2014年度春季特別展「奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展」トークセッションを開催しました!

2014年度春季特別展「奪われた野にも春は来るか 鄭周河写真展」トークセッションを開催しました!

 本日、講師に高橋哲哉氏(東京大学教授・哲学)と庵逧由香氏(立命館大学准教授・朝鮮史)を招いてのトークイベントが開催され、66名の参加がありました。

 

震災、そして福島の原発事故から3年以上が経ち、一部ではすでに記憶の風化も懸念されています。このトークセッションでは、学生たちがこの展示を通して感じた出来事との距離や、福島の原発事故と植民地主義といった異なる文脈の出来事の関係性について、そして福島の事故が今を生きる私たちに問いかけてくるものについて、講師とともに考えるという主旨で企画されました。

冒頭、高橋氏は最近訪れた福島の現状にもふれ、鄭周河氏の写真からは第一印象として感じる「静けさ」「美しさ」「懐かしさ」、その背後にある福島の問題、またそれにつながる様々な問題を、時間の経過とともに深く考えさせられると語りました。

庵逧氏は、震災のあった2011年3月に当ミュージアムで開催した「巨大な監獄、植民地朝鮮に生きる」展(企画:民族問題研究所・庵逧由香)で、李相和の詩「奪われた野にも春は来るのか」を展示したことにふれ、鄭周河氏の展示構成が李相和の詩の構成と同じであると感じたこと、また奪われた野とは畑や水田という生産の現場であること、植民地時代の朝鮮の写真を紹介し、植民地時代であることを知らさらなければ見えてこない、つまり写真の中に奪われたものがあるのだということが分からなければ見えてこない、そのことを鄭氏の写真は問いかけているのではないかと語りました。

立命館大学の学生4名と同志社大学院生1名、計5名の学生が、写真展の感想とともに、講師に問いかけたいことをフロアから発言しました。

・事実であり芸術である写真をどうとらえればよいのか。

・震災に向き合えずにいた後ろめたさを感じ続けてきたが、鄭氏の写真が持つまなざしを直視しなくてはならないと感じた。事故を遠くの出来事として感じてしまうのはなぜなのか。

・福島で被災し、今は関西に暮らし事故を忘れようとしている自分。自分がどこにいるのかわからないという不安がある。福島と朝鮮の植民地時代に比喩することは可能なのか?

・市民が考えることが国の政策になかなか反映されないのはなぜか。

・韓国で初めて写真展を見たときにはわからなかったが、5/3のオープニングトークに参加したことで、自然と人間、脱原発、犠牲、利益追求、被災者と植民地の人民、記憶と忘却、時代精神など、多様な問題を含んでいることを知った。韓国でも原発事故が起きたが、人々は既に関心をなくしている。学生にはいったい何ができるのか。

といった発言がありました。

講師からは、学生の真摯な質問に対して、ひとつひとつ丁寧な返答がなされました。

芸術作品を通じてでなければ継承できないものがあること。世界で本当に多くの出来事が起きていてすべてに関わることはできないが、すべての問題はどこかでつながっていることを私達は知っているので、何かに関わり続けることが大切であるということなどが話されました。学生にできることとしては、まず歴史を知ることが大事である。今の問題がどういう経緯で起きているのかを信頼できる先生についてしっかりと学ぶこと。そして自分の経験と他者の経験を想像力をもってつなげる努力をすることが大切だというお話がありました。

どうすれば今の社会を変えていけるのか、どの年代の人も悩んでおり、私たち一人ひとりが絶えず考えていく必要があるのだということが語られました。

ご来場いただいたみなさま、どうもありがとうございました。

会場 会場で意見を述べる学生

▲会場の様子                 ▲意見を述べる学生

 


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