Message図書館副館長からの
メッセージ

里深 好文SATOFUKA Yoshifumi
図書館副館長/理工学部 教授

過ぎたるは
猶及ばざるが如し

このWebマガジン「図書館だより〜Library Navigator」に学生へのメッセージをとのお話をいただいたこともあって、先日、久しぶりにBKCのメディアセンターに足を運びました。コロナ感染症がもたらした混乱はもちろん大学の図書館にも及んでいましたので、私自身何年かぶりの訪問でありました。コロナ以前と同様に静まり返った館内で多くの学生諸君が熱心に調べ物をしている様子に安堵し、「ぴあら」ではいくつもの学生グループが仲良さげに語り合っていて、大学があるべき姿に戻ったことを実感いたしました。こんな何気ない光景を見ただけで感動してしまうとは、少々歳を取りすぎたのかもしれません。

それほどまでに図書館から遠ざかっているとは研究者として不適格ではないのか、とのお叱りを受けそうな気もしますが、実のところ研究においては図書館に出入りできないことによる不都合はほとんど生じていないのでありました。私だけではなく、多くの理系の先生方は研究に必要な情報はオンラインで入手するのがもはや当然となっていて、何か特別な事情がなければ図書館に出向いて文献や資料を探す必要はなくなっているのです。本当に便利になったものだと思います。キーワードを入力しさえすれば数多くの文献に素早く触れられる時代になったことは本当に喜ばしいことです。インターネットが登場する以前は、論文を探すこと自体がかなり大変な仕事だったのですから。

今から40年ほど前、大学4回生になったばかりの私はゼミで発表するための論文を一人で探していました。大学付属研究所の図書館の閉架書庫には人の気配がなく、インクとホコリの匂いが満ちていました。圧倒的な蔵書の数に圧倒され、さて、どこから手を付けてよいものやらとしばし思い悩んでいましたが、立派に装丁された海外の学術誌を手にしてみますと、自分が「研究」の入り口に立ったのだとの強い思いが涌いてきたのです。まだ本の中の情報を知る前の段階ではありましたが、本の匂い、手触り、重さ、ページを捲る音、といった感覚だけでも喜びを感じずにはいられなかったのでした。この時の記憶は今もはっきりと私の中に残っています。海外からやってきた論文の中にある新しい情報もさることながら、図書館の持つ「空間」そのものが大いに刺激的でありました。残念ながら私が選んだ論文たちはゼミの場でいずれも「つまらない」との評価を受けてしまいましたが、それでも世界中でほんの一握りの人だけが知っている事柄に触れられたことに十分すぎるほど感動したのでした。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」との言葉があります。私は昨今の効率至上主義ともいえる状況にいささか疑念を持っています。著名な文学作品をダイジェスト版で読み、映画の短縮版を違法な形で見ることは「楽しい」ことなのか、私には分からないのです。作品の内容をただ知っていることにどれだけの価値があるのでしょうか。その作品の周りにある「時間」や「空間」までを感じ、じっくりと味わって取り込んでこそ、長く記憶に刻まれる感動が得られるように思うからです。同じ本を読むにしても、「いつ」「どこで」読むのかが大事だと思いませんか。最新の論文をオンラインで読むだけの自分を棚に上げて何を言っているのか、と思われるかもしれませんが、かつての想いを忘れかけているからこそ、図書館の持つ「空気」を若い方々にも感じてほしいと願うのです。

いうまでもなく大学は単なる職業訓練の場ではありません。人と出会い、刺激を受け、思い悩みながら成長するための場であると私は思っています。立命館大学の図書館はまさにそのために必要な装置です。図書館は単なる本の置き場所ではなく、多くの人が本と出会って感動し、素敵な時間を過ごすための空間であらねばなりません。果てしない効率化の波に翻弄されて人間の価値観そのものも大きく変容せざるを得ないことは理解できますが、これまで多くの人が感じてきた「楽しさ」をそう簡単に捨て去ってはいけないとも思うのです。思い立った時にいつでも実物の書物に触れられる場所は、大学にとってこれからも最も大切なものであり続けると私は信じています。