立命館大学戦後50年平和企画特別展:原爆開発と投下への道 ―マンハッタン・プロジェクト― 感想文

原爆開発と投下への道―マンハッタン・プロジェクト感想文

本学学生・奥山ゼミより

現在私は、アメリカは原爆投下を正当化している、という内容のレポートを書いているので、参考になればと思い、行ってみました。そこで思ったことは、アメリカが実験のために、またはソ連への示威行為として原爆を投下したということがあまり強く表れてなく、アメリカの非というものをあまり感じられなかったと思いました。先生がこの原爆展を開いた意図とは違うことかもしれないですけど。今週の授業の時、アメリカ人に原爆の悲惨さを訴えたら、原爆は戦争を終わらせたと言われ、言い返せなくなったという人の意見があったので、原爆の事実はアメリカ人にだけではなく日本人にも知られていないというところがあると思い、是非知らせるべきだと思いました(これが私が原爆について書こうと思った理由でもあるのです)。

いったい何故?そうおもった 原爆投下無しに終戦可能だったはずなのに何故? 日本の降伏は折り込み済みであったはずだ それは原爆の脅威を世界に知らしめるためであり戦後世界でアメリカが覇権を握るためであったそうだ 全くもって非人間的だ たかがそんなことのために広島、長崎の人々はあの地獄模様を体験させられたのだ それどころか50年後の現在でさえ放射能の影響で苦しんでいる人が大勢いるのだ ウラン濃縮法? プルトニウム起爆法? 僕には何のことやらさっぱりだ はい、はい、はい、すごい、すごい、科学者ってすごいわ だけど何かがおかしい何かが? 科学って何だ? 大量殺人学だったのか? 最先端の科学技術って人を殺すためのものだったのか? へーえそうだったのか いやいやそんなはずはない 科学とは人類の明るい未来を切り開くためのものだろう? ここでは科学が目的地に背を向けて歩いてるじゃないか 方向を誤るととんでもないことになるとおもった 科学者はラッセル、アインシュタイン宣言を常に念頭に置いてほしいと思う

われわれは人間として人間に訴える 自らの人間性を忘れず

      そしてその地のことを忘れよ それができるなら 道は新しい

楽園へ向かっている それができないなら 全面的な死の危険

が横たわっている

私はシアトルのボーイングの飛行機博物館でB-29を見た。そこの案内の中に“this airplane carried the atomic bomb to Hiroshima. The bomb made the WW■ finish.”とあった。同行した先生は、わたくしを見て“Sorry Hide”と謝ってきた。そこで私は少なくともアメリカ人の中には、原爆投下の行為に正義を認めていることを感じた。そこである種の戦慄を覚えたが、しかしよくよく考えてみると、日本もNo-Hiroshima Day を定め、原爆廃除を訴えながらも敗戦したことを情に訴えているかのようで、自分たちの行為への反省はいまいち明確ではないと思う。戦争には正義はないのである。日本人として、あの戦争で行った侵略、虐待、または受けた被害を見直すばかりでなく、私は最も重要なこととして、何故あのように国民の世論が一色に染まっていったのかや、当時の教育の在り方などを省みることによって、日本特有の集団主義の恐ろしさを理解することや、組織の中でどのように多様性を求め実現して行くべきか考えるべきではないだろうか。

戦後50周年(何の意味で区切っているのか疑問だが)を機に、映画も何本もでき、イベントやシンポジウムも数多く企画されているが、戦争の悲惨さを語るだけでなく、将来に対して一つの方向を示してほしいと思う。世界各地で依然として続く武力衝突は、経済的利害対立ばかりでなく宗教、教育、イデオロギーの相違が複雑に絡み合っているが、その複雑さを少しでも簡略化できないものかと行動を起こすことも可能だと思う。

最後に展示を見て、戦争という緊迫状況下においても、何名かの研究者が将来起こりうる原爆戦争を懸念していたことには感心した。

戦争というものが全く、凶器であることを感じた。世界中がそれに向かって、動いているのは本当に恐ろしい。でも、もしそのときに自分がいたらその渦の中に飲み込まれなかった、とは言えない。人間は知能があるが、それを“何のため”に使うのかがもっとも大切だと思った。それがこの展示が示すような方向性に発揮されたときは人類はその知能ゆえに苦しまなくてはならない。ともあれ、一人一人の中にしっかりとした“人間観”を築き、それを平和を脅かすものに対しては断固として“それはまちがっている”と言っていくことが大事だと思った。戦争というのは本当に、根源的な悪である。もう二度と繰り返してはならないし、そのために、どうやったら平和を維持していけるのかということに人類の英知を結集すべきであろう。

(本学学生 女20代)

戦争というものに参加した国家には、常に加害者的側面と被害者的側面がつきまとう。個人的心情を超えたところでこれらをどれだけ客観的に認識できるかは難しいことであるが大変重要なことと思う。とてもおもしろい展示内容でした。

(他大学生 男20代)

原爆の開発と投下は人類が犯したもっとも大きな誤りだと改めて感じた。国と国の不信感や、他をおさえてのし上がろうとする醜い優越感という、一部の人間の極めて閉ざされた人間性によって、多くの人間が犠牲になるという、この矛盾した世界を決して許すことはできない。今も戦争勃発の可能性は大いにあり得るし、間接的な暴力も至る所に蔓延している。「きけわだつみの声」の出演者の風間トオルさんが聖教新聞での対談記事の中で、「平和は、意識をして初めて見えてくる」とおっしゃっていた言葉に賛成する。戦後50年、反戦はもちろん、政治、社会生活、あらゆる場で、「善人がばかを見ない」日本、世界を と自分の立場で訴えていける強き信念の人でありたい。(本学学生 女20代)

核分裂反応の展示が興味深かった。「原爆展」というとどうしても広島・長崎に目が行きがちだが、アメリカがどのような経緯を経て、原爆を製造するに至ったかを知ることは、二度と戦争のきっかけを作らないようにするうえで大事なことだ思います。(本学学生 男20代)

たくさんの犠牲者を出した戦争、そして原爆投下。その認識が今なお、日米双方で食い違っているのは残念なことに思う。アメリカのスミソニアン博物館での展覧会の失敗に懲りずに、もっとたくさんの人にきちんとした戦争の事実認識を持ってもらうための努力が必要だ。(本学学生 男20代)

この立命館大学に入っていなかったら、戦後50年をこれほど真剣に考えることはなかったかもしれません。原爆を考える際に、単に被害者と加害者という視点だけで考えることはできないと思いました。(本学学生 女10代)

マンハッタン計画のこと、核燃料の仕組みなどがわかった。やはり、このような大量殺人兵器などは、毒ガス、サリンなどと同じレベルのものである。毒ガス、サリンが社会的に規制されつつあるのに、核だけが野放しになってるような気がする。即刻撤廃すべきだと思う。(本学学生 男10代)

重要なのはどう開発されたかではなく、どのような道のりで投下への道を歩んだかということだ。そして日本が「アジア侵略ではなく大東亜共栄圏の繁栄とアジア解放のため」と言っているのと同様にアメリカが、「原爆投下は戦争を終結させるための正当なものだ」と主張しているのも問題がある。(本学学生 男10代)

先日のスミソニアン博物館の判断には被爆者を肉親に持つものの一人として、大変残念だった。しかし、私自身も、被害者としての観点からいろいろな知識を得ることにあっても、加害者側の事情を知る機会は今まであまりなく、今日はよい勉強になりました。戦後50年を経て、もう少し、お互いを知る努力も必要なときではないかと、居合わせた年輩の方々の様子を見て、改めて思った次第です。(以下略)

(他大学生 女20代)

原爆が投下されるまでの事実、特に科学者の関わりについてよく理解した。自分がこれまで誤って理解していたことまでも是正され、とても充実した時間を過ごした。そして改めて戦争を考えさせられた。(本学学生 男20代)

本学学生・玉垣ゼミ

第二次世界大戦中にドイツの核保有のおそれと戦後の世界的に確固たる地位を築き上げるためにアメリカがマンハッタン計画という形で作り上げた原爆だが、これを作っていた科学者はそれが何に使われるのか知らされておらずに原爆を作っていたのに驚いた。日本以外に原爆を落とされた国は今のところないが、現在はさらに強力な水爆もあり、もしそれらが使用されるようなことがあればとんでもない被害がでることははっきりしているので、これからは核開発ではなく核廃絶に全力を尽くすことが必要だと思う。(本学学生 玉垣ゼミ 男10代)

先日、フランスで原水爆実験が再開されるとの報道がありました。この展示で“悲劇”を見た私には、シラク大統領の考えを理解することができません。なぜ過去の経過、結果の重大さを教訓とし、現代に役立てようとしないのでしょうか。今世界中で反対運動が起こっています。それは全く当然のことだと思います。私達自身もいずれは“身近”になるだろう核爆弾についてもっと知る必要があると思います。(本学学生 女10代)


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