授業イメージ写真

応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

2017 年11 月3日(金)~11 月7 日(火) 宮古市「家族応援プロジェクト2017 in 宮古」




「家族応援プロジェクト2017 in 宮古」を開催しました 

応用人間科学研究科教授 村本邦子

   2017年11月3日(金)~11月7日(火)、宮古市魚菜市場にて、社会福祉法人若竹会と宮古市社会福祉協議会の共催を得て、家族漫画展、11月4日(土)に「団士郎漫画トーク」「ふるさとの歌や物語を楽しもう」「アートで遊ぼう」「支援者支援セミナー」のプログラムを実施しました。

   「魚菜市場での漫画展はいったいどんな風だろう?」と思いながら現地に向かいましたが、たくさんの人が集まる活気あふれる朝、パネルが朝採り野菜販売と一体化して何だか妙に馴染んでいました。偶然通りすがった方々が見てくれているのか、冊子の減りも早いとのこと、必死に写メを撮っているおじいさんもありました。

   「アートで遊ぼう」では、クリスマスツリーとベル作り、毎年コツコツ続けている我が街塗り絵、「ふるさとの歌や物語を楽しもう」では、NPO法人輝きの和による歌や紙芝居、絵本を楽しみました。尾林星さん作詞作曲の宮古のお菓子の歌「ひゅうず」と「すっとぎ」を聴きながら、イメージを膨らませていると、市場のおばさんが「これだよ~」と持ってきてくれました。朝には宮古市長が応援に駆けつけてくださったり、市場を見て回っていると、「立命さんが・・」と(たぶん好意的な)噂話が聴こえてきたりして、街の人々に見守られながらのプロジェクトになってきたことを嬉しく思いました。

   帰路に着く前、女川駅前の小さなお店に立ち寄ると、真ん中に座ってジュースを飲んでいた男性が、楽しそうに自分のことを語ってくれました。6年くらい前、遠方の他県からやて来て、ずっとここで復興の工事をしているのだそうです。「引き潮の加減で、夜の11時頃まで作業することもあって大変だけど、温泉もあるし、みんな良くしてくれるから、家族みたいで、毎日のようにここに来るんだ」と言っていました。奪われたもの、失われたものは途方もなく大きく、どんなに努力しても想像を絶します。偶然の重なりから新しい出会いと関係も生まれています。奇跡のように与えられた今ここに感謝したいと思いました。

   支援者支援セミナーでは、地元の支援者に事例を提供して頂き、「家族造形法」という手法を使って事例検討を行いました。宮古の事例は、やはり震災が大きく影響しています。目の前の二者関係だけでなく、大きな時間の流れや関係者の構造のなかに置かれた家族を見る眼が鍛えられたらいいなと思っています。今年は、若竹会と宮古市社会福祉協議会の関係者に加えて、宮古や盛岡の児童相談所の方々の参加もあり、地域ネットワークの強化にもつながることを願います。

   最終日は、田老の学ぶ防災に参加しました。4回目の参加になりますが、定点から見る風景とガイドの語りの変化に時間の流れを感じます。今年は、大槌町にあるベルガーディアを訪れ、「風の電話」や「森の図書館」、ツリーハウスを見学し、佐々木格さんのお話を聴きました。3年前にも訪れたのですが、復興のための道路工事で、「風の電話」から海がまったく見えなくなっており、とても残念に思いました。最後は、遠野のわらぶき屋根のある大平悦子さん宅にお邪魔し、囲炉裏を囲みながら遠野の昔話を聴かせて頂きました。被災と復興の物語を存分に実感した7年目でした。

 2017宮古プロジェクト報告 (応用人間科学研究科教授 団 士郎)

   諸般の事情で、昨年までの会場が使えなくなり、今年は魚菜市場での漫画展になると聞いた時には不安があった。どのような状況で実現できるのか、見てくれる人達にとって作品鑑賞の条件が整うのか?

   しかし、百聞は一見にしかずであった。市場に入ったとたん、ちょっとお祭りの出し物のような、賑やかさを感じた。フードコートの一角にマンガパネルの展示があって、市場の店舗やディスプレイに仲間入りしていた。立ち止まって見てくれている人があり、冊子の出足も好調で、残部が少ないという報告も受けた。なにより会場全体に活気があるのが良かった。展示会場に左右される来場者だと考えると、この変更は、新たな鑑賞者を誘ってくれた。

   朝のマンガトーク。参加者の顔ぶれは様々で、元々どんな人に聞いてもらいたいという指定があるわけではないし、多人数に語りたいのとも違う。聞きたい人に、上手く届く話が出来ると良いと思っていた。今日はそれがかなり上手くいった感触があった。終了予定時刻、定刻に「おわり」の表示を出すことが出来、語り残しも語りすぎもなく、フィニッシュした。午後の部後半のプログラムに私も少し役割を果たす予定なので、午後一番のプログラム開催時間は、喫茶店でコーヒーを飲んで一息入れた。

   支援者支援セミナーでは、「家族造形法」を実施すると聞いていた。ファシリテーションの一翼で、事例検討渦中の息子を割り当てられて参加した。この方法の良いところが余すところなく出た、初体験の人達には刺激的なプログラムになったと思う。

   世の中には多くの思い込みが存在し、多くの人達は、それを前提に現実を語る。「事例検討」等、まさにその一つで、多くの援助職は事例提供体験で少なからぬ傷を受けている。膨大な準備をしたのに、些末な質問や批判にさらされ、ほとんど提出事例に還元できることもないまま、時間切れで終わる。そんなことを重ねていると、事例を用意しなければならないことが負担になる。だからケースを出したくないという気分が皆、分かり合える。

   家族造形法にはそれがない。そして参加者それぞれの感受性をベースの生の声が聴ける。声を発した側も、適否をジャッジされるのではない。だから皆、多様声の一員として、対話の中に参加できていた。

   終了後の懇親会で、岩手県盛岡、宮古児童相談所のスタッフが紹介された。初めての参加である。次年度以降も継続の宮古開催において、地元の関連機関と協働できる場が形成できたら、それはこのプロジェクトの目的本来の姿の実現である。

 レポート「東日本・家族応援プロジェクトin宮古2017」(文学部教授 鵜野 祐介)

   1.はじめに

   2017年11月3日~5日、今年で5回目となる宮古のプロジェクトに参加した。はじめて訪れたのは震災からまだ2年半しか経っていない2013年11月のこと。宮古市払川地区仮設住宅の談話室で、小学4年生の女の子たちや年配の女性たちと一緒に「せっせっせ」や「あんたがたどこさ」をして遊んだ。はじめ無表情だった女の子たちが、おばあちゃんたちと交流する中で次第に明るい表情になっていったのが思い出される。彼女たちは今どこで、どんな暮らしを送っているだろうか。そんなことを頭によぎらせながら、盛岡発のバスの車窓から今が盛りの紅葉を眺めつつ、宮古へと向かった。

   2.浄土ヶ浜と防潮堤と歩道橋

   16時に宮古駅前に到着し、ホテルでチェックインを済ませた後、再び駅前に行き、16時30分発の路線バスに乗って浄土ヶ浜へ出かけた。月齢14日ぐらいの丸い大きな月が東の空にくっきりと浮かんでいた。本州最東端の町だけあって日暮れが早い。崖の上にある浄土ヶ浜ビジターセンターにバスが到着した16時40分過ぎには、あたりはすっかり宵闇に包まれていた。月明かりを頼りに九十九(つづら)折の坂道を浜辺まで歩いて降りていった。

   沿岸の遊歩道は、4年前に来た時にはまだ津波の爪痕がはっきりと残っていたが、今はほとんどきれいに修復されていた。入江では、釣りから戻ってきたばかりの客たちが釣り具を手に、小走りに舟小屋へ向かって急いでいた。また中国人とおぼしき一団が、薄明に浮かぶ岬や島並の白い岩肌と、光り輝く月をバックに、盛んにシャッターを切っていた。外国人観光客はこの地の復興に貢献しているのかもしれない。

   17時を過ぎるとすっかり足元も見えなくなったため、遊歩道を引き返してビジターセンターまで戻り、次のバス到着まで1時間以上あったため、ホテルまで歩いて戻ることにした。下り坂を降り切ったところから、しばらくの間道路の左側に防潮堤が続く。高さ7,8メートルはありそうだ。ところどころ等間隔に縦長の長方形の覗き窓が設けてあり、そこから海が見えるようになっていた。まだ工事中のため、壁と壁の間に浜辺との行き来が出来るスペースが何か所もあったが、工事が完了すると、物理的にも心理的にも人びとの暮らしから海が遮断されてしまうのではないか、幅数十センチの覗き窓もほんの気休めにすぎないのではないかと思われた。但し、それは余所者の感傷に過ぎないのかもしれない。現地に暮し、津波の恐怖を実体験した人でなければ、この問題を軽々に語ることはできない。そのことは十分判っているつもりだ。それでも……、との想いは否めなかった。

   市街地の端に辿りつき、市役所前の歩道橋を渡る。3・11の報道映像で何度も取り上げられていた場所だ。階段の裏側の目隠し用の鉄板がすっかり錆びつき、ところどころ破損して穴が開いていた。この辺の高さまで津波が到達したということかもしれない。あれから6年半が経ち、町は新たな装いを整えつつあるとはいえ、まだあちらこちらにこうした「震災遺構」が残っている。マスメディアでは報道されない、現地を訪れてみなければ目撃できない場所がある。

   ホテルまで戻ると、玄関前の街路の両側に、「キャンドル・ストリート」と銘打ってキャンドルが100メートル余りにわたって並べられ、「光のファンタジー」が演出されていた。それはまた、地区住民の皆さんの密やかな鎮魂のメッセージとも受け取れた。

   3.プログラム「故郷の歌と物語を楽しもう」

   翌4日、ホテルから歩いて10分ぐらいのところにある「魚菜市場」を会場に、漫画展とイベントをおこなった(漫画展は1日~7日)。昨年までの会場、道の駅「シートピアなあど」とは異なり、地元のご高齢の方が数多く買い物に訪れる場所で、熱心に漫画展に見入る方が途切れることなくいらっしゃって嬉しかった。10月はじめに行なった宮城県多賀城市のスタイリッシュな建物の中での展示と好対照の、大漁旗と酉の市のお飾りを背景にした漫画展もなかなかよかった。 

   午前10時から団先生の漫画トークが2階研修室で行われ、また午後1時からの若竹会・スキップによる「アートで遊ぼう」に続いて、私が企画と進行を担当したプログラム「故郷の歌と物語を楽しもう」が1階キッズコーナーで行われた。昨年に引き続きNPO法人「輝きの和」さんにご出演いただいたが、代表の須賀原チエ子さんに急用ができたため、①尾林星さんの歌3曲(全て自作の「ひゅうずのうた」「すっとぎのうた」「カラフルみやこ」)、②宮城けい子さんの民話絵本2冊(『鬼より強いお嫁さん』『おもち一つでだんまりくらべ』)、③尾林さんの紙芝居2本(宮沢賢治/堀尾青史『双子の星』、手づくり民話紙芝居『しろこ地蔵』)という演目になった。

   尾林さんの歌のうち、はじめの2曲は宮古の郷土菓子にちなんだ歌、3曲目は宮古への郷土愛を歌った歌で、いずれも民謡や伝承わらべうたとは異なる新感覚の「故郷の歌」だった。昨年もご出演いただいたが、今年の方が格段に観客のつかみが上手く、一体感が生まれて盛り上がった。彼のファンだという小学校高学年ぐらいの女の子がお母さんと一緒に来ていて、「カラフル宮古」を一緒に口ずさんでいた。また「すっとぎ」の歌を聞いた市場内のおばちゃんが、商品用のすっとぎを一口サイズに細かく切って差し入れしてくださり、この会場ならではのことと嬉しかった。

   宮城さんには、須賀原さんのピンチヒッターを急遽務めていただくことになったが、元小学校の先生をしておられた方だけあってこうした場にも慣れておられ、ゆったりとした時間が流れる昔話の物語世界へと聴き手を巧みに引き込んでいかれた。皆、心地よさそうな表情を浮かべて絵本に見入り、ユーモラスな結末に笑いが弾けた。

   そして再び登場した尾林さんの紙芝居実演は、これも昨年より格段にグレイド・アップしており、特に彼の手づくり作品は、シンプルかつ素朴な味わいの絵が民話のストーリーにマッチしていてよかった。厚手の金剛紙を使い、紙芝居舞台を使って演じたら、より一層いいものになるだろう。

   来年は、歌のコーナーをもう一回り広いスペース(例えば漫画展の前)で行なってみてはどうだろうか。より多くの方々に参加していただけるだろう。また歌詞カードを準備しておき、一緒に歌えるといいと思った。

   4.田老「学ぶ防災」

   11月5日午前9時30分、宮古市田老地区を皆で訪れ「学ぶ防災」プログラムに参加した。私自身は今回が4回目だったが、一昨年、昨年と同じ女性のガイドSさんが担当して下さった。Sさんが初めてこのガイドを務めた相手も立命館大学の学生だったそうで、「縁を感じている」とおっしゃり、今回も溌剌とした姿でガイドを務めて下さった。

   今回もまた、最初に高さ10メートルの第一防潮堤のV字部分に上り、町の方と海の方を交互に見渡しながら説明を受けた。日差しはあったが、堤の上はやはり風が強く寒かった。Sさんによれば、そもそも防潮堤は津波を町の中に入れないための「防御壁」としてではなく、住民が避難し終えるまでの「時間稼ぎ」のために作られたものだったという。にもかかわらず、そのことをきちんと後世に伝えていなかったために、この防潮堤があれば逃げなくても大丈夫だという「安全神話」が生まれてしまったのだそうだ。

   Sさんはまた、①事態は好転し正常へと向かうはず、たぶん大丈夫だろうと判断してしまう「正常化エラー」、②周りに合わせて行動すればいいと考え、自ら率先して避難しようとしない「集団同調バイアス」、③専門家の判断に委ね、そこにもミスや想定外が起こり得ると考えようとしない「エキスパートエラー」、という3つの集団心理があることを話された。これら3つは震災や津波に限らず、大規模災害における集団心理に関する一般的な妥当性を持つものと言え、もっと広く紹介されるべきだと思った。

   場所を移動して、震災遺構に指定された旧「たろう観光ホテル」の6階に上り、このホテルの社長さんがビデオカメラを回した部屋で、町並みを眺めながらそのビデオを視聴し、説明を受ける。津波はこの建物の3階まで到達したというが、津波が建物にぶつかった瞬間の社長さんの恐怖の大きさが、突然カメラが大きくブレて天井に向いたビデオ映像から窺えた。その恐怖感は現場に来てみないと追体験しようがない。

   ガイドのSさんによれば、「学ぶ防災」への参加者はここ1,2年、修学旅行や校外学習の児童生徒の数が増えているという。津波の恐ろしさや、これまで海と共に生きてきたこの地区の人びとの暮らしぶりを想起するとともに、これからどのように生きていけばいいのかについて思いを巡らせるためにも、より多くの若い世代にこの防潮堤や観光ホテル遺構に上ってもらい、潮風に向かって立ち、「千の風の声」に耳を澄ましてもらえたらと願う。

   5.風の電話

   田老地区から車で南へ約1時間、本プロジェクトとしては今回はじめて、「風の電話」の設置者として有名になった大槌町鯨山地区の佐々木格さんに、「風の電話」を含むナチュラル・ガーデンや「森の図書館」を見せていただき、お話を伺った。

   三陸自動車道の工事が、海を望む庭園から数百メートル前方に、庭園と海を遮断する形で進んでおり、電話ボックスから海を望むことはもはや叶わなくなっていた。来年春には道路が完成し、仙台まで2時間余りで行けるようになるとのこと。「でも、どうして住宅地の裏側の山の方を通してくれなかったんでしょうか。お役所の仕事はいつもそうだから」と佐々木さんがつぶやいておられたのが印象的だった。

   佐々木さんは今年8月、このガーデンや風の電話を作ることになったきっかけやその後の経緯、そして現在熱心に研究しておられる宮沢賢治のことなどについて記したエッセイ『風の電話』(風間書房)を出版された。テレビや新聞の報道を通じて「風の電話」が全国に、また海外にも知られるようになったために、同じように配線されていない電話ボックスを「自然」の中に設置する「二匹目のドジョウ」を狙った試みが、いくつも佐々木さんの耳にも届いてくるという。だが、どれもこことは違うと感じられるのだそうだ。何故か?

   その理由について佐々木さんは明言されなかったが、それはおそらく「風の電話」が「手つかずの自然」の中にではなく、佐々木さんご夫妻が何年もかけて木や石を運び、レンガやブロックを積み、草花を植え育てていって、丹精込めて作り上げた「ナチュラル・ガーデン」の中に置かれているからこそ、この「電話」を利用した人びとが「千の風の声」に耳を澄ますことができ、癒しや安らぎを得ている、ということなのではないか。人間を寄せつけない原生林のような「手つかずの野生」ではなく、人間が自然と対話しながら作り上げた里山のような「手づくりの野生」に設置されていればこそ、「風の電話」にある種の「聖なる力」が宿っているのではないだろうか。

   そんなことを思いながら、ナチュラル・ガーデンに溶け込んで立つ電話ボックスを眺めていた。けれども先ほど述べたように、このガーデンから見晴らせる、海へと続く風景は今や、自動車道によって遮られてしまった。やがてまもなく、ここを自動車がひっきりなしに高速で往き来するようになるだろう。それでもなお、「聖なる力」はこの場所に宿っているだろうか? 残念ながら嘆息せざるを得ない。それを確かめるためにも、来年再びここを訪ねなければ、そう考えている。

   6.大平悦子さんの「むかしッコ」

   今回のツアーの最後に訪れた場所は、遠野市在住の民話の語り手・大平悦子さんのお宅で、このプロジェクトとしては昨年に続いて2回目である。昨年同様この日も、移築された萱葺き屋根の古民家の囲炉裏端で、薪から立ちのぼる煙に燻されながら、大平さんの「むかしッコ(昔語り)」を聴いた。今回、『遠野物語』第99話をプログラムに入れていただくよう事前にお願いしておいた。これは明治29年の三陸大津波にちなんだ「幽霊話」で、3・11の東日本大震災の後、一躍注目されることになった話である。原文を挙げておこう。

   九九 土淵村の助役北川清という人の家は字火石にあり。代々の山臥にて祖父は正福院といい、学者にて著作多く、村のために尽したる人なり。清の弟に福二という人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯に遭いて妻と子を失い、生き残りたる二人の子とともに元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたるところにありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女は正しく亡くなりしわが妻なり。思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追い行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑いたり。男はとみればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互いに深く心を通わせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありというに、子供は可愛くはないのかといえば、女は少しく顔の色を変えて泣きたり。死したる人と物いうとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追いかけて見たりしがふと死したる者なりと心づき、夜明けまで道中に立ちて考え、朝になりて帰りたり。その後久しく煩いたりといえり(柳田国男『遠野物語・山の人生』岩波文庫1976:63-64)。

   大平さんはこの話をしみじみと遠野の言葉で語られた後、ご自身の取材などによって得た興味深いエピソードをいくつか話された。福二の妻子は実際には行方不明のままであったこと、福二の子孫の方が奥様を今回の津波で失くされたこと、佐々木喜善と福二は遠い親戚にあたること等である。その上で、「2011年の大震災から半年ぐらい経ってこの話を語るようになったのですが、最初のうちは、愛する妻が死後の世界で昔の恋人と一緒にいることを知った福二さんのことを可哀想だと思っていました。でも、今回の震災でも大勢の方が亡くなった家族や知り合いの方と再会する夢を見たという話を聞いたり、イタコ(巫女)さんに死者の霊を降ろしてもらって『話ができて少し安心した』と話しておられる方のことを聞いたりしているうちに、福二さんは奥さんと再会できてよかったのではないかと思うようになりました」と話された。

   大平さんの話を聞いて、私は次のように思った。福二は、こちらの世界で生きていくために、あの幻(もしくは夢)を見る必要があったのではないか。自分の妻にあちらの世界で幸せに暮らしてほしいと願っていたからこそ、あの夢を見た。また奥さんの方も、福二にこっちの世界でしっかり生きていってほしいと願っていたからこそ、福二にあの夢を見せた。あるいはまた、福二は行方不明のままだった妻とこうして再会したことで、気持ちの整理をつけることができたのではないだろうか。

   いずれにしても、大平さんの語りを聞いている時、この話は決して「怖い話」とは感じられなかった。確かに哀しく切ない話ではあるけれども、生者と死者の「情」が通い合う「温かい話」として感じられた。今から3週間後に、学部の授業でこの99話を取り上げることになっている。撮らせていただいた語りのビデオを学生たちに見てもらい、彼らの感想や意見を聞いて、大平さんにお伝えしよう。また来年もお邪魔して、大平さんの語る99話を聞かせていただけるのを楽しみにしていたい。

   7.おわりに

   今回の旅を通じて、「トポス(場)の重要性」ということを再認識した。漫画展も、漫画トークも、遊びや歌や物語のワークショップも、それを開く場所によって大きく色合いが変わってくる。トポスが持っている磁力によって、参加者の数も客層も関心の度合いも変わってくるのだ。そして今回の魚菜市場は、私自身がイメージしている本プロジェクトのあるべき姿に近い磁力を持つトポスだと感じた。

   三日目(11月5日)の田老「学ぶ防災」ツアーにおいても、防潮堤の上や旧観光ホテルの6階だからこそ、ガイドさんの話がストンと入ってくるのだし、「風の電話」を訪れる人も、あのナチュラル・ガーデンに立てばこそ、コードのない電話の受話器に話しかけ、また耳を澄まそうとする。そして大平さんの語りも、囲炉裏端で薪の煙やパチンパチンとはぜる音と一緒に体の中に取り込まれていくことで、物語世界にすんなりと入りこむことができるのだろう。「物語の力」について考える時、ともするとコンテンツやテキストそれ自体の吟味や精選に目を奪われがちだが、こうした「中身」と同じぐらい、「器」としてのトポスが重要であることに留意して、今後のプロジェクトも進めていくことが求められよう。

   最後に一言。ホヤの膾(なます)をアテに呑む宮古銘酒「千両男山」は絶品でした!

「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 宮古」に参加して(対人援助学領域M1 堀内悠)

   今回、「東日本・家族応援プロジェクト」で宮古を訪れて、改めて実際に自分の目で見て耳で聞いて肌で感じることの大切さを意識した。プロジェクトで宮古を訪れる前に、現地のことを調べるがわからないことも多い。そして調べて知った気になっていることでも実際に訪れてみると全く異なっていることもある。プロジェクトに参加する前はあれやこれやと考えすぎていた面があった。しかし、実際に現地に行き、その人たちと関わることで見えてくるものがある。

   宮古の町を回っていると海には防潮堤が多く建てられていた。そのことについても、津波で海が怖くなったのだろうと考えていた。しかし、実際にお話を伺うと、今でも海が好きという方がいたり、防潮堤が監獄のように感じるという方がいたり、また津波の怖さが忘れられないという方がいたりした。このプロジェクトに参加するまでは、津波の被害を受け、現在防潮堤が建てられているということは、地元の方は海に対して恐怖感があるのだろうと考えていた。また、プログラムについては、「自分に何ができるだろうか。何をすべきなのか」と考えすぎていた。しかし、何かをしようとしすぎるのではなく、その場にいることで十分な場合もあることに気づいた。

   3日目のフィールドワークでの、たろう観光ホテルの「学ぶ防災」で見た映像は、あの場で見ることに意味があるように思った。ここでは映像の内容については触れないことにする。そしてあの映像をあの場で見たことで、支援者としての軸を揺さぶられたように感じた。一体今後、支援者として何をしていきたいのか。何をすべきなのか。なぜそれを目指すのか。自分の中で問い直すあるいは問い続けるきっかけとなった。まだ完全に答えを出すことはできていないが、それでも支援者の卵として少し成長したように感じる。

   今回、宮古で関わった方々には「また来年」と告げてきたので、また訪れる際には支援者の卵としての成長した姿を見せたいし、そうでありたいと思った。

 「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 宮古」に参加して (対人援助領域M1 三木 泉)

   宮古市に到着、ホテルに向かう街並みは、建物が低く、昭和時代のような商店街は、とても静かだった。商店街の電気屋、個人商店の服屋が懐かしく、時間が止まっているようにも思えた。津波の被害でこの場所で、誰か亡くなったのかなど、いろいろと考えていた。

   翌朝、7時にタクシーでホテルを出発。「浄土ヶ浜」のフィールドワーク。タクシー運転手の方に走行中にお聞きした。震災当日は、夜勤明けで高台の家にいて、直接の被害はなかったそうだ。震災直後は、メディア関係者が多く今よりも忙しく働いていた。いろんなことを考えるより、日々の仕事や生活を過ごすことで精いっぱいだったことも話された。ご家族も直接的な被害にあわず、生活環境も変化がなかった。また、子どものころに浄土ヶ浜で、アワビを取って遊んでいた話などを懐かしそうに話されていた。

   「団士郎家族漫画展」今年は初めての場所で、魚菜市場であった。生活に密着した市場での漫画展で、買い物客が足を止めて見てくださった。団先生の話では、多くの人が話を聞いていた。

   現地の福祉施設の職員、他職種の方々との「支援者セミナー」では、造形法を使い、事例を出される方と参加者とが五感を使い、ケース検討した。人間を彫刻と見立て、家族イメージをもとに空間的に配置し、姿勢や視線、表情などを指定することで彫刻のように家族関係を表現する。造形法における空間的配置は、家族内相互作用の理解や洞察を促進すると言われている。実際、家族支援者の方が、支援している家族の人間彫刻を作り、全員でどのように感じ考えたか、人間彫刻の1人1人の状況を共有する。事例提出者が、彫刻を客観的に見て、先が見えたように話されていた。全員の、家族の解釈から、導き出されたものだ。明確な答えはない造形法は、全員で共有出来き、事例提供者がエンパワーされる手法だと感じた。

   夕食の交流会で、私の横に座られた、スッタフの方に震災当日の話を聞かせて頂いた。当日は、仕事中で利用者さんの介助で家に帰られなかったため、複雑な思いで仕事をされていた話や、家族に直接的な被害が無かったことを話された。震災後、やり直せば良いと、家族全員で前に向いて生活をされていた。振り返ると震災で家族がしっかりとつながり、良い方向にむいている、今も思うと話されていた。困難を乗り越えた家族の力強さを感じた話であった。

   宮古観光協会・学ぶ防災「田老」地区に向かった。たろう観光ホテルでは、社長さんが、死ぬ覚悟で撮影された津波のビデオを社長さんが撮っていた場所で、大画面のTVで解説を交えて見せて頂いた。圧倒される映像。自然のパワーは、人がどんなものを作ったとしても壊されてしまう。ビデオの中でも、堤防内では津波が見えないため、消防自動車が走り、高齢の女性が歩いている。被害にあうか合わないかは、紙一重だ。どんなに、予防しても自然災害には勝てない。田老には「つなみてんでこ」と言われている言葉がある。てんでん・ばらばらに逃げなさい。それぞれが自分の命は自分で守りなさいという教えだ。今回の震災で学んだことは、①正常化の偏見はいけない。自分は大丈夫。被災しないと思い込んでしまう。②集団同調バイアス。逃げている最中でも、この前の地震の時は大丈夫だったからと集団で流された人がいた。③専門家の話をうのみにしない。3メートルの津波と言われ、大丈夫だと思い逃なかった人たちがいる。1つ先を考え行動する。中学校では津波の訓練をしていたので、近くの保育所の園児を中学生がバケツリレーのように園児を高台に運び、高齢者施設の人々には、手を引き、2人組で抱え、後ろから押し上げるなどして避難した。日々の訓練は、確実に命を救った。1人1人、何ができるのか、他人任せでない行動をとれるようにすることは教育の基本だと思った。その時、助け合いながら、避難した経験をした人たちは、怖い思いをしても、絶望はなかったと思う。

   大平さん宅に訪問。入り口には「おでんせ」という表示。岩手県盛岡弁で、「おいでください」という意味だ。藁ぶき屋根の囲炉裏のある部屋に通され、タイムスリップしたようだった。大平さんの穏やかな語りが始まると、登場人物の声や、動物の声、本当に今居るかのように頭の中に思い浮かぶ。囲炉裏の火や薪の臭いや音で、不思議な空間に変わる。「語り」とは、こんなにも穏やかな気持ちにさせてくれるのだろうかと思った。しかし、話の内容は、本当にあった話や、生活の中で気をつけないといけないことを、民話として言い伝えている生活の知恵だ。火の周りで、知らない者同士でも一体感を感じられる。何度も、訪れたい所だ。

   プロジェクトは、とても濃厚なものだった。人とのつながりの大切さを、震災を通して考え、現地で体感した。人は、いろんな問題に遭遇する。その時に何ができるのか、問題を解決するには、先ずは、人に話す事から始まる。昔からの人々の知恵は、人の語り受け継がれ、地域の財産になっていた。私自身も、このプロジェクトを通し、証人として、語ろうと思う。

   今回のプロジェクトで、宮古で多くの体験をさせていただき、有意義な時間を過ごさせて頂いたことに深く感謝しております。また、笑顔で迎えてくださった地元の方々、現地のスタッフの方々、貴重なお話をして頂いたことを心よりお礼申し上げます。 

 「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 宮古」に参加して (臨床心理学領域M1 神戸 希)

   宮古に訪れるのは初めてである。宮古についた翌日早朝,タクシーで浄土ヶ浜に向かった。途中,高々と垂直に聳える防潮堤があった。町を歩いていると,いたるところに東日本大震災による津波浸水深がわかる標識のようなものがあった。東日本大震災の津波被害の甚大さを思い知らされる。

   3日目のフィールドワークでは,田老地区,大槌町,遠野市を周った。田老では「学ぶ防災」に参加した。田老観光ホテルでは,震災当時の映像を見ることができる。4階まで登る階段の手すりは歪んでおり,めまいを起こしたような気分になる。ホテルの居室には,「地震が起きたら津波に注意」という張り紙が貼られており,これらは東日本大震災前から張っていたようで,津波に対する意識の高さがわかる。ここで,「つなみてんでんこ」という言葉を知った。この共通認識を知っていればそれぞれ各人が震災時も強く行動できるような気がした。ガイドさんの語りを聞くと,津波の情景が浮かび,胸が苦しくなったが,この田老地区の強い防災への意識を,私たちがつなげていかなければならないと思った。

   その後,大槌町で風の電話がある佐々木さんのお宅に,そして遠野の語り部大平さんのお宅に訪問した。どちらも非日常的な空間で不思議な感覚に襲われると同時にとても心穏やかになった。佐々木さんのお話や大平さんの遠野物語の語りを聞いて,大切な人を亡くしたときどう向き合って受け入れていくか,そして身近な人がそういった悲しみを抱えていた時どう関わっていくかは本当に難しいことであると思ったが,やはり話を聞くこと,語ることが大切な気がする。

   訪れた地域それぞれ昔懐かしい雰囲気が漂い,地元愛に溢れるように感じた。これまで防潮堤についてあまり知らなったが,さまざまな形の防潮堤があり,どのような意図があって設計されているかがわかった。防潮堤に対する思いは人々それぞれであり,私たちがとやかく言う問題ではないだろうが,現地の様子や防災への取り組みについては周りに伝えていかなければならないと思った。

 「東日本・家族応援プロジェクト2017 in 宮古」に参加して (対人援助学領域M2 平松祐佳)

   私が宮古を訪れるのは,今回で2回目になる。去年初めて参加して,何も分からず時間を過ごしてしまったという感覚があったため,今回は現地でいろんなことを感じとりながら学ぼうと思い,宮古に向かった。

   まず盛岡駅について驚いたのが,宮古と盛岡をつなぐ路線である山田線が復旧するというお知らせが貼られていたことであった。山田線は去年の台風の影響で路線が使えなくなっており,路線バスを使わなければ宮古にはたどり着くことができなかったのだが,私たちが宮古を発つ日の11月5日に運転が再開されるということであった。去年訪問したときに,「地震からは復興しつつあると思っていたのに,今度は台風か」という現地の人の言葉を聞いていただけに,様々な自然災害からの復興を目にしたように思った。

   プロジェクトは魚菜市場という地元の方々が利用される市場で行われた。地元の人が多く利用する場所であったためか,いつもより漫画展を眺めている人も多くいるように感じた。また,プロジェクトの中の「ふるさとの歌や物語を楽しもう」という企画では,東北のお菓子を紹介する曲を歌っていただいたのだが,曲が終わった後に,近くのお店の方が「これがさっき歌っていたお菓子だよ」と言って,そのお菓子を持ってきてくれたのだ。市場の一角を借りて行っているプロジェクトに様々な形で参加してくれることに,地元の人のやさしさや地元に対する愛を感じることができた。

   また,去年お世話になった若竹会の方からも「去年もいらっしゃっていましたよね。今年も来てくださってありがとうございます」と声をかけていただけたのも非常にうれしかった。1年前のことであるのに私のことを覚えてくださっていたこと,自分が再び来ることが出来たからこそ再開を喜び合うことができたのだと思うと,長期的に同じ場所に訪れ続けるという意味やそれから生まれるものが何であるかがわかってきたように思う。単純に何か効果的なものを施すという支援者・被支援者という関係性ではなく,絆ともいうべき関係性を築いていくことの大切さが2年目にしてやっとわかってきた。

   宮古は海側の都市であり,盛岡からだと山に阻まれてその姿を全く見ることが出来ない。これは岩手に限ったことではないと思うが,甚大な被害を受けて現在復興している都市と,そうでない都市では震災による影響や価値観は全く異なるだろう。宮古を含めた三陸海岸の海岸線は高い防潮堤が建設され,景色も環境とのかかわり方も変化せざるを得ない状況になっている。震災からの復興とは,単純に復興前に戻ることではないのだろう。この経験を踏まえ,より良く生活するために地元の人たちは,経済的にも文化的にも変容と維持を繰り返していくのだろうと思う。その変容の途中で様々な戸惑いが生じているのかと思う。震災という自然災害によって,人間関係も,自然とのかかわり方も変化させなければならないという状況にあるのだろう。かかわり方の変化はすぐに慣れるものではなく,本人の中で様々に葛藤し,苦悩する物であるから,人によって馴染めるスピードは異なっている。支援する側は一般論的な見方を押し付けるのではなく,相手の心理的状況やその変容過程をしっかり理解する必要があるのだと今回強く感じた。

 宮古で過ごす時間 (修了生 奥野景子(理学療法士))

   プロジェクトを通して宮古に通うようになって五年が経った。お決まりの散歩コースもできたし、ほとんど必ず行く場所もできた。小さな変化を感じることもあれば、大きな変化を感じることもある。変わらずにあるものやことに触れることもあれば、新たな発見や出会いに遭遇することもある。

   散歩コースの一つに海がある。海には、市役所前の歩道橋を渡って行く。毎回、海に行くと私は防波堤に取り付けられたはしごをよじ登り、その上に腰掛け、そこから海を眺める。でも、今年はそれができなかった。はしごの前には、「安全第一」と書かれたフェンスが置かれており、「立ち入り禁止」とも貼られていた。確かに、そこのはしごの中には、少し歪んだものもあり、気を付けて登らないといけないところもある。この歪みがいつできたものかはわからないが、毎回そのはしごをよじ登って、そこからの景色を眺めていた。それができなかったことが残念だったが‘来年も来るから良っか…’と思う自分もいれば‘来年はこのはしごはどうなってるんやろ…’と思う自分もいた。

   今まで宮古で過ごしていた時間がそこでの過ごし方になり、また来年、そしてこれから宮古で過ごす時間にもなっていくように感じている。上手く言えないが、‘今まで’が‘今’になり‘これから’につながっていっているように思う。

   これは、何事に関してもそうなのだと思う。だから、そんなこと改めて言わなくても良いのかもしれない。でも、改めてそんなことを言いたくなっている自分がいる。

   懇親会の別れ際、若竹会の斎藤さんと鷺田さんが笑顔で「また来年ッ!!」と言って下さった。もしかしたら、今までにも言われたことがあるのかもしれないが、今年二人に言ってもらったその言葉は、なんだかとても印象的で嬉しかった。

   また来年、宮古で過ごす時間がどんな風になっているのか、とても楽しみになっている。たぶん、いつもと同じように過ごすのだろうけど、それもまた楽しみたいと思う。

   そして、そんな風に‘これから’について考えられるのは、協働してプロジェクトを行なって下さっている若竹会のみなさんがいるからだと、改めて感じている。感謝の言葉と共に、これからもよろしくお願いしますと伝えたい。

 これからに向けた模索 (修了生 清武愛流(清武システムズ))

   年に一度、同じ時期に。今年も足を運べた。今年は、不思議なことに初年度の気分になった。僕は、何らかの転機ある時空の中で過ごさせてもらったからでは?と振り返る。下記は、僕が過ごした家族漫画展で起きていたこと。それを通して思ったことを綴り、初年度の気分は何だったのかを残したい。

   今年の会場は、魚菜市場だった。いつもお土産を買いに限られた時間の中で、慌ただしく足を運ぶ場所。毎年、人が少なくなって来ているように感じて気になっていた場所の1つ。しかし、漫画展が空間を埋めていたからか、人が多くいるようにも感じた。

   人が減少している市場とは言え、幸いにも漫画展に足を止め、時にじっくりと読み進められる方も居た。お店の方が、「欲しかったのよ!」と数冊渡すことがあった。多くは、市場へ来た方が買い物ついでや一緒に来た家族を待つ間だった。1人から2人へ、立ち寄る人が増えていたのだった。

   既に居る人、たまたま立ち寄った人が集う場所になっていたのだった。人は、没頭していることから少し外れた時に何かと出会いその時間を有意義に過ごすようだった。その中で起きることが、自分の物語に触れること。通常の展示会では、作品の評論や感想の話題が多い。作品をどう思ったかで留まるのだ。しかし、家族漫画展では、他者の物語「家族漫画」から「自分の物語」が語られる。

   「親戚は盛岡に避難した」「津波でここ(魚菜市場)も水浸しだった」「昔、ここの場所は栄えていた」「震災があったとき、戦後の貧しかった暮らしを思い出した」など。

   これら物語に出会うのは、震災の体験をしていない僕である。会話という相互のやり取りから起きるので、どちらか一方のためではない出来事である。「こうして出会ったことは、震災、戦争の体験をしていない僕らにとってのこれからの知恵になると思っている」と話してしまった僕が居たことからも伺えるのだ。宮古に居るとその場の状況に影響を受けつつ、漫画展というその場から距離を置いたところで、何が起きる、起きていく。

   しかし、いつも同じことが起きるわけではないので、矮小化することはできない。これまで足を運んでいた時から、会う人との会話は変わってきた。今回は、震災当日やそこから思い出す過去の体験の話しがあった。もちろん、すれ違っていることが多いので、ない事の方が多い。ただ、初めて足を運んだ時の感覚が、未だに残っている。これまで、仮設住宅、復興住宅と住まいが移り変わりコミュニティが変わる暮らしをしている中、元々住んでいた町にあった光景が変わってきているからかもしれない。

   お気に入りの商店街の風景も店舗がなくなり、建物もなくなり、閑散としていっていた。どこか懐かしく、見えないところでここの地を好いている人たちの声や考えは、「寂れていく」という言葉の通り、僕には「寂しさ」として、ぽつりと心に残っているかのようだ。きっと、周辺の影響により、暮らしの拠点に変化を感じ、初めて宮古に訪れたときの感覚を味わったのだと思う。

   ここからの、ネットワークづくりが、これからの未来にエールを送るのではないかと切実に感じた。これらは、きっと、ほかのコミュニティでも少しずつ起きている可能性は少なくはないだろう。

   「待っていたよ」と言ってくれる共催機関、すきっぷさんのスタッフの鷺田さんと斎藤さんと地域のことを話すのが大好きだ。「清武さんはどう思う?」と尋ねられる姿は、大切にしてきた何かを感じずにはいられず、彼らがまだ秘めている力を感じ触発される。これから先、僕がどのように関われるかも考えて行きたいと思う5年目の活動だった。

家族漫画展


漫画トーク


アートで遊ぼう


故郷のうたと絵本とむかしッコ



支援者支援セミナー


スタッフ交流会


田老「学ぶ防災」



風の電話



大槌町城山公園より


大平悦子さんのむかしッコ








acc