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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

10月27日~11月7日 宮古市「東日本・家族応援プロジェクト 2014 in 宮古」




「家族応援プロジェクト2014 in 宮古」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   今年は、社会福祉法人若竹会、宮古市社会福祉協議会の共催を得て、2014年10月27日(月)~31日(金)は「おでんせプラザ」にて、11月3日(月)~7日(金)は「りあす亭」にて家族漫画展を、11月1日(土)には、宮古市総合福祉センターにて、「団士郎漫画トーク」、「うたと遊びのワークショップ」、「アートで遊ぼう」のプログラムを実施しました。

   このプロジェクトは、もともと、現地の支援機関と十年間協働するというアイディアでスタートしたものの、岩手では共催して頂ける機関となかなか出会えず、現地のご協力を頂きながら、1年目は遠野、2年目は遠野&大船渡、3年目は宮古で開催しました。今年は、古くからの友人である東京おもちゃ美術館館長・多田千尋さんを介して、宮古の社会福祉法人若竹会との出会いがあり、今後、パートナーとして、このプロジェクトを一緒にやって頂けることになりました。先月の宮城でのプロジェクト前、打合せを兼ねて、ご挨拶に伺いましたが、よくよく聞くと、この法人では、4人のスタッフが、東京おもちゃ美術館のアクティビティ・ディレクターの勉強をし、資格を取っていらっしゃるというのです。「それならば!」と、これまでこちらでやっていた「アートで遊ぼう」のプログラムをお任せし、私たちの方がお手伝いさせて頂くという形をとることにしました。話していると次から次へとアイディアが沸いてきて、私もすっかり嬉しくなり、これからの新しい展開にわくわくしながら、宮古を再訪したのでした。  

   社会福祉法人若竹会は1975年年に設立され、障がい福祉サービスと高齢者福祉サービスを幅広く展開されています。今回、お世話になったのは、おもに就労移行支援・生活介護をされている「多機能事業所すきっぷ」のみなさんでしたが、漫画展会場で利用者さんたちが受付を手伝ってくださり、プログラムにも率先して参加してくださいましたお蔭で、私たちにとっても本当に楽しいひと時となりました。心から感謝申し上げます。

   実は、宮古でのプロジェクトの前、「また来ますね!」と約束していた遠野や大船渡に今年も立ち寄り、懐かしい方々と再会しました。今年もまた、新たな出会いがあり、遠野では民話をやっておられる方の古民家にお世話になり、そのつながりで、宮古への途上、大槌町のベルガーディア「風の電話」に立ち寄りました。そこでは陸前高田の素敵な方々と出会い、津波の犠牲になられたお連れ合いのお誕生日ということで、ベルガーディアの佐々木さんご夫妻が準備された素敵なバースディ・パーティにもご一緒させて頂きました。

   あちこちで、「もちろん大震災は起こらない方がよかったけど、だからこそある新たな出会いには感謝しているんです」という言葉を聴きました。プロジェクトも4年目となり、こうして豊かにご縁がつながり、拡がっていくことは本当にありがたいことだと感謝しています。

 若竹会の人たちと (応用人間科学研究科教授・団士郎)

   昨年に続いて、紅葉シーズンに岩手県宮古市を訪れることになった。毎年の事ながら、東北の秋は美しい。山も海も、自然はある意味残酷なほど、何もなかったかのごとき復活ぶりである。人の手の及んだところだけが、まだまだ長い復興への道半ばである。

   今年から宮古市の社会福祉法人若竹会の人たちと、今後、この応援プロジェクトが継続的に出来ることになった。プロジェクトは四年目になるが、継続実施開催は各地で事情がそれぞれである。さらに、十年という期間を設定したことで、その時間軸の中で、外的変化要因もたくさん含まれざるをえない事になるのを実感している。被災の大きかった岩手県沿岸部で、遠野、大船渡、昨年の宮古市での独自開催を経た四年目になってやっと、継続開催の目処が立ったのも、無理のないことかもしれない。

   継続的開催に拘っているのは、単発イベントの弱点に気づいているからである。予算が大きな後押しになる単年度事業は、内容ではなく、その形式に必然的な特徴を抱えている。イベントは終了すると、内容も形式も、ばらして片付けられてしまう。次はないし、繰り返しは基本的に予定されていない。次に何か出来るかどうかは、予算が付くかどうかが一番のポイントになる。

   一方、地域に沢山あるお祭りは、参加者は変化しつつも、毎年一度、決まった時期に開催され、そのことが参加者、住民に承知されている。そこで年に一度、会える、お互いの安否をうかがえる。家族応援プロジェクトは、そんな存在として、地域の年間の暦に付け加えられるものになりたいと思っている。

   むつ市で同じ共催者、同じ会場で四回目を終えたプロジェクトは、主催スタッフ、参加者が、2011年をスタートに、毎年秋、細く長いご縁を形成しつつある。大災害によって失われたものは少なくない。しかし、それをきっかけに、新たに生まれるものもあっていいし、それが、一過性のものでしかないと考える必要もない。私達は意志を持って、何かを続けて、積み重ねることが出来る。それはこれまでにはなかった、新たな繋がりを作っている。

   未来に何が起きるのかを予言者ではない私達は知らない。しかし、今、これを丁寧に重ねることが作りだすだろう未来は、少し予想できる。そこに新たな絆を予感することは、難しいことではない。

 千の風の声が聞こえるか~岩手県宮古市田老にて(応用人間科学研究科教授・鵜野祐介)

   2014年11月2日(日)、岩手県宮古市田老地区を訪れた。3・11の大震災の津波で壊滅的な被害を受けたこの町は、「万里の長城」とも呼ばれた高さ10メートルの防潮堤と、3階まで浸水しながらも奇跡的に残った「たろう観光ホテル」の6階から同ホテルの社長がこの防潮堤を越えて押し寄せる津波を撮影したビデオ映像によって、マスメディアでもたびたび紹介されてきた。今回、宮古観光文化交流協会「学ぶ防災」プログラムに申込み、現地を歩きながら、またメディアには公開されていない部分も含むビデオ映像を観ながら約1時間、男性ガイドの方の説明を受けた。

   雲の切れ間から穏やかな秋の日が差し込む中、昭和8年大津波の後に建造された巨大な防潮堤の上に立ち、四方をぐるりと見渡す。海の方から風が寄せていた。山裾を三陸鉄道の2両編成のブルーの車両が駆け抜け、トンネルに入っていった。防潮堤の内側に広がっていたかつての住宅地は、震災から3年8か月が経過しようとする現在も空き地のままで、休日ということもあってか工事用車両もまばらで静かだった。

   防潮堤から下りて、岸壁に隣接する製氷工場に移動する。建物の壁面に記された津波到達点17.3メートルの表示を見上げ、自然の猛威に圧倒される。ふと見やると、工場の駐車場横の岸壁では、少年たちが釣りをしていた。自転車のハンドルに引っかけられた、水を入れたビニール袋の中には、体長20センチ余りの魚が2匹泳いでいた。サバだという。他に、獲れてもすぐに放流しなければならないがサケも釣れるという。非日常の時間を刻印するモニュメントの傍らに、穏やかな日常の時間が流れていた。

   続いて「たろう観光ホテル」の側まで行き、2階まで鉄骨が剥き出しになり、3階は窓が外れたままの建物を眺めた後、総合庁舎横の施設に移動して、「たろう観光ホテル」社長が撮影したビデオ映像を観た。その後、山裾の小高い位置にある田老小学校の校庭横に立つ、昭和8年大津波の翌9年3月に建立された記念碑へと案内された。高さ約2メートル、幅約1メートルのスレート状の石の、海に向かう表側には「大海嘨記念」の表題の下に次の5つの教訓が刻まれ、また裏側にはこの時の被害状況と記念碑建立の経緯が、当時の村長関口松太郎氏の名とともに刻まれていた。

   一 大地震の後には津浪が来る

   一 地震があったら此處へ来て一時間我慢せ(よ)

   一 津浪に襲(わ)れたら何處でも此の位い高所へ逃げろ

   一 遠くへ逃げては津浪に追(い)付かる

   一 常に近くの高い所を用意して置け    (*括弧内は筆者補充)

   現地で一番心に残ったのは、防潮堤を現在よりも4メートル余り高い14.3メートルにして再建するという計画をうかがって、「防潮堤は本当に必要なのでしょうか」と尋ねたところ、賛成とも反対とも言わず、「難しい問題ですね」と口を濁されたガイドさんの困惑したような表情だった。科学的根拠の下にこの数値の妥当性を復興計画の立案者は説いているというが、製氷工場の17.3メートルの津波到達点の表示を目撃した者にとって、「想定外」は容易に起こりうるものと思わずにいられなかった。今回の津波では、防潮堤の内側の住民の多くがこの壁があることに安心して、また海の変調に気づくことができずに逃げ遅れたことが、被害を大きくしたとされる。にもかかわらず新たな「万里の長城」によって再び、海と人びとの暮らしを遮断しようとするのは間違っているのではないか。行政による計画では、防潮堤のすぐ内側は公園などとし、宅地は丘陵地に造成することになっているが、実際には低い土地にも住宅が建てられつつあった。防潮堤に頼るのではなく、日常的に海の見える生活が送れるための工夫はないものだろうか――。

   岩手から戻った翌日の授業の冒頭、そんな思いを学生たちに投げかけてみた。すると、授業後に提出された感想文の中に、仙台市出身の学生から以下のような一文があった。「(住民たちは)皆たぶん(防潮堤に)意味があるのかないのか分っています。それでも、あれがなければいけないのだと思います。それさえ無くなってしまったのならどれだけ不安か。『あんなの意味がなかった』などと言われては、昔必死で作った防潮堤なのに、とてもやるせない気持ちになります。心の支えとして、再び作ったのだと私は思います――」。

   頭(こうべ)を垂れるより他なかった。莫大な費用をかけて自然と人びとの営みを遮断する「壁」を建設することの愚を、「想定外」がいくらでも起こりうることを根拠に批判することはおそらく容易い。税金から捻出される巨額の建設費によって潤うのは大手ゼネコンだけだとの推測も間違ってはいまい。けれども、海とともに生きてきた人びとがなぜ「壁」を作ろうとしたのか、「想定外」が起こりうることを承知の上でなぜ今またこれを作ろうとしているのか、当事者として苦渋の選択を行なったその真意にまで心配りできていなかった。それ故に、傍観者としての「上から目線」の発言になってしまったのだろう。

   帰宅後、当日記録したビデオを再生しながら、改めてこの問題を考えてみた。昭和8年3月3日の深夜に起こった大津波による溺死者は911名、生存者はわずか36名と石碑には刻まれていた。この惨状を受けて、高さ10メートルの防潮堤が建造された。それと同時に、高台にある小学校横に記念碑を建立し、「5つの教訓」を住民全員が忘れないこと、そしてこれを次の世代に伝えていくことを誓い合った。つまり、防潮堤と「5つの教訓」はセットだったのである。目に見えるライフガード(生命防御装置)としての防潮堤と、石碑に刻まれた、目には見えないライフガードである「5つの教訓」、両方のライフガードが揃ってはじめて、津波という大きな脅威と向き合っていけると、奇跡的に生き永らえた住民たちは考えたのではないだろうか。

   ところが、2011年3月11日午後2時46分、長く続いた大きな揺れにも関わらず、「5つの教訓」の一つ、「地震があったら此処へ来て一時間我慢せ(よ)」をきちんと守った住民は少なかった。住民の多くは、防潮堤という片方のライフガードにのみ頼り、もう一つのライフガードのことを忘れていたのではないか。その結果が未曾有の大災害を招くことになったのだろう。

   そうであるとすれば、次代を担う子どもたちや全国各地の沿岸地域に暮らす人びとに、改めてこの目に見えないライフガード、「5つの教訓」を伝えていくことがとりわけ重要になるはずだ。そしてまた、防潮堤の再建に賛成か反対かではなく、この地で安心して暮らすための方策を、可能な限りいくつでも住民みんなで知恵を絞って見つけ出していくことが求められている。その時忘れてならないのは、生きている人の声だけでなく、今はもうそのほとんどが「千の風」になっておられるだろう80年前の津波を経験された先人たちのたましいや、今回犠牲となられた人びとのたましいの声に耳を傾けることではなかろうか。

   来年もまたこの防潮堤の上に立ち、風の声にそっと耳を澄ませてみたい。その時、どんな言葉が聞こえてくるだろう?

「東日本・家族応援プロジェクト in 宮古 2014」に参加して~ 二年目の参加経験から ~(対人援助学領域M2 奥野景子)

   宮古での活動に参加するのは、去年に引き続き2年目になる。去年は二日間にわたって「支援者交流会」、「うたと遊びのワークショップ」、「アートで遊ぼう」、「漫画トーク」の4つのプログラムを宮古市総合福祉センター、清寿荘仮設集会場、中央通商店街おでんせプラザの3つの会場に分けて行なった。そして今年は、「漫画トーク」、「うたと遊びのワークショップ」、「アートで遊ぼう」の3つのプログラムが軸となって構成され、全てのプログラムを宮古市総合福祉センターで、一日にまとめて行なわれた。

   去年と今年のプログラムへの参加を通して、このプロジェクトは共働していただく現地の方と参加者の方、そしてプロジェクト参加メンバーの全員で創り上げるものだということを改めて感じた。それは、特に「うたと遊びのワークショップ」、「アートで遊ぼう」に参加しているときに感じたことであった。去年はこの2つのプログラムを清寿荘仮設集会場で行い、仮設住宅や近所に住む子どもたち、近所で談笑していたおばあさんたちに参加していただいた。十畳ほどの大きさの集会場で行なったということもあり、参加者同士の距離も近く、それぞれが発するちょっとした反応にも応じながらプログラムは進んでいった。そして今年は、大きなバスケットコートくらいのスペースを半分に分けて、それぞれのプログラムを行なった。去年より空間が開けたことで、身体を大きく動かしながらプログラムを行なうことが出来た。また、今回のプログラムには、今年から宮古での活動を共働して進めてくださることとなった社会福祉法人若竹会の施設利用者の方や宮古市総合福祉センター内にあるデイサービスに来ていたご高齢の方にも参加していただき、去年とはまた違った雰囲気でプログラムが進んでいった。プログラムを行う空間の大きさや場所、参加者の年齢や数、参加者同士の関係性などによってもプログラムの内容や進行、かたちは変化し、人と人、人と場所・空間とが互いに色々な相互作用を行ないながら、それぞれに合ったかたちに創られていくように感じていた。

   また「アートで遊ぼう」では時間の都合で最後まで完成させることができなかった大きな塗り絵があり、その続きはまた来年以降も行なっていくということになった。この塗り絵のことを考えると何かプロジェクトに似ている部分があるように感じてしまう。このプロジェクトは、10年間活動を行なうことを決めて始まったもので、今年が4年目の活動になる。様々な事情により現地で共働してくださる方が変わったり、参加が出来なくなってしまった院生や修了生もいる。また、参加者の方の中にも何回か参加してくださっている方もいれば、一回だけ参加してくださった方など様々である。プロジェクトに参加する人が変わっても、変わらずに続いていくプロジェクトがあり、色塗りをする人が変わっても、少しずつ色が塗られていく塗り絵がある。それまでのことを知らなくても、プロジェクトに参加すれば伝わってくる今までの参加者の思いがあり、塗りかけの塗り絵から伝わってくる今までの参加者の空気があると思う。

   まだ私の中でこのプロジェクトにおける大切なことが何なのかは、はっきり理解できていないように思う。でも、プロジェクトに参加する中で様々な人や場所・空間と相互作用をしながら、そして今までの参加者の思いに触れ、色々なことを感じながら自分なりの答えを探していきたいと思う。

「東日本・家族応援プロジェクトin 宮古 2014」に参加して(対人援助領域M1 関道子)

   被災地に伺うのは、今回の宮古がはじめてであった。震災から3年半が経過し、三陸鉄道が復旧するなど復興が進んだものもある。ただ、今回見学した田老地区や大槌町の津波の被害を受けた土地は、更地のままのところがほとんどであった。田老地区で「万里の長城」とも言われた10mの防潮堤の内側にあった家屋は、全て流されて、今後はこの土地には住宅が建造される予定はない。田老地区にはこの100年少しの間に、10mを超える津波が3度押し寄せたことになる。それでも、避難をしなかった人たちがおられ、犠牲になられたと言う。

   田老地区の「学ぶ防災」ツアーに参加させていただいたことは、貴重な経験となった。津波のあった場所に立ち、その後に津波のビデオを見せていただくと、数値からの想像とは違う「体感」からの想像がわずかながら出来たように感じた。ヒトが多くの時間と労力とお金をかけて建造し、長年の暮らしを営んできた「家」が、ものの数分間のうちにすべて壊れ、流されていく光景は、震災後にテレビで何度も見たけれど、改めて確認し、言葉を失った。

   「避難しなければならない」のだということを、多くの人に伝えたいとおっしゃるガイドの方の言葉が耳に残っている。メディアからの情報として得たのでなく、現地で自分の身体で見聞きしたこのことを、なるべく多くの人に伝えたいと思う。

   大槌町で仮設の「商店街」が今も存続していることを知り、仮設のトイレを実際に使ってみて、冬は本当に寒いだろうということが理解できた。

   そのような、さまざまな「事実」を、身体で「知る」ことが、現地に行くことの意義なのだろう。

   震災後の復興は元の状態に「戻る」ということではなく、新たに「興される」部分も多いと思われる。宮古の社会福祉法人「若竹会」さんと立命とのコラボレーションも新たに興されたものである。今回のイベント「アートで遊ぼう」で制作したペイント作品が宮古の福祉祭で展示されたり、フラワーアレンジメント作品が団先生の漫画展会場に飾られたり、そのような活動を企画してくださったチカラに、こちらもエネルギーをいただいた。今後も、興されていく一つ一つの活動が、お互いにチカラを与え、チカラを得て継続されていくことが、楽しみだと思った。  

東日本・家族応援プロジェクトin宮古2014に参加して (対人援助領域M1 髙井皓介)

   今回私は初めて、被災地東北を訪れました。震災直後自分の周りの多くの人が「何かしたい」という思いで東北に行きましたが、「自分に何ができるのだろう?」、「邪魔になるだけでは?」という思いから、彼らの姿を黙ってみていることしかできませんでした。そんな中、このプロジェクトと出会い、被災地に行って現地を感じることも重要なことだと学び、参加させていただくことになりました。

   実際に現地に訪れてみると、沿岸部に向かうにつれ少しずつ建物が減っていく様子が印象的でした。元々は住宅があり人々が生活を営んでいた場所だったのだと考えると何とも言えない気持ちになりました。また建設中の防波堤の上から宮古観光文化交流協会の方のお話を聞き、それまでメディアを通じてしか知らなかった地震、津波の規模を知ることができました。実際に被害にあった建物の高さを知ったのち、映像を見てみると、それまでテレビで見ていた時と違い、被害の大きさがよりリアルなものとして感じられました。現地の人が被災地まで来て、この映像を見てほしいといった思いが分かった気がします。

   現地でのプロジェクトにおいては、団先生による漫画トークや鵜野先生による歌と遊びのワークショップを行い、私たち大学院生はその準備や参加者と一緒になってワークするといった活動を行った。参加者それぞれ抱えている背景は違うけれども、活動を通じて、「楽しさ」など同じ感情を共有できたことが非常に有意義であったと感じました。

   現地の人の話の中で、震災から時間が経つにつれバスなどの交通機関、また道路などが復旧し便利になってきたように思える。しかし、震災直後に合ったような人と人との関わり合いが少なくなってきたと感じることが増えたというお話があった。私たち支援者が今できることは、人と人との関わり合いを少しでも継続できるよう、様々なプロジェクトを通じてエンパワーしていくことなのではないかと感じました。

宮古での体験を通して(臨床心理学領域M1 川福理沙)

   私は東北に行ったことがないため、当然岩手県宮古市も初めての訪問だった。宮古市総合福祉センターでの震災プログラムでは、デイサービスの人や若竹会すきっぷの利用者さん、スタッフさん達が参加して下さった。お年寄りの方が参加して下さったこともあり、「うたと遊びのワークショップ」で昔のうたを歌ったときは、皆が大きな声を出して会場が1つとなった。またそのワークショップでは手遊びも行ったため、すきっぷの利用者さんと触れ合うこともでき、次のアートワークまでの休憩時間も一緒にうたをうたったり、話をしたりして関わることができた。引き続き、アートのときも自然に会話が広がって、名前で呼び合う関係を持つことができた。同じ日に同じ会場、さらに皆でする企画が続いたため、あの場がしっかりと温まり、人々の気持ちもあの場にしっかりと入ることができて、皆で楽しい時間を過ごすことができたのだと思う。

   3日目の朝に散歩をしていると、日曜日の朝9時ということもあるのか、町ですれ違う人は少なかった。やはり静かでおだやかな町で、山々は美しい紅葉で生い茂っていた。高く広い空、豊かな食材、ゆったりと流れる時間、2日も歩けば覚えられてしまうほどの小さい町。散歩をしてその空気に触れていると「この町が好きだな」と愛着がわいた。この町を愛する住民の気持ちが分かった気がした。焦らずに生きようとするこの町独自の雰囲気が、都会の時間の早さとは全く異なっていた。今後の復興に関しては、新しいものを作っていけば良いという単純な道のりではないと思われる。その土地に住む人たちがこだわっていることや、大事にしていることを尊重する態度が、支援者には必要なのだろうと五感とともに学ぶことができた大変意義のある3日間だった。

   宮古市の皆さんと自然に感謝の意を込めて、ありがとうございました。

東日本・家族応援プロジェクトin宮古に参加して(臨床心理学領域M1 遠藤祐希)

   「宮古」という名前を聞いて思い浮かべることは何だろうか。現在ではおそらく「津波」「震災」。だが当然のことながら少し前まではそうではなく,「リアス式海岸」「海」「魚」「観光」のイメージが強かっただろう。

   もちろん現地の人々は「津波」「震災」の影響を受け,少なからず耐え難い思いがあったのだということは,津波によって破壊されほとんど形が残っていない防潮堤や,下半分が鉄骨のみになっている建物や,表札のついた塀だけが残る海岸沿いなどからひしひしと伝わってきた。

   しかし,それ以上に「津波」「震災」だけでは変わらない,折れない人間の強さと,「津波」「震災」だけではない被災地をこのプロジェクトを通して感じることができた。例えば,ある地元の中学生と思わしき少年たちは海岸沿いで楽しそうに釣りをしていた。しかしその釣りをしている場所は,3年前には津波が押し寄せ多くの人や家や車が飲み込まれた場所に他ならず,すぐそばの建物には記録として,当時の津波の高さが記してあった。人の何倍もの高さの津波の記録と楽しそうな姿はあまりにちぐはぐで印象深かった。純粋に「怖くはないのかな」と感じた。その後,この少年たちは「津波」「震災」の痛みを乗り越えたのだろうかとも思った。もしかしたら,そのような部分もあるのだろうが,彼らは震災後も続く日常生活の中で釣りをしている,それ以上でもそれ以下でもないのだ。また,イベントの中で出会った方々は,「津波」「震災」のことを口にするよりも,むしろ日常生活についてたくさん話をしてくださった。宮古の方言や寒さや雪,そして海のものことなど,地元に対する愛着が感じられた。

   震災復興支援プロジェクトを通して,今後も震災という出来事をきっかけとして人とつながっていきたいと思った。

宮古での震災プロジェクトに参加して(対人援助学領域M1 吉川陽子)

   11/1(土)~2(日)東日本・家族応援プロジェクトin宮古へ参加した。

   宮古への移動は前日10/30(金)、集合時間は京都駅8:45。しかし、私は仕事の都合で、13:35に京都駅を出発、21:28に宮古駅に到着した。盛岡駅から宮古駅に向かう道中、山田線に揺られて移動する道中も外はすでに真っ暗だった。知らない土地の夜の到着は、とても心細く、ホテルまでの徒歩約10分も道に迷うと怖いのでタクシー乗り、ホテルへ移動した。ホテルのフロントに向かい手続きを済ませると、明日からが本番であるにもかかわらず、無事に到着できただけで少し達成感に包まれた。

   翌朝、8:45にフロントへ集合。イベント会場である宮古市総合福祉センターへ徒歩で向かった。宮古市総合福祉センターまでは徒歩約30分。山々が赤く色づきはじめ自然が美しく、昨日の夜とは打って変わって違った景色に驚いた。

   そして、準備を終えイベントが始まった。午前は団士郎の漫画トーク「木陰の物語」の物語に参加し、午後からはチラシには載っていないプログラムへ参加した。

   そのプログラムはおでんせプラザで開催されている団士朗家族漫画展の会場に飾るためのフラワーアレンジメントを作るというものだった。今回のイベントの共催である社会福祉法人 若竹会の就労移行支援事業所のスタッフさんと利用者さんと一緒にフラワーアレンジメントを作らせていただいた。今回、初めてお会いする利用者さんと一緒に何かを作るという共同作業は緊張もしたが本当に楽しかった。ただ会話をしようと向き合っても緊張すると思うのだが、一緒に何かを作りながら会話をすると緊張は和らぎ、作り合えた後の達成感や充実感は人一倍大きかった。作っている最中、「好きな花」「好きな色」「好きな芸能人」等々、好きなモノについてお喋りした。約一時間のプログラムだったが、相手のことを知りたいなぁという気持ち、弾む会話、そして、すべてのプログラムが終わり、別れ際に「また来年!」と言えることに何とも表現し難い感動を覚えた。

   私は、東日本大震災のとき、出張のため小田原にいた。相模湾の近くにいたため、津波警報が発令され、高台に逃げるように放送を聴いた怖いという記憶がずっと残っていたが、少し前に進めた感じがした。

「東日本・家族応援プロジェクト in宮古2014」に参加して (対人援助学領域M1 伊藤恒介)

   私は今回、「東日本・家族応援プロジェクト」に初めて参加したが、被災地に行くことも初めてだった。私がこのプロジェクトに参加しようと思ったきっかけは、村本先生が本プロジェクトの紹介をしている時に3.11のことが自分の中で過去のことになってしまっていることに気づいたことだった。あれだけ大きな震災で当時はメディアで大きく連日報道されていたにも関わらず、今では現地の情報がなかなか入って来ない。そんなことを考えているうちに震災があった場所の今を見てみたいと思った。そこで今回のプロジェクトに参加する上で「被災地の現状を知る」を自分の目標にした。

   実際に宮古に到着すると一見普通の街並みであったが、よく見ると電柱の津波が来た高さに印があったり津波シェルターの案内があったりと震災の面影があった。中でも建物の塗装がとこどころ新しくなっていたことは印象に残った。宮古の人から何人か話を聴くことができたが、その話の内容は震災当時の話ももちろんあったが多くは今の生活のことで、話を聴いているととても前向きな印象をもった。おそらく今でも不便はあるのだろうと想像するが、そんなマイナスな雰囲気ではなく明るく話をしてくださる宮古の人と話をして自分がエンパワーメントされたぐらいだった。

   一方、津波被害が大きかった宮古の田老地区で見た震災の爪痕はやはり衝撃的なものが多かった。特に、たろう観光ホテルから撮られた映像とJFたろう製氷貯氷施設にある17.3mの津波の印は印象に残った。またそこで聞いた話からは、日ごろから災害に備えなければならないという経験者だからこそ強く伝わってくるメッセージと、それを伝えていきたいという思いを感じた。  

   今回、プロジェクトに参加している中で自分には何ができるのだろうという疑問は常にあったが、宮古の人たちから話を聴いているうちに、私が聞いた話を忘れずに周りの人に教えたいという思いを持った。東日本・家族応援プロジェクトの中では私たちがwitness(証人)となるということが挙げられているが、実際に現地に行ってみてその意味を理解することができた。

   多くのことを学び、感じることができた今回のプロジェクトは私の中でとても大きな経験となった。また来年も参加したいと思う。ありがとうございました。  

宮古市における「出会い」から考えさせられたこと-現地を知ること- (修了生 清武愛流)

   今年度の宮古における活動に至るまで、「ひとまずは10年」共にプロジェクトを展開していく共催相手が見つからずに開催してきた経緯があった。今年、共催いただける現地の方々が見つかり、現地の方がプログラムを用意して下さった。私が宮古に足を運ばせていただいた回数は、2回目だった。

   共に活動を行って下さった機関は、「若竹会」の方々である。「若竹会」は、生活介護と就労移行支援を主にされている社会福祉法人である。私たちが足を運ぶため、どのようなプログラムを行ったらいいのか、熱心に考えて下さっていた。「若竹会」の事業や利用者さんのことも知っていただく機会として、「フラワーアレンジメント」プログラムを用意して下さっていた。私は、「フラワーアレンジメント」と「アートで遊ぼう」、「トークショー」に参加をした。今回は、「フラワーアレンジメント」に参加をして感じたことを中心に記載している。

   花を届けて下さったのは、「家族漫画展」会場だった「おでんせプラザ」の向かいにある花屋さんだった。去年、足を運んで下さり、プログラム前日にお会いした方である。しかし、私たちがそこに居るとは知らずして来られ、私もまた知らずしてお会いしたのだった。会うことを目的として出会うこととは違う嬉しさがあった。こうした出会いは、全くなにも知らない者同士であれば、互いに過ぎ去っていくこともある。言い換えれば、現地で役割を担っている方と活動を行うことができたこと、継続しているから経験し得た嬉しさだったと思う。

   近年、出会うことを意識し過ぎ、こうした些細な喜びは少なくなっていると思う。しかし、これは単なる偶然だとは言い難い。若竹会の方々が商店街にある和菓子屋さんが昔の思い出と共に語っていたことや震災後も続けている様子、再開していない店があることについて、話をされていたからである。「若竹会」の方と花屋さんが、自身ができることを地域や自身の役割から展開されていたことが浮かび上がっていたのだと思った。また、行きの列車の車掌さんも同じ場を話していたことが印象的だった。これらの体験を通し、私たちが拠点にさせていただいた商店街は、その土地ならではの生活が集まり、過剰な意識をせずとも他者とかかわる機微が存在している魅力があったのではないだろうか。

   私の暮らす町並みにも変わらずにある場、いつの間にかなくなっているもの、別の場になっていることがある。変わっていくものが眼につきやすく、ずっとあるものの良さはなくなった時に気づかされることがある。私にとって、今回の活動はそんなことを感じた出会いだった。私たちには当たり前に担っている役割があり、他者に協力を求めることもある。それは、そこにそれを受け入れ、形にしていくだけの場や役割をもつ人がその地にいるからなのだろう。これらが復興の営みの中で何であったのか、それは、先にしかわからないことかもしれない。だが、こうした小さな出会いの積み重ねを辿り、ヒューマン・サービスとは何かを問うていきたいと思った。

   今回の報告は、私が見聞きしたことから学んだことである。プロジェクトの動向、自身の参加回数の経過を含め、思ったことがあった。新しい機会を受け入れることは、そう容易ではないだけの現状が現地にはある。しかし、共に何かを行い、続けていく中で、よかったと思う経験が浮かび上がってくることもある。それは、互いにもっている魅力がゆるやかに引き出されていくからなのではないだろうか、と。このようなことを考える機会を与えて下さった経緯は、今回、「若竹会」の方々とお会いしたとき、「共に学ばせていただきたい」とはじめに言って下さったことから始まっていた。とても、貴重な体験をすることができたと思う。ありがとうございました。




会場となった宮古市総合福祉センター




活動紹介の展示




受付




漫画トーク



みんなでうたおう



アートで遊ぼう



寿司屋で



セントラルホテル熊安の前で



田老の防災学習



たろう観光ホテル



防災の碑



城山公園から望む大槌町



大槌仮設食堂



ガーディアン鯨山



風の電話




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