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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

11月10日~11月16日 二本松市「東日本・家族応援プロジェクト 2014 in 二本松」




 二本松レポート2014 (応用人間科学研究科教授・徳田完二)

   「東日本・家族応援プロジェクトin二本松2014」は2014年、11月10日(月)~11月16日(日)に行われた。そのうち、10日(日)~13日(金)までは家族漫画展、14日(金)~16日(日)は漫画展と並行して、講演会やワークショップなど4つの企画が実施された。これらのうち、私が中心になって行ったものと、私にとって印象的だったものを中心に報告したい。

   14日の夜7時少し前、二本松に着いた。冬型の気圧配置と寒気の流れ込みのため、全国的に例年より寒い日だった。関係者の都合で、その日のうちに現地の協力スタッフとの打ち合わせを兼ねた懇親会が開かれた。プロジェクトが始まって4年目なので、すっかり顔なじみになった協力スタッフもおられれば、今回初顔合わせになる方もおられたので、懇親会から活動が始まるというのも悪くないと思った。われわれは年に1度訪問するだけなので、食事をしながら交流することは、次の日から活動するための基礎作りとして意味があるだろう。

   15日は午前と午後の企画それぞれに関わった。

   午前のプログラムは「こどもの発達の姿と関わり方を学ぶ-保護者と支援者のためのグループ交流会-」と銘打ったもので、立命館の教員3名が助言者として入った。参加者は9名。全員が発達障害をはじめとした何らかの障害を持つ子どもの母親だった。昨年も、企画名は違うものの内容的にはほぼ同一の交流会を行ったが、そのときよりも参加者が多かった。また、昨年度に引き続いて参加した方もおられた。子どもの年齢には、1歳台から30歳台までとかなりの幅があり、はじめは話がかみ合うかどうか少し心配だったが、地域の特別支援学級についての情報交換をしたり、年齢の高い子どもを持つ方が自分の経験を他の人に伝えたりするなど、思った以上に交流できたと感じた。2時間という枠が足りないくらい話が続いた。

   昨年も感じたことだが、障害を持つ子どもの保護者は被災体験の有無にかかわらず苦労しており、その点で何らかのサポートを必要としている。そのサポートには情緒的サポートもあれば、情報的サポートもある。また、類似した状況におかれている人同士のつながりも必要としている。年に1回だけの活動ではあっても、そのようなサポートやつながりの機会を与えることがこの企画の意義であろう。その意味で、今後もこのような企画を継続することが重要だと思う。

   15日の午後は、「支援者支援セミナー-フォーカシングを用いたワークショップ-」を実施した。これは、フォーカシングの技法を使って、支援に関わるさまざまな思いを整理するという作業をおたがいに手助けし合いながら行うものである。このワークショップの中で実際にそのような作業を行うだけではなく、この技法を身につけ、日常的にも活用してもらいたいというのが企画のねらいである。

   これについても、企画名は違うが内容的には同じものを昨年度も行った。参加者は昨年度よりも多く9名の参加者があり、昨年度に引き続いて参加した方もおられた。午前中の企画ともども昨年より参加者が増えたのは、現地の協力スタッフが参加の呼びかけを精力的に行ってくださったおかげと思われ、われわれの活動が現地スタッフの協力なしには成り立たないという当たり前のことを改めて感じた。

   はじめて参加された方の中には、進め方がうまくつかめず、とまどいを感じた向きもあるようであったが、この方法に関心を持てたことは事後のアンケートからうかがうことができた。この企画についても、地道に継続していくことが重要と思う。

   15日の夜は、当初の予定には組み込まれてはいなかったが、現地協力スタッフのコーディネートにより、仮設住宅を訪問する機会が得られた。仮設住宅での活動は、昨年度、一昨年度にも行ったが、今回訪問させていただいたのはそれとは別の仮設住宅であった。二本松市内の仮設住宅はすべて、放射能被害が深刻な浪江町から避難してきた人たちのものである。

   昨年度までの仮設住宅における活動は、現地のNPO法人の活動に加わって行った、学童期を中心とした子どもたちを対象としたものであったが、今回は、仮設受託の自治会長をはじめとした4名の大人の方との懇談であり、支援のためというよりは、仮設住宅で暮らす人たちの生の声をわれわれの方が聞かせていただきたいというのが主旨であった。今回の訪問は、京都から現地に行ったスタッフ全員(員、院生、事務職員、ボランティア参加のアマチュア人形劇団員)で行った。

   その仮設は現在50世帯110人ほどが暮らしているが、特徴としては、高齢者が多く、子どもがほとんどいないということであった。初めは全体で仮設住宅の様子などをお聞きしたが、その後、小さなグループに分かれた。そこで聞かせていただいた印象深かったことやそこから感じたことを中心に、ややまとまらないが以下に書いておきたい。

   仮設住宅の住民は、全員が浪江町出身者とは言え、もともと面識のなかった人同士であることが多く、入居してきた当初は顔を合わせたときの挨拶程度の交流しかなかった。しかし、徐々に交流が増えたとのことである。最近、女性の間では「和服のリメイク」(古くなった和服の生地を利用した衣類や小物作り)がはやっており、かなり高齢の方でも食事を忘れるほど楽しんで取り組んでいたりする。これに対して、男性はすることがなく、近所づきあいにも消極的で、健康にも問題のある人が女性より多い。

   放射能被害独自の苦しみは、家を物理的に失ったわけではないのに家に帰れないことである。帰宅が困難な地域、帰宅が可能な地域、帰宅の準備段階にある地域など、同じ町でも状況が異なり、将来どうなるか全然見通しが立たないことなど、町民を取り巻く状況はいまだほとんど改善していないというのが実情である。

   上記のような全体的状況についての話の後、小グループに分かれたが、私が加わったグループの住民の方は、地震発生時からこの仮設住宅に来るまでの体験、放射線量の高い自宅にときどき帰って掃除をするときの体験などを生々しく語り出した。そのことは、被災者が、耳を傾けてくれる人さえいれば、何度でも自分の体験を語り直したいという欲求を持ち続けていることを示しているように思われた。彼女らが語ったのは、地震のあと着のみ着のままで家を飛び出し、原発事故に関する情報がないまま行政の指示に従って逃げまどったこと、一時的に身を寄せた知り合い宅で感じた肩身の狭さ、東京電力からの保証金がもらえる立場ともらえない立場の間に生じる被災者間での気持ちのギャップ、あるいは同じ被害者からのねたみ、荒れていく自宅への思い、放射線に対する怖れが麻痺していった過程などであった。ニュースなどを通しては知ることができないさまざまな出来事や思いを当事者から直接聞いたことは、東日本大震災の深刻さを再確認せざるを得ない体験になった。復興という言葉が何のリアリティも持たない世界がまだまだ残っているということを私たちは肝に銘じる必要があると思う。

 二本松で(応用人間科学研究科教授・団 士郎)

   福島県でのプロジェクト(二本松市と福島市)に両方出かけて話すのは二度目である。福島市は12月初旬に訪れるので、半月ほど置いて同県内開催になる。同じ話をするのも芸がない気がして、二本松では、2014年共通テーマである「子どもと貧困」とは別の論題をたてた。

   「親とは、家族とはなにか」をテーマに、家族はどのように自分たちらしい家族になっていくのかを、「編集方針」という言葉で語ってみた。

   家庭に起きるどんなエピソードを家族の思い出として、みんなで語り合うか。そのエピソードを選んでいるのは家族自身であるという話。なにを共有の記憶にするかは、編集部員である家族構成員自身が決めている。

   では誰が幸せな家族になるのか。客観的には、良いことも嫌なことも、誰の人生にもあるのだから、その違いは「編集方針」によるところが小さくない。

   そんな話を、余裕を持って向かったはずが、新幹線郡山駅で下車し損ねるという失態のため、開始5分前に会場到着という失敗も含めながら無事済ませてきた。

   結局今回も又、会場周辺を散策する時間も、会場に隣接する浪江焼きそばを賞味する間もなく、とんぼ返りになった。

2014年11月 二本松にて(応用人間科学研究科教授・竹内謙彰)

   私は、「東日本・家族応援プロジェクト in 二本松 2014」の全日程のうち、11月15日(土)~16日(日)に開催された諸企画、すなわち①こどもの発達の姿と関わり方を学ぶ-保護者と支援者のためのグループ交流会-(14日午前)、②遊びのワークショップ-人形劇・おもちゃ・遊び-(14日午後&15日午前・午後)、③旧平石小学校仮設住宅訪問(14日夜)に参加しました。ちなみに、団士郎先生の家族漫画展&講演会が11月10日(月)~16日(日)(このうち講演会は、14日(金))の日程で開催されていました。ここでは、それぞれの企画に参加して感じたこと、考えたことを述べます。

   ① 保護者と支援者のためのグループ交流会では、障害のある子どもを持つお母さん方が参加されました。スタッフ側は、教員として荒木穂積先生、徳田先生と竹内が参加したほか、独研事務室の北川さんや大学院生の人たちも参加しました。お子さんの年齢も、就学をこれからに控える幼児から、小学生、青年、さらに成人に至るまで、幅広かったのですが、様々な経験を交流していただく良い機会になったのではないかと思います。会の前半では、参加者全員で交流を行い、後半では、子どもの年齢の高低で二つのグループに分かれて、さらに個別的な相談を含んだ交流が行われました。昨年度の会に来ていただいたお母さんもおられたことから、年1回とはいえ、こうした取り組みが定着してきているのではないかと感じた次第です。

   ② 遊びのワークショップでは、荒木美知子先生を中心に、おもちゃの準備等をされていて、子どもたちが楽しめる良い機会になったのではないかと思います。また、今回は、元保育士の福澤さんたちのグループが、人形劇をやっていただき好評でした。ただ、会場が、他のグループとの共同利用だったことから、予定されていた活動が十分展開できなかった点もあり、時間や空間の配分の調整に課題を残したように思われます。

   ③ 仮設住宅訪問は、最初、予定になかったのですが、現地の実態に触れたいという要望もあって、実現しました。一昨年、私が参加させていただいたときの別の仮設住宅訪問では、子どもたちと遊ぶことがメインでしたが(それはそれで意義があったと思うのですが)、今回の訪問では、住民の方々の生の声を聴くことができたことが一番の収穫でした。私は、主に自治会長の天野さんのお話を聴かせていただきました。そのご経験を、簡単に要約することはできないのですが、浪江町から着の身着のままに近い緊急的な非難で家を出たまま故郷に帰還できない状態が続いていることの悔しさと、その後のうつ状態、そして、それでも前向きに生きていこうとして、がんばっておられる日常生活のことをお聞きし、かえってこちらが励まされた思いでした。3.11から始まる原発事故による被害は終息には程遠いものであること、そしてこのことを多くの人が知るべきであることを改めて強く感じました。

「東日本・家族応援プロジェクトin 二本松2014」に参加して(臨床心理学領域M1 磯井知子)

   11月の中旬ということもあり新幹線の郡山駅についた頃にはコートを着込んでいた。頬にあたる冷たい風が初冬の訪れを告げ、私たちは日の沈みとともに二本松市行きの電車に乗り込んだ。車窓から見える風景は山や畑といった長閑な風景だったが、所々に置かれてあるブルーシートを見て此処に来た意味を考えながら二本松市に着くのを待った。

   打ち合わせのため二本松市市民センターへと行き、2日間を共にする方々と顔合わせをし除染や原発問題を抱えながら二本松市で生活を送っている方のお話を聴かせて頂くことが出来た。その中で、最も印象的だったことは「放射線が臭いや色で見えればいいのに」と話されたことだ。目には見えず肌で感じることが出来ないからこそ不安、恐怖等が募っているのだと思う。市内には放射線量測定器が見受けられ天気予報にも放射線量の情報が流れるという。そのため、二本松市民にとって放射線量は日々の生活上の深刻な問題であり、不安や戸惑いの中、問題と向き合っている人が多い。ただ、「やっと子どもを外で遊ばせたり、洗濯物を干せるお母さんが増えてきた」と聴き、3年前とは少しずつ状況に動きが見られてきたのだと感じた。しかし、除染や放射線量、復興等については未だに解決、改善、動きがみられていないこともあるため、これらの問題を抱えながら生活を送っている人たちの思いについて考える機会となった。

   次の日は、子どもたちと風船やカプラを用いて遊んだ。男の子とカプラで建物を一緒に組み立てた。会話はあまりなかったが組み立てていくうちに「このカプラをこの子と完成させたい」という一体感を抱き、完成した時の嬉しさは今も覚えている。また、風船が直ぐに割れてしまい膨らませられない子に寄り添い、一緒に膨らませられた時は喜びと、その時に見せてくれた笑顔が嬉しかった。やはり子どもの笑顔が一番の喜びであり、元気の源になることを改めて感じる時間だった。

   その夜は、仮設住宅に避難されている方のお話を聴く機会があった。震災時からこれまでの経緯や大変さを知るとともに前向きな気持ちと今を生きる力強さを感じた。また「来てくれてありがとう。来てくれることが嬉しい」という言葉に私が二本松市を訪れた意味を改めて考える機会となった。テレビやインターネットでは得ることが出来ない、感じることが出来ないことを、仮設住宅で生活している人と話をすることで知り、感じ考えることができ、得た情報、感じた思いを発信していく大切さに気付かされた。そして、帰り際に握手をしながら「気を付けて帰ってね」と声をかけてくれた際、私の手が冷たかったことに対して「冷たいね、ちょっと寒かったかな、大丈夫」と気遣いの言葉をかけながら温めてくれた。その言葉かけと温もりに優しさを感じ涙が出そうになった。他者を思いやる気持ちが優しさを生み、人と人の関わりに温もりが生まれることを実感した。帰り道の車からみた夜空にはたくさんの星が散りばめられており、この想いを優しく包み込み、照らしてくれるような空だった。 

   全体を通して感じたことは、このプロジェクトは年に1回現地に足を運ぶという形で進められているプロジェクトで365日のうち3日間しか二本松市で現地の方と時間を共に過ごすことが出来ないが、それまでに各々がプログラムの為に何度も打ち合わせを重ね、準備をすることで二本松市と関わりを持っている。つまり、現地に行く前からこのプロジェクトが始まっており、帰って来てからも活動報告や、周囲に伝えていくという任務があるため深く長く二本松市について考える時間を持っていることに気がついた。また、私はプログラムや二本松市の方、仮設住宅に避難されている方のお話等を通して私に出来ることを考えていた。その中で、確かに感じたことは今回見聞きしたことをしっかりと周囲に伝えていくことが今私に出来ることであると感じた。そして、今後も二本松市の復興、状況等に目を向けていき、東日本大震災というものがどういうものであるのか、放射線問題を抱えながら生活を送っていくというものはどういうものであるかを考え続けていきたいと思っている。

二本松でのプロジェクトに参加して (臨床心理学領域M1 藤井彩瑚)

   3.11以降、「私は何をすればいいのか、何ができるのか」悩む一方で、月日が流れるにつれて自分の中のその気持ちが薄れていくことに危機感を感じていました。このままではあの日あったことを忘れてしまい、何事もなかったように世界を見てしまうのではないか。私ひとりに大したことは出来ないかもしれないが、忘れてしまうことだけでも食い止めたいという気持ちで、二本松のプロジェクトに参加させて頂きました。

   実際に現地に降り立つと、初めはすごく拍子抜けしたように思います。京都とは何も変わらないような日常が流れ、子どもたちが遊んでおり、学生が学校帰りでお喋りをしていたりという風景を見ていると、最初は何が起きているのかピンときませんでした。しかし、その日常の一部であるテレビのニュース天気予報の中で、天気に加えて放射線量についても毎日放送されていたり、至るところに放射線量の測定器があるのを見て、あの日に起きたことは現実であり、二本松の人々は今でも日常の中で戦っているのだと改めて認識させられました。「まだ終わっていない、苦しんでいる人たちがいるのだ」とメディアや人から聞くのと、実際に現地の日常に入ってみるのとでは当然のことながら感じるものや重みが違ったように思います。至るところに放射線量の測定器があるなか、子どもたちが遊ぶ日常があり、生活があるということ。放射線は目に見えない分、私たちには被害に脅かされるイメージが湧きづらいのですが、実際に赴いて感じることで、3.11を自分の体験と関連付けて考えることができました。「放射線に色や匂いがあったらいいのに」とぽつりとおっしゃられたことが印象的で、色や匂いのない放射線というものと戦っていくことの困難さを改めて感じました。津波で流されたり、物理的に壊れた被害という目に見える被害からくる困難さとはまた異なる、放射線という目に見えないものに脅かされていることの辛さ、先の見えない不安感を抱いておられるように思いました。すぐそこに自分の長年住んできた家がそっくりそのままあるのに、戻ることは許されない。仮設住宅に住む方たちの話を聞いて、実際にあってみて、自分の家が朽ちていくのをただ眺めていることしかできない現実に、辛さを感じているように思いました。「無くなった」のではなく、「そこにあるのに手が届かない」という部分が、直接津波の被害を受けた場所とはまた違う種類の辛さを抱える原因となっているのだなと感じます。そのような部分だけではなく、同じ二本松に住んでいらっしゃる方の中でも一人一人が異なる状況に置かれている人たちであるので、その方たちをひとくくりに「被災者」と呼んで、同じように扱うことの不適切さを感じました。避難をしていたりしていなかったり、それぞれに置かれている状況も異なれば、必要とする支援も異なります。ひとくくりにラベリングするのではない、一人一人を見た支援のあり方について考えさせられました。

   また、支援と言っても「支援する側とされる側」というような分離は出来ないのではないかということを改めて考えさせられました。今回の二本松では現地の方にお世話になったり、教えてもらうことが多く、自分たちの方が多くのものを受け取ったのではないかと思います。いつ何時、どこでまた同じような被害が起きるともわからない現状の中で、私たちは現地の方々から様々なことを学ぶ必要があります。私たちに、思いだすのも辛いであろう当時の経験を一生懸命に語ってくださる人々の姿を見て、忘れ去っていくのではなく、起きたことから何か一つでも多く学んでいく姿勢が必要なのではないかと感じました。そのような意味では、「支援」と言う言葉は双方向性を持ったものであり、一方的なものではないのだと思います。

   メディアなどでは、「苦しみながらも希望を持ちながら前向きに生きている」被災者像が前面に押し出されていますが、実際には「希望を無理やりにでも持たなければ、生きていくことができない」のだということを、お話を通じて知ることができました。無理矢理前向きにならざるを得ない状況の方たちを見て、「元気にやってる」と思ってしまうことの愚かさを感じるのと同時に、そのような辛い状況を支え合いながら生きている人たちのパワーも感じることができ、その人の置かれている一側面しか見ることのできない人間ではなく、様々な側面を見ることのできる者でありたいと強く思いました。

   ここで得られた経験や出会った方々を決して忘れず、常に考え続けることを心がけていきたいと思います。ありがとうございました。

二本松でのプロジェクトに参加して(臨床心理学領域M1 中島利奈)

   私は2011年3月11日に発生した東日本大震災に対して親族等に被災者がいないということもあり、どこか自分の中で「他人事」という認識がありました。その思いに対してこの約3年半違和感をずっと抱いてきました。また同時に、ニュース・新聞・ネット等のメディアにおいての報道と現地の方々の思いは一致しているのかどうか気になる点もあり、実際に現地に訪れることを決心し、本プロジェクトへ参加させて頂きました。

   本プロジェクトに参加する前、私は間接的に震災復興支援を行うことに対して少し疑問を感じている部分がありました。例えば、二本松のプロジェクトにおける「遊びのワークショップ」では、子どもたちが自由に遊ぶ・子どもたちと一緒に遊ぶという取り組みであり、「プロジェクトとして行わなくても、ごく普通の生活の中で行なっているのではないか?」とどこかで思う部分がありました。また、「保護者と支援者のためのグループ交流会」では、震災については触れず、児童発達支援に関する内容であり、「他の機関でも行われている取り組みなのではないか?」と思うこともありました。

   しかし、実際に二本松に訪れ、ワークショップやセミナーのスタッフとして参加することによって、その疑問に対する答えが少しわかったような気がしました。私がスタッフとして参加させて頂いた「遊びのワークショップ」では、活動の最中に、以前外でシャボン玉を楽しもうと企画し用意して来たが、実際には外での遊びは難しい状況で、断念せざるを得ないという状況があったことを伺いました。ごく普通の「遊び」にもご両親やそのお子さんの細かな配慮が必要であり、二本松に暮らす方々は日々そのことを意識されているということに衝撃を受けました。だからこそ、「遊びのワークショップ」では、子どもたちが安全な空間で自由にのびのびと遊んでいて、それを見ていた保護者の方々も喜んでおられ、直接的な支援(例えば被災直後の被災者の方々への食事や環境の整備の支援)だけでなく、数年経った今だからこそ間接的な支援(本プロジェクトのような取り組み)を長いスパンで行うことの大切さを知ることができました。

   また、「支援者支援セミナー(フォーカシングを用いたワークショップ)」では、二本松において被災者でありながらも支援者という立場で日々支援されていらっしゃる方々に対して、フォーカシングという技法で悩みや不安を直接相手には伝えなくても心の中にあるものと上手く付き合う方法を積極的に学び、喜ばれている姿を見て、改めて心理療法の可能性を感じました。そして参加者の方々の意欲の高さに、支援者として臨床心理士を目指している自身の大きな刺激となりました。

   現地の方々との交流や仮設住宅を訪問においては、メディアではわからなかった被災直後の様子や心境を生の声として直接被災者の方々から聞くことができ、話を聞いて自身の中に留めるだけでなく、witness(証人)として、少しでも多くの人に伝えていきたいという思いでいっぱいになりました。

   最後に本プロジェクトを終えて、強く感じたのは「震災復興支援の在り方」についてです。プロジェクト参加以前の私は「支援」という言葉に対して無意識の中で「特別なものであり、特別なことをするもの」という意識があったように感じます。しかし、震災復興支援の長期的な支援においては、被災者の方々の日常に寄り添った支援こそが大事であることを実際に現地に訪れて、一スタッフとして活動することで理解でき、本当に貴重な体験をさせて頂きました。3日間ありがとうございました。

二本松市における活動に参加をして〜「知り合う」過程〜 (修了生 清武愛流)

   今回、初めて二本松市に足を運ばせていただいた。私は漫画展のアテンド、遊びのワークショップに参加をさせていただいた。また、浪江町の方々が暮らす仮設住宅へ訪問をさせていただいた。私が主に行った活動である、漫画展のアテンドを中心にしつつ、そこから生まれた経験と感じたことを綴りたいと思う。

   開催場所である「二本松市市民交流センター」には、貸し部屋、市民ギャラリー、浪江町で営まれていた「なみえ焼きそば」の店舗や二本松市出身の「大山忠作」の美術館があった。また、漫画パネルの前に立ち止まってくださった方々に『木陰の物語』の冊子をお渡しすると、市民ギャラリーにて作品の展示をしている方々だったこと、二本松の文化をめぐるツアーでいわき市から市民センターへ立ち寄られた方々であることを知ったことからも伺えた。市民と市外の方が利用できる場であると感じたひと時だった。事前に二本松市について調べ、そうした場であることを知っていたにしても、直接、場や目の前にいる相手とかかわることで、生で感じることができたことだった。

   私は、市民交流センターに置かれている放射線量測定器が目に留り、放射線量を日常生活のあらゆる場面で意識して暮らさなければならない現状を感じた。私が、二本松市が被災地であることを再認識した瞬間だったと思う。不安がつのる瞬間に直面することが多いだろうと思った一方で、日々を一歩ずつ進んでいるようにも感じた。それは、仮設住宅に訪問をさせていただき、お話をお聞きした場面からだった。これまで暮らしていた自身の住まいに戻れるか否か見通しが立たず、不安も多いようだったが、そこで暮らす方々と共に日々の生活を送られていることを垣間見たからだったと思う。個々人や家族で決断しなければならないこと、それら決断が他者と一致するとは限らない状況の中、日常生活を営まれているように感じたことからだった。復興の営みを辿る中、決して目に見える事象だけで判断することはできないと再認識した機会になったと思う。

   計り知れない現状が被災によって生まれているため、安易に比較するつもりはないが、私たちも日々の生活の中で、異なる営みと共に営む暮らしがあること、それがいかにして構築されているのかを知っておくことも大切だと思った。それは、仮設住宅における暮らしやそこに至るまでの苦境、仮設住宅で衣服のリメイクや陶芸、小物作りなどをしている方々がそれらを楽しそうに紹介をしてくださっている姿から感じたことだった。

   今回、とても残念だったことは、私は共催してくださった方々とかかわる時間がほとんどないまま時が過ぎ去ったことだった。この方々がいるからこそ、私たちは現地に足を運ぶことができる。私は、せっかく寄せていただくのだから主催者も共催者も互いに楽しいひとときもちたいと思っている。それは終わった後にやりきったことだけの充足感を得る、一時的な活動ではなく、共に行う活動が互いの日常生活に活かされるものであることが重要だと思うからだ。これらは、慌ただしく時がすぎぬよう、外から参加させていただく私たちが、思案しなければならないことだと思う。私自身の下準備が不足していたこともあったと思うため、今後の課題とし、これからに繋げたい。

   このように思ったのは、懸命に準備をしてくださった方々が二本松における支援者として懸命に働いている姿を知り、彼らが育った、もしくは、今生活をしている二本松市の魅力を知りたいと思ったからだと思う。

   市民交流センターの近くには、江戸時代からある和菓子屋さんがあった。そこで「玉羊羹」を購入すると、お茶と和菓子が無料でいただけるというチケットをいただいた。「門前市」と書かれており、商店街活動が行われている日だった。チケットを手にし、数件先の店舗で和菓子とお茶をいただいた。店内や周辺の店の前には、農家の方々が作った野菜やお米が販売され、ところどころに人が集っていた。以前二本松に住んで居た方が、立ち寄られていたり、福島市の事業所の方が販売をしていたりと、私を含めあらゆる地域の人びとの集まりになっていた。到着当初は、静かな町並みだと思ったのだが、もしかすると静かだから生まれる良さがあるのかもしれない。わずかな場面であることは承知で、これも二本松の魅力なのかもしれないと思った。センターの中でも気さくに声をかけてくださった「なみえ焼きそば」の店舗の方、ギャラリーで展示をしていた方、いわき市の方、和菓子屋やその近隣の店舗の方々からもそれらを感じた。






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