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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

10月1日~10月30日 宮城県多賀城市「東日本・家族応援プロジェクト in 多賀城 2014」




「東日本・家族応援プロジェクト in 多賀城 2014」を開催しました 

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   多賀城図書館、多賀城民話の会との共催で、10月いっぱいの家族漫画展、10月5日、団士郎先生の漫画トークと宮城民話の会による「ふるさとの民話をみんなで味わおう!」、支援者交流会を実施しました。

   今年は、鵜野祐介先生の紹介で、民話の会の方々との出会いがあり、少し遡りますが、8月末には、院生たちと一緒に、丸森で開催された「第8回みやぎ民話の学校」に参加しました。9月10日第4回研究会には、リーダー的存在である小野和子さんをお招きし、「『語る』『聞く』という営みについて~東日本大震災の波をくぐって」というお話を聞きました。さらに9月4日は、仙台市黒松市民センターで行われた「みやぎ民話の会例会」にも1日参加させて頂きました。たくさん学ばせて頂いただけでなく、みなさんが持ち寄られた地元のおいしい野菜やお魚までご馳走になってしまいました。そして、今回のプロジェクトでは、多賀城民話の会のみなさんのご協力を得て、多賀城図書館にて民話の交流会を持つことができました。

   1年目の遠野でも感じたことでしたが、あらためて、東北の伝承の文化はすごいものだと感銘を受けています。私たちのプロジェクトのミッションは、コミュニティの持つ力を発見することですが、「物語る力」はまさにそれにあたるでしょう。何より、みなさんの語りがユーモアにあふれ、とてもおもしろいのです。小野和子さんは、「先祖たちが延々と語り続けてきた民話の底に深い真実がひそんでいて、それを見つけて引っ張り出してくれる人の元へ行きたがっているような気がする。聞く人がいないと、そのまま話はすぼんで消えていく。今回の震災の中で大きな地響きと地割れが起きて、沢山の人が海の向こうに行かれた時に、初めて蘇るようにして民話への新しい関心が生まれた。これをなんとかうまく生かしていけるように頑張るのが私たちの復興ではないか」とお話しされました。私たちもこれをご縁にたくさん民話を聴かせて頂きたいと思いました。語ることができるようになれば、もっといいですね。

   今年も、9月29日からいよいよ新しい園舎に移られた「おおぞら保育園」を訪れ、先生方にお話を聞かせて頂きました。きっと、これも大切な伝承のひとつになっていくことでしょう。トレーラーハウスのワクワク楽しげな園舎も懐かしいですが、新しいところは、とても大きくて明るく、子どもたちも年齢集団に分かれてのびのびと過ごせるようになったとのことです。また、上山真知子先生とモリス先生にもお世話になりましたし、支援者交流会を通じて、多賀城の支援者のみなさんたちのお話を聴かせても頂きました。1年に1回ではありますが、こうして、毎年、お世話になっている方々と関係を深め、新たなご縁が拡がっていくことに感謝しています。

   来年は図書館運営上の変化と引っ越しがあるため、時期的には未定のままですが、図書館のみなさんからは、「息長く一緒にやっていきましょう」と言って頂いております。私たちの漫画展は「木陰の物語」。これからもあちこちで新しい物語が生まれていくことでしょう。どんな展開があるのか楽しみです。

 2014多賀城のこと(応用人間科学研究科教授・団士郎)

   多賀城図書館で二度目の一ヶ月展示のマンガ展。土曜日、午前はマンガトーク「木陰の物語の物語」。9月にむつ市で話した時にいろいろ考えた事があったが、やはり基本的に今年の東北は、この話をしようと微調整を加えて「子どもと貧困」(「子どもの貧困」から改題)をテーマのままにした。 

   午後は民話の会の方達のプログラムに参加させていただき、次々語り手が交代してゆく話を面白く聞いた。これは地元の人たちによって、地元のコンテンツが人々に受け継がれてゆくきっかけになるであろうし、図書館が若い子育て世代と民話の会を繋ぐ架け橋になれる良いプログラムだった。

   そして、一年に一度出かけて実施する私達の家族応援プロジェクトのプログラムとの関わり方を、これから考えていかなければならないと思った。新たな参加者の人たちの関心の在りどころもあるだろうし、今後、プログラム構成も含めて、検討してゆく課題であることは明らかになった。

   更に図書館が新たな転換期を迎えていることも今後の課題である。暖かく応援してくださり、是非継続をと思っていただいている図書館スタッフの思いと、時代や社会の動きの中に、被災後の世の中も、私達の活動もあることを痛感した今回だった。

   今後の動きをどのように意味あるものとして組み立てて行くかが、来年以降の展開に問われているだろう。

 生きる支えとなる語りの活動(応用人間科学研究科教授・鵜野祐介)

   今回は、仕事の関係で10月5日(日)午後の企画「ふるさとの民話をみんなで味わおう」のみの参加となった。語りを依頼した「多賀城民話の会」の皆さんは、当日午前中(11時~11時40分)、市内の東北歴史博物館・今野家住宅で開催された「民話を聞く会」において実演された後、図書館の方に移動してきて語ってくださった。総勢10名を超える方がたが、それぞれの持ちネタである昔話や伝説を1話ずつ語られ、合間に3つの手遊びうたをはさんで、約1時間のプログラムを演じてくださった。その後、観客の方がたや立命館院生たちとのトークセッションの時間を約30分持った。あいにく観客の人数は10名足らずであったが、とても熱心に聴いてくださり、終始和やかな時間を持つことができた。 

   当初から意図していたわけではないが、ひとりの卓越した話術の持ち主による語りの会ではなく、地元在住の、民話を聴いたり語ったりするのが大好きな「普通のお年寄り」が、自分の得意な話を1話ずつ語るという形式を取ったことが、結果的には意義深いものになったように思う。語りの巧拙ではなく、語り手の個性(パーソナリティ)が、話の雰囲気や色合いに大きく影響することを実感できたのは、筆者にとっても大きな収穫だった。

   イベントの後で、語り手の一人として参加された、味わい深い語り口が印象深い、おそらく80代の女性から、「最近この会に入りました。自分が子どもの頃には、家族みんな忙しかったので民話を聴かせてもらう機会などありませんでした。だからこの会の勉強会に参加して自分の気に入った話を覚えて、やっとレパートリーが2話できました」という話をうかがった。多賀城民話の会のメンバーは現在約30名、そのほとんどが70代以上の女性だが、代表の齋藤ゆゑ子さんをはじめ多くの方がたが、自分が子どもの頃に聞いた話をレパートリーとするのではなく、この会に参加して本を読んだり他の人の語りを聞いたりして覚えた話をレパートリーとしているという。そして、定期的に行われる歴史博物館や小学校での「むかし語りの会」を通じて、地元の方や観光客の方、子どもからお年寄りまで、さまざまな「聴き手」との出会いの場を持っていることが、「語り手」の皆さんの「生きる支え」になっているようであった。

   今後、こうした「語り手と聴き手の出会いの場」に、いかにしてより多くの方がたに参加していただき、これを家族支援や地域支援につなげていけるか、そのための方策を探っていく必要があると感じている。

「東日本・家族応援プロジェクト2014 in多賀城」の活動を通して見た「復興の物語」(対人援助学領域M2 新谷眞貴子)

   私は、昨年、福島のプロジェクトに参加させていただき、東日本・家族応援プロジェクトの活動が、地元の人々との繋がりを大切にして、地道に息の長い応援をしていることを知りました。今年、岩手、宮城、福島の子どもたちが綴った、『つなみ 被災地の子どもたちの作文集(完全版)』(森健[編],文藝春秋,2012)に出会い、津波の恐ろしさ、放射能に翻弄される辛さ、自分たちを支えてくれた人たちの有難さ、大切な人を亡くすという現実、それがどんなものであったのかを改めて感じました。私は、「大震災と子どもたち」を心に置き、宮城県多賀城のプロジェクトに参加して、被災地を歩き、地元の人々と関わり、「トレーラーハウスで保育されていたおおぞら保育園の先生方」を訪ね、支援のあり方を学びたいと考えました。

   多賀城市は、仙台から乗り継いで20分ほどの所にある、歴史に彩られたまちですが、東日本大震災では、津波が襲い、市域の約3分の1が浸水し、188名もの尊い命が失われました。被災当時は、現実とは思えないような景色が広がっていたそうです。私は、フィールドワークで、史跡や市内を流れる砂押川の堤防を歩いて、このまちに大昔からあったものと新しい街並みを感じ、被災した建物が復旧してきていると感じました。しかし、地元の方々のお話を聴かせていただいて、一人一人の本当の心の復興にはまだ時間が掛かると思いました。

   10/4の夜、東北歴史博物館の大きな森と池の真隣の、景観の良い場所にある、おおぞら保育園の新園舎に、本研究科の村本邦子先生、団士郎先生と一緒に訪問させていただきました。

   トレーラーハウスの旧園舎から引っ越してきて間もない新園舎の玄関に入ると、園児たちと先生方の写真が出迎えてくれました。中は、元住んでおられた二世帯住宅のお家を改造した、清潔な園舎となっていました。その日は、園児たちが帰った後、おおぞら保育園の先生方が、快くインタビューに応じてくださいました。インタビューが始まると、子どもたちの成長を喜び、保育することを自分たちの心の拠り所に思っておられる先生方の思いがひしひしと伝わってきました。新しい園舎に移れたことを嬉しそうに話されていましたが、ここまでの道のりを思う時、先生方の心の中に、震災の時の場面が戻ってきます。

   震災の時、先生方は、避難所までの経路を判断し、園児たちを無事避難させ、命を守り抜きました。園児たちは、その状態の中で誰も泣きませんでした。先生方との信頼関係があったからだと思います。

   園長先生は、震災が起こった後、とにかく「保育園を再開すること」だけを考えて奔走されました。「震災の時も、震災後も、保育士の先生方が知恵を出して、一番良い案を出してくれ、それを行動に移してくれました。ここまで来られたのは、先生方のお陰です。」と、園長先生は、繰り返されました。

   震災後、前身のクローバー保育園が被災のために廃園になって、「太陽の家」に間借りし、その後、トレーラーハウスを園舎にすることを決められました。お昼寝の布団を引くと一杯一杯の狭い園舎で、ストレスがたまる子どももいたそうです。それでも先生方は協力し、子どもたちがワクワクするような空間を創られ、この3年間トレーラーハウスで保育されてきました。先生方は、自分も被災者でありながら、ただただ子どもたちと保護者のことを思い、自然に身体が動いていたそうです。

   子どもたちの中には、被災後、風の音にも敏感になる子もいましたが、何度も地震ごっこを繰り返しながら、保育士の先生方に温かく見守られ、声を掛けられ、少しずつ心を回復させていきました。この道のりで子どもたちはどんなに力をもらってきたことでしょう。避難訓練も、今は、いろいろな日の生活パターンに対応できるような訓練をして、園児たちは、よく指示を聴いているそうです。震災を園児と共に体験し、園児たちをより一層愛しく思われている感じがしました。地域の方々に大きな声で挨拶をしたり、道端をきれいにしたり、小学生の子どもたちに声を掛けたり、地域の草むしりに参加したり、日々のこの行動が、地域の理解に繋がり、きっと今の園舎に辿り着いたのだと思います。

   団先生が、「保護者にとって、このおおぞら保育園の道のりを見られたことは、とてもいい勉強だった。」と言われていましたが、私もそう思います。無い物や調わない環境の中で、子どもたちを第一に考え、少しでもよりよい保育空間を創り出すよう、みんなで知恵を出し合い、周りの人たちの協力を仰ぎ、動いていかれた姿は、保護者や地域にとてもいいものを示したと思います。

   自分たちも被災者として、大変な状況であったにもかかわらず、子どもたちや保護者のために動いて、復興の一助になることができたら、と考えておられました。その話を聴かせていただいた時、村本先生が述べておられた、「家族や支援者、コミュニティに寄り添い、人々が復興の物語をつくっていく声に耳を傾け、時代と社会のwitness(目撃者・証人)として存在し続ける」、その意味に私は気が付きました。園児・保護者・先生方・地域の方々がつくっていかれる、おおぞら保育園の復興の物語があり、その物語に耳を傾け、私たちは、その証人として存在し続けているのだと思いました。

   まだ、大急ぎで引っ越したばかりの園舎の部屋の壁紙は真っ白でした。「来年はこの壁に掲示物がいっぱい貼ってあるんでしょうね。」と私が言ったとき、先生方は、「そうですね。」と満面の笑顔で答えてくださいました。私は、またここにきて、おおぞら保育園の物語の証人として、今後どんなふうになっていくのか、見てみたいと思いました。

   来年度は、おおぞら保育園は、「小規模保育事業」として、0歳児・1歳児・2歳児合わせて、15名の保育園に生まれ変わります。旧園舎のトレーラーハウスは、まだまだ健在で、今も園児の遊び場でもあり、これからは、お母さんの広場の役割を果たします。本格的に、それぞれの役割を歩んでいく園舎たち。その園舎にこのような命を吹き込んだのは、園児であり、保護者であり、地域の方であり、ここまでの空間を創り上げた先生方です。皆さんが歩んで来られた、この復興の物語こそ、人に勇気を与えていくものであると思いました。

   また、おおぞら保育園の先生方が、これまでの道のりについて心を開いて話してくださったのは、継続して関わっておられる村本先生や団先生との信頼関係が、心の底にあるからだと感じました。

   支援者として、おおぞら保育園の先生方は、子どもたちの成長を見ながら保育することで希望を貰い、明日への活力を感じてこられました。しかし、また一方では、被災者として、あの日の場面に戻り、どうしようもない思いと向き合わねばならないのも現実です。行きつ戻りつしながら先生方が、震災後を生きておられることを、ここにきて、お話を聴かせていただいて、初めて私は分かりました。

   支援者懇親会、フィールドワーク、おおぞら保育園の先生方へのインタビュー、団先生の家族漫画展、家族応援セミナー(漫画トーク「木陰の物語」の物語)、多賀城民話の会の皆さんが語ってくださった民話、今回のプロジェクトのどの活動も地域の方々と関わることが出来、「自分が置かれた状況の中で自分の役割を見失わず、何か少しでも誰かの力になることを探し、行動に移すこと」を皆さんの姿から学びました。また、昨年このプロジェクトの活動を通して知った、「地道な支援のあり方」を今年も感じ、さらに、「そのような支援を継続していくことが、人との信頼関係を生み、人の心を開いていくこと」を教わりました。

   今回の活動を通して、大震災の大変な状況からのお一人お一人の復興の物語があることに気付き、その多くの物語の中に、子どもたちが、希望の灯りとして存在していたことが分かりました。私も、自分の出来ることを問いながら、日々を過ごしていきたいと考えています。 

東日本大震災・家族応援プロジェクト in 多賀城(対人援助学領域M1 市川雅子)

   多賀城市立図書館で開催された団士郎先生の漫画トークと、多賀城民話の会の皆さんの「ふるさとの民話を語ろう」のイベントに参加させていただきました。

   団先生のお話は、「子どもと貧困」をテーマにされたものでした。貧しさについて考えてみる中で、会場に来られていた多賀城の方とお話をする機会を得ました。自分の価値観で人に言った一言が、相手の気持ちにどう突き刺さったかを考えさせられた漫画に、その方は昭和のまだ初めごろの貧しかったころのことを振り返っておられました。ご自分のことももちろんですが、見てきた風景や、話しをされていた団先生の年代に親近感を覚えられたのか、自分たちの時代の貧しさについて、ひたすら繰り返し話しておられたことが印象的でした。

   どんな経験も、自分には想像もできないような出来事も、直接ではない向き合い方があるのだなと思いました。この方は、直接震災のことについては語られませんでしたが、身近なテーマとして「貧しさ」を振り返るなかで、過去に気持ちがさかのぼっておられるように思いました。私自身も、これまでの「貧しさ」にまつわる色んなエピソードを思い出し、思わず涙してしまうこともありました。苦労した、大変だったというような昔の話を語られるとき、それは過去の想い出の一つになっているのかもしれません。本当に今苦しみの真っただ中にいるときは、まだ語れる時期ではないのかもしれません。震災から3年半という、時間の経過は決して遠い昔ではありませんが、それを語れることが復興の一歩に近づくのだと、短い時間の中で考える機会となりました。

   午後に開催された「民話を語ろう」では、多賀城民話の会の方々が、各々に得意の語りをしていただきました。語る言葉にも方言あり、比較的わかりやすい言葉ありと、大変楽しませていただきました。一生懸命にお話しいただいた姿から、民話の語りを通して、直接はまだ語ることはできない語りもあるのだということと、民話を語ることが「語られない語り」につながっていくことも感じました。多賀城民話の会の方々は震災の体験を語り、残していくことを大切に活動されています。生で聞いた『こさじ伝説(猩猩の報恩)』のお話は、津波のことを決して忘れてはいけないこととして、これからも広く語っていかれるお話だと思いました。今日のお話を聞き、自分もこれから語っていく役目をもらったと感じることができました。

   短い多賀城での滞在の中、多賀城市立図書館の館長さんをはじめスタッフの方々に、大変お世話になりました。このように受け入れてくださる関係が出来ていることも、10年というこのプロジェクトの継続した支援のあり方を、多賀城の皆さんに理解していただけているからだと思いました。一時的な支援はその時必要な支援かもしれませんが、毎年毎年、変化していく被災地を目にしておくことの大切さを実感しました。来年も必ず多賀城に来て、この土地の方々と触れ合っていきたいと思いました。宿泊したホテルの方、帰りの多賀城駅での土産物屋の方、タクシーの運転手さんと、本当に数少ない多賀城の方々との短いふれあいでしたが、土地に来る意味も十分に感じることができた有意義な時間だったと思います。ありがとうございました。

多賀城市のプロジェクトに参加して―現地の土地、文化を通して「震災」を知った時間―(対人援助学領域M1 安藤明子)

   先生にご連絡し、急遽多賀城市のプロジェクトメンバーに加えて頂いたのは、プロジェクト当日から遡ること、およそ1か月前のことであった。プロジェクトには大学院の入学前からずっと関心があったものの、あと一歩を踏み出せず、参加者名簿に名を連ねることのないままになっていた。 

   参加を迷った理由の一つには、震災の復興に対して中途半端な関わりをすることへの恐怖心やためらいというものがあった。私になにができるのかという思い、現地の方の邪魔をするだけではないかという思い……こうした思い等々が去来し、結局、被災地に向き合う勇気のないまま時が経ってしまった。

   しかし今年の夏、そうした「“被災地”に向き合う」というイメージが少し変化した。直接のきっかけは8月末に宮城県で開催された民話のイベントに参加させて頂いたことにある。これは土地の語り手の方々から直接、伝説や昔話などの民話を目の前で聞くことのできる会であり、会の中では由来話などの様々なお話のほか、今回の地震や津波にまつわるお話も聞かせていただいた。

   こうした「語り」の場を通して、その「語り」が伝えられてきた土地や文化的背景、伝えてきた人々の思いといったものを感じた。また民話の「語り手」の方を通して、活き活きとした現地の方々の姿にも触れさせて頂いた。そしてこれらの出会いの中で、報道等で見聞きし知ったつもりになっていた被災地や現地の方々の暮らしというものが、より厚みをもった身近なものとして感じられるようになった。

   このような体験を通して、「震災と関わる」在り方の一つとして、現地に赴き、その土地や文化を知ること、またその土地の方にお会いすること、お話をお聞きすることにも意味があるのかもしれないと考えるようになった。と同時に、現地に赴くことについて、「被災地に行く」のではなく、「その土地に住んでおられる方々にお会いしに行く」のである、と考えるようにもなった。それは決して被災の現実を脇に置いておくということではなく、資料の数字や報道の映像だけでは見えて来ないありのままの「人」にお会いしに行くということである。そしてそのことを通して、「どのような場所でどのような方が被災されたのか」を本当に知ることが出来るのかもしれないと感じるようになった。

   そこで、イベントから帰宅後の9月初頭、先生に参加のお願いをさせて頂いた。

   <10月4日>

   早朝の電車に乗り、阪急電鉄とJRで神戸から京都へ。その後、「京都」駅から東海道新幹線のぞみ、東北新幹線やまびこを乗り継ぎ、正午過ぎに「仙台」駅に到着した。この日の午後は勉強のため、「仙台」駅からほど近い街中に在る「せんだいメディアテーク」、そしてJR「国府多賀城」駅のそばに建つ「東北歴史博物館」を順に回った。

   せんだいメディアテークは、様々な情報を収集・保存・発信する拠点として運営されている公共の施設である。震災以降は、震災に関連する記憶・記録の集まる拠点ともなっている。震災に関連する情報の展示、館内にある市民図書館等を見ていると、記憶を伝えていくことや、情報のターミナルとなる場の重要性、あるいはそうした情報を通して様々な人同士が交流できる機会の必要性について考えさせられた。

   東北歴史博物館では、東北の歴史、多賀城の歴史に関する展示や、被災した民俗芸能とその再生に関わるテーマ展示を見学した。生まれも育ちも関西の私にとって、なかなかご縁のなかった東北地方や多賀城という地。それがこれらの展示を見る中で、土地に根づく文化と共に身近なものとして感じられた。

   また歴史博物館の入口正面の広場に建つ「今野家住宅」の中も見学させて頂いた。この建物は宮城県の指定有形文化財であり、元々は石巻市北上町橋浦に在ったのを移築したものである。住宅に入ると、板間の囲炉裏で小さく火が燃えていた。この囲炉裏端では時折、「民話」に関するイベントが開催されるそうである。今回のプロジェクトでお世話になる「多賀城民話の会」の方も、こちらで語りをされている。ほの暗い部屋を、黒い炭の間からのぞく小さな赤い炎が照らしているのを見ながら、民話の語られる風景について思いを馳せた。

   <10月5日>

   「東日本・家族応援プロジェクト」の会場となる「多賀城市立図書館」に到着すると、すぐさま入り口左手のガラスケースの中に収められた「家族漫画展」のパネル展示が目に飛び込んできた。ガラスケース前の机の上には「ご自由にお持ちください」の言葉とともに、「木陰の物語」の冊子が2種類置かれている。また入口から見て右手の階段前には、「団士郎家族漫画展」の垂れ幕と看板が設置され、2階へ続く階段の壁にも漫画のパネルが展示されていた。

   2階では10時からの「家族応援セミナー : 団士郎の漫画トーク『木陰の物語』の物語」の会場準備もすでに整っており、私は時間まで図書館の中を見学させて頂けることになった。図書館の方の多大なるご配慮とお力によって本プロジェクトが成り立っていることを実感した瞬間であった。

   10時から11時半までのセミナーは、「子どもと貧困」をテーマに行われた。セミナーでは、私自身も参加者の一人として、「量的な貧困と質的な貧困」や、「『昔の貧しさ』と『今の貧しさ』とは比べられない」というお話を通して、様々な形の「貧しさ」について考えさせられた。

   プログラムは、テーマに沿ってスクリーンに映し出される漫画を見、そのあと会場内で隣り合わせた方と感じた事・考えた事をシェアし合うという形式で進んだ。私はもう一人の院生と、図書館で絵本の読み聞かせをしておられるという女性との三人で話し合う機会を頂いた。相互に交流しながらのこうしたセミナーは、異なる環境や世代にある者同士で話し合うことの必要性を感じる時間となった。

   昼食を頂いたあと、13時から14時半までは、「多賀城民話の会」の方々による「ふるさとの民話をみんなで味わおう!」というプログラムであった。午前中のセミナーと同じ会場に戻ると、すでに民話の会の方々が揃っておられ、部屋にはやわらかな雰囲気がただよっていた。

   プログラムが始まる前、近くの席に座っておられた民話の会の方とお話することができた。ふだん囲炉裏端で民話の会をされているときの様子についてうかがい、前日に訪れた今野家住宅の囲炉裏端を思い返しながらわくわくする思いであった。子どもたちに民話を語り、さらに子どもたち自身が語り手となる企画についても教えて頂き非常に興味深かった。

   プログラムは終始和やかな雰囲気で進んだ。子どもの姿が見られなかったことは残念だったものの、民話の合間に手遊び等も挿入され、会場が一体となった和気あいあいとした会となった。民話は一話ごとに語り手が変わり「桃太郎」「納豆の由来」「七ヶ浜の民話」「宝てぬぐい」など多様なものを語ってくださった。「桃太郎」は全国的に語られているものであるが、この日聞かせて頂いた民話では驚きの「その後の話」が語られており思わず笑いがこぼれた。

   14時頃から質問コーナーへと移った。このとき、この日はまだ語られていなかった「こさじ物語」を特別に話してくださることになった。「こさじ物語」は多賀城市に在る「猩々ヶ池」にまつわる話であるが、同時に市内に在る「末の松山」と津波との関連を伝える話としても知られている。民話には様々なタイプのものがあるが、内容は概ね以下のようなものとなる。

   (1)酒屋に酒を飲みにやって来ていた猩々を殺す計画を、こさじという娘が知る。

   (2)こさじが、その危機を猩々に伝える。

   (3)猩々は自分が殺されると津波がおこるので、「末の松山」に逃げるように言う。

   (4)猩々が殺されると本当に津波が起こり、こさじは末の松山に逃れて助かる。

   全国的に語られている「桃太郎」の民話が土地特有の展開を持って語られるのも非常に興味深かったが、「この土地にしかない」という民話が語られるのを聞くと、やはり感慨深いものがあった。

   さて、このプログラム中、特に印象的だったことに、多賀城民話の会の方が「こうした民話では、津波が地震とともに語られていない」というお話をされていたことがある。つまり、土地に伝わる民話では大津波が起こる話はいくつかあるものの、それが地震によって引き起こされるものという両者の関連性を伝えていない、というのである。会場では、今後子どもたちなどに津波にまつわる民話を語る際には、地震についても一緒に語っていくことの大切さについて話が及んだ。これらのお話を聞く中で、その土地に語り伝えられてきた民話が、新たな側面を付与され、次の時代へ語り継がれるものへと変容していく様を実感した。

   また、私自身は質疑応答で「民話を聞く子どもたちがどのような反応を見せるのか」といった主旨の質問をさせて頂いた。これに対しては、歌などを入れるとよく聞いてくれる、という答えを頂いた。新たな時代の子どもたちが「語り」に触れ、「民話」に触れるなかで、何をどのように感じるのか、また津波伝承をどのように受け取るのか、こうした事柄に興味深く思いを馳せた。

   プログラム後、新幹線の時間までまだ少しあったので、院生同士で「末の松山」を見にいくことになった。お世話になった図書館の方にご挨拶したあと、会場近くでタクシーを拾い、目的地を目指す。

   「末の松山」は少し急な坂を上ったやや小高い土地にあった。松のそばには「末の松山」を詠みこんだ歌を刻んだ碑もたっている。多賀城民話の会の代表の方が「津波が来たとき、慌てて『末の松山』に逃げた」とおっしゃっていたが、実際にその場に立ってみて「ここに、多くの方が避難されたのだ。ここであの津波をやり過ごしたのだ」と、しみじみ思った。どれだけ不安なことであったろう、と。

   プロジェクト当日は、あっという間に過ぎていった。帰路、二日間の出来事に色々と思いを巡らせた。ここには書ききれなかった駅員さんとの出会いや、移動の道々ですれ違った多くの方々の様子、そして会場となった図書館の方々、セミナーや民話のプログラムで出会った方々、たくさんの人の温かさに触れられた時間を思い返した。

   土地を知り、文化を知ると、そこに生き、暮らしを営んでおられる様々な方々という「人」が立体的になるように思われる。プロジェクト参加前には「遠い場所」として感じられていた「多賀城」という地も、実際に訪れてみて非常に身近に感じられる場所となった。そして、そこで様々な方々の朗らかさにお会いする度、震災の被害というものも、より具体的な現実として迫ってくるように思われた。

   短い時間、けれど充実した時間であった。お会いしたすべての方に感謝の気持ちである。

 多賀城市における遭遇から考えさせられたこと-「物語る」機会- (対人援助学領域修了生 清武 愛流)

   私が多賀城市におけるプロジェクトに参加したのは2回目。今回も昨年と同じく、漫画展のアテンドをさせていただいた。昨年お会いした方と再会できると知り、楽しみに足を運んだ。それは、現地の同じ機関や場、そして人と連携して開催をなしていることから起こっていたことだと思う。今回の報告は、少しではあるがフィールドワーク、家族漫画展で起こったことを中心に、自身の関心であるヒューマン・サービスのサービスについて思案したいと思う。 

   今回、これまでもプロジェクトに参加し、さらには段取りも考えてくださっている方が、『多賀城碑(壷碑)』、『多賀城跡』、東北歴史博物館にある『今野家住宅』に案内してくださった。地元の方がいるからこそ、知り得た歴史や引き寄せられた関心があったと思う。

   多賀城市は、歴史や文化が多い地域。案内してくださった方やボランティアガイドの方が様々なことを伝承してくださった。長い歴史が今も引き継がれ、過去に貞観地震(869年7月9日)が起こったが、その時の災害も含めて残されていく建築や暮らしが語られていることを知る機会となった。 

   今回足を運び、自身がそれについて「参加」という言葉を使用している理由を感じたように思う。言い換えれば、ヒューマン・サービスは、提供する側とされる側といった二分割がなされるものではなく、気づきや互いに構築される部分も兼ね備えていると感じたからだった。

   多賀城市における漫画展は、昨年同様『多賀城市立図書館』で行われた。綺麗に展示されているパネルは、図書館の方々が試行錯誤し展示してくれていることを映し出していた。漫画展会場は誰かが何かをしてくれ、新しい空間として表に出される。それは、物語を並べる順番、さらにはお持ち帰りいただける冊子の配置など、様々なことを丁寧に考えてくださっていると感じたからだった。

   また、こうした空間でアテンドをしている時も、様々な「瞬間」に出会う。多くは、図書館に目的をもって来られている方であるため、漫画展を過ぎ去る方が多いのだが、ときおり、立ち止まりゆっくりと展示された漫画を読まれる方がいる。そうした方に冊子をお渡しする中で、『家族応援プロジェクト』をしているとお伝えする機会がある。これらを繰り返しているうち、数時間前にお会いした方と再会することもある。「『木陰の物語』がよかった」という感想をよく聞く。また、時に日頃の関心が話題にあがることもある。

   今回、お会いした数人の会話の中で、日頃されている仕事の話題があげられていた。技術があってもそれらを活かすためには他者とのかかわりが良好でなければそれに至らないという話題や、受け入れる者として、また、外から介入する者として、他者とどのようにかかわることが良いのかという話題だった。もちろん、復興したとは言いきれないのだが、仕事や現地の対人援助職者たちがそれぞれの職種や立場、役割を担っている姿を垣間見た瞬間だったように思う。

   これらは、現地でプロジェクトの準備をしてくださっている方とのかかわりからも感じた。それは、来年度から多賀城市立図書館の場所や運営体制が変わる中、図書館の方が中心となり本プロジェクトが継続できるよう、動こうとしてくださっていたことを知ったからだった。今までとは異なる事象と今まで受け入れてきた事象が受け継がれながら、日常生活がつくられているのだと思う。言い換えれば、復興の営みは、誰かが以前の役割に戻ることで、その周辺にいる他者の日常生活が送られていることが漫画展を通して物語られていたように思う。 

   また、この一年でどのような変化があったのだろうと関心を持ち、継続して参加をしている一方で、私の近況をお伝えする機会にも遭遇する。たわいもない話題なのかもしれないが、改めて自身の日常をお伝えするひと時だと思う。つまり、日頃会わない相手であるからこそ、普段軸を置いて語る話題とは異なる日常を言葉にでき、自身のこれまでの経過を語ることができるのだと思う。こうした機会が自身の日常を物語らせていたと言えるのだろう。

   これらを通し、人が「物語る」ということは、場やそこでの生活、ひいては他者とのかかわりにより作られる経験が次の機会で語られていくのだろうと感じた。これらからヒューマン・サービスのサービスを問うならば、サービスをするものされるものと区分しては、共にその瞬間を構築することができなくなるのではないだろうか。これからも、共に考える者として参加し、サービスについて問うていきたいと思う。

   ありがとうございました。




漫画展




活動報告




漫画トーク




民話の会




支援者交流会



あおぞら保育園をお訪ねして




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