定などの活動を多くされていること、また福島(特に仮設住宅)には助けを必要としている人たちがたくさんいるので、もっと多くの援助がほしい、ということを非常に強く訴えていらっしゃった。「ここではマスクをつけた方が良いですよ」と言われたのも印象に残った。 

    上記の方は、そうした活動をされていることもあり、行動を起こしたり、活動を続けたり、必要なときには強く訴えたりするエネルギーをお持ちなのだと思ったが、一方、一般の住民の方々が皆、そのようなエネルギーを保ち続けるのは難しい。今の福島が抱えている特殊な種類の不安はあまりにも過酷で、住民や避難していらっしゃる方々の状況を考えるといつも胸が塞がれる。

    しかし、こうした状況、こうしたときこそ、私たちはしっかりと考える力を持ちつづけなければいけない。院生の新谷眞貴子さんが事前レポートで紹介して下さった後藤忍さん(福島大学共生システム理工学類)の論考、「こころのケアとしての、“減思力”の防止―『放射線と被ばくの問題を考えるための副読本』をつくって」(『精神医療』2013.10月号)は興味深かった。原発事故の被害者は、「加害者側が発信する情報の論理的な矛盾や誤謬を見抜き、自らの思考停止を防ぎ、被害者として当然守られるべき権利を認識して主張できるような、判断力・批判力を育むこと」が大事だとしている。 

    実は、ちょうど福島に行く3日前、私は東京の岩波ホールで映画「ハンナ・アーレント」を見た。周知のことであるが、「イスラエルでのアイヒマン裁判で『命令に従っただけです』と言ったアイヒマンは、極悪非道な犯罪者ではなく、単に『思考不能』に陥っていただけである。しかしそのことがこの巨悪の根源であった。」というのがアーレントの主張である。つまり、思考ができない状態こそが、人が人であることをやめ、どんな恐ろしいことでもさせてしまう原因なのだ。アーレントは「banality of evil、悪の凡庸さ(=凡庸に潜む悪)」という概念を提示した。(Arendt, H. (1994).Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil. Penguin)このことばは訳し方が難しいが、悪が凡庸さを身にまとってヒタヒタと近づいて来ていつの間にか飲みこまれている、そんなニュアンスを感じる。彼女が主張した、思考を停止せしめる・してしまうことで引き起こす「悪」は、まさに原発の安全基準、過酷事故、事故後の対策につながっているといえる。そもそも原発事故関連に限らず、正しい情報を隠すという行為はもっとも恐るべき行為の一つだ。

    以前読んでいたアーレントの著作の内容をこのタイミングで映画として見て、今の日本・福島に関する問題をまさに指摘している、と改めて新鮮に感じた。岩波ホールでは連日満席で、行っても見られない可能性があるという情報を聞き、その日、時間に余裕のある友人に頼んで早目に行って並んでもらったのだが、アイヒマンを通して、多くの観客たちは、ナチスと同時に今の日本にも広く及ぼしているであろう「思考不能」の影響についても思いを馳せたことであろう。

    土曜日、会場の「チェンバおおまち」のビル入り口で、朝から工事機械のようなものが大きな音を立てていた。協働している現地NPOスタッフの方の話で、それが除染作業であることを知った。どの建物にもたった一度行なわれる作業日が、(原発事故から3年近く経ったあと)チェンバおおまちでは、偶然この日になったということだった。

    「一般の家でも順次除染は行なわれているが、作業後の廃棄物などの処理が追い付かず、除染後、各家庭の庭の隅などに、それらが積まれ、ブルーシートをかけたままになっていることがよくある」ことも、この方から伺った。さらに、このときのビルの窓の除染作業を目の前にして、「除染作業を見ただけで気持ちが萎えてしまう」ともおっしゃっていた。このような、現地の方が、日常生活の多くの具体的な事象から受ける心身への影響は重大であると実感した。

    この日は、前日までの暖かさとはうって変わって朝から寒い日になった。作業員の方々も御苦労があると思うが、それぞれの家で暮らす方々は、一度の除染の効果をどのように感じていらっしゃるのかと皆さんの状況を改めて思った。

    また福島から帰った後、NHKのニュース番組で、福島の子どもたちに、(あまり外で遊ばないことによる)肥満が増え、小中学校で対策を立てているというレポートも見た。

    年月の経過とともに支援がますます必要だ。長期継続することに大きな意味がある。今後もプランなどをさらに工夫して、より多くの方々に役立ててもらえる活動にできればと思う。

    午後は、「支援者のためのドラマ表現ワークショップ」を実施した。児童相談所の方、支援現場に携わるNPOの方たちが参加して下さった。前半は、創造力が短時間で発揮できるようなワークを行ない、普段の「支援者」という役割をしばらくの間忘れてたっぷりと楽しく解放される時間を創った。

    後半は、ドラマ等を通して、同じ立場の方々とともに支援者・被支援者について表現したり語り合える場を提供した。参加者から提案されたテーマを考えるために行なったドラマワークを簡単に紹介する。  

    ① 一生懸命援助したが、結果的にうまくいかなかったときの状況を題材に、ふだん口に出すことができない、表現しづらい感情を皆で共有した。

    ② 支援してあげることで、被支援者が支援者に頼ってしまい、自ら何もしなくなるという困った状況の対処をドラマで考えた。「魚を採ってあげるのではなく、魚の採り方を教えてあげる」という象徴的・比喩的な場面を創り、アイディアを出しあって方法を考え、体験した。

    ③ 部下が困っているときにうまく声をかけてあげられなかった体験を話して下さった方のドラマを、ご本人以外の人たちに演じてもらい、そのときの感情や状況を多視点から見つめた。そこからの気づきを活かして、最後はご本人にもう一度同じ状況で、しっかり部下に話をする機会を作った。大変良い場面になり、部下役の人も観客も心を動かされるドラマになった。今後同じようなことが起きたときに、よりよく対処できる「リハーサル」にもなった。

    実際の問題を楽しいやり方で取り扱いながらも、支援者らのパースペクティブを拡大し、問題に取り組みやすくすることが目的の一つであったが、たった二時間という限られた時間の中で、そして、このメンバーとしては一期一会の出会いの中で、文字通り、身体を動かしての体験を通してかなり多くの感情の共有や気づきが生まれた。参加者の皆さんは、支援者としての仕事やその中の課題について、このワークショップの中でシェアして下さり、いくつものワークにしっかり取り組んで下さった。そして、(実は非常に重要な、全ての活動に活力を供給する源とも言えることだが)、とにかく皆でたくさん、たくさん笑った時間でもあった。その意義も大きかったと思う。  

    今回、線量計測の活動をされている方、除染作業の方々、児童相談所やNPOの方々、そして駅員さん、店員さんやホテルのスタッフの方々と出会って、厳しい状況の中でも、日々の生活と他者の支援活動に勤しんでいらっしゃることを直接知らせていただけた。単時間であっても交流できたこと、ワークショップでは共にたくさん笑えたことをありがたく思う。来年、再来年と続く出会いも、今から待ちつつ思いを馳せている。

 3年目の福島(立命館大学心理・教育相談センター カウンセラー 渡邉佳代)

    今年もまた、支援者支援セミナーのコファシリテーター、子どもワークショップ「クリスマス・カレンダーをつくろう!」の補助スタッフ、「風船で遊ぼう!」のファシリテーターとして、福島のプロジェクトに参加させていただきました。今回、福島のプロジェクトに参加するにあたり、自分の気持ちを改めて問うた時に、「何も知らない自分が福島に行ってもいいのだろうか…」という戸惑いを感じていることに気づきました。昨年の自分の記録を見ても、今後もこのプロジェクトに参加し続けたい思いが綴られているのですが、今回、自分がこうした戸惑いを感じていることに自分でも驚き、とてもショックでした。

    これまで、このプロジェクトに2回参加させていただき、現地に行って様子を見聞きしても、「これまでに自分は、あまりにも震災後の状況や原発のことを知らなかった」という思いがありました。関西に戻り、福島の状況を知りたいと思って、自分なりにテレビやネット、新聞などに目を通すのですが、よほどニュースでも注意して見たり、特番を検索しなければ、現在の震災後の様子や原発関連の問題がどのようになっているのか、系統立てた情報は多く得られず、また入ってくる情報にもだいぶ偏りがあるように思います。「自分はよく知らないのに…」という戸惑いは、「福島に近づきたくても近づけない」という焦りや不安から生じていたことに気づきました。それでも今回も参加しようと決めたのは、昨年にお会いし、「来年も待っていますね」とお声かけくださった方々、「絶対に絶対に来年も来るからね!」と約束した子どもたちの顔を思い出し、それが私の背中を押してくれたように思います。

    支援者支援セミナーでは、今も福島の状況は変わらず、先の見通しが持てないことや環境の変化から、健康の問題や家族の問題など他府県でも一般に起こることが、福島で起こりやすくなっていることが話されました。なかでも印象的だったのが、家族同士でも言葉にしない、あるいは言葉にできないつらさがあること、そうした家族の中では、元々あった問題が出やすくなることがあると聞いたことです。遠く離れて関西に暮らす私が感じていた「福島のことを知りたくても知れない。福島に近づきたくても近づけない。その戸惑いを福島に抱えていってもいいの?」という気持ちと重なるように感じました。  

    家族の中でも何を食べるか、どんな行動を選択するか、どこに住むかなど、共有しにくい状況は変わっていないと聞きました。それを福島の支援者の方々が、どのように家族の思いを共有し、支えていくか、頭を悩ませながら、日々、誠実に丁寧に向き合っていらっしゃることに私自身が励まされる思いでした。「丁寧に家族の話を聞くしかない。できないことへの無力感や、割り切ってしまう罪悪感があるが、整理できないことを持ち続けたい」という、ある支援者の方の言葉から、「私自身も様々な思いや気持ちを抱えながらでも、こうして福島に来続けたいと思っていいんだ」と思えました。遠くに離れて何もできない歯がゆさや、情報が入らないことへの焦りをただ感じているよりも、福島に来て、実際に会場近くの除染作業を見たり、今回も私たちを受け入れてくださったNPO法人ビーンズの皆さんから福島の様子を伺うことで、不思議と安堵感が湧いてきました。福島の状況は昨年と比べて変わりはなく、展望も見えないままですが、様々な気持ちや思いを一緒に感じさせていただけることや、それを今、ともに抱えようとしているという感覚でしょうか。

    子どもワークショップには、昨年も参加してくれた子どもたち5名と再会しました。「去年にはなかったマスキングテープがある」「去年はカレンダーのお菓子、すぐに食べちゃった」など、去年の様子をよく覚えていて、今年も心待ちにしてくれていたのだそうです。お母さん方も一緒に、親子でそれぞれのクリスマス・カレンダーを作成しました。こうしてみると、1年目、2年目、3年目…と、福島の親子の距離感も変化しているようです。1年目は親子が互いに支え合い、親子が一体化しているような印象がありました。2年目は少し親子の距離が取れ、子どもたちが子どもらしくなり、ヤンチャになっていたこと。3年目はお母さんたち自身も夢中になって楽しんで参加してくださり、子どもたちも自分なりの参加の仕方で楽しんでいたようです。 

    なかでも、お母さんたちが子どもたちをよく見ていて、上手にほめていることが印象的でした。「○○ちゃんのそれ、素敵ね。お母さんも真似しよう」「○○くんのそれ、いいね。○○くんらしいね」など、子どもたちへの眼差しがあたたかく、様々な思いを抱えながらも、親子の日常生活を丁寧に重ねられている様子が伺えました。そうした中で、子どもたちの安心が少しずつ増えてきているのかもしれません。「風船で遊ぼう!」でも、子どもたちは伸び伸びとして、自分らしい参加の仕方を選び、体をいっぱい使って遊んでいました。

    「今度いつ来るの?」<来年のクリスマスの時期に、また来るからね>「え~!まだ帰りたくない!」<そうだね、今日はとっても楽しかったから、さよならは私も寂しいな。でも、また来年、○○ちゃんに会えるのを楽しみにして来るね!>「うん、絶対にまた来てね!」。こうして「また来年!」と約束できることがとても嬉しいです。支援者支援セミナーでも、福島の支援者の皆さんに繰り返し自分が願ってきたように、私自身、自分の気持ちと丁寧に向き合いながら、こうした出会いを大切にして重ねていきたいと思っています。

福島の方との出会いを通して(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M2 清武愛流)

    私が福島での活動に参加をするのは2回目だ。去年同様、「チェンバおおまち」という建物のF3の各部屋を使い、それぞれのプログラムが行われた。建物近辺には会社や銀行が並んでいる。去年よりも今年の方が歩いている人が多かった。しかし、会社や銀行が閉まる土日は人が少ないそうだ。

    また、今年は除染作業をしている方がいた。目にみえない放射能だが、作業を行っている看板をみると、課題を目の当たりにする。夜になると、その姿はなく、駅近くのクラブ前で盛り上がっている若者の姿があった。 

    私が活動のベースにしている場所は漫画展である。現地で動いてくれているビーンズさん(NPO)の女性2人のスタッフが今年度の担当をしてくれていた。漫画のパネルの配置なども考えて下さっていた。壁にみっしりと配置するのではなく、少しわん曲に展示されていた。展示会場としての一体感があり、読む方向などもわかりやすかったように思う。来られた方の目線で考えたそうだ。ちょっとした変化で、会場に入ったときの雰囲気は変わる。

    漫画展に足を運ばれる方は少なかった。近所の方に冊子をお渡ししに行った際、その理由を教えてもらった。「チェンバおおまち」は習い事教室やセミナーなどでしか使わず、毎回参加をする活動をしている場所であるそうだ。ちょっと寄ってみよう、と思い入る要素が少ないようだった。これらから、包括的な支援にとって重要な要素の一つに、そのサービスはどのようなサービスであるのか、それが届くよう、現地の方がその場をどのように位置づけているかを考える必要があると考えさせられる。 

    しかし、たまたま立ち寄られた方がいた。この方は、漫画の絵と自身が重なったようで、しみじみ読まれていたとのことだった。そしてトークショーにも来られていた。これからいくつかの認定資格をとる予定だそうだ。また、子どもを軸としたNPOを立ち上げようとされている方やインターンシップの学生も立ち寄られた。 

    震災があったから、そのような活動をしようと思った、という言葉はなかったのだが「仮設」「傾聴ボランティア」「子どもの安全」など、震災以降に多く言われるようになった支援についてだった。また、NPOの支援にも変化があるそうだ。それは、母子避難をしていた方が除々に戻って来ている動きがあるそうだ。そこで、戻って来られるかた向けの支援の展開をしていっている段階だそうだ。 

    状況の変化により、新しい支援が生まれ、その地域の人がどの役割になるのかの動向が常に起こっているように感じた。現地のスタッフと別々の役割で動く者ではあるが、共にその場所や空間について考え、必要とする方に家族応援をお届けしたい。そして、ばったり『木陰の物語』に遭遇する方に、小冊子をお渡しいていくことができたらと思う。 

    また、冊子をお届けしたいと思っています。ありがとうございました。

「東日本・家族応援プロジェクト in 福島 2013」に参加して(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M1 奥野景子)

    京都、宮古でのプロジェクトに引き続き、福島でのプロジェクトにも参加させていただいた。被災地として現地に足を運んだのは、宮古と福島ということになる。宮古に行った際は、津波の影響がまだ残っているところもあり、被災地に来たということを実感しやすかったが、福島駅に着いたときはあまり被災地に来たという感覚は抱かなかった。福島の町には、ビルが立ち並び、飲食店がちらほらあり、人々が道を歩いていた。福島駅周辺には、「普通の町」の風景があったからだ。しかし、町の景色をよく見ると、放射線量の値が表示されていたり、除染活動が行われていたりと、福島の被災地としての姿が見えてきた。そして、気にしなければ、目を伏せてさえいれば、放射線と共にいながらも、放射線を避けて生活することも可能なのだと思った。福島の方は、目には見えない放射線に対する不安や恐怖と共に生活をしているのだと感じることができた。様々な情報が錯綜する中で、ここで生活を行う人々の中には、どのような考えや気持ちがあるのかを知りたくなった。

    現地では、支援者支援セミナー、クリスマスカレンダー作り、漫画トークに参加させていただいた。支援者支援セミナーの中で印象的だった言葉がある。ある支援者の方が言った「失ったものがあるからこそ気づけた大切さや、震災があったからこそ新たに始まったものもある」という言葉だ。津波や放射線など、それによって失ったものや傷ついたこともあるが、それがあったから気づけたことや学んだこともあるのだと感じた。色々と難しいことが多い状況の中で、このような言葉を言える強さを感じた。クリスマスカレンダー作りは、昨年に引き続き参加してくださった方が多かった。子供も付き添いのお母さんも楽しそうに、そして一生懸命にカレンダー作りに取り組んでくださった。その姿を見ているだけで、私まで楽しくなり、元気をもらったような気がする。漫画トークの中では、参加者の方とお話をする機会はなかったが、終了後に何人かの方とお話をさせていただいた。その中に「来年の活動はどうなるんですか?」と質問してくださる方がいた。今日の漫画トークから来年の企画へベクトルを向けてくれている人もいるのだと思い、このプロジェクトを続けていくこと、つなげていくことの意味を改めて考えさせられた。

    京都と宮古、福島のプロジェクトを通して、東日本大震災や被災地の様々な側面に触れさせていただいた。ニュースや文献である程度の情報に触れること、被災地の状況を想像することはできたが、実際に被災された方と触れ合ったり、現地に足を運ぶことで得られた情報や感じたことは想像以上のものだった。「東日本大震災や被災地の今を見つめること」を目標に参加したプロジェクトであったが、自分なりに東日本大震災や被災地のこれからも見つめていきたいと思う。

「東日本家族応援プロジェクト」の活動の中で気付いたこと(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M1 新谷眞貴子)

    福島に行くに当たって、ずっと気になっていた放射能汚染について調べました。毎日その不安と向き合っていく大変さは、簡単には分かるものではないように思います。しかし、折に触れ、震災の年に出会った福島の女性の言われた、「分かってほしい。忘れないでほしい。」という言葉を思い出します。

    事前レポートをまとめるに当たって読んだ後藤忍氏の論文で、福島大学放射線副読本研究会は、被災者の大変さを共に担い、被災者が今より良い生活を手に入れるために主張できるような営みに貢献されていると思いました。応用人間科学研究科の「東日本家族応援プロジェクト」は、10年続けるとあり、今回参加させていただいて、どんな支援をされるのか、この目で見てみたいという思いが心にありました。何もできない自分は、その活動の中に入って何かを考えたり、感じたりして帰りたいと思っていました。   

    実際に福島に行ってみると、会場の福島市市民活動サポートセンターの近くの駐車場で、除染作業が行われていました。その除染作業や流れていく水の行方のことを後から知り、また考えてしまいました。福島駅前の大きなビルが立ち並ぶオフィス街で一見何も問題がないように見えましたが、被ばくへの不安、除染の実施は市民にとって大きな問題でした。 

    保育士をされていた支援者の方にお話を伺うと、保育園では遊具を削り砂場の砂を全部入れ替え、毎日給食の放射性物質を測定しているそうです。他にも、子どもを守ろうと必死になっている親の不安を、できる限り失くす努力を一つ一つされているということが分かりました。家族間の考え方の違いから来る、子どもへの影響も心配されていました。でも、園庭で遊ぶことや活動の中でだんだんいろいろなことが出来るようになっているという明るいお話も聞けました。

    また、別の支援者の方は、県内外に避難されている方々の住んでおられるところまで行って、相談に乗り、精神的に支えておられるということでした。「お子さんと保護者のための心と身体の健康サポートブック」(福島県児童家庭課発行、平成24年9月版)を読んでみてくださいとおっしゃっていました。いただいて読んでみると、そこには、少しでも気持ちが楽になるように放射線について丁寧に分かりやすい説明がされ、相談窓口も紹介されていました。  

    私は、12/7(土)の「支援者のためのドラマ表現ワークショップ」に参加させていただきました。尾上先生が段階を経て、参加されている地元の支援者の方々の気持ちを和らげ、参加者がワークショップの中で時に笑い、ドラマで表現して気持ちをさらけ出し、最後には、支援者として今抱えている問題を出して、参加者みんなで多面的に考えていくという場になっていると感じました。  

    今回、応用人間科学研究科の「東日本家族応援プロジェクト in 福島市」の様々な活動に参加させていただきました。いくつかのプログラムを見せていただいたり、聞かせていただいたりして、今までに自分が思い描いていた支援とは違う支援の姿を見せていただきました。

    応援プロジェクトへの参加はまだ初めてで、分かっていないこともたくさんあります。でも、気づいたこともたくさんありました。出来上がったクリスマスカレンダーには、オリジナルの絵が描かれ、サンタの絵の入ったお菓子や楽しい飾りがいっぱい貼られていました。自分が作ったクリスマスカレンダーを見ながら、嬉しそうに話してくれた小学校低学年くらいの女の子は、綿を雪だるまにして、しかもそれに可愛いアクセサリーをつけて、雪だるまが絵本の中にいるような感じでした。子どものにこにこした顔を見て話を聞いていると、これからの日々をこのカレンダーを楽しそうに見て過ごす顔が見えてくるような気がしました。

    村本先生や応援プロジェクトのスタッフの皆さんが、参加されている子どもたちやお母さんに掛けられている何気ない会話が、やわらかい励ましの声の響きとなって私の耳に届きました。

    団先生の漫画トークを聞かせていただくと、先生の息づかい、人を想う温かさ、物語に込めた一生懸命な気持ちがその場にいる人に伝わってきました。その感覚が聞いている一人一人に届く、ほどよい距離になっていました。 

    この応援プロジェクトは、地元の支援者との協働で十分な準備をして、それぞれのプログラムに来てくださった、地元福島の方々一人一人の顔が分かる距離で関わり、地道に確実に一人一人を応援していると感じました。その支援のあり方をこの目で見ることが出来て、私にとって大変な収穫となりました。

    しかし、帰りの新幹線の車窓に広がる田園風景を見ながら、先日我が家で収穫した新米を喜んで食べたことを思い出し、福島の農家が安心してお米を作れる日がいつ来るのだろうとも考えていました。

    果てしなく大きな問題を思いながら、応援プロジェクトのプログラムに参加してくださったときの子どもさんたちやお母さん方、地元の皆さん、地元の支援者の皆さん、先生方、応援プロジェクトのスタッフの皆さんの顔がまた浮かんできて、この応援プロジェクトの活動が、人に様々な思いを確実に起こしていると考えました。私自身帰ってきて、研究記録等をまとめていると、その時気付かなかったことで、後になって気付いたことがありました。今回の経験が、時間の経過と共に自分の中でもっと消化され、さらに発見が出てくるように思います。

今年も福島プロジェクトに参加して(応用人間科学研究科 対人援助学領域2012年度修了生 森 希理恵)

    去年に引き続き、今年もプロジェクトin福島に参加することができた。

    福島の駅前はとてもきれいなイルミネーションが飾られ、ちょうど勤務を終えて帰宅する人たちがたくさん行き来し、よくある駅前の風景だった。

    しかし、次の日、プロジェクトの会場近くの駐車場で「除染作業」を行っていた。『ただいま、除染作業を行っています』という看板が立てられ、数人の作業員が、回転モップのついた床を掃除するような機械を使って駐車場を洗っていた。

    福島駅を出た時の風景は、大きな駅前にあるよく見る風景だが、一方で、ここはまだまだ原発事故は続いているのだということを感じさせるものだった。 

    昨年の3月まで福島で保育園の園長をしていたという方から、色々と話を聞くことができた。

    原発事故以降、保育を始めるために、遊具や、玄関の履きだしなどについては、自分たちですべて削ったそうだ。他にも放射線対策の為、色々なことを保育者たちでやらなければならなかったそうだ。保育者たちは、放射線についての知識をもつために、保育の合間に、交代で研修に出かけ、知識を学んだそうだ。

    今でも、毎日の放射線はもちろん、給食に使う材料も線量を測って保護者にも知らせたり、窓の近くは線量が高くなるので、子どもが近づかないように気をつけたり、他にも本当に多くのことを考えながら保育をしている様子を聞くことができた。

    関西で保育をしていたら放射線対策については考えることはない。しかし、福島で保育をしている保育者は、普段の保育以外にも考えなくてはいけないこともあり、保育者たちの目に見えない負担はとても大きなものになっているだろう。

    先の見えない状況の中でも、毎日は過ぎていく。その中で子どもたちも毎日を過ごしている。保育者たちの放射線に対する毎日の対応も続いていくことだろう。

    街の様子を眺めているだけでは分からないところで、震災から2年以上たった今でも目に見えない放射線から子どもたちを守ろうと頑張っている保育者たちを忘れないように、そして福島から遠く離れている関西の保育者にも伝えなければいけないと思った。


会場チェンバおおまち 

漫画展 

支援者支援セミナー 

クリスマスカレンダーをつくろう 

遊びのワークショップ 

ドラマワークショップ 

風船で遊ぼう 

漫画トーク 

反省会 

街は除染作業中 

交流会 



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