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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

11 月1~6 日 岩手県遠野市「東日本・家族応援プロジェクトin 遠野2011」




11 月1~6 日 岩手県遠野市で「東日本・家族応援プロジェクトin 遠野2011」を開催しました。 

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

  遠野は、柳田國男の『遠野物語』の舞台であり、座敷わらしや河童の伝承で知られる小さな街である。沿岸と内陸を結ぶ交易拠点として発展した経緯から、相互扶助の意識が強く、また、大槌から陸前高田まで沿岸部に半径50キロに位置し、車で1時間という条件にあることから、震災直後から後方支援の中核地となっており、官民一体となった「災害救援のモデルケース」として注目を集めている。

  11月3日、文化の日、「遠野文化フォーラム」が開催されていた。第一部の「子ども語り部」や、第三部「遠野文化賞」の表彰式で、遠野小学校の全校表現活動「遠野の里の物語」が紹介され、文化の町、遠野のパワーに魅せられた。私たちのプロジェクトの「子どもワークショップ」には、遠野小学校の子どもたちがたくさん来てくれ、全校表現活動についての話を聞かせてもらったが、先輩から後輩へ、親から子へと30年も受け継がれているという。まさに伝承の文化である。

  『遠野物語』には不思議な物語が多いが、あらためて読んでみると、厳しい東北の地に生き、運命に翻弄され続けた人々が、何とか人生を理解し受け入れようと語り始めたのではないかとも思える。阪神淡路大震災後、ボランティアに通って、避難所にある子どもの遊び場に入っていたことがある。5歳の男の子が大きな尻尾を持つ恐竜の絵を描き、得意げに話してくれた。「ボクね、どうして地震が起きたのかなって、ずっと考えていたんだよ。それでね、わかったんだ!地面の下に大きな恐竜がいてね、尻尾でドンドンってしたんだよ」。彼は、人智の及ばぬ世界に圧倒されるのでなく、想像力を駆使して、これを彼なりに掌握可能なものにしたのだ。

  私たちのプロジェクトも、「木陰の物語」という家族の物語の漫画展を中核に置いている。他者の物語を知ることで、自分のなかに沈殿していたさまざまな物語が浮上してくる。災難を生き抜くためには物語る力が不可欠だ。「支援者支援セミナー」に参加してくださった方の一人が、「傾聴ボランティア」の体験として、「聴き方なんかより、とにかくそれを語られるその方の語りが素晴らしい。ものすごい体験を生き延びられ、語ってくださる、そのことに圧倒される」とおっしゃっていた。

  これから十年、遠野に通うなかで、人々によって語られる物語の聴き手として、ひそやかに存在し続けることができたらと願っている。

二カ所目の遠野で (応用人間科学研究科教授・団士郎)

被災地
  遠野は津波被災のあった沿岸部から車で約1時間。釜石にも、陸前高田にも、大船渡にも道をとれる内陸部の要の地だった。 遠野到着早々の午後、「16時過ぎには暗くなり始めるから・・・」と急かされるように、沿岸部被災地・陸前高田を車で目指した。山間、川沿いの曲がりくねった国道から平地に下ると、そこはもう津波の爪痕があちこちに残された街だった。 沿岸部に進むほど、夕暮れ近くなった被災地に人の気配は無く、広大な空き地と所々に残ったコンクリート建造物の廃墟、そして整理された車の残骸の荷積みが見られた。それは被災直後の興奮してしまうような惨状ではなく、気持ちを挫かれ、言葉も失ってしまうような風景だった。大震災・津波から半年余り、私は現地を初めて目にした。

プロジェクト
  これまで縁のなかった場所に、それほどの事前経過も作れないのを承知で出かけることになったのが遠野だった。そして私にとっては、支援者支援に加え、「居場所」と「居心地」いうことを強く意識することになった遠野プロジェクトだった。 蔵の道ギャラリーにおいて開催したパネル漫画展に来てくれた人たちは、こじんまりした会場で熱心に見てくださっていた。作品を前にじっと見つめ続ける人。あるいは「過去・現在」という作品を、「まだ見られない!」と退室した人など、届くものはそれぞれ異なっているのだった。用意した小冊子「木陰の物語」は事前配布、会場配布を含めて500冊以上、遠野の街に届けられた。

  講演会に出席した地元の人はごくわずかだったが、支援に入っている人やコーディネートをしている人たちに、このプロジェクトが何を目指したものかを知ってもらうのに、とても良いかたちのスタートだったように思う。来年、再来年と継続してゆくためには、地元で協力してくれる人たちの、適切な理解と応援が欠かせない。それを考えると、ベストに近い繋がりが歩み出せたのではないかと思う。

  今から新しい関係を産み出してゆく手続きとしては、大きなことを言ったり、したりするのではなく、徐々に拡がってゆきそうな感じがなかなか良かった。あの場全体に暖かい感想の持てる時間が作り出されていた。支援者支援や後方支援をイメージして、十年続けようと掲げている第一歩としては、上々の滑り出しに思えた。マンガ作家である私は、こういった点に弱いところがあるから、一緒に動いてくれた人たちの努力にも、あらためて感謝したいと思う。

  遠野は小さな街だが、歴史、文化に関する蓄積は、厚く深い。講演会場になった遠野図書館・博物館の展示スペースの充実度は高い。「遠野物語」の世界にこれから十年、「木陰の物語」をうまく届け続けられたら嬉しい。

語り部の昔話と「劇遊び」ワークショップ(応用人間科学研究科教授・尾上明代)

  遠野入りした11月4日に、遠野市立博物館のDVDコーナーで、何人かの語り部(故人を含む)の昔話を聞いた。どの話も「昔あったずもな(昔々あるところに)」で始まり、「どんどはれ(おしまい)」で終わる。独特の雰囲気を楽しんだが、方言のため、まったく理解できない部分も多かった。その後、宿泊するホテルで行われた「昔話の夕べ」に参加。語り部ホールの囲炉裏に腰を下ろして、奥寺恭子さんという語り部の方から、他の宿泊客たちと一緒に昔話を聞く。奥寺さんが、わかりやすい説明を加えて話して下さり、博物館と同じ話も、今度はよく理解できた。宿泊客は、初めは静かに聞くばかりだったが、私があいづちや質問をしたことをきっかけに、いろいろな方が口を開き、語り部と観客の双方向のなごやかな交流の場になった。「ライヴ」の良さを改めて実感するとともに、このような交流が、コミュニティーにおける昔話を語る・聞くということの本来の姿だと感じた。

  その後、私は奥寺さんから震災時の体験を聞かせていただいた。震災直後からずっと、後方支援としておにぎりなどを作って、津波の被災地に届けたことや、家業が薬屋さんなので、息子さんたちが薬を届けるために、道なき道を進んで行ったこと。ご親戚の医師の苦労、繋いだ手がちぎれて目の前で、家族が流されてしまった方のお話などなど。現場に行ったときの光景は、地獄のようだったとおっしゃった。「地獄」ということばを何度も使われた。

  「プロの語り部」である奥寺さんがお客さんたちに語る昔話と、私に語って下さった震災の体験の話は、内容はまったく違うものである。しかし語り部を生み、語り継ぐという文化が根付いている遠野という場所で、震災を間近に見聞きし体験した奥寺さんたちがもつ意味やミッションを、この1時間の間に感じずにはいられなかった。

  話には、神様や亡霊、架空の生き物などが登場したり、動物がしゃべったりすることが多いので、創り話・夢物語というイメージがある。しかし柳田國男は、遠野物語の序文に、これらの話は作り事ではなく「目前の出来事」「現在の事実」だと書いている。つまり民話や昔語は、架空のファンタジーや異次元の登場人物という設定で包み込み、ディスガイズされながらも、実は100年、200年前に「実際におきた事実」が多く語られているのである。

  このように考えれば、今起きていることを語ることは、実は次の世代に向かった新たな民話創造の始まりであり、100年、200年後に、それらは「昔話」に昇華していくのだろう、いや、そうあって欲しい、との予感と期待が、奥寺さんの話を聞いていく中で、心をよぎった。今を語る人・聞く人にとって、そのプロセスは希望や回復につながり、さらにこれまでの共同体の維持、そして新たな意味をもつ共同体の再生という、いわゆる語りがもっているであろう本来の力が出てくるのではないかと思う。震災という未曾有の時を通過しつつある、生き延びたもの、死せるもの、傷ついたもの、人も、家畜も、動物も、川も、海も、浜も、田畑も、家も、森も全てが語り継がれる対象としてそこには拡がっているし、また、待っているように感じる。「物語」の最後は、回復・復興へ向けて発展、変容した後の「どんどはれ」、になって欲しい。

  奥寺さんとの出会いは、今後、「いろり火の会」や「遠野物語研究所」の方々と、何らかの研究・実践活動ができないかと考えるきっかけになった。語り部として昔話を語ることの継承と、後方支援のおにぎり作りが、まったく別のこととして同じ人々によって行われているのであるが、その二つを結びつける媒介ができないものだろうか。たとえば、まずは来年、語り部の方々と上記のことについて話したり、今、身近で起きていることを語り合うワークショップなどをしてみたいと思った。

  翌日は、蔵の道ギャラリーで、一時間半の「みんなで楽しく劇遊び」ワークショップ実施した。身体を動かすゲームで開始。ジェスチャーや、いろいろな気持ち・状況の当てっこゲームで、想像力や表現意欲などを引き出してから、劇へつなげた。いくつかのお話を私が語りながら、そのまま自然に一緒に演じる場面へもっていった。

  子どもたちは、段階を追って深めていくワークショップのプロセスすべてを楽しんでくれた。同時に、短い時間で彼女らの主体性や創造力、表現力を高めることができたと考える。後半になって、劇は絶対にイヤと言って見ていただけの女の子が、学校の先生に反抗する授業の場面を大変気に入り、私と一緒に実際に演じてくれた。「反抗できた」のがとても嬉しかったようで、満たされた表情でたくさん笑っていた。「やりたくない」・「やる気がおきない」子どもが能動的に即興劇を演じて「楽しい!」と感じる場面は、非常に貴重である。今回の一時間半の中で最も意味のある瞬間だったと言っても過言ではない。

  このような一回だけのワークショップでは、その後に気持ちの安定・心地よい高揚感などを持って帰れるようにすることが当然、望まれる。そこで、最後の劇は、子どもたちの力やアイディアで結末を創り、未来に希望を実現できることを象徴的に示唆するようなワークにした。主人公のキツネは、どうしてもほしかったバケツが、やっと手に入りそうになったとき、崖から川の中に落としてしまう。でも多くの河童たちがキツネを助けてバケツを取り戻すというハッピーエンドを、子どもたちと一緒に創ることができた。

子どもワークショップ「風船で遊ぼう!」を担当して(立命館大学心理教育相談センターカウンセラー・渡邉佳代)

  岩手県遠野市にある遠野蔵の道ギャラリーで、11月5日午後に子どもワークショップを行いました。前半は尾上先生の劇遊びを、そして後半は渡邉が担当して風船遊びをしました。

  遠野は柳田國男の『遠野物語』の舞台で、今も豊かな歴史と文化が息づく街です。紅葉の名残を留める低い山々に囲まれ、城下町の風情が感じられる美しい街並みが印象的でした。津波被害がひどかった沿岸部から車で1時間ほどの遠野は、これまでも沿岸部の後方支援を大きく担ってきました。そして、遠野には仮設住宅地や親戚の家に身を寄せている沿岸部からの避難者が多く暮らしています。遠野で生まれ育った子どもたちの中にも、震災直後に続いた停電に怯える子どもも少なくなかったと聞き、胸が痛みました。どんなにか怖く、不安だったことでしょう。ひと時でも、一緒に楽しい時間を過ごしたいという思いで、『風船で遊ぼう!』のプログラムを選びました。

  私はNPO活動で、DV・虐待被害にあった母親と子どもへの支援に携わっています。この『風船で遊ぼう!』は、DVシェルターに入所中・退所後の子どもを対象に長く行われてきた人気のプログラムです。「自分のお腹に手を当ててごらん。息を吸ったり、吐いたりする時に、お腹が膨らんだり、へこんだりするのが分かるかな?これはね、皆のお腹の中に、ホッとリラックスする魔法の風船が入っているんだよ」と、プログラムはスタートします。ねらいは風船遊びを通して腹式呼吸を学び、ストレス・コーピングを身につけること、そして体の動きを通して子どもを誉め、励まし、エンパワーすることです。

  「仰向けになってごらん。お腹の中に風船が入っているのをイメージしてみよう。これから息を吐くよ。口から、すうっと細く長く息を出してみよう。お腹の風船がへこむのが分かるかな?お腹の風船の空気と一緒に、体の中のモヤモヤ、イライラも一緒に口から出ていくよ」

  「今度はお腹の風船を膨らませてみよう。鼻から息を吸って、外の新鮮な空気がお腹の風船を膨らませると、体に元気が湧いてくるよ

  「何回か続けてみよう。段々ゆったり、ホッとリラックスしてくるよ」

  子どものお腹に手を当てて、「○○ちゃんのお腹、上手に魔法の風船が膨らんでいるね!」と伝えると、子どもは得意げにニッコリしたり、パッと表情が明るくなります。時には力みすぎて、肩が上がってしまう子どももいます。「わぁ、□□くんの肩、すごく頑張っているね。手を当ててもいい?」と尋ね、その子の肩をさすります。「よく頑張っているねぇ」。手のひらの温かさを通して、次第に子どもの肩の力が抜けていきます。体の動きが大きく、ゆったりとしてくると、心もホッと緩んで元気が湧いてくるようです。

  これまで携わってきたDVシェルターでも、子どもが自らの不安を抱えながらも、これからの新しい生活に向けて頑張っているお母さんを支えようとする姿を目にしてきました。怖いことは過ぎ去ったけど、まだまだ生活は安定せず、環境の変化にも慣れない中、小さな体で精一杯踏ん張っている子どもたち。プログラムの中でも、初めは警戒して周りの様子を窺ったり、自分より年下の子どもたちのお世話をしたり、体を小さく硬くさせていた子どもたちが、たくさんの大人に囲まれて、次第に甘えたり、はしゃいだり、子どもらしい子どもになって、元気を取り戻していくようです。

  それは、ほんのひと時の楽しい時間かもしれません。しかし、逆境を生き抜き、成人したサバイバーたちが、「あの時、近所のお姉さんが優しくしてくれた」「学校の先生が気にかけて声をかけてくれた」「保育園の先生がご飯を食べさせてくれた」ことが、何かの折に思い出されて心の支えになったと語るのを多く耳にしてきました。ほんのひと時でも、優しくされたことや楽しい時間を過ごしたことは、人の心をあたため、生きる希望の貯金がされていくのだと感じています

  遠野でも、幼児から小学6年生までの子どもたちが、たくさん参加してくれました。仰向けに寝転んで、腹式呼吸をするとお腹が上下するのを一緒に確認します。「上手上手!」「お腹が動いているね!」と声をかけて励まします。次は、好きな色の風船を選んで膨らませ、できあがった風船に「ホッとした時の顔」を描きます。目を細めてフニャッとした口の顔を描く子ども、ニコニコ顔を描く子ども、大きなあくびをしているような顔を描く子ども。子どもたちはそれぞれに思い思いの顔を風船に描きます。

  「いいお顔だね。どんな時にそのお顔になるの?」と尋ねると、子どもたちは口々に「テレビを見ている時!」「お布団でゴロンってしている時!」「お風呂に入っている時!」「遊んでいる時!」と答えます。なかなかホッとした時を思い浮かべられない子どもには、「お母さんに抱っこしてもらう時はどう?」「あったかいミルクを飲むとホッとするかな?」と、一緒にアイデアを考えます。

  次に、できあがった風船を使って、体いっぱいに遊びました。誰が一番長く続けて飛ばせるか、そしてペアで何回続くか、最後にはグループで何回続くか、競争をしました。「△△さん、一緒にしようよ!」「サッカーみたいに足で蹴り上げてもいい?」と、最初は部屋の隅で携帯ゲームをしていた男の子たちも加わります。いつの間にか、子どもたちは総勢30名ほどになっていて、色とりどりの風船がたくさん宙に舞う様は圧巻でした。子どもたちも大人たちも汗だくになって体いっぱいに遊び、最後は絵本の読みあいをしてクールダウン。私も大好きな『だるまちゃんとてんぐちゃん』『くもりのちはれ せんたくかあちゃん』の絵本です。小さな子も大きな子も、食い入るように目を輝かせて見ていたのが印象的でした。

  晩秋の遠野は16時を過ぎた頃から暗くなり始めます。「風船、たくさん飛ばせたね」「また来年も一緒に遊ぼうね」と、約束をしてお別れしました。プログラムが終わると、私たちも子どもたちから、たくさんの元気をもらっていることに気づきます。また来年も子どもたちに会えることを楽しみにしています!

プロジェクトをお手伝いして“Narrative City 遠野”(応用人間科学研究科臨床心理領域 M1・苗村勝俊)

  “此の書を外国にある人々に呈す”

  今から100年ほど前発行された『遠野物語』(柳田国男,1910年~明治43年~)の初めのページに書かれている言葉です。“明治になって、文明開化となり、先進国(ヨーロッパ・アメリカ)の文化にあこがれて勉強に行く多くの人々に、日本の国の足元には、昔からの考えで生活している人達もいるんだよ、それもしっかりと考えてください”という意味だと言われています。

  遠野市は岩手県内陸部にある都市です。東日本大震災の被災地である岩手県沿岸部には1~2時間で行けるという距離にあります。釜石市へ電車で1時間かけて出かけ、その帰りの車中で、被災地-境界(遠野)-非被災地(その他の日本)という関係性を考えていました。

  遠野であった人々(ワークショップで“河童・馬…”を演じ、踊ってくれる子供たち、歴史を語って下さった語り部のお婆さん、民俗学の視点で“語り”を語って下さった博物館勤務の方々、過去の語り部について教えて下さった『遠野物語研究所』にいらっしゃった伝説の語り部のお嬢さん…)から、この町には脈々と“語り部の血”が流れているのを感じました。

  臨床心理学の中に、ナラティブ・アプローチという考え方があります。簡単にいえば人々の“語り”に注目したアプローチです。“語りとは関連(relevance)という繋がりの糸が集まってできたものであり(Bateson,1979/2001)”、語りなおすことに主眼を置いたアプローチです。

  その地理的条件・町の人々に流れる“語り部の血”をから、東日本大震災を語りなおす『シンボルとして遠野市』を思い描くことが出来ました。

  上に示したのは『遠野市旗』です。ナラティブ・ターンを意味しているように感じます。柳田国男が『遠野物語』で述べた言葉のように、この町から非被災地へ日本の現状が語られていけば良いなと思いました。

遠野のプロジェクトに参加して (応用人間科学研究科臨床心理学領域M1・大橋美保)

  本プロジェクトに参加し、地元の方の話を聞き、遠野市に震災前にどのような場所があり、震災によってどのようにそれが失われたのかを知りました。特に、震災前には地元の方々の交流の場として活用されていた商業施設内のスペースに、震災によって被害を受けた施設が新規で参入してきたために、それまで利用していた人々の居場所がなくなってしまったという話は非常に印象的でした。震災によって、直接的な被害は免れても、さまざまな形でそれまでの人々の生活が一変してしまったということが理解できました。

  また、たとえ遠野市よりも被災地から遠く離れた京都にあっても、震災に関連するさまざまなイベントが開催されたり、それに関して何らかの報道がなされたりすることのように、3.11以降、私たち自身がいかに震災を中心に生活を送ってきたかについて改めて気付かされ、震災なしにこれからの生活を語ることはできないと実感しました。

  本プロジェクトは、遠野市の方々に対する震災の影響の一端を知ることができたとともに、私自身の震災以降の記憶を振り返ることのできた活動でした。

11月1-6日東日本・家族応援プロジェクトin 遠野(チラシ)



蔵の道ギャラリー





パネル展





劇遊び







風船で遊ぼう













支援者支援セミナー



漫画トーク










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