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辻下 徹 先生(理工学部)

 

今回のテーマ:「複雑系」と数学

現代の世界観の根底に「物理的宇宙仮説」があるようです。これは、世界は宇宙空間と物質からなる物理的宇宙に他ならない、すべては、そこから理解できる、という仮説です。この仮説から、生命現象は複雑な物質現象に他ならない、心は脳における活動に他ならない、と結論されます。これらは自然科学における研究の基盤となる作業仮説です。この仮説に加えて「数学的宇宙仮説」というものを考える場合もあります。これは、物理的宇宙は数学的に記述し尽せるという仮説です。これも精密科学にとり不可欠な作業仮説といえますが、高度な無限を自由自在に扱う現代数学にとっては、物理的宇宙全体の「状態」を数学的に記述し尽くすのに必要となる無限は小さい無限でしかないので、正しそうな仮説です。以上の仮説からは、生命は数学的な概念としてとらえられる、心は(脳を数学的に完全に記述すれば)数学的現象である、という結論が出てきます。こういった帰結の真偽は不問にして、とりあえず、その帰結を徹底的に追求してみようというのが、数学の立場からの複雑系研究の動機の一つになると思います。しかし、上のような仮説は「間違っている」―より正確に言えば、適切に理解されていない、というのが私の最近の持論ですが、そのような考えに至るまでに出会った本を紹介してみたいと思います。


『数学のスーパースターたち : ウラムの自伝的回想』
ウラム著 ; 志村利雄訳(東京図書 1979年)

原爆と水爆の開発における知的巨人達の天真爛漫な知的奮闘が描かれています。「政治的道徳的あるいは社会的な理由から、爆弾に激しく反対した人とは対照的に、私は純理論的な仕事をすることに関して何ら疑問を持たなかった。物理現象の計算を試みることは不道徳なことだと思ったことはない。」という率直な発言が多数あるところが魅力の一つです。原本のタイトルの直訳は「ある数学者の冒険」ですが、本で日常的に登場するのがフェルミだったりファインマンだったりフォンノイマンだったりするので、和訳のようなタイトルになっているのでしょう。印象的な言葉が無数にありますが、一つだけ紹介しておきましょう。「私はフォンノイマンやコーキンとも、流体力学、とくに閉鎖性爆発の過程に関する問題を何回か話し合った。自分でもいささかおどろいたのであるが、数学者として純粋に抽象的にものを考える習慣が、かなり実際的で特殊な実質的問題の研究にもすぐに役立つのである。数学者の中には純粋数学と物理学の思考様式に「ギャップ」があると強調する人が多い。しかし、そんなことは全然感じなかった」(p137)。ウラムの思考の自由度は感染的な影響力があり、知的巨人の証言が自分のような普通人に妥当するかどうかは問うことなく、単純に勇気つけられた記憶があります。自己増殖の数理モデルを連続体で考えようとしていたフォンノイマンに、離散的なモデルを考えてみてはどうかと示唆したのはウラムだというところも印象に残っています。

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『自己増殖オ-トマトンの理論』
J.フォンノイマン著 ; A.W.バ-クス編補 ; 高橋秀俊監訳(岩波書店 1975年)

複雑系についてのフォンノイマンの草分け的な試行をバークスが集めたもので、セルオートマトンによる自己増殖モデルの作り方の原理と、具体的な設計法が書かれています。読み通したことはないのですが示唆に含む言葉が多数あります。p97「こうして、複雑さというものには完全に決定的な性質があることになります。すなわちある限界的な大きさがあって、それ以下では合成の過程は退化性であり、それ以上では合成の現象が、うまく仕組むと爆発的になりえること、言いかえればオートマトンの合成が、それぞれのオートマトンが自分より複雑な、より高い能力をもつ他のオートマトンを生成するような具合に進行するということです。」「複雑さの概念を正確に定義するまでは、漠然として叙述の域を脱することはできません。また複雑さの概念を正確に定義するには、まず、非常にきわどい例、つまり複雑さというもののきわどくかつ逆理的な性質を示すような適当な構成物をいくつかつくって詳細にしらべる必要があります。」チャイティンによる(文字列の)複雑度の定義などはありますが、フォンノイマンが追究していた「複雑さを定義する」ことは半世紀を経てもできていませんが、それが擬似問題であることがわかってきた、と言えなくもありません。

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『A new kind of science』
Stephen Wolfram(Wolfram Media 2002)

コンウェイによる「ライフゲーム」はスクリーンセーバにも使われ馴染み深いひとも多いと思います。この2次元セルオートマトンは、フォンノイマンの複雑なセルオートマトンと比較すると本当に単純なものですが、見ていると生き物を見ているような錯覚に陥るほど、複雑な挙動を示します。ウォルフラムは1次元のセルオートマトンをすべて調べ4つの型に分類しました。第1型が周期的なもの、第2型が準周期なもの、第4型がランダムなもので、第2型と第4型の間に万能計算機能を持つ第3型があります。NEW KIND OF SCIENCE は、第2型は貝殻の模様を再現できる一方、第3型はより複雑な生命現象のモデルとなるという発想から、セルオートマトンを通して世界を理解しよう、という目論見を展開しているもので、「複雑系」の一つの有力なアプローチとなっています。この本は「コンピュータ実験」をしながら、世界についての新しい見方を学ぶという野心的なものです。本全体がフリーでオンライン提供されています。

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『非線形な世界』
大野克嗣著(東京大学出版会 2009年)

複雑系へのアプローチとしてカオスに基づく大きな流れがあります。実数は、一つでも、汲み尽せない無限の情報を担っていますが、それが、カオス力学系と呼ばれる微分方程式を通して、時間的に展開されることでランダムな振る舞いだけでなく、「意味のある複雑さ」をもつプロセスを産み出します。たとえば1次元上に並んだセルが簡単な法則で変化しているとき、ゆるい相互作用以外はほぼ独立して振る舞っているにもかかわらず、全体としては複雑な現象が生じます。しばしば全体に秩序が生じて整然とした挙動を示すのですが、やがて秩序が崩れて無秩序な状態に陥ります。しかし、しばらくたつと、また新たな秩序が発生します。物理学者の津田一郎氏や金子邦彦氏らはこれを「カオス遍歴」と呼び、生命現象の重要な側面を理解するためのモデルと考えています。これに対し、物理学者の大野克嗣氏は、生物は、そういう単純系からは生じることができず、ダーウィン過程が不可欠であるという立場を展開しています。その主張をまとめた本であると同時に、数学や物理で、「なぜこういう概念や方法が有効か」という原点からの説明に徹していますので、学ぶことが多いと思います。脚注が豊富なことも特色的で、脚注を読むことを通して、論理的に展開されている本文の内容の広い連関や背景にある普遍性のある考え方を知ることができるように配慮されています。

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『行動の構造』
メルロ・ポンティ [著] ; 滝浦静雄, 木田元訳(みすず書房 1964年)

「心は脳の現象である」というのは現代人の世界観の根底にあるように思います。少なくとも私にとっては長らくそうでした。自然科学がとどまるところを知らないように見える発展を始めた19世紀以来、こういった世界観の根本的欠陥を、大哲学者が種々の角度から批判をしてきました。難解さや長大さで私には敷居が高いものが多いですが、ポンティは独特の素朴なスタンスで、しかし言葉を尽くして、生命と心を複雑系としてとらえるアプローチのもつ本質的限界を簡明に、説得力を持って示してくれました。特に第3章の「物理的秩序、生命的秩序、人間的秩序」は私には衝撃的で、複雑系についてのスタンスの変化をもたらしました。

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『原生計算と存在論的観測 : 生命と時間、そして原生』
郡司ペギオ‐幸夫著(東京大学出版会 2004年)

生命を「複雑系」とみることがどういうこと、それは適切かどうか、という問いかけが展開されています。これも衝撃を受けた本です。松野孝一郎氏が提唱した「内部観測」が鍵となっています。どのような相互作用(観測もその一つ)も時間の中で行われるために完了することがない、というのが「内部観測」の原点です。「観測」に言語活動・理論構成等の知的活動も含めるとき、通常の自然科学のありかたを根底から再吟味することを「内部観測」は求めることになります。内部観測論は、それ以上確固としたものはありえないと思われるほど確固としたもの自身が不定性を孕んでいる、という視点を与え、数学も例外ではなくなります。また、確固として変わりようがないほど安定した生物の種が変化することを考えると、広い意味の生命性の核心に迫る視座を与えるとも言えます。根源的な「不定さ」を何らかの方法で解消しようとするとき、その方法に依存した「複雑性」が生じます。複雑性は、解消の仕方に即して発生するもので、本質ではない、という見方が出てきます。

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『哲学探究』ウィトゲンシュタイン全集8
[ウィトゲンシュタイン著] ; 藤本隆志訳(大修館書店 1976年)

言語活動にある内部観測的な様相はウィトゲンシュタインが哲学の立場から発見したものです。自然数のような確固とした基盤が不定性を持つ、という主張にはすぐには信じがたいものがありますが、ウィトゲンシュタインは「確固としている」という言葉自身が宙に浮いていて支えがない様子を見事に明らかにしています。数学者でもある哲学者のクリプキが「プラス・クワス論法」で、数の不定性を詳しく論じました。ウィトゲンシュタインの懐疑は、新しい明証性を基盤としたものと言えます。デカルトの懐疑がデカルト的明証性を基盤としていたのと同様です。ウィトゲンシュタインの数学論は数学界ではいまなお数学を知らない人の戯言と考えられています。しかし、現代数学が最も確固とした基盤としている自然数概念の一意性、つまり有限概念の一意性を否定する数学が、超準数学として成功していることは、数学における「内部観測」を指摘したウィトゲンシュタインの妥当性を傍証しているように感じます。

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『精神指導の規則』
デカルト著 ; 野田又夫訳(岩波文庫 1974年)

上で言及した「デカルト的明証性」が規則第3「提示された対称に関して探求されるべきは、他人が何を考えたか、あるいはまた、われわれ自身が何を推測するであろうかではなく、われわれが何を明晰にかつ明証的に直観できるか、あるいは、何を確実に演繹できるか、ということである。なぜならば、それ以外の方法では学問は得られないからである」に直截に呈示されています。この明証性は数学の特質を的確に表現しているように思います。現代では「頭を良く」するためのノウハウ本が無数に出ており、どの本も意義あるオリジナルなアドバイスが含まれているようですが、この本も同種の本と見れなくもなく、天才デカルトが自分の知的活動の秘密を「規則」として整理したものです。どの規則も簡単なもので、誰でも使おう思えば使えるという点で、それが人類史に残る天才によるものだけに魅力的です。数学を志す人には推薦したい本です。

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『春宵十話』
岡潔著(毎日新聞社 1963年)

はしがきの「数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである」という宣言は、デカルト的明証性とは垂直方向の側面に言及しているようですが、開国後1世紀を経て日本の数学が和算と洋算とが融合するところまで到達したことを傍証したものと言えなくもありません。江戸時代に栄えた和算は、創造性に価値を置く知的活動であって、それが明治以降の自然科学研究の精神的基盤を用意したと指摘する人もいます。和算については三上義夫「和算の社会的・芸術的特性について」が青空文庫にありますので一読ください。なお、数学者の志賀弘典氏が岡潔との対談の記録「天上の歌を聴いた日」(数学セミナー1979年1月号,2月号)は、学生のレポートを通して「第7識」から「第15識」の内容を解説したもので衝撃を受けた記憶があります。

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『無限とはなにか? : カントールの集合論からモスクワ数学派の神秘主義に至る人間ドラマ』
ローレン・グレアム, ジャン=ミシェル・カンター著 ; 吾妻靖子訳(オーム社  2011年)

生命を数理モデルで捉えようという「複雑系」では、無限とのかかわりがいろいろと出てきます。現代数学は、カントールによる無限集合論を通して「無限」を捉えますが、尽きぬものが確定しているという「無限集合」は、言葉の意味からしても矛盾スレスレの概念です。矛盾スレスレだけに多産的なのですが、本当に矛盾していないかどうかは、ゲーデルの不完全性定理により、証明できません。いまでもそういう状態ですから、100年前にラッセルの逆理が見つかったあと、フランスの天才的な数学者の中には、カントールの「無限集合」について躊躇逡巡する人がかなりいました。それと対照的に、モスクワでは無限集合に名前をつける方向に進展し記述集合論が誕生しました。この本では、この両方の動きを紹介し、モスクワでの数学の展開を促進したロシア正教にも独特の光を当てています。しかし、政治的な圧力の下であぶり出された天才数学者達のモラルの多様性は、数学と倫理の独立性を示すもので憂鬱な気分を与えます。

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『モスクワの数学 : あの黄金の歳月』
ズドラコフスカ, デュレン編 ; 安藤韶一訳(同朋舎 2012年)

上の本で創生期が描かれているモスクワの数学者コミュニティの百花繚乱の発展ぶりを知ることができます。しかし、20世紀後半に、政治的理由で精神病院に隔離されていたエセーニン-ヴォルピンを救うために政府に出した要望書に署名したために、主要な数学者のほとんどが海外流出を余儀なくされ、モスクワ数学の黄金時代がまたたくまに終焉した様子もかかれています。エセーニン-ヴォルピンは1960年頃に自然数列の複数性を提唱した人です。

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『フィロカリア』第1巻, 第3巻, 第7巻.
谷隆一郎、宮本久雄他訳(新世社 2006年)

ロシア正教は東方正教とよばれるキリスト教の一つですが、禅と非常に近い側面があって、カトリックやプロテスタントとは違い、日本人の心性にはなじみやすいキリスト教のようです。ロシア正教は最初から国家権力の中枢と不可分であったため腐敗と無縁ではなかったようですが、それを危惧した僧侶がキリスト教の原点に戻る足掛かりとして、10世紀頃までの聖人達の論文や談話から重要なものを集めたのが「フィロカリア」です。翻訳が進行中で、分冊で順次出版されており、最終的に10巻になるようですがかなり高価です。しかし英語訳をオンラインのPDFファイルで見ることができますhttp://archive.org/details/Philokalia-TheCompleteText

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『フィンランド教育の批判的検討 : 学力の国際比較に異議あり! 』
柴田勝征著(共栄書房 2012年)

上で触れました、デカルトと岡潔の数学観の違い、西方と東方のキリスト教の違いなどは、東西の精神性の違いをふまえて日本を考えることの重要性を感じさせますが、この文脈で、テーマから少し離れますが、数学者の柴田勝征さんの本を是非紹介しておきたいと思います。OECD(経済協力開発機構)の教育問題についての発言や、OECDが行っているPISA(国際生徒評価のためのプログラム)は、日本の教育関係者の間で無条件に尊重するような雰囲気があります。柴田さんは、PISAで使われた数学の問題がおかしいことに気付いたことを契機に、PISAを広汎な視点から吟味し、種々の問題を指摘してきました。PISAの調査で高い評価を受けているフィンランド教育を現地で調査し、PISAの調査にある根本的問題性を指摘しています。柴田さんはこういった「研究」を通して「ズーム型認知論」を提唱し、チョムスキーとの論争を始めています。なお、「日本の教師こそ世界一・アメリカを驚愕させた授業研究」のところで転載されている千々布敏弥氏の論説「青い鳥は日本にいた―再発見される日本の教育の強み」は教員志望者に一読いただければと思います。

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