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応用人間科学研究科 震災復興支援プロジェクト


2012年11月26日~12月2日「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2012」




福島市で「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2012」を開催しました

(応用人間科学研究科教授・村本邦子)

     2012年11月26日~12月2日、東日本大震災中央子ども支援センター福島窓口、NPO法人きょうとNPOセンター(近畿ろうきんパートナーシップ制度)との共催、福島県、福島県中央児童相談所後援という形で、福島市市民活動サポートセンター・チェンバ大町にて、「東日本・家族応援プロジェクトin 福島2012」を開催しました。ただでさえ大変ななかで私たちを受け入れ、現地の方々とつなげてくださったNPO法人ビーンズさんや、昨年に引き続きご協力頂きました児童相談所のみなさまに感謝いたします。私自身は、今年も、支援者支援セミナーと子どもプログラム「クリスマスカレンダーをつくろう!」を担当しました。昨年と比べ、福島の状況は何も変わっていないし、展望も見えないままですが、それでも、大人たちが、ここに日常を作っていくと腹を括って頑張っておられるなかで、子どもたちが少し緩んで子どもらしさを取り戻しつつあることを感じました。

    私自身は、今年も、支援者支援セミナーと子どもプログラム「クリスマスカレンダーをつくろう!」を担当しました。昨年と比べ、福島の状況は何も変わっていないし、展望も見えないままですが、それでも、大人たちが、ここに日常を作っていくと腹を括って頑張っておられるなかで、子どもたちが少し緩んで子どもらしさを取り戻しつつあることを感じました。 

    支援者の方々も、今は、震災そのものの相談というより、もともと家族が抱えていた問題が多いとおっしゃっていましたが、私が聞いたいくつかの相談も、震災とは直接関係のないものでした。どんな人も、どんな家族も弱いところを持っていますし、外からかかってくる負荷が大きくなれば、弱いところにほころびが出てくるものです。なかでも今回の震災と放射能の影響は大きすぎる負荷でしょう。

    保護者の方々と立ち話程度にお話しするだけでも、一見、日常を取り戻しつつあるように見える向こう側にやりきれない思いを抱えていらっしゃることが感じられます。きっとさまざまな事情を抱えながら、ふるさとである福島がこんな状況にあることの哀しみを思わざるを得ませんでした。福島から遠く離れて暮らす私たちがもっともっと福島のことを大切に思うことができたら、それが一番の応援になるのではないかと思えました。昨年より今年、今年より来年と、福島を訪れる回数が増えるにつれて、思い浮かべる具体的なお顔が増え、みなさんの幸せを祈る気持ちは大きくなります

    1人のお母さんが、「たくさんの方々からよくして頂いたことを子どもがしっかりと受けとめて、大きくなったらお返しができる人に育ってほしい」とおっしゃっていました。阪神淡路、アチェ、四川、東日本・・・と、過去の被災者が次の被災地での支援にあたることを「被災地のリレー」と呼び、これは、かつて受けてきた支援活動の恩返しであると同時に、被災者同士の交流を目指す活動でもあるそうです(八ツ塚、2012)。今回、支援者支援セミナーでの中核的な話題のひとつにもなりましたが、人は、本来、誰かの役に立つということによって力が湧いてくるものでしょう。

    プログラムを終えた後、子どもたちが、「楽しかった!!」と一生懸命アンケートを書いてくれ、「また来年、会おうね~!」と手を振ってくれたことは、どんなにか私たちの励みになったことでしょう。月並みですが、子どもたちの笑顔は私たちの希望であり、子どもたちの存在そのものが私たちへの貢献ではないかとあらためて思いました。「昨年よかったから」と今年も来てくださった方、「今年は日程が合わなかったけど、来年はぜひ」とメッセージを送ってくださった方、こうして毎年、福島との関係が深まっていくことが楽しみです。来年、訪れる頃には、今より少しでも明るい未来が見えていることを願います。

 フクシマ 20121130~1202(応用人間科学研究科教授 団士郎)

    2012年度、最終開催地の福島市。私が出向くのも6箇所目。       

    フクシマへの新幹線でメール受信。会場で冊子が品切れになっていることを知らされる。応急対応として、昨年の残りを配布していると聞かされる。車中から、発行元に連絡をして、至急発送して貰うよう依頼。翌朝、9時半には到着していた模様。

    会場には黄色い表紙の昨年分が、予想以上に沢山あった。作者としては、こういうところに、外から出向く者と、現実の中で復興支援する人との間の感覚のズレに、作者である私のココロは少々騒ぐ。

    到着後、明日からの準備も兼ねた打ち合わせ。漫画展会場が昨年の一階展示スペースから、三階のイベント全体を実施する場所に変更になっている。

    展示空間として、長所短所、両面あるので来年以降の検討課題。プロジェクト全体の一体感は今年のワンフロアーの方が持てる。しかし、ワザワザ三階まで見に来る人以外、フラッと立ち寄って見てくださる方はない。どのようにパネルの展示物語と遭遇して貰うのがよいかは、次年度以降にむけて話し合いたい。

    家族マンガ講演会は程よい人数で、楽しく話すことが出来た。

    今回改めて、継続してゆくことの中で、告知、集客の問題をどのように位置づけるかが、大きな論点の一つだろうと思われた。

    ビーンズのスタッフが頑張って、事前チラシをあちこち配布してくれたそうだが、どのような情報から、来場してもらえたのかをたどると、次年度以降の道しるべになるだろう。

    必要な人に来てもらうという願いの実現には、まだ工夫の余地はあると考えた。

  二年目全体の内省として 

    文字通り二年目になる会場、しかし現地事務局になるNPO法人ビーンズのスタッフは、今年初めて関わることになる。この間の差が明確な気がした。こういう点が、パネル展や目に見える部分だけではなく、関係や内容の浸透度など、様々なレベルで深浅を形成していると思われた。

    10年という長丁場を、細く長く、じっくり進めてゆくためには、やはり、毎回の実績から引き出すことの出来る教訓はきちんと積み重ねておかないと、毎年ごとの、単発イベントになってしまう。そんなつもりはないので、物や人をコロコロ変えないことが大切だと思われた。

 2012年・福島での活動報告(応用人間科学研究科教授 尾上明代)

    このレポートでは、12月1日午後実施した「支援者のためのドラマ表現ワークショップ」の内容を報告したいと思う。  

    児童相談所の方、NPOの後方支援に携わる方、支援現場に携わるNPOの方たちが参加して下さった。普段の「支援者」という役割をしばらくの間忘れて、二時間たっぷりと楽しく解放される時間、そして同じ立場の方々とともに表現したり語り合える場を提供することができた。

  ワークショップの意図 

    このワークショップは、お互いを知るゲームで開始し、ドラマ的な表現と創造力が短時間で発揮できるようなワークを行ったのち、支援者・被支援者について考え・体感できるドラマなどを行った。実際の問題を楽しいやり方で取り扱い、支援者らのパースペクティブを拡大し、問題に取り組みやすくすることがひとつの目的であった。さらに、このようなワークショップ形式・ドラマ形式で、実際の問題を解決する方法を体験・学習してもらい、支援・被支援の場で発生するコンフリクトやストレスを取り扱う一方法として実際の現場に役立ててもらうことも狙いであった。

    以上の狙いの様子がよく分かる、特に印象に強く残ったドラマワークを3つあげたい。

  物語からのエンパワーメント 

    子どものための童話「きいろい ばけつ」を使って、物語の最後の部分を全員で創作し直した。ストーリーは、「主人公(キツネの子)が、欲しくてたまらない憧れのもの(黄色いバケツ)を手に入れるために、大きな期待をかけて待ちわびていたが、結局それを手に入れることができなかった」というものである。しかし、バケツが自分のものになったときの気持ちを空想の中で充分「体験」していたキツネは、いさぎよく諦める。大人が読んでも楽しめて、気づきも得られる童話だ。

    ワークショップでは、バケツが手に入るかどうかの最後部分を創り変えた。ある参加者が、「バケツが二つに増えていて、両方とも手に入る」というアイディアを下さった。実はキツネの友だちのクマとウサギが、彼にプレゼントをしようと内緒でバケツを買ってきたという筋書きである。クマとウサギは、自分たちが買ったことをキツネ本人には知らせぬままにした。キツネの子は大喜びし、一つを自分のものにし、もう一つは結局タヌキにプレゼントした。創作しながら全員で演じた後、最初にアイディアを出してくれた方が、「人の思いやりからバケツが二つに増えて、持ってない人にあげるというのは、象徴的な復興の物語になったと思う」と述べていた。 

    ワークショップの中盤になってプロセスが進み、より大きな自発性・創造性が参加者たちから自然に流れ出したので、それを大切にしながらリードして行った。

    皆で一緒に創りあげた物語からエンパワーされたことを全員が感じとることができた。

  部下にメッセージが伝わらない 

    ある参加者が、「被支援者との関係より、職場の部下との関係のほうが難しい」という悩みを話して下さった。自分の発するメッセージが、部下になかなか通じないことでストレスにもなっているようだ。そこで、「仮設住宅関係のイベントに関する指示を何度出しても、部下が理解しない」という想定場面を創ったのち、部下に直接言えない「心の中の声」や苛立ちなどを全員で外在化・演技化し合った。また「部下のほうの気持ちも知りたい」というリクエストがあり、部下の「心の中の声」も皆で想像しながら言語化することで、その部下の立場への理解も進んだ。演じた人も観ていた人も、心の中の思いを共有したことで、「救われた感じ」「楽になった」という感想を述べていた。

  「被支援者」は「支援者」になれる 

    また別の参加者(仮設住宅に住む方々の支援に携わっている方)が、次のような意見を話して下さった。

    「被災者は支援金を受けているが、被災しているから、とか仮設住宅にいるから、という理由だけでお金をもらうのではなく、そして支援者に依存するだけではなくて、自分で動ける人は、自分で頑張って活動(労働)して、その分のお金が国から支払われる、というほうが望ましいと思う。例えば農作業してもらうとか、何かの勉強会に出てもらう、などが考えられる。」

    この方の言われたことは、まさにその通りであり、そのような活動やしくみが可能になれば、「被災者」・「被支援者」という役割だけの状態から抜け出ることに繋がる。

    そこで、この場で提供できることの一つとして、その方の希望が実現しているドラマを体験してもらうことにした。

    身体が元気で動ける状態なのに毎月、給付を受けるだけの被支援者に向かって支援者が、何か活動することを提案するが、なかなか同意が得られない場面が演じられる。そこで、実際に畑仕事に汗を流し、きゅうりを収穫している夫婦を登場させ、最後は、他の人も巻き込んで一緒にきゅうりを作る場面にもっていった。

    ドラマ後、この活動のアイディアを話して下さった参加者は、次のような感想を大変力強く発言した。「被災者(被支援者)は、支援者になれるのだ」と。

    上記の他にも、いろいろなワークを行ったが、たった二時間という限られた時間の中で、そして、このメンバーとしては一期一会の出会いの中で、かなり多くの感情の共有や気づきが生まれたと言える。参加者の皆さんは、支援者としての仕事やその中の課題について、このワークショップの中でシェアして下さり、いくつものワークに真剣に取り組んでいた。だが、同時に楽しく創造的な時間も創りたいという私の意図の通り、たくさんの笑いとユーモアも共有できた

    厳しい状況にある当地であるが、来年以降、また行くことができたら、次はどのような物語が創られ演じられるのだろうかと思いをめぐらせている。

    そして、希望をもって新しいドラマを楽しみにしている。

 2年目の福島(立命館大学心理・教育相談センター カウンセラー 渡邉佳代)

    2年目の福島です。今年の参加スタッフは、教職員と院生を合わせて12名という大所帯です。東日本大震災中央子ども支援センター福島窓口であるNPO法人ビーンズふくしまさんと、NPO法人きょうとNPOセンターさんのご協力のもと、このプロジェクトの中核である団先生の家族漫画展を初めとして、2日間で8つものセミナーやワークショップが行われました。私は支援者支援セミナーと子どもワークショップ「クリスマスカレンダーをつくろう!」のコファシリテーター、子どもワークショップ「風船で遊ぼう!」のファシリテーターを担当しました。

    今回は漫画展が昨年のオープンスペースではなく、わざわざ3階の部屋まで来なければ目にすることができない会場でしたが、他のセミナーやワークショップと同じフロアだったことでの一体感が生まれました。その場のあるものでできる限りの最善を尽くすこと、そこで生まれるものを大切に扱い、広げていくことは、このプロジェクトらしく思います。

    現地での聴き取りでは、福島はイベントが多く、特に放射能に関する講演や、この状況をどう乗り越えていくかという研修が多いとのこと。放射能に関する講演は参加者が多いのですが、段々、放射能に関心のある人しか参加しなくなり、「もう気にしていられないじゃない」という人たちは参加しなくなっていると伺いました。放射能への不安や思いも、時間が経つごとに変化と個人差が見られているようです。プログラムに参加された方々に、これから望むイベントやセミナーを伺うと、何かを教えてもらうのではなく、「答えが出ないことを一緒に考え、寄り添ってもらえる存在がほしい」と話されていたことが印象的でした。

    プロジェクト1日目は朝から雪が積もり、スノータイヤに履き替えないといけない中、事前予約のあった4名とも支援者支援セミナーに参加してくださいました。昨年の重くてやるせない雰囲気(放射能に関する不安、先の見通しが持てない中で答えの出ないしんどさ、支援者として保護者や子どもをどう支えるのかに戸惑い、支援者自身も不安を抱えながら、いかに自分の軸を持つのか)とは変わり、支援者たちが「ここでやっていく!」という軸を持ち、「何かしよう」「何かできることはないか?」という声が多く、1年で人はこんなにも変わるものなのかと改めて人のレジリエンスを思いました。

    支援者支援セミナーの中で印象的だったのは、子どもが育つ・就職できるような福島にしていくこと、身近な人(家族)とのコミュニケーションがより良くなるようなイベントやプログラム、仮設住宅でできたコミュニティを仮のコミュニティとしてではなく、続いていくものにするための仕掛けづくりなどが挙げられていました。支援者としての軸を持ち、未来につながる様々なアイデアが出される様子にワクワクして、私自身がエンパワーされました。 

    昨年の記録を改めて読み直すと、どこにも書いていなくて驚いたのですが、私自身、新潟の福島寄りで生まれ育ち(磐越西線沿線)、休日に家族で出かける時には福島に行くことも多く、福島は私にとって馴染みの深い場所です。支援者支援セミナーが始まる前に、参加者の方々とお話ししていると、福島の柔らかいイントネーションから、家族で行った福島のドライブ、観光地、家族との温かい思い出、幼い頃の記憶など、温かい思いが湧いてきました。何故、それが今年に湧き上がってきたのかは不思議ですが、断ち切れていたものがつながっていくような心地良さ、温かさを感じました。

    子どもワークショップには、昨年同様、親子での参加が多かったのですが、昨年に比べて子どもたちが自由に伸び伸びと子どもらしく参加していることが印象的でした。子どもたちがワークショップに参加している間、同じフロアのラウンジでお母さん同士がお茶を飲みながらおしゃべりをしている姿も見られて、親子が離れてそれぞれの時間を楽しむ姿を嬉しく思いました。子どもたちは、子どもらしいヤンチャさ、いたずらっぽさが、昨年よりも活き活きと力を取り戻してきているように感じます。

    子どもたちとのやりとりで、「この遊びの広場、今度はいつ?」<来年のクリスマスの前に、また来るよ>「本当?絶対に絶対に来てね!僕も絶対に絶対に来るから!」と何度も約束しました。ワークショップを終えて、子どもたちが満面の笑みになり、ハイタッチやハグをして帰っていきます。ひと時でも楽しい時間を過ごしたことが、何がしかの糧になったらと願いました。

    今年のセミナー・ワークショップには、昨年も参加してくださった方、昨年の参加者からの紹介などもあり、また「今年は日程が合わないけど、これから10年も来てくれるなら、安心して来年に参加できる」と声を寄せてくださった方もありました。続けていくことでつながっていく人とのつながりを嬉しく思います。プロジェクトのメンバーも、継続して参加する方があり、これからも一緒にやっていこう!より良いものにしていこう!という仲間意識と一体感が高まり、今後のプロジェクトの展開も楽しみにしています。

2年目の福島(応用人間科学研究科 臨床心理学領域 M2 西木多賀子)

    昨年、本プロジェクトで初めて福島を訪れ、ちょうど1年経った12月、「来年も来ます」という昨年の約束どおり福島を訪れることが出来た。1年ぶりの福島は飲食店の明かりがともり、仕事帰りに飲んで帰る途中の楽しそうな人たちとすれ違いながらホテルへ向かった。イルミネーションが点灯されたり、地酒フェアが行われていたり、広場には人が集まり賑わっていた。

    1日目は起きたら外は雪で真っ白になっていた。雪で足場が悪い中、午前中の支援者支援セミナーには4名の方が参加して下さった。昨年の支援者支援セミナーでは、参加者の方から「どうしたらいいのか」「どういうことなのか」という途方にくれたような言葉がたくさん聞かれた。「どうしようもない自分」「小さい器の人間」「私ここに居てもいいのかな」と、支援者としての自分の無力さに辛い思いを抱えながらも、なんとかふんばって支援者として他の人を支えていらっしゃり、その糸は切れる寸前といった感じだった。1年経ってどうなっているだろうか、なかなか進まない放射能対策のニュースなどを見ていると、参加者の方の語りはもっと重いものになっているかもしれないと思っていた。しかし、実際には支援者の人たちの語りは違った。「ここで新しいコミュニティをつくっていくんだ」「支援対象者の自分となると動けない。支援される身ではなく自分で動きだせるものがあれば」と、現状は変わらないけれど自分たちが動きだすしかないと、腹をくくったような覚悟を感じた。福島に住むひとりひとりの人が持つ「長所」や「経験」、「ユニークなところ」を持ち寄ってやっていこう、と聞いていてワクワク楽しくなってくるようなものだった。レジリエンス、人が持つ困難や逆境を跳ね飛ばす力を感じた時間だった。一方で、別のプログラムで涙を流された方が何人かいらっしゃったという話もきいた。「大泣きしたいと思うけど泣けない」と昨年おっしゃっていた人がいた。それが1年たってやっと泣けるようになったのだと思う。震災はあまりに重くその傷が癒えるにはとても時間がかかるだろうと思うが、少しずつ確実に変化は起こっているように感じた。

    他には子どもと一緒にクリスマスカレンダーを作ったり風船で遊んだ。昨年の子ども達はお利口さんに座ってきちんと作っているという印象だったが、今年は「もっとキラキラのモールちょうだい!」といった元気な声があがったり、雪の綿やモールを山のように盛ったり、お菓子を飾りで隠して宝探しのようにしてみたりと、子どもらしい自由で楽しい想像力と創造力があふれていた。完成した後、はずかそうに、でも誇らしげにつくったカレンダーを見せてくれた子ども達が本当にかわいかった。それを見守るお母さんやおばあちゃんのまなざしも温かく、最後はほとんどの大人が夢中で子どもの写真をとっていた。風船あそびでは、一緒に元気に遊んだ男の子が、「最高だった!来年も絶対くるから!」と言ってくれ、「来年また遊ぼうね!」とゆびきりをして笑顔でバイバイをした。

    昨年、今年と福島を訪れ、昨年はプログラムに参加することで精一杯だったが、現地の皆さんや先生方、他の院生とのかかわりを通して、このプロジェクトやそれぞれのプログラムの意味が少しずつ見えてきた気がする。マンガ展やプログラムは限られた数日しか行われないが、その場にいらした人たちがそれぞれに、色々な思いを日常に持ち帰り、そこで新しい物語が生まれているのだと思う。昨年参加して下さった支援者の方が、クリスマスカレンダー作りを仮設住宅でやってみたというお話を聞いて、プロジェクトからの繋がりや広がりを嬉しく思ったとともに、同じようなことが色々なところで起こっているのだろうと思った。つくったクリスマスカレンダーを夜お父さんに見せて、毎日お菓子を食べながらクリスマスを心待ちにする子どもをみて、お父さんやお母さんはどんなプレゼントを用意しようか考えたりするかもしれない。プロジェクトのどのプログラムも本質は同じで、ここで楽しかったことや出会った人や言葉が日常に帰ったときにちょっと力になったり、変化を起こしたりするのかもしれない。 

    そう考えると、私たちはプロジェクトや各プログラムを大事にして、丁寧に準備していくことの大切さをあらためて感じた。10年変わらずに行くためには、変わっていくことが必要で、毎年毎年がいい場になるようにという思いをもって、工夫して、できることを丁寧にやっていくことが大切だと感じた。福島では先行きが見えない状況の中で皆さんが生活をされている。約束がしにくい中で、「来年も来ますから」という約束ができることの嬉しさと重さを感じる。この約束を積み重ねていくことができるように、大切に関わっていきたいと思う。

プロジェクトに参加して(応用人間科学研究科 対人援助学領域M2 森 希理恵)

    今回初めて東日本家族応援プロジェクトに参加した。福島のプロジェクトに去年参加した院生から話を聞いたり、今回参加する院生の事前レポートを見つつ、福島で暮らしている方々や、支援をされている方々のことを考えながら、プロジェクトの前日の金曜日に福島に入った。会場となるチェンバおおまちの下見や、現地スタッフのNPO法人ビーンズ福島の方との打ち合わせ、プログラムの準備などを行った。

    初日の土曜日は、あいにくの雪模様でとても寒く、残念ながら午前中のプログラムには子どもの参加はなかった。午後のカレンダーつくりには10人弱の子どもたちが集まってくれていたようだった。

    土曜の午後は「支援者のためのドラマ表現ワークショップ」に参加した。参加者の4人ともが、30代以上の男の方で、どういう展開になるのかと思いながらプログラムが始まった。前半の1時間は、参加者がドラマのワークに慣れるための比較的楽しめるプログラムを行い、後半は支援者に焦点を当ててのワークだった。

    ドラマのワークの経験のない参加者がほとんどであっただろうが、尾上先生のファシリテートによって、何度も笑い声が響き、普段思っていても口に出せない思いも含めて、支援者として抱えている思いをドラマを通して語ることもできたのではないだろうか。この機会に少しでも気持ちが発散できる時間が持てていたらと思う。

    ある支援者の方が、仮設で生活している被災者の中で、元気で体も動くが、支援金がもらえることで、何もせずお金だけをもらって毎日を過ごしている人がいるが、そうではなくて、何でもいいから自分の出来ることをして、支援金をもらう方が、被災者のためになるのではないかと話されていた。確かに、自分の家があるのに帰れず、しかもいつかは帰れるという保証もなく、これからどうしたらよいのか、先が見えない状況で何かをしようという気持ちになることは、なかなか難しいことだろう。でも一方で、この方が言われていたように、何もしないでもらったお金でだらだらと毎日を過ごしていたのでは、生きる力も湧いてこないだろうと思うし、働こうとする意欲も無くなってしまうと、復興にも繋がっていかないだろう。そんなことを考えると、その二つの思いの狭間で悩みながら支援されている支援者の方の思いが伝わってきて、何とも言えない気持ちになった。

    2日目は、子どもたちのための遊びワークショップで、遊びに来た3歳の男の子と1対1でじっくりと遊んだ。付き添いでこられていた叔母さんにあたる方は、団先生の講演を聞きに行かれ、3歳の子どもなので、途中で不安がったりするかもしれないと思っていたが、1対1で知らない人と遊ぶことにも、全く抵抗がないようだったのが、ちょっと意外だった。おもちゃで遊んでいる時は、走り回ったりすることもなく、穏やかに遊んでいたが、最後に少し加わった風船あそびで、活発な部分も見せてくれ、満面の笑顔で転げるようなしぐさで喜ぶ姿が見ることができたのも、嬉しかった。その様子を見ていて、やっぱり子どもは、大笑いをして、身体を動かすことの大切さを改めて感じた。外で思い切り走り回れる日がいつ来るのか、福島の子どもたちのことを思うと切なくなるが、プロジェクトに参加して出会った子どもたちと、ひと時でも良いので、子どもたちが思い切り笑える時間をこれからも共有していければと思った。

    支援者の方が、「距離が離れると、情報が入りにくくなってしまうので、現地の情報をしっかり伝えていって欲しい」と言われていたが、今回、実際に福島に来て支援をされている方から話を聞き、普段テレビのニュースなどでは報道されない話も聞くことができたので、これを自分の中だけにしまいこんでしまうのではなく、福島から離れている人にも伝えていこうと思った。

福島を訪れて(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M1 野中浩一)

    11月30日から福島市を訪れ、12月1日、2日に福島市市民交流センター内で行われたプログラムに参加させていただいた。

    11月30日(金) 初めて訪れる福島駅前はクリスマスを間近に控えた賑わいをみせており、金曜日の夜だからか駅前は車の往来が多く、駐車場も満車の表示。「思いのほか車が多い。」それが福島で私が感じた最初の印象だった。ホテルに向かう道の途中で、大学生くらいの年齢の男女数名が道脇の広場で「原発再稼働反対」を訴えていた。こうした光景は他県でも見られるが、福島でのそれは他県のものよりも熱を帯びて感じられた。それは至極当然のことであろうが、そのリアリティを間近で感じることで私の中の意識が少し切り替わったのを感じた。

    12月1日(土) 私は主に『支援者のためのドラマ表現ワークショップ』のプログラムに関わらせていただいた。プログラムが進むに従い場全体が和らいできて、7名の参加者の間で活発なやりとりが行われた。ある参加者から原発事故関連の支援について「ただお金だけを支給するのではなく、やり甲斐(労働)が大切」との話が提供され、労働の充実感とお金の支給が両立した場面の劇が行われた。後日聞いた話によると、現状では労働していると支援金がもらえなくなることがあり、そのため働ける健全な心身をもった人たちが働かず家で悶々とし、前進する気力を減退させていくケースもあるらしい。合議制かつ多層構造で意思決定が行われる復興支援施策について、個々人がより良いと思う方法があっても実現することが難しい現状と、もっとこうしたらいいのにという思いの間でのコンフリクトが生じていることが分かった。今回のように支援団体の方たちとワークショップできたことの意義は大きいと感じた。今後プロジェクトを10年続けていく中で、プロジェクトの情報(実感を伴った良さ)が、必要とする人のもとに、具体的で分かりやすく伝わっていくための一歩に通じていると感じた。

    12月2日(日) 『子どもたちのための遊びワークショップ』のプログラムに関わらせていただいた。私は主に子ども1名(A君・8歳)と他の院生1名と一緒に積み木を行った。はじめは各々が木を積み上げてつくった「何か」があり、それが次第につながっていき、お城ができた。そこから生産機能をもつ工場に変化していき、かえるの住民たちの街へと発展していった。はじめは適当にくみ上げた建築物に意味をもたせる作業が行われ、途中からは意味をもたせた建築物が組み立てられた。積み木遊びをしたA君は嬉々として作業に没頭し、様々なアイデアを出してきた。中核となる大きな建物のまわりに施設をつくり、かぼちゃの祭壇、見張りの塔、船着き場と船、車庫と車、調理場、水飲み場、宿泊所、おたまじゃくし出産施設、結婚式場、発電所等がつくられた。A君が出したアイデアは宿泊所、調理場、出産施設、結婚式場など家庭的かつ具体的なものが多かった。悪者のチンパンジーとその基地といったアイデアも出たが、全体的に戦いや攻撃的な要素は少なく、流行のヒーローものやアニメ・ゲームにみられるような空想的な傾向が見られなかったことは特徴的だと感じた。1時間以上かけて積み木の街をつくった後、それら建築物をすべて壊した。その後ありったけの木材を3人でくみ上げて筒状の塔を建築し、それを壊して楽しんだ。迎えに来たお母さんに「今日は最高だった」と笑顔で何度も伝える満足げなA君の姿が見られたことは、なにより良かったと感じた。

    今回のプロジェクトに参加させていただき、参加者やプロジェクトメンバーそれぞれの思い、意識、視点など学ぶところが大きかった。私のこの3日間は、関わった方々の思いにほんの少し触れさせていただいただけ(入り口に立って除き見ただけ)という印象は拭えない。しかしそれでも「現場に立って現状を知ってもらうだけでありがたい」というビーンズふくしま(現地の支援団体)の方の言葉を忘れず、触れた思いを反芻し、長期的に何かしらのかたちで関わること、そして他の誰かに伝えていくことを続けていきたいと感じた3日間であった。

プロジェクトに参加して(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M1 荒木久理子)

    私が東北に初めて行ったのは、震災の起こる1ヶ月前であった。その後、自分が1ヶ月前にいった場所が地震や原発で大変なことになっているのをTVで見てとてもショックだったこと今でも覚えている。今回、東北に行くのは2回目だったが、福島に行くのは初めてだった。地震の影響を直接受けたわけではないが原発事故によって多くの人が県外で暮らし、また多くの人が避難所で生活している福島という場所で、何かできればいいなという思いで、今回のプロジェクトに参加した。

    初めての福島には、商店街を人が行き交っていたり、小さな広場では地酒フェアが行われていたり、夜になるとクリスマスのイルミネーションがキラキラと光っていたりと他のどこの町にでも見られるような光景があった。一方で、新聞には放射線の記事が多く掲載されていたり、会場の入口には放射線量の高い箇所のマップが貼ってあったりと生活の中に放射線が深く影響していた。そんな福島の現実を見聞きして、初めて原発事故の重さや、放射線のこわさが現実のものとなった。

    そのような思い抱えた中でプロジェクトに参加して、自分にできることの少なさというものを実感した。話を聞いてアドバイスをすることもできないし、特別なスキルを持っているわけでもなく、行ったところで何もできない。そんな思いを強くした一方で、それでも、「今あるこの現実は変えられない、でもこの地で生活していく人達」へ、自分ができる最大限のことは何かと考えた。そして、年に1度、イベントという形での震災プロジェクト(限られた機会と時間)に参加した人達が、結果として前向きになれたり、楽しかったと思ってもらえるような場作りができたらと強く思った。

福島市の方との出会いを通して~漫画展アテンド~(応用人間科学研究科 対人援助学領域 M1清武愛流)

    漫画展アテンドとして今回は福島を訪問した。アテンドを繰り返すうちに目標も明確になって来て私もその都度、色々な視点や広がりが見えてきた気がする。今回、私は「どんな人と出会うだろうか、実際にどのような生活を送っているのだろうか」という感情を抱きながらの訪問となった。

    今回の漫画展の会場は今まで開催された場所とは少し違いがあった。それは会場として設けられた一室である事とカフェスペースが設けられている事だった。これは今までは通りすがりに興味を示す方、何だろうとフラッと立ち寄る方がいるわけではなく意図して何かしらの関心をもった方が部屋に入ってくる空間となっていた。オープンエリアと言うよりは少し閉鎖的な印象となった。そこで、誰もが居心地よく過ごせるようにと思いそこにいる私に加え、漫画を通し何か語りたいと思う方がいらっしゃれば安心して語っていただける空間であることも考えていた。正直どのようになるのだろうかと不安もよぎったのだが、そこだからこそできること、見えるものは違ってくるのではないだろうかと思った。

    福島は放射能による風評被害が大きいのはニュースをみれば分かる実態だと思う。しかし、放射能の危険性が現地の方の生活にどのような影響が出ているのかは分かりにくい。しかし、現地の方と会話から「友人が福島ナンバーの車で県外に出かけたらタイヤをパンクさせられたりしたから出るのも躊躇する。福島の人だと言いにくい」と言っていた。

    今年私は福島からお取り寄せした桃をいただき、おいしくいただいた。すごくおいしかった。その話しをするとそうやって偏見を持たない方もいるんですね。福島に来ていただきこうやって話せることが嬉しい」と言っていた。このことから、風評被害は健康被害につながるものだけでなく現状の問題は生活のし辛さや自身の表現のし辛さがあるのではないかと考えさせられた。他の方との会話でも震災により家族の生活がバラバラになることで家族のコミュニケーションの仕方に変化があったことも聞いた。

    また、今回のアテンドの場は通り過ぎる方がたまたま読んで語るということは少なく、漫画展があることを知り入ってこられることがほとんどだった。これは、場所の設定だったと思った。しかし、このやりにくさが福島にとっては良かったのかもしれない。先ほどの方も冊子を持って一回のお店に足を運んで生まれた会話で分かったことだった。他にも建物外にいた方から声をかけられ冊子を渡し漫画展カフェスペースでコーヒーを一緒に飲んだ方がいた。最初は元気がなかったようだった。この方とは外で30分、中で2時間ほど同じ空間で過ごした。帰りこの方は、「次会うときは元気な姿を見せることができるようにする」と言われお別れをした。会話の内容はご家族の話しから始まり後に放射能の話しも出た。放射能の問題がある中で生活をしている方々であっても、今までと変わらない家族構成があり家族でどのように乗り越えて行こうかという姿勢が見えたように思う。また、放射能の問題があってもなかったときの家族の課題があるしよく頑張っている姿も感じられた。

    語りにくさを語れる場、空間になったことはよかったのかもしれない。そして、今の福島の現状が今回の漫画展会場に似ていたのではないだろうか。いつもの漫画展ではないが、実は変わらない漫画展。表社会では予想外のことが展開されているが家族は変わらず家族であった。震災により生まれた原発問題、風評被害が彼らの生活をクローズにしているともいえるのかもしれない。そして、家族で何とか頑張っている姿もクローズになり表に出やすいことを中心に社会が騒いでいるようにも思う。私が出会った方々は問題だと言われている中で生活をしつつも支え合いながら生きているように思えた。それは、別のお店の方が売り上げの一部を復興のために使うと話していたことからも自分たちで何とかしていこうとしている姿を感じた。

    そこで来年度の支援はどのような場所で漫画展をし、例えば通り過ぎる人たちに焦点を当てた場がベストなのか、わかって来られるかたに焦点を当てることが適切な支援になるのか考えたいと思った。今までアテンドをしてきて、きっと二つあっていいと思うのだが二つあるにしてもその方たちが来てよかったと思えるような仕組みやシステムも準備していきたい。漫画展は、誰もがどんな人でも居心地よく過ごしていただけるようにする。そこで家族について感じていただけたら幸いだと思う。また、語らない方、語る方がさまざまな表現方法で自分を伝えることができる場であるのだろう。

    今後の課題として気づかされたことは、お店にいたおじさんが言っていた「福島のこれから先はまだまだ長い」。長い中でもどう家族が今を生きていけるか。予防的な話かもしれないが、それが未来の社会で人がなにかありつつもよりよく生きる形となっていくのではないだろうかと思った。被災地支援だけでの話ではなく、大枠のヒューマンサービスを考えたときもっとこのプロジェクトを丁寧に分析し対人援助とは何なのだろうか考え来年からも続く家族応援プロジェクトに活かしていけたらと思った。

    最後に、また来年も笑顔でお会いできたら幸いだ。



前夜の準備 

漫画展 

支援者支援 

クリスマスカレンダーをつくろう 

自由遊び 

風船で遊ぼう 

漫画トーク 

反省会 



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