2024年12月、立命館大学パンサーズは、アメリカンフットボール大学日本一を決める「全日本大学選手権決勝・第79回甲子園ボウル」で法政大学オレンジを下し、優勝した。チームを9年ぶり9回目の日本一に導いたのが、キャプテン・山嵜大央さん。自身もRB(ランニングバック)として試合開始1プレー目に60ヤード独走タッチダウンを決めるなど大活躍し、甲子園ボウルMVPと年間最優秀選手賞であるチャック・ミルズ杯を受賞した。「あの勝利は誰かに導かれた運命のようなものだった」と話す山嵜さんに、今までのアメフト人生を振り返ってもらった。

あと一歩のところでの敗戦

元アメフト選手の父親に連れられ、叔父がアメフト部の監督として指導する高校の練習を見に行くなど、山嵜さんにとってアメフトは幼い頃から身近な存在だった。小学3年生の時、少年チームに入部し、学校とは違う友達や世界ができて夢中になった。山嵜さんはどのポジションでも器用にこなし、小学生時はキャプテンを務めるなど頭角を現していった。「チームも何十年ぶりに強豪を破ったり地域のリーグで優勝したりと良い線までは行っていたのですが、掲げていた“日本一”という目標達成まであと一歩というところでいつも負け続けてきました。今までのアメフト人生のほとんどの場面がそうでした」と振り返る。
高校は叔父が監督を続けていた大阪産業大学附属高等学校に進学。3年生の時にエースとしてチームを関西リーグ優勝に導く活躍をしたが、その関西リーグ決勝戦で大けがを負う。「ほとんどオフもなく過酷な練習をしてきた疲れがその日に出てしまって、疲労骨折でした。結局、次の試合に出られずチームも全国優勝を逃してしまい、高校時代もまたあと一歩のところで悔しい思いをしたんです」。

大学フットボールの壁

その後、当時の古橋由一郎パンサーズ監督から熱烈なオファーを受け、立命館大学への進学を決めた。思いを新たに、日本一を目指すはずだったが、1回生から思わぬ壁にぶつかってしまう。「高校の頃の怪我と大学入学後のコロナ禍が相まって、思う通りに練習ができない期間があり、本来の自分からは程遠い動きになってしまったんです。さらに自分のポジションに13人の候補がいて、試合に出る機会が全くなくなってしまった。悔しい気持ちとは裏腹に、なかなか動きにキレが戻らず、そのギャップで心が折れてしまいました」。2回生になっても苦難は続く。ようやく試合には出始めるものの、レベルの高い複数の先輩に圧倒されてしまった。先輩を超えるためフィジカルで勝負しようと体重を増やしたが、皮肉にもそのことが何でも万能にこなす山嵜さんの持ち味を奪うことにつながってしまった。
完全に自分を見失ってしまった山嵜さんは、3回生時、藁にもすがる思いで母方の叔父にそのことを相談。叔父のサポートを受けて、トレーニングや食事管理の方法を徹底的に見直し、強靭なフィジカルと誰にも負けないスピードを両立した肉体へと改造することができた。「人の何倍ものトレーニングを継続し、それがプレーにもいい影響を与えてくれました。3回生になるとレベルの高い先輩方が卒業してしまったので、自分が活躍しないとチームが試合に勝てない状況になっていました。『自分がチームを引っ張っていかないと』という気持ちが芽生えてきました」。

人生最大の挫折

チームの中心メンバーとして活躍し始めた山嵜さん。しかし23年11月、再び輝き始めた彼に最大の試練が訪れる。天王山ともいえる関西学院大学との一戦。その第1クォーターでまさかのファンブル(ボールを取り落とすこと)をするというミスを犯してしまう。それがきっかけとなったのか、チームも奮わず10-31で敗戦。大学日本一はおろか、甲子園ボウル出場すら叶わなかった。「上り調子だった自分の過信・慢心が招いたミスです。チームを引っ張っていかなければならないのに、逆に自分がみんなに迷惑をかけてしまった。そのことが何よりもショックでした。また追い打ちをかけるようにSNSで批判的なコメントがたくさん書き込まれ、心が引き裂かれるようでした。正直、そういった現実から離れて、家に引きこもりたい気持ちでした」。そう語るほど、山嵜さんにとって、今までにない大きな挫折だった。
ふさぎ込む山嵜さんだったが、12月末のオフに入るとすぐに以前肉体改造を手伝ってくれた母方の叔父に叱咤され、トレーニングに連れ出された。それは、経験したことのないほどハードな練習だった。「あまりの厳しいトレーニングに倒れこんだ時、叔父から『お前のしたことはもっと重いぞ』と言われたんです。ファンブルしたことの罪は、このトレーニングよりもっと重いという意味だったのだと思います。心に突き刺さるような一言でしたが、その言葉がきっかけで、目が覚めました。チームに迷惑をかけた分、今度は自分がチームを日本一にするのだと本当の意味で覚悟が決まりました。叔父の、あの厳しい一言がなければ、今の自分はなかったと思います」。

キャプテンとしてすべてを懸ける

吹っ切れた山嵜さんはパンサーズのキャプテンに立候補。チームを勝たせるため、自分のことよりもチームを優先するという強い覚悟を仲間に伝え、最終的にキャプテンに選ばれた。キャプテンとしてチームをどうしたら良い方向に導けるか考え抜き、出した結論は、あえて「波のあるチーム」にすることだった。「このチームを勝たせるためには仲がいいだけではだめだと思っていました。だから、あえて仲間に厳しい言葉を投げかけ、自ら波を作ることをいとわなかった。チーム内を衝突させ、波を乗り越えた先にこそ強いチームができると信じていました」。山嵜さんの狙い通り、たくさんの衝突や予想できないことが起こるたびに、メンバーに危機感や責任が芽生え、チームが変わっていったという。「今年度から新しく来られた高橋健太郎監督の存在も大きかったです。自分のキャラクターと、高橋監督のリーダーシップがマッチしていましたし、監督のおかげで、監督が現役の頃の黄金期と呼ばれたパンサーズのカラーを取り戻したような気がしました」と山嵜さんは語る。
また、チームだけでなく自身を鍛えることも忘れなかった。特に4回生の夏合宿では早朝4時から過酷なトレーニングを自らに課し、徹底的に自分を追い込んだ。「夏合宿を1週間やり切ったことが、圧倒的な自信につながりました。結果、メンタルも能力もアップしました。自分でも驚くほどの体のキレを手にし、最高の状態に仕上がりました」。

万全の体制で迎えた24年秋の関西学生アメリカンフットボールリーグ戦で、パンサーズは優勝。その後もチームは勝ち進み、山嵜さんは大学最後の年に念願だった甲子園ボウル出場のチケットをついにつかみ取った。そして迎えた甲子園ボウル本番、試合開始直後に山嵜さんはいきなり60ヤード独走タッチダウンを決める電光石火の活躍を見せた。その後、一進一退の攻防が続く、厳しい展開に。それでも固い絆で結ばれたチームを、プレーで、言葉で鼓舞し続けたキャプテン山嵜さんの執念が流れを引き寄せ、パンサーズは9年ぶりに日本一の栄冠を手にした。小さいころから追い続けた夢、「日本一」を達成した山嵜さんは振り返る。「3回生の時のあの挫折がなかったら日本一にはなれなかった。今まであと一歩のところで負け続けてきた人生の先に、日本一の頂に立てたのは、誰かに導かれたような、不思議な運命を感じました。ずっとしんどい思いをしてきたけれど、決してあきらめることなく、挑戦を続けたからこそ日本一になれた。どん底に落ち、もがき苦しみ続けたけれど、最後の最後に、心の底から仲間と笑える最高の景色を見ることができた」。
悲願の大学日本一をかなえた山嵜さんは、卒業後も実業団でアメフトを続ける。日本選手権ライスボウルでの優勝、そして日本人選手がまだ誰も成しえたことのないNFL(National Football League)入り。「大学日本一」も、彼にとっては伝説の序章に過ぎないのかもしれない。さらなる高みへと歩みを進まんとするその背中を、これからも追い続けたい。

PROFILE

山嵜大央さん

大阪府枚方市出身。大阪産業大学付属高等学校卒業。趣味は読書、トレーニング、アウトドア。
特に尊敬する人は、長谷川昌泳パンサーズ元オフェンスコーチ、高橋健太郎監督、冨岡耕児デベロップメントコーチ。

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