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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

10月6日~10月22日 宮城県多賀城市「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 多賀城」




「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 多賀城」を開催しました 

応用人間科学研究科教授 村本邦子

   今年も、多賀城市立図書館の共催、おおぞら保育園の協力を得て、2017年10月6日(金)~10月22日(日)で家族漫画展、10月6日(金)には支援者交流会を開催しました。10月7日(土)午前は、鵜野祐介(立命館大学)のコーディネートのもと、加藤恵子さん(宮城民話の会)とおおぞら保育園のみなさんとのコラボによって、「民話と絵本と遊びのワークショップ」が開催されました。早くから来て待ってくれていた親子や、たまたま通りがかった子どもたちなど、入れ替わり立ち替わり40~50名の方々が参加してくれました。

   加藤恵子さんの語る民話には、小さな子どもから大人まですべての参加者を惹きつけて離さない力がありました。おおぞら保育園の「パパの絵本読み聞かせ企画」では、3人のパパが絵本を読んでくれ、子どもの反応を伺いながら一生懸命絵本を読むパパたちの姿に周囲のママたちもほっこり、全体が暖かい雰囲気に包まれました。その後、子どもも大人も、参加者も企画者も一緒になって、お手玉やこま回し、ゴム飛びなど、昔ながらの遊びを楽しみました。この企画も年々バージョンアップしてきたような気がします。

   今年の漫画トークは、1階のオープンスペースで行われました。集中して話を聞きたい人には少し不満の残る形だったかもしれませんが、個人的には、参加の仕方にグラデーションのある、ゆるやかな境界の中でのトークは、なかなかよかったのではないかと思いました。来年、立命館大学に入学を希望しているという高校生も参加してくれました。こんなふうに繋がりが拡がっていくことは嬉しいことです。

   プログラム終了後、多賀城市立文化センターに移動し、山形大学の上山真知子先生に講義をして頂きました。沿岸部の史料レスキューとレジリエンスの話は興味深く、勉強になりました。人間は歴史的存在であり、歴史を救うことが人間を救うことなのだと思いました。この事前学習を経て翌日のフィールドワークに出れたことは幸いでした。フィールドワークでは、旧大川小学校の校庭に立ち、海の空気を吸いながら女川の駅前商店街を歩き、女川で被災された安倍ことみさんと遠藤さんのお話を聴かせて頂きました。すざまじい体験を生き抜いてこられただろう先輩女性たちの笑顔の向こうにあるレジリエンスを感じました。若い院生たちを連れて現地を訪れ、伝承する機会を作ること自体が大きな力を持っているのかもしれません。その一方で、現地に身を置いてみなければわからないことがたくさんあり、多声的に構成される現実を知れば知るほど、語ることは難しくなります。それでも、証人としての役割は大切にしなければなりません。

   帰路に着く前、女川駅前の小さなお店に立ち寄ると、真ん中に座ってジュースを飲んでいた男性が、楽しそうに自分のことを語ってくれました。6年くらい前、遠方の他県からやて来て、ずっとここで復興の工事をしているのだそうです。「引き潮の加減で、夜の11時頃まで作業することもあって大変だけど、温泉もあるし、みんな良くしてくれるから、家族みたいで、毎日のようにここに来るんだ」と言っていました。奪われたもの、失われたものは途方もなく大きく、どんなに努力しても想像を絶します。偶然の重なりから新しい出会いと関係も生まれています。奇跡のように与えられた今ここに感謝したいと思いました。

 2017多賀城プロジェクト報告 (応用人間科学研究科教授 団 士郎)

   新しい多賀城市立図書館に移って二年目。駅前はずいぶん変わっていて、被災後、二、三年頃の面影は消えつつある。砂押川も道路も位置は変わらないが、あの橋の直ぐむこうにクローバー保育園があった・・・と思い出すことは出来ても、今そこは駐車場。駅周辺の空気も大きく変わってきていることを感じる。図書館も利用者によってこなれてきているのか、当たり前感の賑わいが漂う場になってきている。

   昨年同様、三階の展示室で漫画展は開催されていて、わざわざ上がっていかなければならないので、誰の目にも入る場所ではないが、来てくれている人たちにはゆっくりパネル作品を味わってもらえるように、今年もなっている。

   昨年もそうだったが、サイズの関係で英語版の掛け軸が展示できるのは多賀城だけで、対訳版ボードも展示しているのだが、それが経年劣化で紙面が浮いていて、しわが目立つのが気になる。

   今年一番の変化は、マンガトークの会場を一階図書館スペースに設定されたことだ。書架や利用者が座席にいる直ぐ近くの空間に講演会場を設置し、マイクを使ってマンガトークを行った。いわゆる図書館のイメージがあるので、少し戸惑いやためらいがあったが、思っていたより快適で、外国映画で時々見る、書店内に場を設けて執筆者が自作品を語るような雰囲気が出来上がった。午前中に行ったプログラムは、昨年も今年も児童書中心の閲覧スペースにある空間で行ったが、それと連動した図書館活動の一環になった感じがした。

   終了後、夕刻から会場を移って、山形大学の上山さんに聞かせてもらった話も、最終日にジャンボタクシーでフィールドワークに出た大川小学校跡や復興めざましい女川商業ゾーン、そして地元の女性2人からうかがうことになった話など、どれも院生にはとても良い学びになったことだろう。

   あらゆる事が変化するのは必然であるから、風化や忘却ではなく、歴史はきちんと伝えられ、良き変化が生まれ出る場への、ささやかな貢献ができていればと思った。

 「東日本・家族応援プロジェクトin多賀城2017」に参加して(文学部教授 鵜野 祐介)

   <1年ぶりの再会>

   私にとって、このプロジェクトで多賀城に来るのは今年で4回目となった。何人もの懐かしい笑顔と1年ぶりに対面し旧交を温める。この間、職場が変わったり部署が変わったりされた方もいらっしゃるが、変わることなく私たちのことを待っていて下さり、再会を喜んで下さる。その想いが伝わってきて、何よりもうれしく有難い。

   <東北歴史博物館特別展「熊と狼」>

   10月6日(金)14時半すぎ、国府多賀城駅に到着し、隣接する東北歴史博物館を訪れる。開催中の特別展「熊と狼 -人と獣の交渉誌-」は、2014年8月に宮城県丸森町で開催された「第9回みやぎ民話の学校」で知り合いになった本博物館主任研究員の村上一馬さんが、数年間かけて企画・設営に尽力されたという展示で、なかなか見応えがあった。熊や狼という「ケモノ(毛-物)」が東北の人びとにとって霊獣にもなれば害獣にもなり現金収入源にもなってきた「人と獣の交渉」の歴史が通覧できる。特に、近年まで使われていたという熊を生け捕る「ワナ」の実物大展示とビデオ映像は迫力があり、「人と獣の共生共存」の困難さと大切さを訴えかけていた。この日は平日だったこともあり、観覧者がほとんどいなかったのは残念だったが、休日には関連のワークショップや講演会も企画されており、子どもたちを始め多くの市民の方がたが来場されるものと期待したい。ふと、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」を私たちのプロジェクトのイベントの中で朗読劇か絵本読み語りのプログラムとして上演できればと夢想した。 

   <市立図書館のにぎわい>

   2016年3月のリニューアルから1年半が経った多賀城市立図書館は、高校生・大学生と思しき若者から、親子連れや高齢者まで、幅広い利用者でにぎわっていた。10月7日(土)朝9時の開館前から、若者たちが雨の中、長い列を作って入口前で待っていた。広い学習室や自習用スペースが特に人気で、隣りの仙台市からも大勢訪れているそうだ。 

   一つの建物の中に、図書館と書店とレンタルショップと喫茶・レストランが入居しているため、たとえば3階の図書館スペースから同じ3階のレストランへ行くのに一度2階へ降りてから渡り廊下を通ってもう一度3階へ上がらなければいけないといった不便さはあるが、慣れてしまえばそんなに気にならないのかもしれない。

   多賀城駅に隣接しており、列車や路線バスの待ち時間を利用して立ち寄ることができるのもこの図書館の特長である。団先生の漫画トークにも、そういう形で立ち寄り、しばらくの間聴いていかれた高齢者の女性がいた。外観・内装ともにスタイリッシュで都会的なファッションセンスにあふれるこの「市立図書館」が、本当の意味で「市民図書館」となるためには、この女性のように、気軽に立ち寄って自分の思うままに時間を過ごせるような仕掛けがもっとできるといいだろう。実は、筆者の出身地の岡山県高梁市に同じ系列の図書館が今年1月に開館しているのだが、まだ覗いていない。今度帰省した際にはぜひ足を運んでみようと思っている。

   <民話と絵本と遊びのワークショップ>

    10月7日(土)午前10時30分から12時まで、昨年に引き続いて、おおぞら保育園の先生方や園児の親御さんにご協力いただき、また今回みやぎ民話の会の加藤恵子さんに仙台市から駆け付けていただいて、このワークショップを開催した。3部構成で、①加藤さんの民話語り、②お父さんの絵本読み語り、③伝承玩具を使った遊びの順に進行した。

   加藤さんは元小学校教師で、現在は宮城県内・県外の各地で民話の採訪活動や語りの活動をしておられる方である。聴き手の子どもやその親御さんたちとの間合いや場の空気感にとても気を配っておられたのが印象に残った。「上から目線」にならないようにと、椅子を使わずカーペットにそのまま坐って語られた。最初は警戒するように距離を置いて坐っていた親子連れが、話が進むにつれて身を乗り出し、「コンコン」「ドンドン」と一緒に体を動かしていくうちに、心もほぐれていく様子が見て取れた。

   3人のお父さんたちの絵本の読み語りは、実際に自宅で子どもに読んであげている絵本を持ってこられたとのことで、すぐそばに坐って聴いているわが子と、数メートル離れたところで聴いている観客の両方に向けて読んでくださった。だんだん緊張が解けて「観客」が気にならなくなり、すぐそばのわが子に向けて、おそらく普段と同じ調子で読んでおられる感じになっていく、その変化が微笑ましかった。今後、「お父さん・お母さん」の他に「おばあちゃん・おじいちゃん」や「おねえちゃん・おにいちゃん」の読み語りがあっても面白いだろう。今回一組5分ぐらいだったので、五組ぐらいにお願いして入れ替え時間も合わせて合計30分のプログラムを組んでみてはどうだろうか。

   伝承遊びのコーナーでは、保育園からご持参いただいたいくつかの玩具を順に紹介する形で進めていったが、お手玉に一番長く時間をとった。さわる、投げ上げる、受け取る、床に落とす、拾う(さらう)、隣りに受け渡す、隣りから受け取る……、これらひとつひとつの動作が、お手玉の中に入っている小豆の触感やこすれ合う音とともに心地よさを醸し出す。幼い子どもからお年寄りまで、みんなを笑顔にさせてくれる力をお手玉遊びが持っていると改めて実感させられた。一方、コマ回しや羽子板遊びは、場所の狭さを考えると、ここでの体験はやめた方がよさそうだ。最後にやったゴムとびは、前回同様とても盛り上がった。これが子どもたちの中にある「達成感」の喜びを刺激するまたとない遊びであることを再認識できた。

   <団士郎漫画トーク>

   同日午後2時から行われた団先生のお話は、1階通路の広めのスペースを利用して行われた。通路をはさんだ後ろの席に坐って聴いたが、通路を通り過ぎる人たちが、私たちに気を使ってそうっと歩いて下さっていたこともあり、通行はあまり気にならなかった。ただ、後ろの席からはスクリーンや団先生の顔が前の人の頭に隠れて見えにくかったので、一段高くひな壇を組んだ方がよかったかもしれない。

   <上山先生のミニ講義>

   この日の夕方、会場を市立文化センターに移して行われた上山眞知子先生のミニ講義では、翌日訪れる大川小学校の津波による犠牲・行方不明児童の遺族による訴訟問題に対する、現地在住の方からの貴重なお話が伺えた。この日配布して下さった大川小学校事故検証委員会の報告書には次のように記されていた。「……地域住民・保護者が釜谷交流会館・校庭付近にいたりしたことが楽観的思考を強めたこと、(中略)さらに、支所職員が来校して体育館を避難所として利用できるか否か確認したことも、危機感の高まりを抑制する方向に働いた可能性がある」。また、教職員の多くが地域外から赴任してきており、さらに校長が当日不在だったこともあって、地元の地域住民の「ここには津波は来ないだろう」という楽観的な意見に同調することになった可能性も指摘された。

   <旧大川小学校遺構訪問>

   翌8日(日)午前9時30分、ジャンボタクシーを利用して参加者全員で旧大川小学校遺構を訪れた。私自身この場所にくるのは今回が3回目だったが、前回訪れた3年前とほとんど変わっておらず、復興から取り残された風景が広がっていた。津波の強い衝撃にへし折られた鉄筋コンクリートの柱も、子どもたちが描いた世界の民族衣装を着た人びとが手をつないで笑う壁画のひび割れや汚れもそのままだった。ただ、慰霊のモニュメントの数が増え、また訴訟の原告側によると思われる写真パネルが数か所、新たに設置されていた。

   パネルの説明には、前述した報告書の内容は全く記載されておらず、先生たちがなぜ裏山へ上がらず校庭に留まり続けたのか理解できないという、引率教師に対するパネル設置者の疑問が表明されていた。亡くなられた10人の先生のご遺族の哀しみが心をよぎり、声を挙げたくても挙げられない、そんな人びとのつぶやきに耳を澄ませたいと思った。

   <女川でのフィールド学習>

   旧大川小学校遺構を後に、まだ復興工事の進んでいない様子の雄勝町を抜けて女川町へ。女川町は復興の先進地と称賛されており、女川駅前にぎわい拠点「レンガみち・シーパルピア女川」では、この日の午後2時からファッションショーが開催され、好天にも恵まれて多くの観光客でにぎわっていた。今回、私たちは女川で民話の語り部として活動しておられる安倍ことみさんと、女川町の元教育長・遠藤定治先生の奥様にお話をうかがった。

   はじめに、震災の後、避難所としても使われた町営総合体育館内の一室で、安倍さんから民話や震災体験談をうかがった。私自身はこれまで何度も彼女にお話をうかがってきたが、今回は他のメンバーたち、特に若い院生3人が一緒だったことで、いつもとは違う緊張感が伝わってきた。それでも、津波に遭った後の避難所での生活を振り返り、丁寧に話してくださった。そして、予定していた時間が過ぎる頃、高齢者を対象にしたおはなし会で語っておられるという、大人向けのエッチな話(色話、艶笑話)が話題に上った。これは院生たちも私自身もぜひ聴かせていただきたいところだったが、時間切れで断念した。

   その後、16メートル超という、信じられないような津波の高さを実感できる高台の地域医療センターに移動して、遠藤さんからお話を伺った。この女川浜で生まれ育ったという彼女は、復興只中の町を見下ろして、「やっぱり海が見える風景が好きです」としみじみと語られた。

   安倍さんや遠藤さんのお話から、院生たち若い世代が何を感じ、何を受けとめてくれたのか、聞いてみたくなった。そして来年もまたこの町を訪れ、安倍さんや遠藤さんの声に耳を傾けようと思った。

東日本・家族応援プロジェクトin 多賀城2017に参加して(臨床心理学領域M1 有谷久美子)

   プロジェクト1日目の夜。院生3人で部屋に集まり、2人の話を聞きながらうとうとしていると、緊急地震速報のアラームに意識を呼び戻された。直後に襲った揺れ。その後のニュースで、東北地方太平洋沖地震の余震だと知った。まだ残る6年前の地震の影響を身に受け、改めてその被害の大きさを考えさせられた。

   1日目の懇親会。私は多賀城市役所の職員、丸山さんに震災時のことや、震災後のお話を聞かせていただいた。津波からどのように避難し、避難後の生活を送ったか。夜、窓の外が明るいと思ったら向かいの建物が爆発していたこと。家まで平泳ぎで帰ろうとした女の子が途中触れたものが水死体だったこと。眠れない人達で集まり、ストーブを囲ってそれぞれの体験を語り合った夜のこと。市役所で働く人たちが、市役所に避難している人のためにと遠慮して食べようとしなかったり、眠らず働こうとした時「しっかり食え、寝ろ。支援しなきゃいけない人が倒れたらどうすんだ。共倒れだぞ」と話し、そこからその考え方を大切にしながら市の職員や支援者・ボランティアの人たちと共に被災者支援を行ったこと。他にも多くのことを教えてくださった。

   中でも特に印象深かったのは、「震災を歴史と捉えるか、未来と捉えるか」というお話だ。震災の話をすると、「まだ言うの?」と言う人もいるという。しかし災害はいつ起こるかわからないものであり、歴史として風化させず多くの命を守るためには、震災の日のことを予防のためにいつでも持っておくべき知識と捉え、語り継ぎ、広めねばならない。私の中の“証人になることの意義”に、人の命を守ることに繋がる、ということが加わった。

   2日目。この日は多賀城市立図書館でのプログラムを中心とした活動となった。みやぎ民話の会の加藤さんによる故郷の民話を聞くコーナー、おおぞら保育園に通う園児たちのお父さんによる絵本の読み聞かせ、鵜野先生による伝承遊び、そして団先生の漫画展・トークショー。初対面の人がほとんどの中で、参加者が一体となる感覚を得ることができたのは、どれも引き込まれるような魅力を持つツールだからだろう。

   多賀城市立図書館でのプログラムを無事終えた後、山形大学の上山先生に沿岸部レジリエンスの研究についてご講義いただき、先生の活動についてのお話を中心に震災時のことや支援者が活動をする際の基本として心得ておくべきことについても学ばせていただいた。支援をしようと躍起になるのではなく、被災者の安全、尊厳、権利を尊重することや、自分の役割とその限界をわきまえること。この場で学ばせていただいたことは、支援者として自分がどう在るべきかを考える時の基盤として持ち続けたい。

   プロジェクト3日目には、幼い頃から女川町に住む遠藤さんのお話を聞く機会をいただいた。女川町へ向かう道中、車の中から海を見た時その青の美しさになんて綺麗なのだろうと思うと同時に、あの海がたくさんの人の命を、生活を…と思うと何も言葉が出なかった。女川町は、海と共に復興することを選んだ町である。遠藤さん自身は、海に対してどのような思いを持っていらっしゃるのだろう。質問し、いただいた答えは「私は海、大好きです」。小さい頃から海を飽きずに見ていたこと、防潮堤ができ、海が見えなくなったら女川町ではなくなるように感じること。海に対して抱く思いは人それぞれだが、女川町で海を見て育った一人の女性の思いを知ることができよかったと思う。

   今回このプロジェクトを通して、私は証人になることの意義や必要性を感じると同時に、証人になること、特に人に伝えるということの難しさを感じた。証人になるには、人に伝えるには、言葉を発せねばならぬ。現地に赴き、東日本大震災のことを被災者の方々の声を聞くことや震災遺構を見ることを通して知っていく中で、言語化することの難しい思いを抱いた。事実を伝えようとするのにも、言葉を選ぶのに時間がかかる。証人になることで持つ責任。証人となる自分自身と向き合うこと。証人になることの難しさも学んだ3日間であった。

 東日本・家族応援プロジェクトin 多賀城2017に参加して (臨床心理学領域M1 神戸 希)

   これまで仙台市には何度か訪れたことはあるが,隣の多賀城市については,恥ずかしながらほぼ無知であった。プロジェクト初日の6日(金),図書館関係者,多賀城市職員の方,おおぞら保育園の方々にお集まり頂き,懇親会が行われた。これだけの多くの人が関わっていることに,多賀城市プロジェクトの重みを感じるとともに,その一員となれることに気持ちが高まった。

   多賀城市駅の目の前に多賀城市立図書館,通称TSUTAYA図書館があった。おしゃれな内外観,高々とそびえる書架,落ち着いた照明,開館前から人が並ぶ理由もわかる気がする。

   7日(土)のプロジェクトでは,午前は鵜野先生主催の「民話と絵本と遊びのワークショップ」,午後は団先生のトークショーが行われた。トークショーは,三階の漫画展とは離れた,一階のオープンスペースで行われた。本を探しながらふと足を止める人,たまたま漫画展に立ち寄ってトークショーのことを知った人,事前予約してきた人などいろんな方がいたが,皆興味深そうに聞く。何を考えているのか気になった。私はこの3日間で,団先生の漫画を含め,様々な家族の在り方を見た。午前の「お父さんに絵本を読んでもらおう」プログラムで見た子育て世代の若い家族,そして地元の人たちの被災体験の中で語られる家族。被災体験の多くは,単に個人の話ではなく家族を含めた話になる。私は,このプロジェクトで「家族」というテーマの普遍性を感じた。団先生の漫画は,「こういう家族もいるんだ」「こういう考え方もあるんだ」という閃きが得られる刺激的な漫画である。そういった閃きが,家族や人間関係に悩む人に新たな兆しをもたらし,心を穏やかにしてくれるのだろうと思った。実際,直接的な被災者でなくても,震災によって家族の在り方が変わった人はたくさんいる。その当時は津波の直接的被災者を思って言えなかったことが今になっていえるということもある。震災から6年半という月日は,単に風化の一途を辿るものではなく,「今となっては震災があったからかも」と冷静に振り返り震災ありきのライフストーリーを語れる段階なのではないかと思った。そう簡単に言えることではないが,語るということ,語れる人のつながりがあることがいかに重要なことか改めて感じた。被災者、被災地という枠組みで捉えず,一人一人がいろんなストーリーを持って今生きているということに目を向けたいと思う。それが現地に赴く意味であり,証人としての役割であると考える。

   特に、大川小学校の津波被害について世間では様々な憶測が飛び交っている。8日(日),私たちは大川小学校へ向かった。快晴に恵まれ,鳥がさえずり山々が見渡せるのどかな景色が広がっていた。その中に,大川小学校は,おびただしい姿で残っていた。骨組みも窓のフレームも歪み,柱は崩れ,壁などあるはずもなく空虚な教室が露わになっている。上からしとしとと滴る水滴。黒板や学年別のプラカードがあったが,小学校とは到底思えない。震災当日何があったか、それぞれどんな思いだったか想像する。今回多賀城市、女川町を訪れ、ここまで波が押寄せた、施設の外まで避難者が溢れかえったという話を聞くたびに想像を絶した。なぜ信じられないのだろうと自分自身の感受性を疑ったが、それらを聞いて自分がどう思ったかが今の私の物語なのだと思った。

   また,今回たくさんの民話を拝聴したのだが,民話や伝統文化がもつ大きな力を感じた。自分で何かする力がなくても,他者と同じ空間で民話の語りを聞くだけで、何か暖かな気持ちになる。方言同様、その地域の文化を共有することは人々に癒しをもたらすようである。今回,光栄なことに山形大学の上山眞知子先生の特別講義を受けることができた。先生がおっしゃっていた、日常に溶け込ませる心理社会的支援、その地域のニーズに合わせた「地元の黒子に徹する」支援が援助者としてあるべき姿であるということを実感する。

   今回,多くの方のお話を聞くことができ,多賀城市・女川町など様々な場所に行き,濃密な時間を過ごすことができた。このような機会を設けてくださった先生方,そして貴重な体験を話してくださった地元の方々,現地プロジェクトメンバーの皆様,院生修了生の方々に感謝申し上げたい。 

 「東日本・家族応援プロジェクトin多賀城」に参加して (応用人間科学研究科 臨床領域 M1 古田祐介)

   私が今回、このプロジェクトに参加しようと思い立ったのには一つの大きな理由があった。それは、私自身、一度“被災者”になった経験があるということだ。ちょうど2011年の東日本大震災から半年ほどたった9月の台風12号による紀伊半島大水害で私たちは大きな被害を受けた。家屋の一階部分は完全に川の一部となり、復興まではかなりの時間を要した。しかし私たちはこの状況で自分たちを“被災者”として感じることは難しかった。それは同じ年に起こった東日本大震災や、他の被害の大きかった地域に比べれば“マシ”であったこと、それゆえメディア露出が少なかったことなどから“私たちは本当に被災者なんだろうか”という、ある意味での“誤った認識”を持っていた。今回の東日本・家族応援プロジェクトin多賀城に参加させていただいた経緯もここにある。主観的な話ではあるが、“多賀城”という地域がかなり被害が大きいにもかかわらず、あまりリアルタイムで耳にする回数が少なかったからだ。私は、ここで現地の方々にお話を聞き、どのような心境で自分たちのことを捉えていたのか、そしてこの震災をどのような意味付けで自分の人生の物語に書き込んでおられるのかという“生の声”でそれぞれの方の物語を是非聞いてみたいと感じこちらのプロジェクトに参加させていただいた。

   このプロジェクトでたくさんの方々のお話を聞く中で私が常々感じたのが、一人一人の“東日本大震災の捉え方の違い”である。特に印象に残っているのが、ある被災者の方が、「あまり大きな声では言えないが、大川小学校の悲惨な姿は残しておくのではなく、できれば取り壊してほしい」と語ったことだ。東北から遠く離れている関西の人間からすると、被害を物語るような建物や形跡は、“風化を防ぎ、後世に残していくために必要である”と考えることはおかしいことではないだろう。しかし、このような震災の影響を色濃く残すものを見ることで震災の記憶を思い起こし、苦しくなる被災者の方々がいること、そしてまた、“大きな声では言えない”とおっしゃるように、被災者の中でもそれぞれの捉え方が存在し、決して“被災者”という一つのくくりでは説明できないことを痛感した。それは私自身が経験し感じたこともまた、そうであるということに他ならなかった。また、一人一人違う“被災体験”を、ある一つのプロセスや方法論で見ることは決してできないということだ。そして、被災された方々からもそのようなことは全く求められていないということも同時に気づかされた。

   私たちができることはほんの少しのこと、あるいは何もできないのかもしれない。それでも“ないよりはあったほうがいいよね”といわれるようなアクションは私たちにもできるのかもしれない。多賀城市立図書館で行った、親子で行う昔の遊びの体験や、父親から子どもたちへの読み聞かせ、団先生の漫画展・トークショーでは、天候が芳しくないにもかかわらず、予想を大きく超えるほどのたくさんの方々にお越しいただき、そこでたくさんの笑顔が生まれ、出会いが生まれ、そしてコミュニケーションが生まれた。その中には、毎年来られているという方や昨年来られていた方もおられ、このプログラムが点としてではなく線として存在しているということ。そしてそれがこのプログラムの持つ“意義・意味”であるということを強く実感した。そして、10年を迎えるまで私たちはしっかりと継続させていく必要があるという責任感も感じた。多賀城という土地でこのプログラムを体験し、多賀城の方々との交流ができたことでこのプログラムの目指すところ、そしてそれが多賀城の方々にとってどのような存在になりつつあるのかということに初めて気づかされた。そして、その気づきをしっかり持って、次にこのプログラムに参加し、現地に行かれる方に共有し、伝達していく義務があると感じた。

   最後に、私たちと共に“東日本・家族応援プロジェクト”に参加していただいた多賀城市、または近隣にご在住の方々、そして私たちと共に、このプロジェクトを盛り上げてくださったすべての方々に感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。

 「復興の物語」に身を置いて (修了生 NPO法人家族・子育てを応援する会代表 新谷眞貴子)

   東北歴史博物館の大きな森に抱かれるように、おおぞら保育園は立っています。そのおおぞら保育園に訪問するのは今年で4年目。毎年違う発見があり、変わらない先生方の園児たちへの愛情を感じます。震災が起こった6年前、前身のクローバー保育園の園児たちと先生方は命からがら避難しましたが、保育園は廃園になりました。その後、先生方は、唯々被災された保護者の復興の力になりたいと奔走され、おおぞら保育園が誕生したのです。間借りした後、トレーラーハウスの園舎で2年半以上、そして、新しい園舎に。おおぞら保育園は、生後6か月~3歳の児童が入る、認可の「小規模保育所」に生まれ変わりました。震災が起こって以後、園児たちが、先生方の「希望の灯り」になり続けました。この保育園に、私はとても魅力を感じています。

   2014年10月、初めて訪れたときには、トレーラーハウスから引っ越したばかりで、保育園の壁は真っ白でした。この「真っ白な壁」が、これからのおおぞら保育園の大きな可能性を表しているように思われ、帰り際、「来年は、この壁にいろいろな掲示物が貼られているのでしょうね」と言ったのを覚えています。

   2017年10月、今年も保育園にお邪魔すると、あの時真っ白だった壁には、ひとり一人のお誕生日を祝う素敵な掲示物と、子どもたちの愉快な作品が貼られていました。

   園児たちは、少々食べこぼしをしても、食べられないものがあっても、トイレトレーニングが遅くても、ゆったり先生方に受け入れてもらっています。おおらかに笑いながら「それぞれの成長がありますからね」と話される黒川園長先生に、子どもたちを思う原点を教えていただきます。自分が子育て支援の活動を始めて、改めて子どもたちは無条件に愛されていいんだと思うようになりました。少し時間があったので、園児たちと遊ばせていただきました。絵本を持っている子がいたので、近づいて一緒に読んでいると、何人かが集まってきて、それぞれの園児たちが絵本にある車や動物について話し始めました。きっといつもこうしてお話を誰かに聞いてもらえているのだなと思いました。

   今、私の机の上に、おおぞら保育園の先生方と園児たちが作ってくださった、震災プロジェクトのプログラムの記念品が置いてあります。おおぞら保育園の先生方は、毎年この震災プロジェクトに参加してくださっています。忙しい保育の中で、人と丁寧に関わっていく先生方の姿をきっと子どもたちは学び取っていくのだろうと思います。

   おおぞら保育園の変わらずにある理念、そして、親御さん同士がつながるように芋煮会や運動会で盛り上げようとする行事の工夫、地域の方々との関わり、日々の園生活での園児の安全性も十分考えられています。13人の子どもたちは、にこにこと毎日をのびのび過ごしています。おおぞら保育園の積み重ねて来た歴史に今年も学ばせていただきました。

   今年の多賀城の震災プロジェクトは、盛りだくさんのプログラムでした。多賀城市立図書館で行われたプログラムと被災地のフィールドワーク、民話の語りと被災体験の聞き取り、研究講義、支援者交流会等でした。

   図書館のよみきかせスペースで行われた、「民話と絵本と遊びのワークショップ」では、子ども連れの親子が沢山参加してくださいました。故郷の民話をお話してくださったみやぎ民話の会の加藤さんは、聞く人をひきつける話術で、懐かしい民話の世界を楽しませてくださいました。おおぞら保育園の園児のお父さん方の読み聞かせでは、子どもの反応を見ながらとてもいい親子関係を感じさせる温かい空気が流れていました。「ふるさとの伝承遊びを楽しもう」の時間では、若いお母さんが、「お手玉を持っていてもこんな遊び方を知りませんでした。参加できて良かったです」と言って帰られました。コマ回しや羽子板を珍しそうに見る人たち。お手玉やゴムとびは全体で盛り上がる醍醐味がありました。

   団先生の漫画トークには様々な立場の方々が来られていました。ずっと団先生と関わり続けている方、通りすがりにちょっとトークに耳を傾けられた方、今年は図書館のオープンスペースで通りすがりの方も参加できるという会場設営になっていましたが、聞いている方の気持ちはトークに向くという落ち着いた空間がありました。終わってから、アンケートを見せていただくと、それぞれの生活や事情に団先生のお話を重ねて様々なことを考えておられました。

   プログラムを終えて、反省会の後、山形大学上山眞知子先生による「沿岸部レジリエンスの研究講義」がありました。支援・調査する者の心得として、「被災者の尊厳を守る」、「地元に成果を返す」、「他領域との連携」等いくつかありましたが、最も心に残ったのが、「黒子に徹する」ということです。心理社会的支援の柱「公平性」・「尊厳」・「権利」を守ることを踏まえて、この震災プロジェクトが、場を継続して作っていることを大変評価されていました。支援者となって何ができるのかを考えるとき、「日常生活に溶け込ませる支援の方法に知恵を絞る」という上山先生のお話は具体的で分かりやすかったです。「資料レスキュー」は大変興味深い話でした。その資料と歴史を残すことに、これだけ心を注ぎ込んでいる人たちがいることに感銘しました。

   大川小学校の話になり、県のホームページに公開されている大川小学校事故検証委員会の「事前対策及び事故当日の行動に関する分析」について聞かせていただきました。被災時の大川小学校の教職員の対応について、非難の声が聞こえてきますが、資料によると、教職員はその時に出来る精一杯のことをしていたと思われます。しかし、司令塔が不在だったこと、天候により山に続く道は凍っていて安全性に問題があったこと、各種事前対策が十分ではなく、地元住民・保護者・教職員の緊迫感が無く楽観的思考をしていた状況、市の職員が小学校を避難所とする確認に来たこと、そして、橋が多くの木でせき止められ川から津波が勢いよく溢れ出したこと等いろいろなことが重なって、惨事につながったことを改めて知りました。被災者の立場、支援者の立場、そして、その両方に置かれた立場を様々な角度から考える機会になりました。

   そして、最終日。多賀城市を後にして、沿岸部のフィールドワークに向かいました。最初は、大川小学校です。

   何度もテレビで見ていた大川小学校の運動場に実際に立った時、何と大変なことが起きていたのだろうと思いました。校舎の無残な姿は、その時の津波の脅威を物語っていました。そして、慰霊碑の名前と年齢を読んでいると、その津波に飲み込まれて、幼い子どもも含め家族ごと命が奪われていることが分かりました。遺族の思いを考えると、まだまだ心のやり場がないのは当然だろうと思います。亡くなった子どもたちや先生方、住民の方々のご冥福を祈ると共に、残された遺族の方々の思いを想像し、自分の知らなかった報道されていないことにもついても考えさせられました。

   最後は、女川です。昨年、鵜野先生と仮設住宅にお邪魔した、安倍ことみさんの、民話と被災された時のお話を聞きに行きました。昨年もお聞きした「栄尊法因」の語りを聞きました。少し結末は怖いようなお話ですが、安倍さん独特の素朴な語りが、優しく勧善懲悪を教えているように感じました。

   帰り際「また来てくださいね」と声を掛けていただき、2度目の訪問が気持ちのつながりを生んでいることを感じました。自分のおばあさんから聞いた話を今も小学校へ出向いて、子どもたちに語り継ぎ、「語りの会 杉っこ」という民話を語り聞かせる会で勉強会をして後継者を育てておられます。自分が生きている証として安部さんはこの活動をしておられます。息の長い世代をつなぐ活動です。

   女川の港の方まで歩くと、見上げるような小高いところに女川町地域医療センターがあり、遠藤さんから、震災の起こったその時の写真を見ながらお話を聞きました。凄い力で津波が家を押し流していくその様は、その土地に立つと本当に恐ろしいこととして感じました。

   今年も宮城に来て、自分の目で土地を見て、出会った方々と話を交わし、いろいろなことを考えました。

   初日に行ったせんだいメディアテークでは、「被災した方々が触れあいながら千枚の仏を描き上げる」というプロジェクトがあり、多世代の描いた仏様の絵が壁一面に貼られていて、それぞれの思いのこもったおびただしい数の絵は圧巻でした。様々な震災のプロジェクトがあることを知りました。

   私は、立命の震災プロジェクトに福島・多賀城と5年参加させていただき、再会する度に前よりも地元の皆さん方とお話する内容が深まっているように感じます。今年は、多賀城で一緒に参加した後輩の院生の人達に、自分がこれまで参加した思いについて話をする機会があり、震災プロジェクトの活動を振り返ることも出来ました。

   そして、自分の対人援助活動を考えたとき、その道案内をしてくれているのが、この震災プロジェクトであることに間違いありません。復興は進んでいるように思いますが、まだまだ解決できないこともたくさんあります。人が抱えている心の問題はきっと見えにくくなっていると感じます。でも、人と丁寧に継続して関わる中で見えてくるものがあると、様々な場面でこのプロジェクトが教えてくれています。

多賀城市立図書館


家族漫画展

絵本と遊びのワークショップ

漫画トーク

支援者交流会



安部ことみさんの昔話と体験を聴く


加藤恵子さんによる民話


上山真知子先生によるレクチャー


元教育委員長遠藤夫人のお話を聴く


石巻市大川小学校・女川町命の石碑プロジェクト・海の見える女川駅前商店街







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