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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト

2016年11月4日~6日「東日本・家族応援プロジェクト2016 in 石巻」




「東日本・家族応援プロジェクト2016 in 石巻」を開催しました 

(応用人間科学研究科教授・増田梨花)

   今年は例年よりも2カ月遅く、11月4日(金)~6日(日)、「チーム石巻」は、「見て、聴いて、感じて、考えて、行動する」を今年もテーマに掲げ、「学生と遊ぼう」「ロビンさんと遊ぼう」そして「絵本と民族音楽のコラボレーション ライブイベント」の3つのプログラムを中心とした活動を石巻市内の3つの施設で行なった。イベント前夜(4日)は、増田の友人で、ボランティア参加の声優、水谷ケイコ氏から発声練習を教わり、院生たちは熱心に発声法を学んだ。3つのイベントにおいて、その発声法の効果覿面!院生たちは皆、情感豊かに、絵本の読み合わせを行った。高校生のお孫さんとイベントに参加してくださった方の感想を下記に記す。

   物語の世界に思わず引き込まれました。普段から心理学を学んでいる院生の方々だからなせる技だと思います。様々な楽器が奏でる神秘な世界にふれました。魂に触れる心の叫びを聴かせていただきました。感謝申し上げます。

   院生たちはそれぞれ絵本の登場人物になり切り、ひとりひとりがまるで本物の動物たちになったかのように絵本の読み合わせをおこなった。また、普段はピアノの先生をしている院生がピアノを奏で、絵本の世界をより臨場感のある世界へと誘ってくれた。そして「11ぴきのねこ」の絵本の中で歌われた「ねんねこさっしゃれ」の子守歌も普段からライブではボーカル担当という院生の低音の魅力で、聴き手の心の奥を揺さ振った。増田の友人で、毎年ボランティアとして参加してくれている、民族楽器演奏家のロビン・ロイド氏がアフリカの楽器等を使いながら、さらに絵本の世界を盛り上げてくれた。楽器の演奏と絵本の読み合わせる声、そして絵本を大きくスライドに映し出す「絵本と民族音楽のコラボレーションイベント」は参加者の方々が復興地でのストレスの多い生活から束の間抜け出し、ストレスを少しでも和らげ笑顔になっていただけたらという意図で行われたものである。合わせて、被災地のコミュニティーをエンパワーすることを目指した。

   Dear Rika

   Thanks so much for including me in all of your interesting and worthwhile projects.

                   Robin Rloyd

   上記は民族楽器演奏家で音楽療法士のロビンさんから頂いたメッセージである。

   また、イベントの当日やイベント後には「石巻ライオンズクラブ中央」の阿部浩氏のガイドでフールドワークを行ったり、現地で被災しながらも逞しく生き延びた石巻市在住の及川君のおばあさまの話やその孫で今年の夏、復興地石巻市の代表でアイルランドでプレゼンを行ってきたという高校3年生の及川君の話、そして最終日の仙台では「NPOげんき宮城」の門間光紀氏の話を聴く機会を持った。また、簡易宿泊所(トレーラーハウス等)に宿泊しながら、朝は宿泊所の食堂にて、地元のとれたての海の幸、山の幸を味わい、イベントとイベントの間のお昼は「石巻焼きそば」に舌鼓を打った。  

   イベントは3箇所ともに準備20分、イベント約1時間~1時間半程度で、楽器に合わせて「11ぴきのねこ」「しろくまちゃんのほっとけーき」「もりのどんぐりベリョータ」「バルバルさん」「すいかだぜ!」の計5冊の中から、それぞれの対象者に合わせて絵本を選択し、絵本の読み合わせと楽器のコラボレーションをおこなった。また、昨年度からはじめた「院生達と遊ぼう」のコーナーでは童謡に振付をしながら歌い、参加者も満面の笑顔で応じてくれた。3つの施設のイベントは、施設の職員さんを入れると、のべ150名程度の方々の参加者で、参加者は絵本の読み合わせと場面に合わせた音楽の生演奏に穏やかな表情で聞き入ってくださっていた。   

   以下、訪問先の通所介護施設「めだかの楽校」と小規模多機能型居宅介護施設の「めだかの楽園」の施設長、井上利枝氏よりイベントの感想を頂いた。

   この度は遠路、お忙しい中、めだかの楽園を訪問されて「絵本と音楽のコラボレーション」をしていただきまして、誠にありがとうございました。お陰様で利用者様には童謡唱歌と絵本の読み聞かせなどに楽しんでおりました。今後ともよろしくお願い致します。石巻も間もなしく初雪となると思います。立命館大学応用人間科学研究科の皆々様にはどうぞ御身ご自愛のうえ、ますますのご活躍をお祈り申し上げます。

   また、今回の震災復興支援プロジェクトで5回目の参加になる、前述の増田の友人で声優の水谷ケイコ氏や4回目の参加になるピアノ教師の村田真弓氏からも以下の感想をいただいた。

   1年2ヶ月ぶりの石巻での復興支援活動。

   仙石線の車窓から見える田畑の景色や石巻市内の街中の様子から 昨年より建物は さらに増えたように思えた。 ただ その建物が皆 当然ながら真新しいという事が 何とも悲しい気持ちになったりもする。

   最初は様子がわからず どうすれば良いのか?と少し不安そうな表情にも見えた学生さん達だったが 夜のミーティングでの発声練習 読み合わせと進むと表情も柔らかくなり 翌日の 実際に聞き手を前に 絵本を読み始めると どんどん声も大きくなり午後に行った施設では コツもつかんできた学生さん達。臨機応変に動き 会話をしてスムーズに流れていたように思う。 残念ながら私は 次の日の仕事の関係でこの日の夜には東京に戻ってしまったが あとから送られてきた写真の様子からやりきったような達成感を感じた学生さん達の表情がよくわかった。

   梨花先生が このように学生さん達を連れて活動する事は 印象深い 心に残る 支援活動になっているのではないか? これからの若い人達が このような体験をする事は とても大切な事に思う。 村田真弓

   

   増田梨花教授の下、立命館大学大学院の院生の皆さんと復興地にご一緒させて頂くようになって、今年で5回目となりました。毎回、どんな院生の皆さんにお会いできるのか、楽しみにしています。 

   初日の晩、ミーティングがあり、自己紹介、そして「発声練習」「読み合わせの練習」を行いましたが、正直、どうなるのかな?と一抹の不安がありました。

   「距離感」や「気持ち」を入れることなど、ちょっとだけ、アドバイスをさせて頂きました。

   するとどうでしょう、「本番」では、一気に「不安」を払拭してくれました。皆さんにアドバイスが届いたのだなと、少しはお役に立てた気がしました。

   回を重ねる毎に、「聴いていて」も楽しく、「読み合わせて」も楽しい会となりました。

   特に「最終日」の「本番」は最高でした。急きょ、配役を振られた院生の方もきちんと「役」をこなすではありませんか!また、一人読みしたメンバーも、堂々たるもので、聴いていて嬉しくなりました。

   何事においても、真摯な態度で向き合っている姿は、傍にいるものにとって気持ちの良いものでした。

   来年もご一緒させて頂けたら....と思う次第です。ありがとうございました。 水谷ケイコ

   さらに、最初からこの震災復興支援プロジェクトにボランティアで参加してくださった、友人の 間澤隆男氏(三菱UFJモルガン・スタンレー証券株式会社)より以下のコメントをいただいた。

   2日間、お世話になり、ありがとうございました。

   今年は、及川さんの話や門間さんの話など、例年とは少し異なる趣向が加わり、大変密度の濃い2日間だったと思います。私自身、初めて聞く話も多く、とても勉強になりました。

   院生の皆さんも、とても勉強熱心で一生懸命ノートをとられていましたね。

   特に、高本さんの向学心には大変刺激を受けました。その他の皆さんも、ビアノの先生だったり、パソコンに強かったり、歌が上手だったりと、皆役者揃いだなぁと感じました。それぞれの得意分野を活かして、且つ協力しあっている、そんな印象を受けました。

   絵本の読み合わせも皆上手なのでびっくりしました。お子さんたちやお年寄りへの接し方も抜群で、いいチームだなと思いました。何よりも、自分達も一緒に楽しんでいるという雰囲気が伝わってきて、とても微笑ましく思いました。

   来年はどのような事が出来るのか、皆さんとはこれからも関わっていきたいと思っています。その時はよろしくお願いします。

   上記のボランティアでイベントをサポートしてくださった3人の方々の感想からもわかるように、「チーム石巻」の大学院生たちの熱心で素直な姿勢が印象深かった。M2の青木さん以外は初めての被災地訪問の院生達で、実際に被災地を見て、聴いて、感じ、ちょっぴり戸惑い、言葉にはできないような不安な気持ちになっていたかもしれない。しかし、イベントのときはそのような不安はどこ吹く風!常に笑顔で訪問先の子供たちに遊ばれ、お年寄りや障害をもった方々に話しかけられ、一緒に会話を楽しみながら心から触れ合おうとしている院生たち姿を見るにつけ、引率している私自身がたくさんの温かなエネルギーをもらった。

   今後も「絵本と音楽のコラボレーション ライブイベント」を通して、絵本や音楽の持つ力を活用しながら、院生達とともに復興地の人々、復興地で働く支援者をエンパワーし、今後も細く長くたくさんの人々との繋がり持ち続けていけたらと願っている。最後に我らが兄貴でボスのコーディネータ、阿部浩氏にも心から感謝の意を述べたい。

 石巻レポート (臨床心理学領域M1 松浦明日香)

   わたしにとって今回が人生初の東北だった。沢山お話をお聞きして、現地を見て、ここには書ききれないほどの貴重な経験をさせて頂いた。中でも特に印象に残ったエピソードを二つ挙げたい。

   一つ目に、高齢者施設でのエピソードである。『森のどんぐりベリョータ』という絵本の読み聞かせで、わたしはどんぐり坊やのベリョータ役をした。朝一番でやや長いプログラムだったので後ろの方でウトウトしているおじいちゃん、おばあちゃんがいた。お話の最後で木に成長したベリョータが『おかあさーん!』とお母さんの木に呼びかける台詞がある。わたしがその台詞を言うと、数人のおばあちゃんがパッと起きたらしいのだ。絵本を読んでいた時は自分では気付かなかったが、終わってから教えてもらった。そのことを聞いて感じたのは、『あ、おばあちゃん、きっとお母さんだったんだな』ということだった。普段から対人援助という学問領域で学ぶ中で、『支援』となると、支援する側・支援される側ができ、なんだか非日常的な関わりの世界に入っているように感じてしまうことがある。しかしこの時感じたのは、被支援者としてのおばあちゃんではなく、そのおばあちゃんという、人であり、生きてきた人生の欠片であり、なんとも温かいものだった。もっとその『人』を見られる、臨床家になっていけたら、と感じた。

   二つ目に、大川小学校でのフィールドワークである。現地コーディネーターの阿部さんから色々なお話をして頂いた。大川小学校での、一歩一歩はとても重たかった。特に印象に残ったのは、津波が来て波が引いた後の話であった。子どもたちを探しに来た方達は、長靴を脱いで裸足で泥の中を探るようにして歩き、足の裏で体があるのを感じたら、掘って引き上げて…という内容であった。どう表現すればいいかわからないが、普通ではとても出来ないような行動で、どんな気持ちだったのか…それは計り知れない。『必死』『一生懸命』というのはこういうことかもしれない。献花台で手を合わせさせて頂いたが、『怖かったよね、寒かったよね、苦しかったよね』という言葉しか思い浮かばなかった。

   この3日間の経験をまだ整理しきれていない部分も沢山ある。今の1番素直な気持ちを表すならば、『関西から、ずっと石巻を想っています』ということだろうか。どの経験もしっかりと胸に刻み、こらからの自分の人生や対人援助職としての成長の糧としていきたい。

 石巻レポート(対人援助学領域M1 髙本淑枝)

   震災のあった5年前、報道される被災地の状況に心が痛んだ。職場や家族のことを理由に動けなかったもどかしさ、無力な自分を心のどこかで恥じていたことを今思い出される。

   震災プロジェクトの実習を知り、迷うことなく参加を決めた。3日間の短い訪問ではあるが、とても張りつめた気持ちで新幹線に乗り込んだ。

   事前アンケートや事前レポートで実習の目的や訪問地の石巻についての予備知識を持って、現地に到着した。グループとして協力し守らなければ行動を心に刻んだ。車窓から見た風景は新しい建物が多いことであった。このことは震災の大きさと同時に復興の力強さを物語っていると感じる。

   石巻のグループは「絵本の読み合わせと民族音楽のコラボレーション」のミニミニワークショップを行った。夜にミーティングで準備万端、打ち合わせをした。

   訪問先は高齢者施設と障碍者施設と地域の子ども達の集会所の3か所であった。心から寄り添い、いっしょに楽しもうという院生の想いは通じた。来場者は絵本の読み合わせと民族楽器の演奏に、とってもおだやかな面持ちで聞いていて下さっていた。障害者施設の方たちは元気いっぱいで、みなさんの表情がとっても明るかった。

   フィールドワークで石巻市内や女川町の各地を、石巻ライオンズクラブ幹事の阿部浩氏が終始コーディネートして下さった。ご自身も被害を目のあたりにされておられ、当時の状況を知る証人として、被災の状況を詳細に語って下さった。大変にお世話になり、ありがとうございました。

   隣接の女川町を訪ねた。町長は若年で世界にむけてグローバルに支援を求め、理解を得られた国々からの義援金で東北一の復興を進めている町である。

   震災の時、海を眺めれる高台で避難していたところ、背後から津波が押し寄せ、大勢の犠牲者が出た場所に立ち、あらためて津波の脅威を知った。

   最終日、5時起床で大川小学校を訪ねた。校庭に立って被災当時のままの校舎を目の当たりにした時、ことばを失い、カメラのシャッターをしばらく、押すことが出来なかった。残された黒板を見て、ここで学んでいた子ども達の姿と重なり、何故もっと早くに対応されなかったのかと悔しさがこみ上げて来る。運動場の横に地域の犠牲者と児童の合祀の大きな墓標がたてられていた。ご冥福を祈っている。

   校庭の横に山が迫り、子ども達はこの山に日常的に登っていたと聞き、自分の足で少し登ってみた。私個人が避難ルートの謎を語ることは差し控えるが、おおぜいの子どもたちの尊い命を考えると残念でならない。

   事前レポートで「稲むらの火」、「てんでんこ」について記述した。「てんでんこ」は津波襲来という緊急時に、人命を守る知恵・教えであると同時に大災害という悲劇の後を生きていこうとする人々に対して、何らかのメッセージを持っている。「自分の命は自分で守る。てんでんばらばらに急いで逃げる」。「自分の為でなく、君が逃げればみんな逃げ出す」。「君が率先避難者になって、みんなを救うんだ」。「緊急期のみならず、日常期が重要である」。「犠牲になった人が生存中に、常々、津波の時はてんでんこだよと伝えていれば、助かった者の自責の念は緩和されるのではないか」といった4ッの原則のあることを知っておきたい。

   このことから私の推測であるが助かった4名の大川小学校の児童が何かを感じて集団れから逃げて「てんでんこ」に近くの山に走った。それを制止しようとした先生が山に走った。ぎりぎりのところでこの者たちを山は救った。津波が来ると言う時、自分の直感で行動することの大切さを語っている。

   大川小学校のあった街は病院もある大きな街であった。河口から4km離れているので、まさかという油断と「てんでんこ」の4つの原則が忘れられていたために避難が遅れ、痛ましい結果を招いたと考えられる。

   「稲むらの火」は1854年、安政南海地震が紀州広村を襲った際、浜口梧陵が「稲むら」=「稲を干すために田に積んでおく」に火を放ち、村人を高台に導き、多くの命を救った実話である。浜口は私財を投じて、100年後に再来するであろう津波に備えて堤防を築いた。津波で壊滅した村からの離散を防ぐことにもなった。そして、92年後の昭和21年に昭和南海地震が発生した時、浜口が築いた広村堤防は津波から村を守ったと伝えられている。

   今回「東日本・家族応援プロジェクト2016in石巻」に参加して復興のすすんだ被災地を訪れて、現地の沢山の人と接することが出来た。震災から5年が経ち仮設住宅の棟に並行して、商業施設が立ち並び、冠水した住宅の跡地には新築の家が再建されている。倒壊したままの住宅は1軒も目にすることはなかった。ガレキの山も見当たらなかった。人々も平静に生活しているように見受けられた。単純に復興が進んでいると思い勝ちであるが、果たして心の傷まで癒えているだろうか。

   物が新しくなることが復興ではない。石巻の人達の心が苦しみから解放されなければ真の復興とはいえない。家族、親戚、友人、職場で多くの人と別れた記憶は5年や10年で回復できるものではないと考える。

   今回、石巻を訪れて、自分の目で見て、聴いて、何を感じたか、石巻に限らず東北の被災と復興について自身が社会にどう発信してゆけるかが、これからの課題として残った。

 “自分の目で見た”石巻(対人援助学領域M1 中塚優介)

   2011年3月11日,東日本大震災。

   高校生だった私はその日,大阪の自宅でくつろぎながら春休みを満喫していた。突然,視界が揺れ始めた。日本では地震など珍しいことではない。「ああ,また地震か」と特に気に留めることもなかったのだが,すぐにいつもとは様子が違うことに気付いた。家を巨人か何かに持ち上げられ,揺さぶられているかのような,経験したことのない,異様に“気持ち悪い”ゆっくりとした横揺れ。そんな揺れがなかなか収まらず,長く続いた。思わずつけていたイヤホンを外し,リビングのテーブルに身を潜めようとしたところで,ようやく揺れが収まった。後にそれが東日本大震災であったことを知るのだが,東北から遠く離れた大阪にいた私でさえ,その“ただごとではない”何かを感じ取ったのだった。

   「被災地へ赴き,そこで起きたことを自分の目で確かめたい」という思いはあったものの,当時まだ高校生だった私には「自分がたったひとり現地に向かったところで何ができるのか」などの葛藤があり,一歩を踏み出すことができなかった。結局,その後4年間の大学生活においても被災地とかかわる機会はなく,時間だけが過ぎていった。そのような中で,応用人間科学研究科への進学後,この震災復興支援プロジェクトのことを知ったのである。「これを逃すと,おそらく自分は死ぬまでこの震災にかかわることはないだろう」と思い,殆ど飛び込むように参加を決意した。

   そうして,2016年11月4日,高校生の頃から抱いていた葛藤を乗り越え,ようやく踏みしめた石巻の地であった。

   今回のプロジェクトで実施したことは大きく分けてふたつ,現地でのイベントとフィールドワークである。

   イベントは「絵本と音楽のコラボレーション」と称したものであり,絵本の読み聞かせとともにピアノやアフリカの民族楽器の音を奏でることによって,お客さんに,より生き生きとした絵本の世界を楽しんでもらうことを目的としていた。高齢者施設,障害者施設,そして,私達が宿泊していた施設の食堂で地域の子どもを対象にこのイベントを行った。現地に赴く約1ヶ月前からプロジェクトのメンバーや増田先生とともにこのイベントについての打ち合わせや絵本の読み聞かせの練習を進めてきたが,直前まで「果たして楽しんでもらえるのだろうか」と不安な気持ちを抱えていた。しかし,はじめに訪れた高齢者施設ではニコニコと微笑みながら音楽に合わせて歌ってくれていたおばあちゃんや,イベントが終わって私達が施設を後にする際に涙を流してくれていたおじいちゃんがいた。「ああ,良かった…多かれ少なかれ,施設の方々に楽しんでもらうことができた」と胸を撫で下ろすとともに,喜びを感じた。次に訪れた障害者施設においても,子ども・大人にかかわらず,沢山の利用者の方々が絵本や音楽に対して楽しげな反応をみせてくれた。イベントが進むにつれて,はじめは他の部屋にいた利用者の方々も少しずつ集まってきて,最後には観覧席が殆ど埋まっていたのも嬉しい出来事であった。“震災復興支援”プロジェクトとして実施したイベントであったが,私達が元気をもらったという印象が強く残っている。私達から現地の方々にどれだけのことを伝えることができたかは定かではない。それでも,“支援”というものが行われる場においては,支援者と被支援者の間で相互的に何らかのやり取りが行われるものなのだろうということを,身をもって感じた。

   フィールドワークでは石巻の様々な場所を訪れたが,その中でも女川町と大川小学校について取り上げ,報告を行うこととする。

   女川町は,海に面した漁業の町である。全国屈指の秋刀魚の漁獲量を誇り,財政的にも豊かな町であったが,東日本大震災では津波によって甚大な被害がもたらされた。私達は女川町の町と海を見下ろすことができる高台に立ち寄った。震災当時はこの高台に多くの人々が避難して来て,自分達の町が津波に飲み込まれるのを眺めていたという。しかし,町を越えた津波は高台に至る道路をのぼって,それらの人々をも襲った。津波はこの高台を越える規模のものだったということである。現地を案内してくれていたコーディネーターの方は「このくらいまで津波が来たんだ」と自分の手を頭の上まで伸ばして教えてくれた。理解するのに時間がかかった。町と海を一望できる高台の上でさえ,人の身長を越える津波が到達したというのだ。石巻から大阪へ帰って数日が経ち,この文章を執筆している今でさえ,女川町を襲ったその津波を想像することすら難しい。

   女川町は現在,若者を中心に復興と町づくりが進められている。コーディネーターの方曰く,この町を1ヶ月も訪れないと,次に来たときには景色が大きく変わっているとのことである。

   大川小学校は,全校生徒108人のうち74人が亡くなった地である。小学校の裏山に避難すれば津波に飲み込まれることはなかったが,教師間で避難先についての意見がなかなかまとまらず,避難が遅れてしまったことで生まれた悲劇であるという知識はもっていた。実際に現地を訪れてみて,まずは児童が待機させられていた校庭と裏山の近さに驚いた。校庭から裏山までは道路がきちんと整備されており,歩きやすい。山の入り口もそこまで急な傾斜というわけではなく,小学生の足なら十分登ることができると思われた。5分もあれば,ほとんど避難を終えることができたであろうという印象であった。「なのに,なぜ」というやるせなさを感じた。

   岩手県に伝わる言葉に「津波てんでんこ」という言葉がある。津波が発生した際には皆でまとまって逃げるのではなく,ひとりひとりが自分の命を守るためにばらばらに逃げることを意味する言葉である。コーディネーターの方は,大川小学校で起こった悲劇についても,この「津波てんでんこ」の考え方に沿って避難を行うことができていれば…と語っていた。

   小学校に近づいてみると,崩れた校舎の外壁や渡り廊下からその震災の恐ろしさが感じられた。その一方で,教室の黒板などはあの日のままの状態を保っており,今でも登校してくる生徒を待っているかのようであった。しかし,毎年この石巻プロジェクトに携わっている方は「ここに来る度,少しずつ校舎の色が褪せている気がする」と話してくれた。石巻市はこの大川小学校を震災の象徴として保存していく方針であるとのことだが,震災の記憶を風化させないためにも,早急に施策を進めてほしいと思う。

   応用人間科学研究科の実施しているこの震災復興支援プロジェクトは,10年という長い時間をかけて被災地とかかわっていくというものである。先述した毎年石巻プロジェクトに携わっている方の話にもあったように,継続的に被災地とかかわりをもつことで見えてくるものは多くあるのだろう。私自身,現時点では来年度のプロジェクトへの参加は未定であるが,必ずまた石巻を訪れたいと強く思う。今回のプロジェクトを通して“自分の目で見た”女川町や大川小学校がこれから先どうなっていくのか。“自分の目で見る”機会を必ず得たい。

 震災復興支援プロジェクト(石巻)(対人援助学領域 M1  山脇典子)

   東京から仙台から向かう新幹線はやぶさは満席。仙台駅は多くの人々で混雑し、どの飲食店も待ち客が出る程の賑わい。仙台から石巻に向かう車窓からは、穏やかで美しい海や島々が見える。石巻に近づくにつれ海岸沿いには平地が広がり、工事中の敷地、真新しい建物や住居が増え始める。

   初めて訪れた石巻は宮城県の中でも最も甚大な被害を受けた地域であり、今回の道程の中で至る所にその体験の凄まじさを感じた。

   現地コーディネーターの方の案内で、市内各地を巡った。仙台と石巻をつなぐ幹線道路は渋滞しがちで、震災時も避難する車が立ち往生し多くの方が亡くなったとのこと。地域の方々は、「とにかく身一つで逃げる」、「日頃から防災意識を持つ」という言葉を再三口にし、私達に伝えてくれた。津波を被った地域は、以前の風景を想像するのが難しいほど広大な更地になり、工事用フェンスや重機が目に付く。その更地の中にぽつぽつと新しい住居が独立して建っている。ほんの少し離れた高台には、一線を画したように従来からの街並みが別世界のように広がっている。同じ地域が一瞬でこれ程までに分断され、今もその体験は続いている。

   女川町は海のすぐ近くに山が迫り、小高い高台から女川湾を覗くことができる非常に美しい地形の場所であった。ここは町ごと全て津波に流され、当時を思い起こさせるような古いものは本当に全く見当たらない。現在は地域の若い方々を中心に復興計画が作られ、観光客向けの商業施設がオープンしている。湾を見下ろす高台は、これから宅地用の敷地づくりのために工事中で、まさに新しい町に生まれ変わろうとしている最中だった。私が立っていた高台さえも乗り越えた津波の高さは全く信じがたく、町全体を海が呑み込んだ光景は心底恐ろしくて想像できない。

   地域の方々から震災時の話を聞かせていただいた。多くの身近な人々を亡くし、慣れ親しんだ街の姿が一変しても、地域に住み続けている。話していただいた中に、「支援に関わって何か楽しい」、「優しさというのでもない、人間の心の美しさを知った」という言葉があった。語られる表情はとても清々しく温かかった。このような言葉を伝えてくださったことを胸に留めて、周囲の人々、震災のことをこれからも考え続けたい。

 石巻での東日本震災プロジェクトに参加して(対人援助学領域M1 宮下 薫)

   今回のプロジェクトで最も心を打たれたのは、二日目の夜に宿舎の集会所でお聴きした被災者の方の震災直後のお話であった。その女性は自宅2階の押入の天袋の中に4日間、一人で避難された。避難の直前には空が真っ暗になり、ひょうが降ってきたことや、中学3年の時のチリ地震で津波の速さを知っていたこと、他のものは取りに戻らずに、目の前にあったラジオだけを持って2階に駆け上がって助かったこと、外のきれいな雪を食べて4日間しのいだこと、4日間の間には、様々な人の叫び声や助けを呼ぶ声が聞こえてきたこと、海からの津波は障害物に当たる度にエネルギーが落ちていくのが分かったこと、などをお話しくださった。また、とりあえず命だけは守る、命があると先の人生は拓けていく、と話された。そして最後には、2年間の仮設住宅での生活の後、再びこの街に住まれている理由を「自分の遺伝子が求めている。身体が安心するから。それは自分を大切にすることでもある。」と話された。これらの語りをお聴きして、実際の現場に赴き、経験された方から物語をお聴きするということの重みを実感した。お話しくださった事柄は、忘れず大切にしていきたい。

   次に印象深かったことは、3か所の施設や集会所で行った、会場の方々と一緒に歌を歌いながら手遊びをしたり、パートナーソングを声を合わせて歌ったり、大きなスクリーンで絵本の絵を映し出し、絵本と音楽を組み合わせた絵本の読み合わせを行った時の経験である。歌うことや同じ絵本の世界を共有しながら、互いに微笑み合ったり、触れ合ったりすることで、そこで生活を送っておられる方々との気持ちの交流が出来たと感じられた。また施設で生活する方だけでなく、職員の方々も同じように席に座りながら参加してくださり、仕事の合間のゆったりとした時間を共に過ごされているように見受けられた。施設で生活される人、そこで働く人、訪れた私たち、これらの人達のコミュニケーションの一つとして、絵本や音楽、歌があり、それらは過ごした地域や年代、歴史を越えるものであることを改めて知ることが出来た。また、ロビンさんの自然の楽器を用いた民族音楽や、絵本の映像と絵本を読む生の声、語り手の表情、場面に合わせた音楽の間の手が、年齢を問わず親しんでもらえる要因だと実感した。

   これらの事柄を、現地で体験出来る機会をつくってくださり、ありがとうございました。

 石巻レポート(対人援助学領域M1 生田翔子)

   私は今回、震災プロジェクトで初めて石巻を訪れた。震災当時、私は高校生で、自分に何ができるのだろうと考えたが、募金をしてニュースや報道を見て被災地の状況を知ることしかできなかった。無力だなと感じつつも、実際に震災の経験をしていない私にとって、津波が住宅街まで押し寄せてきて、自分たちの身長の何倍もの高さの津波がきたということが現実的に捉えられていなかったのかもしれない。しかし、今回、自分の目で見て、聴いて、感じることで、改めて震災が人々にどのような影響をもたらしたのかを考えることができた。

   イベントでは、人と人とのつながりを感じた。今回、老若男女問わず様々な方との関わりがあった。絵本を読むことによって、どのような支援ができるのだろうと考えていた。絵本を読むことによって、それを聞いた人たちが、何か大きく変わるということはないのかもしれない。しかし、絵本を通してその場所に様々な人が集まり、つながりが生まれるということも大切なことなのだなと思った。

   現地でのフィールドワークは、大変貴重な経験だったと思う。大川小学校は、ニュースでも大きく取り上げられていたので知っている情報も多かったが、実際に訪れてみると、情報だけでは感じ取ることのできないものがあった。本当にどこにでもある小学校が、1日でこんなにも簡単に壊れてしまうものなのか。普段生活をしていて、頑丈なコンクリートの壁が大量の水である津波で破壊されるということは想像もしないだろう。私たちが住んでいる京都から遠く離れた東北でこのような震災が起き、どこか遠い存在に感じているが決して他人事ではなく、私たちが当たり前に生活している日常でどこででも起こりうることなんだということを強く感じた。震災による復興、人災と呼ばれたことへの反省は東北の人たちだけの課題ではなく、日本、もっと言えば人類全体の課題だということを改めて確認し、決して忘れてはいけないことだと思った。

    今回、多くの方にお世話になり、お話も聴かせていただきました。実際に震災を経験された方からでないと聴けないことがたくさんあったと思います。貴重なお話しを胸に刻んで、自分も石巻での経験を伝えていければと思います。本当にありがとうございました。

 震災プロジェクト石巻に行って(対人援助学領域M2 青木美穂)

   今回、2016年11月4日から6日まで宮城県石巻市に行ってきた。私自身、昨年初めて石巻に行っており、2回目の石巻であった。昨年私は、「私に今できることはなにがあるのか・・・」と日々自問自答しながらも現地に行って被災された方々に少しでも楽しんでもらえるように、また少しでも来てくれてよかったと思えるように努めた。また帰ってきてから現地の様子や現地の方々の想いや経験を、多くの方々に伝えられるように活動してきた。今回は2回目だということもあり、昨年とは違うものを感じ、また学び、昨年より現地の方々に寄り添えるように行動しようと目標を立て行った。

   イベントや現地でのフィールドワークを思い出して、学んだこと感じたことを書いていこうと思う。

   まず1日目は京都から仙台に行き、仙台から石巻に行った。この日の夜は次の日からのイベントの準備や練習をみんなで行った。私は唯一の修士課程2年生であり、先輩と後輩の壁が出来たらどうしようと心配であったが、1年生のみなさんが本当に仲良くしてくれ、1日目からとても充実した日々であった。その日はみんなで仲良く川の字に布団をひいてトレーラーハウスで寝た。

   2日目は朝からトレーラーハウスの横にある食堂で美味しい海の幸や温かいご飯を頂いた。朝から美味しいご飯を食べ、すぐにイベントに向かった。今回もコーディネーターの阿部さんがイベントに行くまでにいろいろなお話を聞かせて下さった。阿部さんにはプロジェクトの後も発表などで数回会っており、会うたびに親切に接してくださるので、今回も私以外の1回生の子たちは初めてであったが、阿部さんのジョークにみんなで笑い合うなど楽しい時間を過ごせた。また、移動の間に去年聞けなかった震災時の話を聞いてみると優しく教えて下さり、新たに理解が深まった。

   最初のイベントの高齢者施設は昨年行ったこともあり、2回目であったが相変わらずおじいちゃんおばあちゃんたちは京都から来た私たちを温かく迎えて下さった。また昨年、帰るときに私の手を握りながら「本当に来てくれてありがとう・・・また来てね」と言って下さったおばあちゃんと再会することが出来た。一緒に昨年撮った写真を見せると「あ~!また来てくれたのか!」と思い出してくれた。また、「また、会おうね!おばあちゃん!」との声かけにニコッと笑ってくださって嬉しかった。

   次の障がい者施設では、着いた瞬間から同い年くらいの子が手を握って下さったり、「今日何するの?人形劇?」などイベントに興味をもってくれていた。また、イベント中も笑顔で手を叩いて盛り上がって下さったりして、こちらも自然と笑顔になり楽しい時間を共有できた。

   その後にフィールドワークとして女川、日和山に連れて行って下さった。日和山は昨年も連れて行ってもらったので2回目であった。昨年日和山から見る景色と1年でガラッと風景が変わっていたのは印象深かった。昨年には建っていなかった大きい新しい建物が建っていたりと、上から見ることができる石巻の様子は毎年復興に向けて変わっていってるのだと思い大変感慨深かった。

   その日の晩に、石巻の高校生の及川君と及川くんのおばあさまにお話を伺った。及川君もおばあさまも大変元気で、及川くんは初めは緊張している様子であったが、時折自身の海外の話を笑いながら話してくれた。また、及川くんのおばあさまは震災時の様子を細かく教えて下さり、震災時の家の中の様子から津波が来る前の空の様子、震災後に雪を3日間食べて過ごした話や震災で津波が来る場所であればとにかく情報を聞いてすぐに高い場所に逃げることが大切だ。など自身の経験から感じたことなど話して下さった。初めて会った私たちなのに大変親切にして下さり、また辛かった記憶を思い出させてしまうのではないかと不安であったが、私たちの質問にも全て詳しく教えて下さり、本当に貴重な時間を一緒に過ごさせて頂いた。

   及川くんと及川くんおばあさまは次の日の食堂でのイベントにも来てくださった。おばあさまは私のほうに近づいて来てくださり「昨日はありがとね」と微笑みながら声をかけて下さった。話を聞かせて頂いた立場なのにお礼まで言って下さり、改めて人々に寄り添いながら、耳を傾けることの大切さ、対人援助とは、またこの震災プロジェクトの意義を感じることができたと思う。イベント中も一緒に手を上げて踊って下さり楽しんでもらえている姿を見て本当に来てよかったなと感じた。

   イベントの前には大川小学校に連れて行って下さった。昨年は一歩歩くたびにいろんな想いが込み上げてきてとても辛くなった。しかし、今年は昨年いろんな想いが込み上げてきてきちんと見ることが出来なかった教室の様子や慰霊碑などを見て今の大川小学校を見ることができたと思う。また大川小学校の横の山まで登らせて頂いた。阿部さんも「ここまで逃げてきてたらな…」など昨年よりたくさん「自分の想い」を聞かせて下さったのが大変印象深かった。

   全てのイベントが終わり、NPOげんき宮城の門間さんからお話を伺った。門間さんは多くで講演会も行っており、多くの人に震災のこと津波のことを知ってほしいとおっしゃっていった。

   やはり、私たちが感じたこと考えたことを多くの方々に知っていただき「今私たちが出来ること」を各々に考えることが大切だと感じた。また、被災された方々に寄り添い、話を親身になって聞くことでとても喜んでいただき、また私たちが力になれていると感じた。今後も続くこの震災プロジェクトに修了してからも関わりたいと思う。また、修了後私は行政職に就くが、被災された方々の想いや震災のことをより多くの方々に伝えながら行政が出来ることを考え、実践していきたいと考える。

 東北での活動を通じて(対人援助学領域M1 平井一成)

   東北・石巻での活動に参加することを決めたのは、増田先生に声をかけられたことがきっかけだった。東北に訪れたことはなく、不安もあった。しかし、不謹慎かもしれないが被災地の様子を見てみたいという好奇心もあり、参加することを決めた。

   震災発生当時、私は祖父母の家から帰るため、駅のホームにいた。しかし、到着した電車は動かず、その日は祖父母の家に泊まり、家に帰ることができたのは翌日の夕方だった。その後も、しばしば余震があったり、またニュースやネットで刻々と伝えられる状況を注視したりと、非日常の中で過ごしたことが記憶に残っている。

   京都を出発し、仙台から石巻に向かう電車の中でまず印象的だったのは、新築の家が多いということだった。町は津波で根こそぎ流され、その後に人が戻ってきたのだから当たり前のことなのだが、自分の頭の中にあるイメージとかけ離れていて、少し驚いた。ただ、まだ更地になっている土地も多くみられ、完全に町が元通りになってはいないと感じた。

   石巻の街中には、まだ仮設住宅が残っている。私のイメージする仮設住宅というのは、高台にまとまって建っている、孤立した集落のようなイメージだった。しかし、街中にあった仮設住宅の周辺には、レストランやスーパー、ゲームセンターといった施設ができはじめており、街としての機能を取り戻しつつあるように見えた。人がいる所に街ができていくのだろうか。なんだか、とても不思議な感じがした。仮設住宅という非日常が、日常で覆われているような、何処かアンバランスな感じだった。また、女川では埋め立てが進むと共に、新しい駅舎や商店街が完成しており、賑やかであった。ここでも、埋め立て作業という復興の隣に、いつもの生活が共存していた。

   石巻駅や女川駅周辺に人は戻ってきているものの、そうでない土地もある。海岸沿いは、まだまだ更地が多かった。「がんばろう石巻」の看板の近くには何もなく、しかし、足元を見れば、所々欠けた、かつて縁石だったであろうものや、根本からへし折られた街灯の跡が残っており、かつてこの場所が街であったことを静かに語っているようだった。多くの児童、職員が犠牲となった大川小学校にも訪れた。事前に写真などでその様子を確認してはいたが、実際に目の当たりにすると、その雰囲気に呑まれるというか、改めてこの場であった事の重大さに気づかされた。壁が無くなり、コンクリートが大きく捻じれ、ひび割れ、中の鉄筋が露出した建物の様子は、津波の威力を今に伝えている。そして、学校の敷地内にある立派な慰霊碑は、保護者たちの手によって今でも綺麗に管理されている。また、一部の児童が駆け上がり、助かったという山はすぐ目と鼻の先であった。大川小学校の悲劇は、災害時にマニュアル対応に固執してしまうことの危険性を、我々に訴えているのではないだろうか。

   全てにおいて規格外とも言える東日本大震災から、間もなく6年が経とうとしている。既に、多くの土地には普段の生活が戻っている。震災当時の、何処かピリピリした非日常の空気は、すっかり姿を消してしまった様に思われた。しかし、石巻にはまだその空気が残っていた。私は復興地の空気を、極々一部であるが感じ取ることができたと思う。

   今回、「絵本と音楽のコラボレーション」ということで様々な施設を回り、絵本を読み、歌を歌った。音楽に合わせて手拍子をして、お話に夢中になっていた方々に、何か残すことができただろうか。増田先生に誘われ、復興地を訪れることができて、本当に良かった。自分1人では絶対にできない貴重な体験だったと思う。それと同時に、もっと絵本を読むのが上手くなりたいとも思った。そうすれば、もっと、もっと多くの事を色んな人に残すことができると思うからだ。

   このような貴重な機会を提供して下さった増田先生をはじめ、立命館大学大学院の皆様と、現地で様々なお話を聴かせて下さった方々に、厚く御礼申し上げます。


宿泊所で





「がんばろう!石巻」




絵本と民族音楽のコラボレーション




大川小学校でのフィールドワーク




訪問先での記念撮影




絵本の読み聞かせ




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