【館長声明】ベトちゃんが亡くなりました

国際平和ミュージアム・館長 安斎育郎

国際平和ミュージアムにも写真が展示されているベトナム戦争の犠牲者「ベトちゃん」が亡くなりました。26歳でした。訃報は10月6日の朝、弟のドクを通じて日本の関係者に唐突に伝えられました。

グエン・ベトとグエン・ドクは、1981年2月25日、ベトナム中部のザライ・コントム省で、下半身がつながった二重胎児として生まれました。足は2本、肛門は1つしかありません。すでにベトナム戦争は6年前に終わっていましたが、日本の原爆被爆者の場合とも似て、戦争の傷跡は枯葉剤の影響を含めて戦後も長い間残っていました。ベトとドクもその影響を受けたのかもしれない─多くの人がそう感じました。ベトとドクは世界的に有名になりましたが、とりわけ支援の手を差し伸べた日本の関係者の努力もあって、日本ではベトナム戦争の悲劇とそれを救いたいという善意の象徴として知られていきました。

ドクとベトの母親は、終戦1年後の1976年、枯葉剤で汚染された地域に移り住み、農業を営みました。二人が生まれたとき、奇形の異常さに驚いた医師は親には「子どもは亡くなった」と告げたとも言われていますが、母親は二人をコントム病院に預けたまま行方不明になりました。やがてこの二重胎児は、ハノイにある「ベトナム・東ドイツ友好病院」に預けられましたが、名前を持たなかった二人には、「ベト=越=ベトナム」、「ドク=徳=東ドイツ」の名が与えられました。

ベトとドクが4歳になったころ、福井県敦賀市に「ベトちゃんとドクちゃんの発達を願う会」が結成され、二人に特別の車椅子を贈るための募金活動が行なわれました。実はこの年、滋賀大学の藤本文朗教授がホーチミン市のツーズー病院を訪れてベトとドクに会ったとき、主治医のフォン博士から、「二人が遊びまわれる特製の車椅子を日本の技術で製作して貰えないでしょうか?」と依頼されていたのです。「発達を願う会」は、それが一つの縁となって結成されたものでした。講演会やマスコミ報道を通じて会は広く社会に知られる存在になり、大きく輪を広げていきました。

5歳になると、ベトが急性脳症にかかりました。手術は1986年6月19日に東京で行なわれましたが、後遺症が残りました。2年後の1988年3月、二人は、行くえ知れずだった母親との再会を果たしました。しかし、やがてベトの容態が悪化し、そのままでは二人の命が危ぶまれる事態に直面しました。88年10月、ツーズー病院で日本から派遣された4人の医師たちも加わって17時間にも及ぶ分離手術が行なわれ、無事成功しました。ベトには左足が、ドクには右足が与えられました。

分離手術後、ドクは障害児学校から中学校に進学し、その後、職業訓練学校でコンピュータ・プログラミングを勉強、ツーズー病院で医療事務を担当する職員になりました。そして、昨年の12月16日、ボランティア活動で知り合ったグエン・ティ・タイン・テュエンさんとめでたく結婚、第2の人生を歩み始めました。ドクの夢は、「障害者も働くことができる旅行会社を立ち上げること」だそうです。今年は2度に渡って立命館大学国際平和ミュージアムを訪れ、私たちとの懇親を深めていきました。すぐ裏のお好み焼き屋「鉄平」で開かれた懇親会では、私の手品に楽しそうに興じていました。

一方、ベトの方はツーズー病院での寝たきりの生活が続いていました。3年前、私がベトナム政府から「文化・情報事業功労者記章」を授与されたとき、ツーズー病院でベトとドクに会いました。私がベトの手を握ると、何かしら握り返すような反応があり、物言わぬこの大きな目の青年は、きっと何かを感じながら生きているに違いないと確信しました。

そのベトが、とうとう命尽きてしまいました。皮肉なことに、未来に希望をもって新生活を踏み出したドクの名前の由来である「東ドイツ」はすでに無く、亡くなったベトの名の由来である「ベトナム」はいま新たな発展の息吹に包まれています。私たちは、数奇な運命を負わされたベトとドクの人生を通じて、核兵器以外は何でも使われたというアメリカによるベトナム戦争の非人道を繰り返し想起し、とうとうベトに訪れた死の意味をもう一度考えなければならないでしょう。私がツーズー病院を訪れた時、枯葉剤の後遺を疑われる障害児たちが元気にまとわり着いてきました。ベトの死を心に刻みながら、この子たちの将来の可能性を切り拓くことは私たちの大切な責務だろうと思います。

2007年10月6日


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