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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

12月1日~12月3日 福島市「東日本・家族応援プロジェクト 2017 in 福島」




「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2017」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

   2017年12月1日(金)~12日2日(土)、福島市子どもの夢を育む施設こむこむにて、12月3日(日)には浪江町役場本庁舎にて、7年目を迎える「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2017」が開催されました。特定非営利法人ビーンズふくしま、まちとしごと総合研究所の共催、福島市子どもの夢を育む施設こむこむ、浪江町商工会、ナルク京都ことの会の協力、福島県、福島市、浪江町、福島市教育委員会、福島大学うつくしまふくしま未来支援センターの後援を頂きました。みなさまのお陰でネットワークが拡がり、広報の届く範囲も拡がっているように感じます。

   12月1日(金)、こむこむに集合して、漫画展とプログラム会場の設営をすませた後、ビーンズふくしまが運営する「みんなの家」を訪問しました。「みんなの家」は、子どもからお年寄りまで集まれる地域の場として2015年3月にオープン。2017年4月には、福島市の委託を受け、子育て支援センターとなりました。2017年1月に復興交流拠点として「みんなの家セカンド」がオープンしたそうです。「みんなの家」には毎年お邪魔させてもらっていますが、いつ行っても居心地がよく、誰をも暖かく受け入れてくれる雰囲気に気持も和みます。夜は、ビーンズふくしまが運営するフリースクールと、震災後4ヶ月経たないうちに飯館村にあった珈琲店を福島にオープンさせた椏久里珈琲を訪問し、お話を聴かせて頂きました。さまざまな側面から現在の福島を垣間見ることができ、みなさんが力を合わせ一歩一歩進む中で、新しい福島が育つ息吹を感じると同時に、時間経過を経て、厳しく迫ってくる現実に直面させられる思いもしました。

   毎年好評の「クリスマスカレンダーをつくろう」は、今年も早々に満員締め切りとなり、当日は、38人の子どもと15人の保護者が参加してくれました。スタッフ対応の限界から人数を制限しており、毎年お断りしなければならない方々があることは心苦しい限りですが、「去年は落ちたので、今年は真っ先に申し込みました!」と参加してくださった親子もありました。わいわいがやがやおしゃべりしながら、アイディアあふれる楽しいクリスマスカレンダーがたくさんできあがりました。いつものように東京おもちゃ美術館から頂いたおもちゃとマットを拡げた遊びコーナーも大人気でした。

   こむこむでの漫画展は、今年、13作品という過去最大数の作品展示となりました。漫画トークをにぎわい広場のオープンスペースでやったのは初めてでしたが、遊びコーナーで子どもを遊ばせている保護者や通りかかった人々も、断片的ではあれ耳を傾けてくれていたようで、良かったのではないかと思いました。昨年に引き続き「遊びの講習会」を担当してくださったおもちゃコンサルタント小磯厚子さんとの再会も嬉しく、子どもや親子を見守る眼差しに同士を感じます。

   12月3日(日)は朝8時半に福島を出発し、国道114号線に入って、9月20日にようやく開通したばかりの浪江町帰還困難区域を走りました。津島・室原間の27キロで、これまで通行許可証を持つ町民が昼間のみ出入りできるだけ、二輪は今も通行不可ということで、出入り口にはガードマンが駐在していました。浪江と飯館・葛尾を結ぶ帰還困難区域内の399号線は今なお一般車両の通行止めが続き、道が閉ざされています。途中、ガイガーカウンターがピーピーと警戒音を鳴らし(毎時2.5マイクロシーベルトを超えると鳴るそうです)、道路沿いには除染土を詰めたフレコンバックの山と塀、遠くに住む人々にはおそらく想像できないような風景がこの地の日常を形成している理不尽を見ました。

   浪江に入り、福島第一原発から5キロほどの請戸地区で車を降りると、共同墓地があり、今年の3月に作られたばかりの新しい慰霊碑がありました。死者・行方不明者182名のお名前が刻まれていました。海の方には茫漠たる光景が拡がり、遺構となった請戸小学校の時計は津波の襲った3時38分で止まっており、ずっと時間が止まっていたことを訴えているようでした。浪江では2万人以上の住民が避難し、2017年3月31日に全域避難指示は解除されましたが、なお「帰還困難地域」が町内の大半を占めています。10月末現在で、人口18,075人6,913世帯のうち、居住人口は418人293世帯とのことです(浪江町HP)。すでに移住して人口に入っていない人々もいることでしょう。来年4月に新設の小中学校がスタートする予定ですが、入学申し込みはまだ数人だと聞きました。

   浪江町役場には、現地の方々で設営してくださった漫画パネルが並んでおり、漫画トークには10名ほどが参加してくださいました。こちらのスタッフとちょうど同じくらいの人数のバランスになったので、団先生が4つの漫画を紹介した後、設定した4回のペアトークでは、多くのペアで現地の方のお話を聞かせて頂くような形になりました。証人になるべく出向いている私たちへの気遣いなのか、あるいは外部者だから話しやすいのか、いずれにしても、私たちにとって、パーソナルなストーリーを聞かせて頂くことほど、状況を実感できることはないでしょう。わずか5分ですが、浪江のみなさんを身近に感じ、来年もまた来れたらいいなと思いました。

今年度最終の福島に (応用人間科学研究科教授・団士郎)

   今回、漫画展展示作品数が今までで最大の十三作品(パネル三十六枚・掛け軸八本)になった。その一方、展示期間は会場の関係で土日の二日間という短期になり、設営作業と撤収作業を引き受けてくれた現地スタッフならびに院生達には負担と苦労をかけた。とくに掛け軸作品は、展示壁面の状態や通路の風の流れで、なかなか困難な作業になったようだった。ご苦労様でした。しかしこの数の新旧作、ならびに掛け軸の展示は、楽しみに来てくださった方々には、読み応えのあるものになったのは間違いない。

   漫画トークは当初予定していた四階の部屋から一階のオープンスペースに。直前までクリスマスカレンダー作りをしていた場所を設定し直して講演会場にすることにした。閉ざされた部屋で限られた参加者にじっくり聞いてもらうか、途中参加も妨げず、多少のざわつきも想定内にした講演にするか。この選択を今回、後者にしてやってみた。

   10月、多賀城図書館で開催したプロジェクトでも、半オープンスペースでのトーク経験はあったが、天井の高い空間で、子ども達の賑わいのある中でのトークは、最初慣れるまで戸惑った。スピーカーシステムが簡易なものだったので、反響や音声の届き具合が把握しきれないまま、開始したので多少の不安もあった。結果的には聞き取りにくいことなどもなく、よく聞いてもらえていたようだ。

   パワーポイントの提示は大型ディスプレイ画面に,多少の技術的ハードルがありながらも、開始までに現場スタッフの手で準備がスムーズに整えられた。内容は今年定番のコンテンツで、会場を重ねるごとに聞きやすくアレンジしてきたつもりだが、そこは私が評価することではない。無事、新しい環境で、つつがなく実施できたことでよしとしよう。

  浪江町へ

   翌日は浪江町に移動して,初めての試み。現地への道すがら、未だ立ち入り制限区域も多く、道路に封鎖のバリケードも随所に目にする。

   第一回漫画展であり、第一回マンガトークなので、どんな方がどれくらい来てくださるのか、まるで見当がつかないスタートだった。漫画展は町役場のロビースペースで開催されていた。

   講演会場の二階の部屋は,ほどよい広さに、適当な数の椅子が配置され、プロジェクターの試写をしながら、これならば準備としては上場だと思えた。地元関係者半分、大学関係者半分くらいの構成で、マンガトークを開始した。

   第一回目ということで、昨日も行なった2017年度のレギュラーコンテンツとは全く別の、パネル展示と連動させた話の展開にした。できるだけ参加型の講演会にともくろみ、マンガスライドの度に四回、自分たち同士で感想を述べ合ってもらう構成にした。

   これが会場の雰囲気を固くなりすぎないようにし、参加者と大学関係者の交流の時間になった。

   パネル展開上で時々起こる、マンガを見て、なにか語りたくなった人が、たまたま居合わせた関係者に、問わず語りに自分の体験を話すのは、これまで、他の会場で経験したことのあることだった。そんな展開を意図したわけではなかったが、結果的に構成がそんな風になっていたことに気づいた。そして、皆さんがとてもよく聞いてくださったのだという印象が残った。

   今回のこの講演の形式、この時期、やっと語り出せる人も、各々の事情の中に生きる人も、参加型講演会として、良い体験になった気がしている。プロジェクトの趣旨とも大いに重なるデザインになった。次年度以降の青森から巡回するマンガトークの新形式のヒントにもなった、貴重な浪江開催だった。

東日本・家族応援プロジェクトin ふくしま (対人援助学領域M1 福田瑞穂)

   私はずっと「東北」に憧れていました。2011年の夏に部活動の大会で福島市を訪れた際に一度夢がかない、「東北」に行くことができとても嬉しかったことを覚えています。しかしその際には,本当に福島へ来られたということのみが嬉しくあこがれの地が今どういう状況にあり,その中でどのように生活しておられる方々がいらっしゃるのかなどについて,見て考えることはできていなかったと感じます。今回のプロジェクトで再び福島県を訪れることができ,さらにあこがれの地の今について学びなおす貴重な機会を得ることができたと感じています。

    私は今回の福島のプロジェクトに参加したことで今まで福島県をはじめ,東北地方太平洋沖地震とその復興における取り組みに関して,一面的に見ていたことに気づかされました。加えて自身では全く気付いていませんでしたが,福島県で生きている方の立場を想像して理解することができていなかったと痛感しています。

    NPO法人のビーンズふくしまさんからのお話を聞いていく中で,福島の食材に対する不安を持つお母さんたちと,放射性物質の測定実験を行ったというお話がありました。「このことを通して福島県の食材は安全だと言いたいわけではない。自分たちで測ることでお母さんたちが少しでも安心して福島で生活していくことができるなら」とおっしゃっているのを聞き,私は今まで検査の役割を誤解していたことに気づきました。福島県産の食材に対する厳しい検査や、その検査でほとんどの食物が基準値を下回っているということに関しては知っていました。しかし,その検査が誰のために行われているのか,行われるべきであるのかということを考えていませんでした。安全と言われても,実際にその場所で生活し毎日食事をしている方々は不安を抱えているということを想像できていませんでした。今回の訪問でお話を聞いていく中で,その不安を抱えるのは当たり前のことだと感じます。

    震災から6年が経ち,現在福島県で生活すると決めた方,福島県から避難すると決めた方,未だ迷っている方,すべての方が自分たちの置かれた状況の中で選択した結果なのだと実感しました。そしてそれぞれの方が選択を行った現在では,外部から行える支援の幅も変化してきているということも加えて感じます。今回の福島市でのクリスマスカレンダー作り・おもちゃの講習会においても,子育て支援の側面が重視されてきているというお話がありました。長期間のプロジェクトだからこそ,このような変化に気づき対応することができるということで,非常に貴重な経験をすることができたなと感じています。

    今回は浪江町にも訪問させていただき,実際にまだ震災と津波被害を受けた姿を目の当たりにしました。震災の被害をあまり感じさせない福島市と,ついこの間まで入ることもできず色濃く残したままの浪江町,県内でも復興の現状に差がどうしても出てしまっている中でどうやって復興を進めていくのか,これからもプロジェクトを通して見ていくことができればと思いました。

福島レポート(対人領域 M1 川島英輝)

   私は、福島でのプロジェクト以外にも、9月にむつ市で行われたプロジェクトにも参加し、プロジェクトは計2回目の参加であった。当初、むつ市でのプロジェクトのみの参加を検討していたが、青森でのフィールドワークで原子力発電所関連の施設を巡ったときに感じた違和感が強烈に残っていた。このことから、原子力発電所の被害がいまだに残る福島県を訪問し、自らの目で現状を見てひとりの証人となるために参加を決めることになった。

   福島でのプロジェクトは、団先生の漫画展の準備からスタートした。プロジェクトのメイン会場となった、こむこむは福島駅からのアクセスが大変近い場所にあり、多くの人々が利用できる市の多目的施設であった。こむこむに行くまでのわずかな距離の間に、村本先生が、これ見てごらん、と言われた先に放射線の測定器があった。温度計や花粉の量を測定し掲示する機械と何ら変わりのない大きさのものであったが、そこに示された指数は放射線であり、関西や関東では見ることができない、福島にしかない光景であった。町中に放射線の測定器があることは、福島の人々にとっては日常であるはずなのに、地方から来た私にとっては非日常的な光景であった。このことから、東日本大震災、原発事故、に関して私の中で風化、他人事になっているように感じた。

   現地では、1日目、みんなの家、亞久里珈琲の訪問、2日目は、子育て支援企画のクリスマスツリーづくり、漫画トーク、3日目は浪江町の訪問というものであった。

   何が印象に残っている?と聞かれれば、すべて印象に残っていると答えるだろう。もちろん、一分一秒をすべて覚えているわけではいが、福島にきて現地の人と接することで生じる相互作用により、初めて福島に住んでいる、福島、福島の市町村を故郷として持っている人が抱える思いというものを知ることができたため、いずれも印象に残っているといったことになる。

   まず、みんなの家では、入り口付近に緑のシートに覆われた汚染土が積まれていたのを見て、駅前で放射線測定器を見た時よりも、原発事故がもたらした現実を見た気がした。そこでは、もともと原発被害に遭われた避難者を対象に子育て支援を提供していたそうだが、2017年の4月から福島県の子育て支援センターにも指定されて新たな活動を行い始め、原発事故の避難者以外にも、みんなの家のある近隣の人々の利用拡大に変化したという。震災を機にスタートし、原発事故の避難者を対象にしていた施設だが、今では、震災以後に生まれた子ども、父・母親が利用するようになり、立ち上げ当初と事業が大きく変化していると言われたのを聞いて、東日本大震災や原発事故と言われる被害は目に見える形、ハードパワーで何かをするという時期は終わったのだ、と思った。

   震災・原発事故に対して、関わり方の変化が生じていることをみんなの家で感じたこと、確信させたのが、亞久里珈琲の店主さんから聞いた話と、現地で多忙な中、プログラムをコーディネートして下さった中鉢さんと会話であった。

   亞久里珈琲では、現在帰宅することができない飯館村から福島市に避難、そこで新たにお店をオープンしたというこれまでのお店の歴史と2011年3月11日以降どれだけの苦労があったのか、といった話をリアルにうかがった。まず、驚いたのは、2011年3月11日に被災し福島市に避難してきたというのにも関わらず、半年もたたない7月に進展をオープンしたという何ともパワフルな話を聞いた。しかし、そのパワフルな話の裏には、故郷である飯館村をどんな思いで離れたのか、今でも戻りたいと思う切実な気持ち、など今福島市でやりたくてやっているのではない、というような店主の葛藤を聞き、震災から6年半たった今でも、震災・原発事故によって壊されたものがまだ修復していない、当事者しか語ることができない語りも存在していた。このような語りは、決して地方に住んでいる人、福島県民であっても県内避難者でない人には、語ることができない語りであると思う。

   私は、亞久里珈琲でオーナー夫婦が語っていただいた語りを通じて、今までマスメディアの福島に関する報道などで何となく理解していた気になっていた私の認識を大きく変えたことに加えて、2011年3月11日から6年半たってようやく初めて、被災者・原発事故での故郷を失った人に対する理解ができるようになったと感じている。さらに、浪江町を訪問する中で、見えた帰宅困難地域のバリケード、津波被害の復興に取り掛かり始めた浪江町など、今現在も残る原発事故の現実を見ることで、2011年よりも、今の方が震災理解が自分の中で深まり、当事者の方にも少しでも近づくことができたのではないか、と思う。

   今回の福島県訪問は、東日本大震災から6年半経過したいまさらながら、ようやく震災について知ることができた、6年半前よりもよっぽど当事者に近づくことができた、大変貴重な経験だった。プログラムを用意して下さった、先生方、現地でサポートして下さった中鉢さんをはじめとするBeansのスタッフの皆さま、亞久里のオーナー夫妻、浪江町を案内して下さった岡部さん熊田さん、すべての方に感謝を表して、終わらせて頂きます。

彼女たちが住んでいた福島 (対人援助学領域M2 山村 和恵)

   震災から3か月後、福島から自主避難してきた2人の生徒が、当時私が勤務していた学校に転校してきた。彼女たちは福島に訪れたことがない私に、とても丁寧に沢山の事を教えてくれた。福島の壮大な景色、学校生活、様々な人との関わり。吹奏部だった彼女たちは、その大自然の中で放課後練習することが多かったらしい。彼女たちが海に向かって奏でる音。波の音と夕日と彼女が風景に溶け込んでいる。まだ訪れていないその土地なのに、何故か鮮明に思い描くことができた。しかし、震災から彼女たちの現実は一変した。離れ離れになった家族、友達。放射能やがんの心配。時々再開した福島の友達からの言葉に傷つき、自分の置かれている状況を嘆いた。そして、あんなに大切にしていた楽器を触る事さえできなくなった。

   それからほぼ毎日、彼女たちの苦悩を聞きながら、同時に自分の無力さを実感した。彼女達とは2年の月日を一緒に過ごした。私は震災の事を彼女から聞いた出来事と新聞や書面でしか知らない。彼女たちの過ごした日々から数年が経過した今でも、あの時の自分の関わり方を自問する。あの時もっと何ができたのだろうか。そして、彼女達が過ごした福島に行ってみたいと思っていた。

   1日目の夜、ビーンズふくしまのフリースクールに参加することになった。子どもたちが用意してくれた夕食をたらふく食べた後、「赤い羽根共同募金 作戦会議」に参加した。今のフリースクールに少しでも還元できるよう、どのように戦略的に募金活動をするかを話し合うものである。そこでは、大人が今の施設の現状や職員のお金のことなど困窮する経済状況を正直に子どもたちに伝えていた。自分たちの大切な居場所の状況を把握して、その限られた範囲の中、みんなで何ができるかを考えようということで「今度は僕らの番!」というタイトルが掲げられていた。ある中学生は「僕はここに来れるのはラッキーだから、ここに来ることができない人のために、まずこの活動を広めることが大事」と話していた。

   最終日は浪江の町を訪れた。漫画展の前に請戸小学校跡地や震災の時に子どもたちが目指した大平山に立ち寄って頂いた。そこからは福島第1原子力発電所が見える。私があの時出会った彼女たちもどこかで見ていた景色だ。浪江の漫画展は1日目の福島の漫画展とは雰囲気が違い、とても緩やかな時が流れていた。福島では子どもたちや母親が沢山聞こえる中、浪江では、静かな時を過ごす。静かだからと言って寂しいとは限らない。日曜日のひっそりとした役所であったが、講演会はとても暖かい気持ちで終了した。どこか家族とはそのようなものではないかと感じた。

   私の震災プロジェクトの参加目的は大きく二つあった。1つ目は彼女たちの見た光景を見に行くこと、そしてあの時もっと何が必要だったか答えを見つけに行くことだった。1つは達成できた。2つ目はまだまだ正解に辿り着かないかもしれない。しかし参加してより彼女たちにもっと側でただ話を聞いて寄り添いたかったなと思う。ビーンズふくしまのあらゆる施設が民家であるように、漫画展のテーマが家族であるように、そっと暖かいものをさりげなく届けこと・・そしてその事の難しさに引き続き挑戦していきたい。

東日本災害家族応援プロジェクト福島に参加して(対人領域M1小山田和枝)

   福島に東日本災害プロジェクトで初めて訪れた。福島に関する知識は全くなく、ただ、メディアを通しての情報だけである。東日本震災の情報は津波の被害情報が多く、原子力の被害情報は日ごとに少なくなってきている。

   まず1日目。こむこむ館にて団先生の「東日本震災家族応援プロジェクト漫画展」の設営準備。こむこむ館のスタッフの方々やNPOビーンズふくしまの中鉢さんのご協力を得ながら、漫画のパネル展示、テーブル、椅子の準備、院生、修了生で準備を担当した。準備完了後、中鉢さんの案内のもと、「みんなの家@ふくしま」を訪問。福島市の委託を受け「子育て拠点センター」を開設し、乳幼児から若者まで気軽に集える居場所を提供されている。京都では児童館が子育て拠点センターになっているところが多いのではないだろうか。「民家」で活動されているが、「民家」という畳のある空間で赤ちゃんがゴロンとできる場所があることは、地域のママ、福島に自主避難されている子育て中のママにとっても心強い。ママ、子ども、若者が自然にかかわることができる居場所になっている。

   復興支援拠点センター「みんなの家セカンド」では、自主避難から帰ってくる人と近所の人をつなげる役目を担っており、「ちくちく部」「写真部」「エコクラフト部」など大人の部活という活動をし、一緒に考える場を提供されていた。こちらも「民家」で活動されている。ここでは、20代から80代まで来所されており、部員と部員がつながりみんなの文化祭を開催し、自信につなげ、心のケアにつなげると職員さんが話されていた。「福島に残っているパパ」達も月1回の飲み会やバーべキューをし、子どもや妻と離れて暮らす辛い気持ちを共有しているという話もでていた。

   その後のフィールドワークは二手に分かれ、「フリースクール福島」は私を含め4人で見学。サポートステーションを利用している若者が、ビーンズ畑で作った野菜を材料に準備された鍋料理を、たわいない話をしながら、みんなで頂いた。「オープンフリースクール」「赤い羽根募金」と一人一人が主体的に役割をもって多様な学びを展開されており、「学校」に行くことの意味を考えさせられた。

   2日目はクリスマスカレンダーの作成イベント。開館前から高校生が自習室で勉強をするために並んでおり驚愕した。なんと勉強熱心なんだろう。クリスマスカレンダー作成では、子どもたちの枠にとらわれない自由な発想や悪戦苦闘しながら集中して作品を仕上げている様子をみながら、「楽しみにしてくれていたんだな」といった気持ちがこちらにも伝わり、東日本大震災家族応援プロジェクトが持つ「継続は力なり」を体感。団先生の講演会後に一人のおばあちゃんと話をする機会があったが、「楽しみにしていた」。「勉強したいので何か持って帰るものはないか」と尋ねられ、団先生が書かれた本をお渡しすると、「ありがとう、娘が島に嫁に行っており送ってあげる」と感謝される。

   3日目は、福島から車で浪江町に入った。案内してくださった方は、自身も家を津波で失う辛い経験を話された。あたり一面野原になり、側道にながれていた小川で自分の家の場所がわかったらしい。「復興計画ができているが、「夜、街頭しか灯りがない」とも話され聞いていて私も心苦しかった。浪江町役場で団先生の講演会があり、隣の人と話をする機会があった。「私は田舎が無くなるのは嫌だ。」と話したが、その人は「家は自営業なので、家族で浪江町に住んでいる」と話してくれた。

   東日本災害家族応援プロジェクトに参加しなかったら、福島に行く機会はなかったのではないかと思う。「避難できる場所があるにもかかわらず福島に残っている人」「自主避難している人」「本当は避難したいが福島に残っている人」いろいろな思いや人生がある。その中で、震災・原発事故に対して夫婦間、家族間、友人間に温度差が生まれ、その関係が悪化してきている。社会的には目に見える復興が優先される中、「個人的」な問題はますます訴えにくくなっているが、福島の方たちは力強く自己の人生を構築されている様子が感じられました。「自分に何ができるか」今後も考えながら「東日本災害家族プロジェクト」に参加できればと考えています。

   最後に、院生の方、修了生のみなさま、先生方のお力で無事終了できましたことを感謝申し上げます。ありがとうございました。

震災復興支援プロジェクトinふくしま (対人援助学領域2012年度卒  森 希理恵(短期大学教員))

   今年も金曜の仕事を終え、新幹線に飛び乗り福島へ向かう。

   土曜日の「こむこむ」でのクリスマスカレンダー作りでは、昨年から楽しみにしていたという小学生の男女のきょうだいとそのお母さん、そして幼稚園らしき2人のきょうだいと小さな弟の3人の子ども連れのお母さんと出会った。昨年から楽しみに1年待っていてくれたことを聞くと、こうして毎年同じ時期に同じ場所で同じプログラムを続けていることが、じわっと根付いてくれていると思い、なんだか嬉しかった。

   クリスマスカレンダー作りでは、毎年のことながら子どもたちの発想には驚かされる。用意されていた材料をフルに使い、立体的に作っていた年長くらいの男の子、デザインにこだわり、悩みながら作っていた小学生の男の子。参加する前から、デザインを考えてきてくれていた女の子。お母さんも、子どもの意外な面を発見できたとおっしゃっていた。カレンダー作りという作業を通して、普段見られない我が子の一面を発見できるのも、親にとっては新鮮で、嬉しい発見となったのではないだろうか。今年私がついたテーブルの子どもたちがたまたまそうだっただけかもしれないが、昨年はお母さんやお父さんに意見を求めながらカレンダーを作っていた子どもが多かったのに比べ、今年の子どもたちは自分の発想でどんどん作業を進めていたように感じた。

   今年は、参加人数も制限され、時間も昨年より長く確保されていたため、それぞれの作ったものを見せ合う時間もゆっくりと取れ、落ち着いたプログラムになったように思う。

   そして日曜日は、浪江でのプログラムだった。金曜と月曜に仕事があるため、なかなかフィールドワークに参加することができなかったが、今年は浪江町でのプログラムの参加にわくわくしながら、修了生の参加者でレンタカーに乗りこみ、朝9時前に福島駅前を出発。福島の街を抜け山道へと入っていく。刈り取られた稲の後が綺麗に並んだ畑や会津の山並みの美しさを堪能しながら、ひたすら山道を進んでいくと「帰還困難区域」の看板が見えてきた。看板を抜けて区域内を進んでいくと景色が変わった。畑は枯れ草が伸び放題になって、耕運機には枯れ草が絡まっている。主を失った家々がひっそりと建っている。そこ一帯だけ時間がまだ止まっているような、静止画像のような印象を受けた。その静止画像の中をカラスが飛んでいく。そして区域を抜けると、また世界が動き出す。なんだか不思議な感じがした。

   浪江では、大平山公園と津波に襲われた請戸小学校の跡地を案内してもらった。大平山公園から見降ろす一帯は、今では整備され、一面平地になっていた。その一帯で多くの家族の生活があったことが想像できないほど、何も残っていなかった。その平地の一角には、津波が襲った後そのままの状態で残されている請戸小学校の建物と、汚染土が積まれた白い塀に囲まれた黒い山があった。あちこちで見かけた白い壁に囲まれた黒い山は、一体どうするのだろう、いつまでこの黒い山は置かれているのだろう…と割り切れない様々な思いが頭を駆け巡った。

   この福島プロジェクトに参加する前に、「ルポ母子避難」を読んだ。未来のある子どものことを思い避難を決意した母親たちの避難後の生活が書かれている。望んだわけではないのに家族がバラバラになって生活せざるを得ない状況、元の生活に戻れる保証もない不安、経済的な負担…。母親たちの不安や苦しみを思い、胸が痛んだ。

   そして福島から帰りもう一度読み返してみた。読み終わって以前と違った気持ちが湧いた。浪江町へ実際に足を運んだことで見えるものが増えたのかもしれない。情報がなかなか世の中に出なくなってきたからこそ、現地へ足を運ぶことは大事であると感じた今年のプロジェクトだった。また現地へ足を運ぶことができない人に、現地で見て感じたことを伝えるのも現地へ行った者の使命であると再確認したプロジェクトであった。

参加を重ねて、福島の現実と支援から学ぶこと(修了生 NPO法人家族・子育てを応援する会代表 新谷眞貴子)

   私は、最近の報道を見ていて、復興支援について取り上げられることが減ったと感じていました。現地に行く前に『ルポ母子避難―消されてゆく原発事故被害者』(吉田千亜、2016)を読んで、原発から自主避難をした母子の、精神的にも経済的にも大変な状況を知りました。このことも含めて、福島に行って、現地の現実や支援は今どうなっているのか、自分で見たり感じたりしたいと考え、参加しました。

   私にとっては、4回目の福島の震災プロジェクト。今年は、プログラムに加えて、フィールドワークで多くのところを訪ねました。1日目は、福島市内の「特定非営利活動法人ビーンズふくしま」が運営されている事業である、「子育て支援センターみんなの家@ふくしま」、「復興交流拠点みんなの家セカンド」、「フリースクールビーンズふくしま」をビーンズふくしまの中鉢さんの案内で、3日目には、浪江町に関わりの深い熊田さん・岡部さんの案内で、浪江町内の被災地跡に行かせていただきました。

   1日目、12月1日、「みんなの家@ふくしま」を訪問させていただくのは3回目。今年も変わらずスタッフの皆さんが創意工夫した手作りの飾り付けがしてあり、温かい雰囲気のみんなの家でした。事業長の富田さんのお話はとても印象的で、放射能によって翻弄されているご家族に寄り添い、食料の測定を自主的にされていました。風評被害に負けず福島で作物を育てている方々の努力が表れていることも知り、この測定の結果を知っているということが、少しでも安心して暮らしていける手立てや心の拠り所につながることも分かりました。

   避難してきた・避難先から戻って来た人々と福島の住民との繋がりや交流を目的とした「みんなの家セカンド」もオープンして、もうすぐ一年。二つの「みんなの家」はどちらも、多世代が多面的に利用することが出来、何重にも支援が出来るように、さまざまなプログラムが用意され、ほっとする空間を作っていました。母子避難をされている家族のパパたちが集まれる場もあり、地域の高齢者の方々が集う場にもなっていました。

   大変な現実はどうしようもなく、でも、その中で自分たちが出来ることを精一杯やっておられる支援者の姿はなんと粘り強いのだろうと感じました。心に悩みや不安を抱えた人たちにとって、どんなことが起こっても寄り添ってくれる人がいるということは、どれほど心強いことだろうと改めて考えました。

   「フリースクールビーンズふくしま」は、小学生から20歳までの子どもたちが活動しています。ビーンズふくしまの中鉢さんは、18年間フリースクールに関わってこられました。その足跡をお話になる時、子どもたちを愛おしく思っておられことが伝わって来ます。同じように長年子どもたちと関わってこられた若月さんも、「いい子たちでしょう」と満面の笑顔で話されていました。

   辺りが暗くなってお邪魔したフリースクールでは、一軒家の我が家にいるような居間で、中・高生くらいの子どもたち数名とスタッフが迎えてくださいました。私たち震災プロジェクトのスタッフも、子どもたちの間に入らせていただいて、おしゃべりしながらお鍋をいただいきました。とても和やかに交流出来、子どもたちは、初めて訪問する私たち4人に、とても優しく気遣いをしてくれていました。後片付けのお手伝いをして、子どもたちとスタッフの話し合いにも参加させていただきました。

   話し合いの議題は、赤い羽根共同募金のエントリー団体として、子どもの居場所づくりの活動を支えるために、誰にどのように募金を呼び掛けていくか、というものでした。佐々木事業長さんの一言一言が、子どもたちを尊重する雰囲気を作っていました。大人と同じように真剣に子どもたちは考え、意見を出し、話し合いを深めていました。私は公立中学校の現場に30年いましたが、現実的な課題に向かって、大人と対等に子どもたちが意見を言え、反映させられる場はあまりありませんでした。私は、あの場にいる大人の、子どもたちを信頼して意見を尊重する態度に感銘を受けました。

   2日目、福島市内の「子どもの夢を育む施設こむこむ」で行われた震災プロジェクトのプログラムは、家族漫画展の掛け軸の作品があったり、漫画トークがこむこむ一階のオープンスペースの賑わい広場になったりと変化がありました。おもちゃコンサルタントの小磯さんの遊びの講習会は、今年もおもちゃに魂が吹き込まれたようでした。団先生の漫画トークの横に子どもの遊びコーナーがあり、沢山の親子が、さまざまなおもちゃで楽しんでいました。そして、子ども連れのお父さんやお母さんもトークに耳を傾けておられたという話を後で聞きました。

   クリスマスカレンダーは、昨年に比べ受け入れの人数が減って、準備段階で十分な指示があったので、どのテーブルにもスタッフが声を掛けていて、遅く参加してきた親子の対応もスムーズだったと思います。帰りがけに楽しそうにカレンダーを見せている子どもたちも、ご家族も、とても嬉しそうでした。ビーンズふくしまのスタッフの方々も、随分お手伝いしてくださいました。

   そして、最終日。浪江町で、フィールドワークと漫画展・漫画トークに参加しました。浪江町では、平成29年3月31日、町内全域に出されていた避難指示は、「帰還困難区域」を除く区域で解除され、現在住民の1%くらいの300人くらいの方が帰還されているそうです。福島駅から浪江町まで約70キロ、浪江町の市街地に入るまでの移動中に、警備員が立って入れないところもありました。

   浪江町の津波の跡地に立つと、その伸びた草はらの広さに驚きました。震災が起こった日の翌日3月12日、救助活動をしていた地元の消防の人たちに、原発の事故により撤退指示が出て、救助活動をすることが出来なくなりました。救助出来たはずの人を救助出来なかった消防の人たちの無念さを、熊田さんは話されました。浪江町のフィールドワークの案内をしてくださった熊田さんは、家を津波で流され、津波の跡の草むらになった自宅跡に立っていろいろな話を聞かせてくださいました。他の被災地とは違う原発による現実がそこにありました。6年半経って他の被災地も、心の復興はまだまだですが、随分様相が変わっています。やはりここで草むらを目の当たりにすると、福島の現実を感じました。

   浪江町では、「みんなでともに乗り越えよう 私たちの暮らしの再生に向けて~未来につなぐ復興への想い~」を復興の理念に掲げ、『浪江町復興計画(第二次)』(2017年3月、浪江町)を作っておられます。岡部さんは、熱い思いでその数冊の冊子を渡してくださいました。

   昼食は、浪江町役場前の仮設商業施設でカレーを食べました。いろいろな種類のカレーがあって、とても美味しかったです。お昼ご飯を食べながら熊田さんと話しました。熊田さんは、歴史のあるお家で3世代が同居していましたが、現在、世代は分かれて住んでいます。いろいろなお話を聞かせていただいた後に、「今どんなことを望んでおられますか」、と尋ねたところ、「原発の収束」とぽつんと話されました。浪江が、福島が、少しでも暮らしやすい街になることを願っておられると思いました。

   浪江町の役場周辺には、仮設商業施設への訪問者が沢山いましたが、住宅地では人の気配はあまり感じませんでした。

   浪江町の漫画展と漫画トーク会場は役場の中にあり、岡部さんたちが準備してくださっていました。団先生は、福島市内の会場だったこむこむの漫画トークとは違う題材で話されました。2か所で漫画トークを聞き、被災地にもある日常、家族の問題、その解決、それぞれの課題の扱い方を鍛えること、正解を持ちえない解決方法、誰しもがもつ家族の課題について、現地の方々と一緒に考えました。

   みんなの家のスタッフの方々が、「前に進むしかない、前に進もうと切り替えて生活しています」とおっしゃったことが心に残ります。福島の震災プロジェクトに参加を重ねるようになり、福島では、さらに複雑なそれぞれのご家族の事情が出てきていると思います。昨年と同じように、福島に来て先が見えない重い感じがするのは、やはり放射能がこの後どのように人に影響を及ぼすのかも、その処理の問題についても、まだ先がわからないからでしょうか?でも、フリースクールやクリスマスカレンダー作りで出会った子どもたちの笑顔や支援者の皆さんの姿を思い出します。未来に向かって福島の復興を願うばかりです。

   私は今、奈良県広陵町で法人を立ち上げ、スタッフと乳幼児の親子広場を開いています。「地域で子どもたちが健やかに育ってほしい」、「子育てをされている親御さんの孤立をなくしたい」という願いの下、地域の多くの方々と協働して、毎月乳幼児の親子が、勉強やおしゃべりが出来る会を開催しています。また、団先生の協力で「団士郎家族漫画展・講演会」を毎年広陵町で開催しています。

   福島は、津波や地震の被災地であり、放射能汚染とも向き合っていかなければなりません。そこで子育てをされている方々は、個々にさまざまな不安や心配を抱えておられると思います。だからこそ、今回の福島の支援を見て、現実に向き合う支援のあり方を学びました。

   福島のプロジェクトに参加させていただいて4回目。村本先生が浪江町の漫画トークの前に挨拶された言葉について、今、考えています。「何もできませんが、毎年東北4県を回って今年で7年目。浪江でプログラムを引き受けてくださってお礼申し上げます」という言葉でした。準備に時間を掛け、大変なエネルギーを注いでおられるこの震災プロジェクトのチームを代表して言われた、この言葉の意味を私は福島から帰ってもう一度考えました。対人援助をする者のミッションとして、私自身の対人援助の姿勢を問われているような気がしました。私は、被災地福島の現実も支援も一部しか見えていません。しかし、現地のことも、支援者としてのあり方も、年々気付くことが多くなったような気がします。何もできませんが、これからも福島と関わらせていただきたいと思っています。そして、福島に関わって出来ること、自分の活動の中で出来ることは何かを考え、行動していきたいと思っています。

福島でのプロジェクト 2度目の参加から(修了生 高井小織 (大学教員))

   このプロジェクトでは、10年間毎年ほぼ決まった時期に東北の数カ所の町を訪れている。訪れる場所や相手は、図書館や対人援助の活動をしているNPOなど、毎年固定した相手先があり、かつそこから発展するものがある。復興支援というネーミングではあるが、私は自分が参加することが、誰かの支援になるとは思ってはいない。しかし、私自身が震災後のこの社会で仕事をすることの意義を確認することができ、その地で続いている地道でそして柔らかい実践を経験し、話を聞かせていただくことは、村本先生の言葉を借りると、Witnessであることの意味を考えることができる。

   以下、私が聴覚障がいのある若者やその周りの人へ出している「通信ことのは39号」からの抜粋である。

   2015年の秋に、私は青森県むつと福島へのプロジェクトに参加しました。青森県にはそれまで研究会などで弘前大学を訪れたり、国語の教師としての興味から太宰治の生家斜陽館や三内丸山遺跡に行ったりしたことはありましたが、そういう観点とは違う社会の見方のようなものを学んだと思います。また、合唱王国として有名な福島県とは、震災後合唱を通じて繋がろうとする取り組みに毎年参加し、郡山市(ここの中学校や高校は毎年全国コンクールで金賞をとっている)で歌ったり、毎年3月に京都で開かれるHarmony for Japanという催しに招く東北の中学高校生の歌声を聞いたりしてきました。(そのきっかけが南相馬市立小高中学校の生徒と音楽教師小田美樹先生が作った合唱曲『群青』)

   福島県について語ろうとすると、今回もそうですがとても言葉の選び方や表現のしかたに躊躇し、立ち止まり、時間がかかります。例えば「沖縄」や「広島」について語るときとは異なる意識をもってしまいます。今月、沖縄の小学校校庭に米軍のヘリコプターの窓枠が落下するという事件が起きましたが、それは遡って沖縄の歴史、県民の4人に一人が亡くなった沖縄戦、そしてその後の米軍基地との関係性や核の持ち込みの問題などと結びつきます。そして、多くの場合私は対話する相手と「沖縄」に対して抱くある種の共通した思いを前提に話すことができます。しかし、福島や原発事故後のことについては、率直に疑問や不安を言葉にする機会がなかなかないのではないか。タブーにするべきではないのに、マスメディアなどの報道状況も含めて話題にしにくいという状況があると思っています。

   今回の訪問(2017/12/1~3)では、一日目に福島市内のNPO「ビーンズふくしま」の活動の中の二つを見学し、二日目は単独で郡山市に移動し、「きこえ子育てサークルもいもい」の学習会に参加、最終日の三日目は福島駅からレンタカーで80㎞運転して浪江町を訪れました。

   「ビーンズふくしま」は、震災前から福島で対人援助の活動をしているNPOで、その活動のひとつ「みんなの家」(市内住宅街にある一軒家)は子どもから地域のお年寄りまで多世代が集えるコミュニティハウスです。2017年4月からは「子育て支援センタ-」としても運営されています。

   2年前は氷雨の中、こたつに足をつっこんでスタッフの話を聞きました。震災後、一人ひとりのおかれている状況が様々で、なかなか正直な気持ちを話せる場所がない中、人を繋ぎたいという思いを強く受け取りました。避難区域から福島市に避難して仮設住宅に住んでいる人。避難区域に指定されてはいないけれど、子どもが小さいなどの理由で親戚等を頼って自主避難している人。他県等に自主避難をしていたけれど、子どもの進学等の理由で福島市に戻って来た人。介護などの理由で自主避難に踏み切れなかった人。家族間でも単身で残る等で状況が変わります。

   二度目の訪問で、スタッフと再会できた喜びは格別でした。着実にこの地で生活し人を繋いでいる活動や肩肘張らない姿勢がいいなあ、私もそうありたいなあと思いました。震災についての大きなイデオロギーを掲げるのではないけれど、「正確な情報」とは何かということを自分たちで探ろうとする話がとても印象に残っています。農業国福島の自慢の野菜や果物。スタッフが「自分たちで店に出回っている根菜類を産地県別に集め、同じ方法で料理をして含まれる放射線を測定して比較した。福島県産が最も低い数値がでた。現在の市場に出す検査体制が厳しいことがわかったことについては、一安心した」政府やメディアからではなく、自分たちの身近な問題を自分たちで知りたいという実践を積み重ねています。

   生活している地域で活動を続け、時の流れの中で、制度を利用したり新たなニーズを取り入れたりしている柔軟さについてもとても感銘を受けた時間でした。子育て支援センターとしても運営する「みんなの家」については、より地域に密着した形をとり、今年4月からはそこから歩いて数分のところに「みんなの家セカンド」を新しく作り、復興交流拠点として仮設や公営住宅に暮らす方との交流やイベントを計画するなど、着実な広がりを感じました。

   夕方からは、このNPOが震災前から続けている活動で、不登校の若者のフリースクールにお邪魔しました。これも興味深いことに一軒家を借りています。中学から高校の年頃の若者が10人程。月に一度自分たちで夕食を作り、今日は食後に「年明けの募金活動についての話し合い」をする、という日でした。訪問する私達は初対面のそれもオバチャンたち。逆の立場で考えると見学されるなんてイヤなことだろうなあと思い、迷惑にならないように・・・と部屋に入ったのですが、意外にも彼らは自然体で受け入れてくれました。大きな鍋料理を私達にも振る舞いながら「やっぱ、鱈入れたのがいいわ」「あっちのキムチ鍋はソーセージが〇」と、2杯3杯と重ねる若者の食欲です。この家が、彼らのホームグランドであり、そこに来た客だからこちらが迎えなければしゃあない、というゆったりした雰囲気がありました。食後の話し合いは、若者の他に保護者も含めた支援者が数人入ってきたのですが、「募金集めの作戦」について関西人でもなかなかないだろうと思えるぐらい楽しい提案に盛り上がりました。

   不登校。中学に勤務していた私は、何かしら気持ちがざわつく言葉です。学校に来てほしいと思っていたから。それでも、今の彼らの時間を共有し、その時間を意味のあるものにすることを積み重ねることが、唯一次に繋がる道となるのでしょう。

   震災の有無に関わらず地域で繋げようとしてきた活動と、予期しなかった震災から立ち直る力(レジリエンスという言葉もあります)。立ち直るというよりは、もう一度受け止めて自分のものにする・・・ということかな。聴覚障がいについて語るときも、こうした幅の広い視点を大事にできればと思います。

   三日目の朝は晴天。福島県は北海道・岩手県に続く全国で3番目の面積があり、太平洋側から縦に三つ「浜通・中通・会津」と分けられ、それぞれの歴史や風土も異なっています。今回は中通から山を越えて太平洋までの道。どんな山道になるのかと不安でしたが、道は広く快適な運転でした。

   2017年4月にこれまであった「避難指示解除準備地域」がほとんどなくなりました。このことは、放射能などについて、安全が保障されたということなのでしょうか。それとも政府が補償すべき範囲は、非常に限られるものになったということなのでしょうか。

   私達は赤色の帰還困難地域の道路を抜けて浪江町を目指しました。今までいろんな山道や田舎道を運転したことがありますが、この山道の風景はなんとも言えない違和感がありました。手つかずの自然ではないのです。震災前は山地ではあるけれど、人の手が入った木々や畑、果樹園などがあったところが、放置されたたまま7年近くが過ぎています。運転した国道114号線はこの9月末に通行が可能になったところですが、この国道から左右に分かれる道には、金網のゲートで進入禁止とされています。空は青く木々の緑と風、何の異臭もしない穏やかな道と風景ですが、ここは人が住めない空間なのだと突きつけられているようでハンドルを握る手に力が入りました。別の車に乗っているメンバーは簡易の放射線量測定器をもっていたのですが、後から「窓を開けると数値が高くなった」と言っていました。

   徐々に山を下っていき、2015年全線再開した常磐自動車道をくぐると、いよいよ浪江の町に入ります。浪江町は震災前の人口が約3万人。現在の登録2万人弱の人口のうち、ここで生活している方はまだ数百人です。コンビニや復興作業の方対象の簡易宿泊所や食堂、ガソリンスタンドなどの看板だけが目立ちます。震災少し前に建てられたガラス窓の美しい4階建ての町役場とその周囲のマルシェ(地元物産の商店街)が町に活気をいれているようです。

   私達はまず、海岸から2キロほどの高台にある浪江町立大平山霊園に行きました。この慰霊碑から太平洋を臨む光景は忘れられないものになりました。12月です。一面が枯れ草色。震災前はどんな町並みだったのでしょうか。人がいなくなったそのまま7年近くが過ぎた土地は、全てが枯れ草に覆われています。海沿いに一つだけ大きな建物が残されています。請戸小学校。当時100人程の小学生と教職員が校内にいて、津波予報に2キロの道を急いでこの高台まで避難し、全員の命が助かったという話を聞きました。裸足の子に靴を貸す上級生や、小さな子を背負って逃げた先生。この距離をどんな思いでここまで登ってきたのか、またその後自分たちの学校や家が波にのまれていく光景を見ていたのでしょうか。想像すると胸が熱くなりました。

   それでも・・・。津波だけの被害なら、ワールドカップが行われる岩手県の鵜住居(津波で壊れた小学校跡地にスタジアムが建設されている)や陸前高田など、かさ上げをし、新しい建物や町並みを再建しようという動きが実現しつつあります。しかし、この町に避難解除ですぐに元の人口が戻るという予測はつきません。

   福島の原発事故は決して過去のものでもなく復興の見通しがあるものでもない。若者が、こうした故意に見えにくくされている社会をしっかり見る力を培ってほしい。そのために身近な大人の私達も対話を重ねなければと思いました。

   最後に、単独で行った二日目の活動、郡山市にある「きこえ子育てサークルもいもい」について、少しだけ紹介させてください。

   「きこえない、きこえにくいお子さんを育てていらっしゃる保護者さんたちが同じような子育てをされているかたと情報交換したり気楽におしゃべりしたりする場をつくりたいと思い、サークルを立ち上げました。スタッフ3名とも、聴覚障害があり、福島県内で子育てをしている最中でもあります。毎月1回行うイベントの案内や、「きこえ」に関する催し物、メディア情報などを発信していきます。(「もいもい」のHPより許可を得て抜粋 写真も)

   「ままどおる」「柏屋の薄皮まんじゅう」「クリームボックス」「ゆべし」に「円盤餃子(福島市)」と「いかにんじん」美味しいお菓子と食べ物だけでも両手に余る町、郡山です。

   聴覚障がいのある若い友人で結婚を機にこの町に移り住んだ中村祥子さんらが、今年、ご自分の子育てとともに地域での繋がりを作ろうと立ち上げたサークルです。「もいもい」は赤ちゃんに大人気の絵本の題名からとりました。https://ameblo.jp/moimoi-fukushima/

   雲一つない青空の当日、生後4ヶ月の赤ちゃんから小学生まで子ども十数人を含めて本当に多くの方が集いました。広い和室を、子どもの遊ぶところと大人が話を聞くスペースに上手にわけ、一方的に話を聞くのではなく、お互いのちょっとしたアイスブレーキングやグループごとに円になってフリートークをする等、限られた時間の中で素敵な工夫をされています。保護者の方だけでなく、子育ての先輩や地域の聴覚支援学校や難聴通級教室の先生も参加、また彼女の大学時代からの繋がりでパソコン要約筆記もつきました。若いお父さんが「妻に引っ張られて参加しました」と笑っています。どんどん共通の知人が出てくるなど、人の縁が広がっていく不思議さと楽しさを十分に味わわせていただきました。

   それぞれの地域で、聴覚障がいのある子ども達の療育・教育の場は様々です。人工内耳も補聴器も、そして大切な手話言語についても、自分たちの子どものことを一生懸命考えている保護者が、自分たちで直接顔を合わせて語り合っていく、その姿勢がすてきでした。私はちょっとだけ思春期の話題を提供しましたが、まだまだ先のことのように思われたかもしれません。かわいい桜貝のような色の柔らかい耳に小さな補聴器をつけた赤ちゃん、ベビーサインを使う赤ちゃんに見つめられると、舞い上がってしまいました。是非、また来年!繋げていただいた糸を少しでも太く長く紡ぐことができればと願っています。



会場の子どもの夢をはぐくむ施設こむこむ



家族漫画展



クリスマスカレンダーをつくろう



遊びのコーナー・講習会



団士郎 漫画トーク



ビーンズふくしまが運営する「みんなの家」



椏久里珈琲



浪江町役場



浪江町での漫画展と漫画トーク



スタッフ交流会



福島市から浪江町へ



ガイガーカウンター(線量計)



国道114号線(帰還困難区域)




浪江町フィールドワーク



遺構となった請戸小学校



浪江町の空





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