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映像学部客員教授 熊切 和嘉映画監督にインタビュー!~映像学部どうですか!?~

2017.05.11

映像学部では、映像現場で活躍される方を教員として迎え、より実践的な学びの場を提供しています。その一つが「映画制作論」という授業。この授業で制作された映画が、アジア最大の映像見本市「香港フィルマート」で商談が成立し、デルタ航空のエクゼクティブクラスの機内上映作品になったことは映像学部にとっても大きなニュースでした。

この科目は、「映画制作の為に何が必要か」をテーマに置き、特に準備段階を中心に実践的な作業を交えながら指導をおこないます。受講生の企画の中から実際に制作する作品を決定し、その映画の実現化を想定した授業を展開し、講義終了後の春期休暇中に撮影・編集し、完成をめざします。

この授業を2015年度からご担当いただいているのが、「私の男」(モスクワ国際映画祭コンペティション部門最優秀作品賞受賞)や6月に公開される「武曲MUKOKU」(綾野剛主演)など数々の話題の映画を制作されている映画監督 熊切 和嘉先生です。熊切先生が映像学部生を指導されるにあたって感じていらっしゃること、映像学部の強み、映画制作のおもしろさなどについてお伺いしました!


-2年間担当されてきたわけですが、映像学部や映像学部生の印象などお聞かせ下さい。

 一概に言えないですが、まず思い浮かぶ印象としては、「行儀がいい」というのと、これは妙な言い方ですが、「文章が書ける」ということですね。「行儀がいい」というのは、プラスの面でもありますが、おとなしいというか、例えばこちらが聞かないと自分からは余計なことは言ってこない。聞き出してあげる必要がありますね。まぁでも、それって映像学部生だからというわけではなく、私も含めて学生時代の頃ってそういうものかなという風にも感じています。おとなしいかと思いきや、プレゼンの時間になると、結構うまいこと自分の考えを言葉にできる人もいて感心することもあります。

 また、「文章が書ける」というのは素晴らしいことだと思います。私が学生の頃は文章も書けない人が周りにざらにいましたから。メールなどの普及によって、若い人の文章力はアップしているんじゃないかと思います。いわゆる正しい文章とは違うのかもしれないけど、独自の文体を持っている人が結構いて、驚きました。自分が一緒に仕事をしたい人間を思い浮かべても、文章を書ける人と書けない人どっちがいいかというと、それはもう当然「書ける人」ですよね。そこは胸を張ってほしいです。

廃墟での「映画制作論」撮影時

-もっとこうしたらいいのにな、というところはありますか?

 制作、特に授業という枠で映画を作っていく上では、「ちゃんとしないといけない」ことも多いですが、もっと学生時代の今だからこその『新しい視点』や『常識から外れた視点』をもった方がいいかもれませんね。まだ段階的にそれを実現するのは難しいかもしれませんが、「ちゃんとしないといけない」という枠に縛られすぎるのはクリエイティブではない。「常識と非常識のバランス」は考えてほしいですね。

-先生と映画の関係の経緯を教えてください。

 
意外と普通の環境で育ってきて、さっき映像学部生のことを「行儀がいい」って言いましたが、自分も「学級委員」とかをやったりするような意外とおとなしくて行儀のいい面もある子供時代を送ってきました。それが小学生の時に「映画」にハマり、今までどこかで感じていた「窮屈さ」が、映画によって「自由になれる」と感じました。「映画の世界では何をやってもいいんだ」と。それまでは漫画を描いたりしていたのですが、徐々に自分も「撮る」ことへの憧れが強くなってきました。

親戚がもっていたビデオカメラを借りて撮り始めたのが中学を卒業した春休み。友達を呼んで集めて、部屋に強盗が入ってきてすったもんだあるような寸劇を作っていました。高校では部活でアイスホッケー(先生は北海道のご出身)をやっていて、表向きは健全を装っていたのですが、裏では映画作りにのめり込んでいました。田舎なんで映画を撮っているなんて恥ずかしくて誰にも言えなかったし、出来上がった作品も観て欲しくなかった(笑)当時は今ほど撮ることが一般化していなかったので、「オタク」と思われたくなかったんですね。

大学進学については、その頃は大阪芸大(母校)は今ほど有名ではなくて、正直存在を知らなくて、「映画を学びたい」という一心で「じゃあ映画の専門学校に行こう」と思い立ちました。そしたら6つ年上の兄に、「大学は出た方がいい」となぜかすごく説得されて。探していたら高校で大阪芸大への推薦枠があることがわかり、推薦入試を受けて合格し、入学しました。

立命館松竹スタジオにて指導中の様子

-どんな学生時代でしたか?

 正直授業はあまり行ってなかったですね(笑)ずっと映画を作っていました芸大にはデザイン学科・美術学科・音楽学科などいろんな専門分野の学生がいたので、そんな仲間に手伝ってもらって。制作費を稼ぐためにアルバイトも頑張っていました。結構手先が器用だったということもあり、内装工事の仕事をずっとやっていました。バイトなんですけど、後半は結構現場で職人さんに指示するぐらいレベルアップしていました。

 卒業制作の「鬼畜大宴会」(ぴあフィルムフェスティバル準グランプリ受賞作品)は、何か世間や大人に「非常識」をこれでもかと突きつけながら”ぎゃふん”と言わせたいみたいな反抗心から生まれた作品でした。設定については、小さいときからテレビなどで「学生運動」のドキュメンタリーや特集番組をよく目にしていて、すごく印象に残っていたことが大きく影響しています。自分が生まれた頃がちょうど学生運動が終焉をむかえた後なのですが、大学で北海道から大阪へ出たこともあって、その頃の自分と同じくらいの年齢の人たちが戦っていたのか、と妙に身近に感じた部分があると思います。

実は卒業制作は、大きな声では言えないけど、提出期限に間に合いませんでした。自分ももう諦めていて、期限が過ぎた後にスタジオで最後の音のミックス作業をやっていた時、当時学科長だった中島貞夫先生がふらっと部屋に入ってこられました。「ちょっと観てせてくれ」と。緊張しましたね。じっと黙って作品を観ておられたのですが、観終わった後に、何故かすごい褒められまして。嬉しかったです。それで、「このシャシン(映画)には力がある。単位はやろう」と言われ、その学科長の鶴の一声で卒業が決まりました(笑)今の時代では考えられない展開ですよね。でも、本当に中島先生の懐の深さには今でも感謝しています。
この「映画制作論」では、熊切先生の前任担当教員が中島貞夫監督でした。お二人の間にそんなエピソードがあったとは!!)

「映画制作論」の撮影に来られた中島先生(手前)とのワンシーン

-映画作りのおもしろさや映画を作る理由を教えてください。また映画監督をしていなかったら何をしていたと思いますか?

 「映画の世界では何やってもいい」とさっきも言いましたが、原点はそこだと思います。シナリオを作る段階から、具体的で細かい部分をどんどん積み重ねていく。そうやって積み重ねるうちに、構想時には予想もしていなかった全然違う作品ができたりする。それがまたすごくおもしろいですね。映画をなぜ作るのかというのは、やはり「窮屈」な自分が「自由」になれるから、でしょうか。映画監督をしていなかったら、自分は音楽が好きなので、音楽の道に行っていたかもしれませんねでも音楽は「音」だけ、絵画は「画」だけ、小説も「文字」だけで表現する。そういう意味ではいろんな要素があって、表現の幅があるのはやはり「映画」だと思います。テレビの仕事もやったりしますが、細部にこだわったり、表現の「幅」では「映画」の方が広いのかなと感じますね。

-映像学部生にメッセージをお願いします。

 もっと、もっと、「妄想」してください。
 「作りたいんです」と言ってくる学生に限って、どんなの撮りたいの?と聞くと、「まだ漠然としていて…」と具体的にはなかったりする。

   作りたいのであれば、「漠然」としたものを「具体」にしていかなければダメだと思うんです。そのためにどんどん妄想して、企画を練ってほしい。
 
妄想、大事です。


熊切先生ありがとうございました!
「数々の作品を世に放って活躍されている映画監督から授業を受ける」というと、すごく現場は空気が張り詰めていて、学生たちは先生の顔色を伺って、息も吸えないぐらいの状況なのではないか?と思ったりもしていましたが、熊切先生は非常に気さくで、また指導も学生の声に耳を傾けながらされていて、逆に驚きました。

「映画制作論」は年度ごとに制作した数作品をオムニバス形式で一つの映画として完成させ、上映・発信することが最終目的となります。過去には京都や東京の映画館で上映発表会をおこないました。熊切先生の指導した作品の上映情報もまたこのHPでお知らせする日が来ると思います!楽しみにお待ち下さい!

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