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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

11月30日~12月6日 福島市「東日本・家族応援プロジェクト 2015 in 福島」




「家族応援プロジェクト2015 in 福島」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   2015年11月30日(月)~12日6日(日)、福島市子どもの夢を育む施設こむこむにて、5年目を迎える「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2015」を開催しました。今年も特定非営利法人ビーンズふくしま、まちとしごと総合研究所の共催、福島市子どもの夢を育む施設こむこむの協力、福島県、福島市、福島市教育委員会、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターの後援を頂きました。漫画展会場として、1階のにぎわい通り(図書館横)と2階交流コーナーを使わせて頂き、たくさんの方々の眼に触れることができました。恒例のクリスマスカレンダーづくりも、1階のにぎわい広場で開催しましたので、こむこむを訪れていた家族でいっぱいになりました。今年は、新しい企画として、「ふくしま民話茶屋の会」「わらべうたの会はないちもんめ」の協力を得て、福島に古くから伝わる民話や伝承遊びをご紹介頂き、参加のみなさんと暖かく楽しい時間を過ごさせて頂きました。東京おもちゃ美術館から寄付頂いたおもちゃセットを活用した遊びコーナーも大人気で、終始たくさんの子どもたちでにぎわっていました。

   プログラムの前後、合間を使って、福島のことをもっと知りたいとフィールドワークも行いました。4日、ビーンズふくしまの「みんなの家」を訪れてスタッフの方々のお話を聞き、仮設住宅での学習支援ボランティアにも参加しました。5日の朝は、新しくなった珈琲屋「椏久里」を訪ね、おいしいコーヒーとお菓子を頂きながら、昨年に引き続き市澤美由紀さんを囲んでお話を伺いました。5日の晩はスタッフ交流会、6日には、医療ジャーナリスト藍原寛子さんを訪ねて福島の状況についてお聴きしました。プロジェクトも5年目を迎え、「今年も来ましたよ」と言ってくださるリピーターの参加者が増えると同時に、年々、訪問先も増え、私たちも少しずつ福島に馴染んできたな~と嬉しく思っています。

   その一方で、福島を訪れるたびに難しくなっている状況を実感しています。12月3日、富岡と楢葉が指定廃棄物の受入れを了承したというニュースを聞きました。地元の新聞には、「受け入れやむなし」「住民の気持ち無視」という住民の声が紹介され、両町長は「苦渋の決断である」と言っています。5日の福島民友は、避難解除3ヶ月の楢葉の帰還者は人口の5%、その7割が60歳以上だと報じていました。「なぜこんなことになってしまったのか?」を考えれば、到底納得のいく話ではないでしょう。人々は、個別の事情が違いすぎて、放射線の話、原発の話を話題にすることができないと口を揃えて言っていました。こんな状態で、次々と原発の再稼働が進められていって本当に良いのだろうかと疑問に思わずにはいられません。「分断」は人々の力を奪います。関係をつなぐこと、互いの声に耳を傾ける場を開くことを続けておられるみなさんと、こうして私たちもつながっていることに感謝しつつ、小さくてもできることを続けていこうと決意を新たにして帰って来ました。

 福島2015 (応用人間科学研究科教授・団士郎)

   会場が福島「こむこむ」になって、漫画展、マンガトークをする側として、一定数の人たちには見て、来て貰える安心が生じている。展示会場が一階と二階会場に分かれているのだが、会館利用者の目に触れる機会は多くなり、やってみた結果、パネル展示としてこの形式もよいなと思った。

   アンケートも漫画展を見て語っている人が多く、時間指定で行うイベントとは違って、見たいときに見る、たまたま眼にしたので見るという機会が多いようだ。リピーターもおられるが、初めて見る方も多いに違いない。一、二階会場共に、冊子の無償配布についてのサインボードがなかったのは手抜かりだろう。来年は、用意しておきたい。

   漫画トークの参加者も20名足らずの大人ばかりと、程よい参加数になっている。今年は同時並行でクリスマスカレンダー作りが実施されたので、会場に大学関係者は少なく、参加はほぼ地元の人々だった。

   その上でだが、遊びのプログラムへの当日自由参加も含めて、新たに考えるべきことも出てきていると思う。

   このプロジェクトは、とにかく一人でも多くの人に見てもらいたい、参加して貰いたいという趣旨ではない。必要としている人、意識的にではないが、必然が巡り合わせになってこの場で遭遇する人、そんな人の中にある「何か」に触れることを目標にしてきた。それが遠隔地から、たまに、でも定期的に果たす約束の中心事項だと考えてきた。

   だから「こむこむ」で盛りだくさんに用意された企画行事の彩りの一つとして埋もれてしまうのは本意ではない。「こむこむ」で一定数の参加が見込める条件が与えられたところで、今後の展開にどんな仕掛けをするか、何を考えるかが課題だと思った。

 「東日本・家族応援プロジェクトin ふくしま 2015」に参加して(対人援助領域 M2 関道子)

   昨年は宮古のプログラムに参加し、今年はじめて福島に参加した。NPO法人ビーンズふくしまさんの共催による「昔話やわらべ歌を楽しもう」「クリスマスカレンダーを作ろう」「団士郎の漫画トーク」「子どもの遊びコーナー」の各プログラム、「多世代コミュニティハウスみんなの家@ふくしま」「仮設住宅の学習支援」見学、飯舘村から福島市に避難して新店を開店された「椏久里珈琲」さん訪問等のフィールドワークなど、多くの経験をさせていただいた。

   3日間の福島滞在中に現地の方から「放射能の話を話題にしづらくなっている」状況になっていると何度か伺った。震災直後は放射能被害について自由に議論されていたが、線量が下がってきた今、その影響をどのように捉えるかが各個人によって異なるため、家族の間や、親しい人との間でも「気を遣う」話題になっているという。宮古では津波に流された後の「目に見える被害」に圧倒されたが、今回の福島では地震による建物等の被害はほとんどみられず、放射能の影響という明らかには目に見えない被害が長期に続いている現実を知らされた。そのことにより、各個人や家族がどのように「避難」や「帰還」を判断し実行するかという大きな問題を抱え、或いは親しい人との関係が分離されてしまうかもしれない状況が生じている。これらの状況を知り、わたしたちは他人事ではなく自分たちにも関わる問題として捉え、考え続けることが必要であると強く感じた。

   昨年のプロジェクト参加後の振り返りでは、被災地のさまざまな「事実」を身体で知り、それを伝えることの重要さについて、また復興の途上で新しく生じる関係のなかで生じる「力」についての期待について考えたが、今年は、このプロジェクトが「もたらすもの」について今の自分なりに整理することを試みた。プロジェクトのプログラム、フィールドワークでは、現地の方からは「被災地の現状」や「支援活動の実際」の情報を提供していただき、こちらからは「日常と少し違う楽しい時間」や「被災者や被災した支援者の方がゆっくり話をする機会」を提供するという、「相互に提供できることがある」構造になっているのではないかと考える。そして、こちらから持っていくプログラムによって、現地の方々の日常生活の中で「何かが動く」ことが、多少でも起こっていたら、それが「応援」につながる可能性があるのではないか。さらに、継続的にプログラムが行われるなかで副次的に生起することとして、プログラムに関わってくださる方々との新しい関係が生まれ育っていく、また、スタッフが京都から福島を訪れることで、震災関連以外の福島を知る楽しみや、福島についての新たな興味が湧くなど、プラスαの「豊かさ」が加わっていくのではないだろうか。毎年少しずつ、「豊かさ」を増しながら、微力ではあるが「応援」を続けていけたらと考えている。

福島とつながる~プロジェクトを終えて(対人援助領域 M1 高井小織)

   私は広島市内の爆心地からそれほど遠くないところで生まれ育った。1945年小学生だった父親は8月6日、市内から少し離れた山の上で「西から太陽が登ったんか!?」と驚いたという。私の幼い頃の遊び場は、被爆の赤煉瓦倉庫で、歪んだ鉄柱が恐ろしかった。

   大学から京都に来て、もう30年以上になる。ここで結婚を決めるときに、「広島の娘さんをもらって大丈夫か、調べようか」と言われてはっきりと断った、と後に夫になる人から聞いた。隠しているよりも、私はその話を彼から聞いてよかったと思うが、私の親にはそのことを話していない。

   今回福島を訪れNPO法人ビーンズふくしまが運営する多世代コミュニティハウス「みんなの家」で、ほっこりした炬燵に足をつっこみながら、外の冷たい小雨を感じない温かな室内で、3人のスタッフのお話をお聞きしながら、私は自分のことも少し話をしてしまった。それが話せる貴重な時間だった。

   原発事故直後は、情報があふれかえり、毎日のように話題に出ていた話が、現在5年近くの時が過ぎそれぞれの立場が異なる中で「話しにくく」なっている。「みんなの家」が、安心して話ができる場所であること。物を作ったり、食べたり。日常の中で,自分の言葉を聞いてくれる地域の仲間がいることは、なんと貴重なことかと思う。そして、毎月、肩肘張らずに楽しいちょっとした計画を立てながら、ここを運営していくスタッフの方々。地に足のついた仲間と家族。京都に帰宅後、私は「みんなの家」のSNSの読者になった。再会できることを楽しみにしている。

   みんなの家があることの意味を、私はこう受け取った。「あなたの話を聴きたいと思っているスタッフがいる。あなたの話は裁かれるものでも、評価されるものでもない。ただ聴きたい。そして、あなたが選べるプログラムがあり、幅の広い情報がある。世代が集う・ご近所さんがいる。なによりスタッフ一人ひとりの背景が、ここに集う人々をしっかりと支える力になっている。」

   COP21の「パリ協定」。数日前に新聞のトップ記事になった。1997年の京都議定書以来、様々な立場の国が、宇宙船地球号の環境問題について、一定の合意に至ったということは評価されるべきだろう。反面、これが「原子力発電は地球に優しい」という単純かつ誤った思い込みにつながり、日本での再稼働が加速する後押しをしないかと、私は不安になる。

   私は「核」に対して、どのような形で平和利用と言われても、座りが悪いようなざらざらした感覚をずっと持っている。人類がその種の存亡を自らの掌中にしてしまった、という転換をもたらすものとして。

   今回のプロジェクトに参加して改めて思ったことは、地震と津波被害が主だった地域と、福島とでは、「復興」という言葉のもつ意味にはっきりと「方向性の違い」が出てきているのではないか、ということだ。そして、最も恐れ不安になるのが「なかなか話題にできない」という声をここで出会った方々から聞いたことである。

   「対話」とは何か。民主主義の中で「多数決」で物事が決まるように思われているが、それは、本来は民主主義の対極に位置する。民主主義は時間がかかる。数を数えて即決するものではない。立場が異なる者同士が話し合って、主張して、相手の主張を聞いて、もしかしたら自分の主張をちょっと変えて、新しい考えもでてきたりして、もしかしたら妥協も含めて、行きつ戻りつ時間がかかって・・・「まあ、しょうがないかな、このへんでどうや」というところでやっと一つのことを決められる、それが民(たみ)が決めるプロセスだろう。

   その中で、対話ができにくくなることは致命的だ。苦渋の末に自主避難をした。市内に残った。広域避難を余儀なくされ仮設住宅で暮らす。仮設を出て自分で家を見つける。自主避難から戻る。新しい土地で暮らしていく・・・。人の数だけ選択があり、その時その状況の中で最善を選ぼうとしている。

   もう一つ。この国の報道のありようを考える。私自身は子どもの頃「未来は明るい」右肩上がりの時代の中で育ってしまったと思う。朝夜7時のN〇Kのニュースや〇〇新聞を読むことに何の疑問も持たず、報道される内容を疑わなかった。

   しかし、現在は違う。狭い日本であるにもかかわらず、京都にいて日常に何の疑問ももたなければ、今福島で(また前回訪問した むつで)起きていることは伝わってこない。これだけ情報過多の社会の中で、主体的に知るということは、それぞれ個人の取捨選択であり、そして得た情報を自分の身近な人と語り合わなければ、次へつなぐ力にもなりえないのではないか。

   私自身、震災後この数年、休めない仕事に理由をつけて,気になっていてもなかなか東北を訪れることができなかったが、時間がたって福島などの報道が少なくなっていくにつれ、自分の中での疑問も大きくなっていった。立命でのこのプロジェクトに参加することは、自分の立ち位置を確認しながら、京都で仕事をする自分の軸を確かめるということにもつながる。若い院生方に伝えたい。「野に出よう。自分の目や耳や足を使って、人と出会いつながることは、自分自身で意味づけをするという、確実な作業を積み重ねてく一歩だ」と。

   こむこむの遊びのコーナーに子どもを3人連れたお母さんが来ていた。下の4ヶ月の赤ちゃんがあまりにも機嫌良く笑いかけてくれるので、ついうれしくなって抱っこをしていたら、すっと腕の中で眠ってしまった。赤ちゃんのしっとりとした重みと温かさを久しぶりに感じながら、お母さんと少し長く話ができた。県内で何カ所か転勤しながらの子育て。この春初めて入学する小学校。夫は協力的だが仕事の帰りは遅い。ここで暮らしていくこと。子ども達が健康で楽しく育ってくれることの願いや、ちょっとした不安。当たり前のように続く日常の生活は、実は歴史と社会の中の一点の座標だ。私がそこにいて、「聴くこと」はその中でのwitnessであることの意味をもつ。

   福島で、人々はそれぞれが大事にするものや関わりの中で、選択・判断をせざるをえなかった状況を知った。「避難する・しない」は人の数だけ立場が分かれた。「不安を煽らないでほしい」「風評被害はなくしたい」と同時に「後ろめたさも、もどかしさも、いいにくいことも、語り合いたい」「私の言葉を受け止めてくれるつながりがほしい」という声。

   そして「正確な情報が知りたい・・・」「私のことはわたしが決めたい」という当事者性の尊重と私がそこにいて聴くことができた。

   私のPCの「お気に入り」に、浪江町の「希望の牧場」のライブカメラを入れている。仕事の合間にちょっと覗く。日本で「寿命」まで生かされる、被爆した牛たちがのんびりと歩いている。真冬になれば雪が積もるのだろうか。思いを馳せている。

震災プロジェクトが生む繫がり(対人援助領域修了生 新谷眞貴子)

   震災から5年目を迎え、3/11前後や大きな出来事が起こった時以外は、報道が少なくなっている。特別番組で取り上げる福島の姿は、原発の状況や特別な事情のある家族を映し出す。被災地で人々が今、どのような思いで生活しているのか、関西に居て分かり辛くなっている。

   一昨年福島の震災プロジェクトに参加したのは、プログラムだけだった。今回の福島のプロジェクトでは、3日間を掛けて、フィールドワークやインタビューを通して、暮らしている人々の状況や思いを垣間見た。そして、プロジェクトのプログラムで福島の人々と触れ合うことができた。

   まず、現地に行って印象に残ったのが、「みんなの家」で聞いた、「『放射能汚染』についての話題を一般の人々が口にしない」ということであった。様々な形で支援しているNPO法人「ビーンズふくしま」の一つの施設「みんなの家」は、地域に入り込んで楽しいイベントを開催し、様々な世代や立場の人の相談の場となっていた。そこで、スタッフ自身の体験や思いを聞いた。

   今の福島は、避難するか、地域に留まるか、個々の家族の選択に委ねられている。そして、その責任を家族が担っている。子どもの転校、高齢者との同居、仕事の形態、様々な事情が家族によって異なる。そして、放射能汚染は大丈夫だと考える人もあれば、怖いと考える人もある。親しい人間関係がその考え方の違いで気まずくなったりすることもある。

   県外に避難した人、避難区域から福島市に避難してきた人、自主避難した人、避難して戻ってきた人、福島の同じ土地に留まって生活している人、浜通り、中通り、会津という大きな地理的区分においても、被災状況と思いは違う。福島は、被災の仕方において、被災後の生活において、随分多様な状況があった。医療ジャーナリストの藍原寛子さんは、「人々が、心の奥に不安や疑問を抱きながら、そのことを議論する場がない」とインタビューでおっしゃった。

   『山の珈琲屋 飯舘「椏久里」の記録』(市澤秀耕・市澤美由紀著、言叢社、2013)を読んで福島に向かった。

   市澤さん夫妻は、美由紀さんの焙煎修行を始め一つ一つハードルを乗り越え、先祖代々育ててきた木を使い、平成4年11月、「野菜と自家焙煎珈琲の店 椏久里」を飯館に開店させた。「『よいコーヒー』を『よい空間』で」を大事にし、お客さんは増えていく。窓からは秀耕さんが栽培したブルーベリーの農園が広がっていた。また、カフェを営業しつつ、両親や多くの人たちに支えられて3人の子どもを育て上げた。そして、平成23年原発事故が起こり、飯館村は避難区域に指定される。夫の秀耕さんが述べた次の言葉が私の心に突き刺さった。

   「原発事故による避難は、……僕たちが追い求め築き上げてきたものを、全てチャラにした。暮らしと夢の舞台を放射能で汚し、戻れぬようにして『とりあえず、ここを出ていってくれ』ということだった。ひとりブルーベリー畑に立ち、呆然とすることがたまにある。喪失感は大きい。」

   原発事故でどれ程の人々が、暮らしと夢の舞台を奪われたことだろう。自分たちの暮らしの中にあった、その土地で大切に守り育ててきたものと分断されたことだろう。

   私は、新しくなった福島店「椏久里」に行き、市澤美由紀さんにお会いした。颯爽とした井出達で店を切り盛りされていた。店は、とても落ち着いた空間で、コーヒーの香りが漂い、お客さんが次々とやってこられた。幾種類もあるメニューから選んだコーヒーとケーキは、この上なく美味しかった。美由紀さんから様々なお話を聞かせていただいた。自分たちの店を最初の理念でこのように再建した人達は稀なケースだった。納得のいかない「心の補償」の面で、放射能汚染の加害者に対して夫婦や知人と共に闘う。今住んでいる地域に溶け込み、元住んでいた飯舘の人々とも繋がっている。大変な現実と向かっておられるのに、ぶれないその清々しい姿・生き方に勇気をいただいた。

   福島駅に近い、福島市子どもの夢を育む施設「こむこむ」が、震災プロジェクトのプログラムの会場になっていた。人通りが多く、子ども連れの親子だけではなく、子どもの団体の入場も多かった。子どもたちが楽しめる様々な施設設備を備えており、イベントも盛りだくさんであった。

   人が行きかう通りに面した「家族漫画展」に足を止めてゆっくりと読んでいく人が見られた。「ふくしま民話茶屋の会」と「わらべうたの会 はないちもんめ」の方々による、「昔話やわらべ歌を楽しもう」では、幼児の親子が参加し、プロジェクトのスタッフも楽しめた。お話をしてくださる会の方々の表情が明るく元気で、改めて昔話やわらべ歌に秘められたたくましさ・面白さを感じた。子どもの遊びコーナーは、東京おもちゃ美術館からいただいたおもちゃで遊ぶ子どもたちで賑わっていた。

   私は、団先生の漫画トークと並行して行われた「クリスマスカレンダーを作ろう」のプログラムに、スタッフとして参加した。会場の正面入り口から入ったにぎわい広場で行われ、幼児から小学生の子どもたち29組が家族と一緒に参加した。おばあちゃんが孫と一緒に参加している組も数組あった。6名のスタッフが対応に追われるくらい、次々と参加者が増え、クリスマスの飾りや絵・数字の入った台紙に、ワクワクしながらお菓子が一杯貼られ、思わず笑顔がこぼれるようなクリスマスカレンダーが出来上がった。

   福島から帰り、フィールドワークで聞いたそれぞれの家族の皆さんにも、プログラムに参加してくださった皆さんにも、それぞれの日常と「復興の物語」があることに思いを巡らせていた。それと共に、福島で暮らす人々の思いを伝える支援者の方々、笑顔でプログラムに参加してくださった方々、漫画展を感慨深げにゆっくりと見てくださった方々、楽しみの詰まったクリスマスカレンダーを持って帰ってくださった方々を思い出し、このプロジェクトを通して何か応援が出来ていたらと願った。

   今年、震災プロジェクトに参加するのは3年目。1年目は福島、2年目は多賀城、3年目は福島と多賀城のプロジェクトに参加させていただいた。その度に「支援」について考える。福島のことを考える。他の地域のプロジェクトにも参加すると、福島は放射能汚染に翻弄される状況の中で、何を信じたらよいのか、どう暮らしていくのか、住民個々の選択に任され、本来の復興や再生が見えてこないように思われる。避難生活と帰還問題、補償問題、心にある不安と闘う人々の日々の暮らしの中で、地道に支援を続ける人たちがいる。

   子どもたちのための遊び・学習支援、県内外の避難者支援等、様々な支援体制を創り、他機関とも連携し、東奔西走されている「ビーンズふくしま」の中鉢博之さん。多世代の人々のために、居心地の良い空間を創り、素敵なプログラムを展開されている「みんなの家」のスタッフ。福島で生きる人々について丁寧な取材をし、発信されている医療ジャーナリストの藍原寛子さん。

   それぞれの支援の中に、支援者がそれぞれのミッションをもって活動されているように感じる。どんな状況であろうと、支援の必要な人のために、あきらめず、自分の出来ることを精一杯やり続ける、そのような姿を見せていただいた。

   「クリスマスカレンダー作り」のスタッフとして、「また来年もプログラムにきてくださいね」と掛けた言葉に、「また来年も来ますね」と返してくださった声が心に残る。10年続けるプロジェクトには、様々な意味がある。「被災と復興の証人(witness)」であり続けること、「忘れない」ということ、年々変化していく福島の状況を知り、現地の方々と協力し、現地の方々への応援に繋げるということ。

   震災プロジェクトは、折り返し地点の5年目が過ぎ、先日のシンポジウムでは、各地のプロジェクトに参加して学びを深めた院生の思いが発表された。現地からゲストが来てくださり、それぞれの被災地の状況と支援の連携のあり方を知ってさらに学びは深まった。1年目、2年目、3年目、私の見えるもの、感じるものは変わってくる。しかし、回を重ねるごとに、このプロジェクトの、丁寧な人との関わり方から学ぶことが多い。3年このプロジェクトに参加させていただいて、私は何よりも、人と人との繫がりを感じている。被災地の人々と繫がり、共に活動をする被災地の支援者と繫がり、プロジェクトの先生方やスタッフ同士と繫がる。さらに、自分のこれからの対人援助活動に、この活動のあり方が色濃く繋がっている。まだまだそれぞれの被災地のもつ現実は厳しいと思う。しかし、今後も、この震災プロジェクトに関わらせていただき、人々の「復興の物語」に寄り添い、被災地の人々も被災地に赴く私たちも、この繫がりが互いの未来に希望をもたらしてくれることを願っている。



 「東日本・家族応援プロジェクト in ふくしま 2015」に参加して ~ 三年目の変化 ~(対人援助領域修了生 奥野景子)

   「奥野は子どもとよく遊ぶようになったね」三年間一緒に福島でのプロジェクトに参加してきた清武さんに言われた一言である。この言葉を言われたとき‘確かにそうだな’と私は思っていた。

   今までの私は、実をいうと福島で行なうプログラムに対して苦手意識が少しあった。それは、子どもと一緒に何かをやるものが多いからだった。子どもは好きだし、時間をかけて仲良くなれば一緒に楽しく大はしゃぎすることだってある。ただ、私はそれなりに人見知りである。いろいろと感じ取る子どもには、私の緊張が伝わってしまうことが少なくなく、それを感じたこちらの緊張が更に高まってしまうという悪循環に陥ることがあるのも事実であった。だからこそ抱いていた苦手意識だったが、今年は昨年までの苦手意識のことを忘れてしまうくらいに子どもとの時間を楽しむことができた。それは、このプロジェクトやプログラムの趣旨や目的を少しずつではあるが、自分なりに考えられるようになってきたことの影響もあると思われるが、それ以上に生活の中で私自身の子どもと接する機会が増え、気負いしなくても良いのだと思えるようになっていたことの影響が強いように思われる。

   私事ではあるが、この一年間に従姉の子どもが二人生まれた。その子たちの動画や写真を見ることが、私の楽しみの一つに増えた。また、仕事で子どもと接する機会も増えた。私は理学療法士として訪問リハビリに携わっており、今までは担当したことがなかった子どものリハビリを担当する機会を今年度に入ってからちらほら得ている。彼、彼女たちと接する中で『普通に』接すれば良いのだということを教えてもらった。そのおかげで、福島でも子どもたちと『普通に』接することができた。むしろ、子どもたちの前でも『普通に』いられるようになったと言う方が良いのかもしれない。特に何かをする訳でもなく、私もその場で楽しみ、その同じ空間で子どもは子どもで楽しんでいた。そして、気がつけば一緒に遊んだり、互いに互いの遊びの様子を窺ったり、まねたりしていることもあった。一緒に遊ぼうと気負っていた私が、一人で勝手に遊ぶようになり、子どもに遊んでもらったり、一緒に遊んだりするようになっていた。

   宮古でのプロジェクトのときにも感じたことだが、私もこのプロジェクトもひとつの流れの中で生きているのだということを改めて感じることができた。良くも悪くも時間の流れと共に変わっていくこともあり、どうしようもないこともたくさんある。それでも、私は私でしかなく、このプロジェクトはこのまま色々な変化と共に続いていくのだと思えたのは、私の中の三年目の変化がもたらしてくれたのだと思う。

 震災復興支援プロジェクト報告(対人援助領域修了生 森 希理恵)

   12月4日、大阪での仕事を終え、夕方の新幹線に乗り福島へ向かった。金曜の夜だからか、東京からの東北新幹線は多くのサラリーマンで、ほとんど満席だった。

   今回は、土曜の午前にフィールドワークが入っていた。飯館村から放射能避難のため福島市へ避難してきたカフェ椏久里の訪問である。事前に椏久里の創業者である市澤さんご夫妻が書かれた「椏久里の記録」」を読み、土曜の朝にカフェ椏久里の市澤美由紀さんからお話を聞くために、タクシーに分乗してホテルを出発。静かな住宅地の中に、周りの風景に溶け込むようにカフェ椏久里は建っていた。店内も案内してもらい、飯館から運び出した焙煎機が置いてある焙煎室も見せていただき、焙煎機を持ちだすときのご苦労などについての話も伺った。

   椏久里の美由紀さんはとてもエネルギーにあふれた人だった。後ろを振り返らず前をしっかりと見て歩んでいた。津波被害で避難している人、原発事故被害で避難している人、理由や現在の状況も様々であるが、美由紀さんの話を聞いて、留まっているだけではなく、今の自分にできることをやって、前に進む勇気をもつことの大切さを思った。

   美味しいコーヒーとケーキをいただきながら、こちらが美由紀さんからエネルギーを頂いた時間になった。

   午後からはプロジェクトの開催場所となっている「こむこむ」へ戻り、「ふくしま民話茶屋の会」と「わらべうたの会 はないちもんめ」の方による民話を聞いたり、わらべ歌で遊んだりと、童心に帰るひとときを過ごした。一組の若いご夫婦親子の参加と、残りは大人のみの参加で少し残念であった。しかし、スピード感が求められる現代の中にあって、民話やわらべ歌遊びの独特のテンポや雰囲気を楽しむ時間は、有意義であると思われる。

   こむこむに来館される方が、足を止め、立ち寄ってもらえるように、開催場所などの工夫が必要であると感じた。

   東北から離れた関西で日々の仕事に追われていると、社会のスピードに巻き込まれてしまっている自分がいる。福島という土地で民話とわらべ歌遊びのプログラムに参加し、そんな自分に気づくことができた。

   翌日の日曜日の午前はこむこむ入り口の広場を利用して、クリスマスカレンダー作りのプログラムに参加した。初めての場所での開催であり、区切られた空間でないため、どのくらいの範囲で行うかを決めるのが難しく、机を並べたり、材料を並べたりと慌ただしく会場の準備を行った。事前に申し込みのあった数名の親子以外にも、当日こむこむを訪れた多くの親子が立ち寄り、とても賑やかであった。年齢が低い子どもの親子は保護者が手伝いながらカレンダーを仕上げ、小学生の子どもは創造力を使い楽しんで作っていた。どの親子も笑顔で出来上がったカレンダーを持ち帰っていたのが印象に残っている。

   私は、途中から参加した2歳と4歳の子どもを連れたお母さんを席に案内し、説明をして作業を始めてもらった。お子さんが二人ともが年齢が低いということもあり、お母さん一人では大変そうで、4歳の子どもの手助けをずっと行っていたため、他の参加者の方とあまりお話ができなかったが、作業をしながら、関西の話題についてスタッフと参加者の方がおしゃべりを交わしている姿や、子どもが作っているカレンダーに茶々を入れるお父さんと子どもの楽しい姿なども見られた。

   アドベントカレンダーを作るという作業を通して、スタッフと現地の人とのふれあいの機会や、親子のふれあいの時間が作り出されていた。

   会場の設営や、参加者が作業をスムーズに行えるような準備など、今回の反省をもとに来年度は色々と工夫して準備ができればと思う。

 修了生としてプロジェクトに参加してみて感じたこと(対人援助領域修了生 洪 潤和)

   今回修了生として参加してみて、このプロジェクトはたくさんの人たちが関わりながら少しづつ試行錯誤しつつつくりあげ、つなげていくものだということが院生の時よりもより体感できたように思う。0

   今回「ふくしま民話茶話の会」と「わらべうた会 はないちもんめ」の方々が福島のわらべ唄や昔話などをプログラムで披露されたが、最後にこういった歌やお話を子どもの頃親が聞かせてくれたということがその人の力になるとお話しされていたことが印象的であった。次の日に私はクリスマスカレンダーを作るプログラムにスタッフとして関わったが、わらべ唄と同じように、お父さんやお母さんと一緒に楽しくクリスマスカレンダーを作ったという体験が、これから不安定な時代を生きていく子どもたちの力に少しでもなるかもしれないと思った。

   そういった場をこのプロジェクトは提供し、そして私たちと現地の方々が共につくりあげているということを改めて感じた。

   来年度もこのプロジェクトの一員として関わることができたらと思う。

 共催と場を通して 〜福島市における活動を通して〜(対人援助領域修了生 清武愛流)

   初めて、福島におけるプロジェクトに参加をしたのは入学した2012年から。今回は4回目の参加となった。2011年から10年間継続すると言われているプロジェクトであるため、5年目の今年は折り返し地点だった。

   2年前まで駅から10分程度離れた市民活動サポートセンター「チェンバおおまち」で開催。去年から、駅近くの「福島市子どもの夢を育むこむこむ」にて。ここは4階建てで、室内で遊べ、勉強可能なスペースも設けられており、幼児から中高生まで過ごせるような場だ。また、様々なイベントも開催されており、館内で1日過ごすことができる印象だ。

   プログラム参加者は、希望していたわけではないが他の用があり、たまたま立ち寄ったことで、活動を知った方が多かったと思う。とはいえ、クリスマスカレンダー作成においては、今年は初めて事前申し込みも加えていたため、知って来られた方もいたようだ。また、トークショーでも再会した方もいた。共催いただいているビーンズふくしまの方々の日頃の活動、そしてネットワークが垣間見えた出来事だった。

   私は、主に漫画展のアテンドを行っているので、そこに焦点を当てた報告をしたい。今年は、1、2階の通路や空きスペースに配置していただいていたので、子どもが遊んでいる横で見ているお母さん、帰りがけに立ち止まっている方などがいらっしゃった。目的を明確にしておいているとするならば、何かを得させようとしたり、得ようとしたり、または、自分に合ったものだったのか、せっかくあるのにどのように理解したらいいのかという、コンテンツに対する評価になると思う。そう思うと、たまたま来られた方が、つい立ち止まってしまい、他者の物語に触れる機会は、一様な感想でなくても想起される。こうした、何気ないことから気づくこと、さらに、そうした体験を人に伝えたくなること(小冊子を渡す行為)は、人が持つ力が動き始めるのだと思った。そうした「時」に携わることができることは、私自身もまた、刺激を受け、支援とは何か考えさせられる。

   アテンドを通し私は、サービスを考える上で問題が何であり対象に適した処方や手立てだけを考えていくのは浅はかなのではないだろうかという問いを持つ。尽きぬ問題を生み続けることにもなると考えさせられるからである。

   お会いした方々を通し、集まる子どもたちの年齢も2011年以降に生まれた子、その体験をした子さまざまだった。私たちが生きている社会は、みなが同じ時期、同じことを体験して生活を営んでいるわけではないことを再認識した。復興支援として行っている、家族応援プロジェクトであるが、復興の有り様は、みな一様だとは言い切れないことも感じた。

   みなが満足するサービスを展開することは難しいことだと思う。しかし、異なる体験、世代の人たちが集い、自分たちで想像・創造していくことで生まれること、そうできることを人は持っているということだろう。復興の道中に携わる中、対人援助としても意識しておきたいことだと思った。

   最後に、福島の現状として、復興支援が当初よりも少なくなったようだ。サービスとは何かを問うている一個人として、問題や課題に対し瞬時に動かず、長期的に考えた上で、一人ひとりができることは何かをもう一度振り返り、次年度に繋げたいと思った、5年目の福島での活動だった。




子どもの夢をはぐくむ施設こむこむ






昔話やわらべうたを楽しもう




団士郎の家族漫画展




漫画トーク




遊びコーナー





クリスマスカレンダーを作ろう




NPO法人ビーンズふくしま「みんなの家」を訪ねて




椏久里珈琲




藍原寛子さんを囲んで




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