図書館の新型コロナウイルス感染症への対応について(更新:2020年5月29日)

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金丸 裕一 先生(経済学部)①

 


はじめに
「癒し」を求めることが、「不機嫌な時代」たる現在のブームであるという。疲れた毎日を過ごしていると、確かに「癒されたい」とは思う。しかしふと立ち止まって、そもそもわたくしが「癒されたい」という発想の裏側には、常に「傷ついた自分」が存在することに気がついたならば、「癒し」へのひたすらな希求は、大変に危険であるといえよう。すなわち、「傷ついた」自分は、常に誰かから「傷つけられた」のだから苦しいのであり、その「原因」や「犯人」の追及と糾弾だけが、回復への前提に設定されるからだ。これでは、自我が肥大しきって、他者との話し合いはできなくなってしまう。
関係性の中にあって生きているわたくしたちは、「傷つけられる」だけではなくて、知らぬ間に誰かを「傷つけて」生きているのだ。この相互関係を出発点にしない限り、対話とともにある大人としての生活は過ごせない、などと最近は考えたりしている。

(1)ことばの魔力と魅力 しかし、年がら年中こんなことを思いながら生きていくのも大変だ。先日、サザンオールスターズが活動休止をすると聞いて、慌てて古いレコードやCDを整理してみたけれど、なかなか見つからない。桑田が作詞した音楽は、正直な所、日本語の意味不明な部分も多く、「国語を大切に」というわたくしの原則からは絶対にお勧めできないのであるが、それでも好きなのだから、理性を超えた不思議な吸引力があるのだろう。大学を卒業してまもなく、俵万智『サラダ記念日』(河出文庫、1989年)という歌集が大流行した。キャンパスで何回か見かけたことがある人だったから、さっそく購入してみたが、言葉を自然に料理していく感性に驚き、文学関係の進路を目指さなくてよかったと、安堵した記憶が鮮明である。
高野悦子『二十歳の原点』(新潮文庫、1979年)という本は、立命館大学文学部史学科在学中の女の子の絶筆。といっても、自殺したのが学生運動全盛期だから、いま生きていれば今年は還暦になるはずだ。自死を選択する人間は大嫌いだけれど、「立命館の民主主義は死んだ」と40年前に断言した彼女の叫びに、当時たぶん同じ「場」を共有していたであろう長田豊臣理事長先生はじめ「全共闘世代」の生き残りが、いまどのような答えを返すのか、興味が湧き出る作品である。とにもかくにも、ことばには魅力と魔力がある。最近たまたま買ってきた一青窈『明日の言付け』(河出書房新社、2008年)を読んでいたら、若いながらも自分流「ことば」の流儀を守っている人を発見して、すこし、うれしくなってきた。これまた、理性の次元における「好み」ではないだろう。オッサンになると、ストライクゾーンが広くなるのも考え物だが……。

(2)光と闇と 光だけや闇だけに生きている人間はいない。善と悪が同居したのがわたくしたち被造物であり、社会もまた、善だけでは生きていけない仕組みになってしまっている。親鸞の「悪人正機説」のごとく、開き直りもある意味では真理を見事に言い当てているだろう。ただ、善と悪の線引きですら、個々人によって異なるものであるから、わたくしたちは他人の生き方の追体験を通じて、多くを学び、考える訓練が必要であろうと考えている。
いっとき、日本で一番伝記が書かれているのは誰かを調べ、これを読みまくったことがあった。きっかけの一冊は、渡辺淳一『遠き落日』上・下(集英社文庫、1990年)と記憶するが、<飲む・打つ・買う>の自堕落な私生活に溺れる「偉人」に、唖然としたり安心したりした。世界で一番は誰かと調べてみたら、案の定、ナザレのイエスであった。2000年以上にわたり、いろいろな人々が書いているから、数万種類はあるという。こんなに読んだら500年はかかるので、なんとか100冊くらいは読破した。特に面白かったのは、田川建三『イエスという男―増補改訂版』(作品社、2004年)である。田川氏は神学者であるにもかかわらず、護教論的な記述はみじんもなく、あくまでも学術的にイエスの人生を追究する。神学という学問に対する偏見が解けた、最初の出会いとしても懐かしい本である。最近になって田川氏は、「新約聖書」の学術的和訳を刊行しはじめた(作品社から刊行)。本文が20%、脚注や解説が80%という、わたくしが大好きなしぶとい作風であるから、ついでに紹介したい。40年以上もかけた仕事を読み解くときの「ワクワク」した思い、わかってくれるかしら。
イエスと対比されて描かれていたのは、「裏切り者」ユダであった。荒井献『ユダのいる風景』(岩波書店、2007年)は、我々の中にある「ユダ」をえぐり出す。荒井氏は、前出の田川氏とよくライバル関係にあると指摘され、世間的な物差では、東京大学名誉教授・恵泉女学院名誉教授の荒井氏が夙に有名であるが、世俗的評価の実態を知るには、この二人が書いたものをじっくり読み比べる作業が有益であると、あえて指摘しておきたい。
小説の形式をとっているけれど、三島由紀夫『青の時代 改版』(新潮文庫、1996年)は、敗戦後の価値観が大混乱している時期に発生した、東京大学学生が経営する「光クラブ」という高利貸業者に素材を求めたもの。金銭万能の幻想に染まってしまいそうな現在、世俗的な富では購うことが不可能である、永遠性・絶対性・超越や真理などに、主人公は如何に対峙したか? フェティシズムの魔術からあなたを救い出してくれる一冊になるかも。また、幕末に『解体新書』を手探りで翻訳する作業に生涯をかけながらも、その不出来さを自覚して、自らの姓名の記載を拒んだ前野良沢の人生を描いた、吉村昭『冬の鷹 改版』(新潮文庫、1996年)は、杉田玄白や平賀源内の「派手」な生き方とは対照的に、誠実と節操を何よりも大切にした良沢を描く。吉村氏の作風には、怠慢な歴史学者の仕事を一挙に吹き飛ばす誠実さが感じられ、小生が大好きな作家の一人である。
信念を貫き、信念に殉じた牧師・ボンヘッファーは、神に仕える道にありながら、「人を殺すなかれ」という戒律に敢えて叛き、時の独裁者であるヒトラー暗殺計画の指導者として生きて、死んだ。エーベルハルト・ベートゲ『ボンヘッファー伝』1~4(新教出版社、2005年)は、大部の著作であるが、彼の「死」と、前記した高野悦子の「死」の本質的相違などは、ぜひとも読み取っていただきたいものだと希望する。
なお、現在の立命館大学には、スポーツ方面で活躍する学生も多くいる。口の悪い連中は「脳味噌筋肉」とか陰口をたたき、いまでこそメタボを指弾され血糖値に悩むわたくしも、かつては運動部の一員であったゆえ、悲しくなる。体育会の諸君には、ぜひとも次の伝記は読んでもらいたい。すなわち、城島 充『ピンポンさん』(講談社、2007年)である。敗戦後、自信喪失症候群の中に沈んでいた日本に、卓球世界一の朗報を遥か「敵国」ロンドンよりもたらせた荻村伊知朗は、その驚異的な集中力を継続させ、変人という評価もものともせず、米中の国交正常化や、南北朝鮮統一チーム結成への根回しなど、現役引退後にむしろ大活躍したものの、IOC会長の下馬評が高まった時期に急逝した人物である。毀誉褒貶は人間にはつきものであるが、荻村氏こそ「弱さの中にはたらく強さ」を自覚したアスリートといえるのではないか。本学から、第二の荻村が出現することを祈る。

(3)「常識」ってなんだったのか? アジア研究に従事しているものとして、明治日本の文明開化を推進しつつ、「後進」アジアへの侵略を指導した「悪い男」が、慶応義塾の福澤諭吉であった。一万円札の顔が、聖徳太子から福沢に変わったとき、経済侵略のシンボルなどと散々文句を言われていたし、小生などは「なぜ大隈ではなく福沢か?」などと、嫉妬のような感想を抱いた。大隈もまた、大正時代には対中国廿一箇条要求で、わが国の侵略政策をプッシュしたことは間違えなく、ついでに言えば、立命館の実質的創設者(西園寺は学園と無関係ですよ!)である中川小十郎だって、台湾銀行頭取時代に植民地搾取に従事している。日本の高等教育史とアジア侵略は密接に絡んでいると思っていた時期に、平山洋氏が最初に書いた新書を読み、「常識」を覆す論証法に驚いたが、最近また平山洋『福沢諭吉』(ミネルヴァ書房、2008年)がまとめられた。細かい作業を通じて、従来はアプリオリに「福澤執筆」とされてきた数多くの論説が、他者代筆であったことを明かしていく。すごい執念。ついでに言えば、平山氏のような優れた学者を「助教」のまま放置している某公立大学の、知の混迷も透視できる一冊だ。戦時日本を震撼させたコミンテルンによる一大スパイ事件で死刑になった尾崎秀実は、中国研究でも日本の最高水準にあった人物である。いっときは「売国奴」という汚名を被せられた彼の名誉は、風間道太郎『尾崎秀実伝』(法政大学出版局、1976年)によって回復された。植民地台湾生まれの朝日新聞記者・尾崎の人生を通じて、愛国心とは何か、国防とは何か、あれこれと考えさせられる。
中国がらみなら、李志綏『毛沢東の私生活』上・下(文春文庫、1994年)もおもしろい。彼の侍医を担当していた筆者が、次々に暴露した毛沢東の姿は「皇帝」そのものであり、くわえて出版直後の謎の死が、「口封じ」と噂された背景も理解できる。しかし、早くから李志綏の回想録には嘘が多いと指摘していた学者もいた。わが国では、横浜市立大学にいた矢吹晋氏などである。ブームに流されない、誠実な研究者だ。こうした中で、中国共産党がその持てる機密史料を最大限に活用してまとめた反論として、林克『「毛沢東の私生活」の真相』(蒼蒼社、1997年)が出版された。なるほど、歴史の嘘はこうして書かれていくのかと、二冊を対比しながら読むのがお薦めである。なお、医者としての立場から、世界史上の「偉人」のやまいを分析した、小長谷正明『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足』(中公新書、1999年)からも、考えさせられることどもが多かった。

おわりに
こころの豊かな生活を過ごしたいと思う。勉強とか資格とかだけではなく、充実した人生を送るためには、遊びも必要だ。しかも良質の。読書以外にも、音楽だとか映画だとか、わたくしたちの精神性を高めてくれる素材は多い。しかし残念ながら、BKCの近隣には、こうした文化的施設が乏しく、都内で学生時代に暴れていた筆者には、寂しさがひとしおだ。滋賀会館シネマホール(県庁正面玄関前5階;077-522-6232)は、良質だが「売れない」映画をよく上映するので、興味がある方は、ぜひ注目していて欲しい。最後の一冊は、ヴィクトル・エミール・フランクル『夜と霧新版』(みすず書房、2002年)
強制的に与えられた深淵、人工的な陰府の中にあって、どうしてこんなに「強く」なることができたのか? 希望というものは、どこから湧き上がってくるのか? 若き日々にあって、しかし避けることのできない根源的疑問符にでくわした人は、書き込みでもしながら、どうかゆっくり読んでください。(了)