福間 良明教授 の VOICE

VOICE

取材時期:2016年

福間 良明教授 教員

研究テーマ
「戦争の記憶」をめぐる歴史社会学・思想史
「教養」と「格差」をめぐる戦後メディア史
教員詳細

「何が正しいのか」ではなく「どんな正しさがなぜ創り出されるのか」を考える

先生は、どのような経緯から現在の研究テーマを設定されたのでしょうか。

のっけから話が長くなりますが、もともと、中堅どころの出版社で編集者をやっていました。それも、いまの研究テーマとはまったく関わりのないビジネス実務専門書の担当でした。福利厚生や生産工学、会計、法人税制等々のテーマです。編集の仕事はわりと好きだったのですが、もともとの関心が実学分野ではなく人文社会系だったのと、「本を作る」ことよりも「自分で書く」ことに漠然と憧れがあったので、「ダメでもともと」といった気持で、働きながら大学院に通い始めました。学部生のころはほんとうに不勉強だったので、院に入っても修士論文を書き上げる自信は全くなかったのですが、なぜか、大学院で勉強させてもらえることになりました。で、せっかく研究をやるんだったら、仕事のことを思い出さなくてもいいテーマにしたいという不純な動機から、戦前期の思想史やナショナリズムを扱うようになりました。

ナショナリズムに関心を持ったのは、当時の社会状況も関わっていたような気がします。当時、「戦後50年」をちょっと過ぎたころで、歴史認識をめぐって喧々諤々の議論があり、私の勤務先でもその種のテーマの本を多く出していました。こうした状況を、ちょっと斜めから批判的に捉えつつ、「何が正しいのか」ではなく、「どんな正しさがなぜ創り出されるのか」「それは時代とともにどう変わっていったのか」を考えたいというのが出発点でした。

そんなことを考えながら、博士論文までは、近代日本の諸学問の編成過程とナショナリズムを扱ったわけですが、その後は、戦前期の知識人言説や思想史といった「堅い」テーマばかりはなく、ちょっと「楽しい」テーマで「戦後」を扱ってもいいかな、と思うようになりました。ただ、私にとって「楽しい」対象は、流行りのメディア文化などよりむしろ、「昭和」の戦争映画とか任侠映画とかでした。そこから、半分趣味で半分研究のような感じで、戦後のメディア史とか「戦争」をめぐる言説史を扱うようになりました。近現代史や戦後史を扱っていると、「いま」の常識が覆されることが多々あり、それが快感というか、あまりに楽しくて、この研究をやめられない、というのが正直なところです。

先生は、これまで研究上の大きな困難にぶつかったことがおありでしょうか。
また、その場合どのようにしてそれを克服されましたか。

かつて社会学と歴史学の間でもがいていたことが、自分のなかでは大きかったような気がします。修士課程までは社会学を専攻していましたが、博士課程では実証史学的な政治思想史の研究室で勉強しました。私は歴史社会学やメディア史に関心があったので、社会学と史学の両方を勉強したいという思いがあったのですが、史学の研究室に移った当初は、社会学との温度差にかなり戸惑いました。

社会学はある資料やデータから社会のどんな構造が見えるのか、という点が重要視されますし、それだけに図式的・理論的な説明もある程度求められるように思います。しかし、実証史学(的な思想史研究)では、新史料を発掘したり、「何が事実なのか」を細かく緻密に検証することを重んじる傾向があります。その分、社会学からすれば過度に細部にこだわっているようにも見えるのですが、逆に実証史学からすれば、社会学は図式的な説明に重きを置く分、事実の細部を削ぎ落としているようにも見られがちでした。ただ、そんな中で自分の方向性について悩んだり迷ったりしたことが、自分の研究スタイルを考えることにつながったような気がしています。社会学と歴史学を足して2で割る(薄める)、というのではなく、社会学でありながら同時に歴史学でもあるような、そんな仕事をしたいと思うようになったのも、それがきっかけでした。

考えてみれば、すぐれた歴史学の研究には、細かな史実を洗い出すだけではなく、それを積み重ねながら戦時期や戦後の社会的・文化的な構造を解き明かすものも少なくありません。それは、たとえ「社会学的」でなくとも社会学に通じるところがあるように思います。他方で、すぐれた(歴史)社会学は、図式的・理論的な見取り図を提示しつつも、同時に史実や史料をじつに緻密に読み込んでいます。そんな仕事がいまの自分にできているかはさておき、研究上の指針としてそんなことを考えるようになったのは、上述の大学院生のころの経験が大きかったように思います。

2年間の修士課程を終えて社会に出ていく院生に対して、大学院時代の成果をどのように実社会で生かしていくか、アドバイスをお願いします。

理科系や経営学系の研究科とは異なり、この社会学研究科は実学を多く扱うわけではないので、大学院で学んだことが実社会ですぐに役に立つ、ということは少ないかもしれません。ただ、5年、10年といった長いスパンで、じっくりと効いてくるものではないかと思います。それは具体的に言えば、「事実の検証」と「構造の把握」ということになろうかと思います。

計量的な調査であれ質的調査であれ、あるいは文字資料・映像資料の分析であれ、社会学の研究では、実証の精緻さが求められます。それは、何が「事実」であるかを見極め、調べぬく術を身に着けることでもあります。ただ、「事実」がわかればいいのではなく、それを通して、どのような社会の構造や力学を読み取ることができるのか。こうした思考も不可欠です。

これらの作業は、企業や自治体、NGOなどで、新たな仕事を創り出したり、仕事の方向性を考え直すうえで、じつは不可欠なものではないかと思います。いったい状況はどのように推移しているのか。それはいかなる社会的な要因に支えられているのか。それらの精緻な分析があって、はじめて新たな事業や企画の立案・実践が可能になるんじゃないかと思います。それは実務の現場で「すぐに役に立つ」ものではないでしょうが、仕事の質や奥行きを、見えない形で水路づけるものなのかもしれません。

将来研究職を目指す院生が早い段階から取り組んでおくべき課題があるとすれば、それは何でしょう。

自分が「真似」したい(モデルにしたい)単著の学術書を見つける、ということでしょうか。単著の研究書というのは、多くの場合、一定以上の水準をクリアした博士論文に相当します。それを目標というか参照点にすることで、大学院に入って5年後の自分の博士論文を少しは想像できるでしょうし、それをまとめる途中経過でどんな修士論文を書いたらいいのかということも、いくらかイメージできるようになるんじゃないかと思います。ちなみに、「真似したい本」というのは、自分の研究テーマに合致しなくてもいいと思います。分析の仕方、対象との距離の取り方、文章のスタイル、どんな資料を使っているのか等々について、自分にとってのモデルのような本を見つけられれば、それでいいかと思います。もちろん、大学院ではオリジナルな研究をするわけですから、「真似」に終始してはいけないわけですが、自分のなかで、何となくモデルが見えていれば、それをどうアレンジするのか、あるいは、どう乗り越えていくのかといったことも、だんだんと見えてくるんじゃないかと思います。

私自身も、大学院生のころには、「こんな学術書がいつか書ければなぁ」と思う本がいくつかありました。むろん、当時の私にとって(というか、今の私にとっても)、それは手に届かないほどの奥行きや深さがあるものでしたし、「どうせ一生かかっても、こんな本は書けないだろう」という思いに駆られることも、しばしばでした。ただ、それでも、研究に行き詰ったり、方向性が見えなくなったときに、これらの本に立ち返って、「その本を書いた研究者であれば、私の研究対象(資料)をどう料理するだろうか」などと考えたりしたことは、突破口を考えるうえで役に立ったように感じています。