立命館大学図書館

   
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第76回:「目的の本と出会ったあとに図書館“通”への道は始まる」上田 高弘 先生(文学部)

インタビュー:学生ライブラリースタッフ 西村

2020.11.01


――インタビューをお願いしたら、ちょうど10年前に同じような要望に応えていますよ、と今も残るページのURL(*)を教えてくださいました。拝読すると、たしかに今回の企画とおおいに重なるのですが、この間にこの平井嘉一郎記念図書館が開館(2016)なったこともあり、この前後の変化についてお尋ねする意義があると思いました。

*https://www.ritsumei.ac.jp/lib/d06/010/2010_08/

私も同様の思いで要望に応えることにしました。現にこの新しい図書館のおかげもあって衣笠キャンパスは大きく変貌しましたが、でも、そうした物理的な変化とは別のことに先に触れさせてください。
10年前のインタビュー(以下、「前回インタビュー」)では、のちに師となる藤枝晃雄さんという美術批評家(1936-2018)の文章をたまたまある雑誌で読んで感銘を受け、それから論集に当たったり、それに収載されていないバックナンバーを漁ったり、という原体験を語りました。そのようにして図書館に入り浸った時間がなかったら、画家志望だった二十歳すぎの若者がのちにみずから批評文を書き、また研究者として文学部の教壇に立つことになる、その後の変化もありませんでした。ただ、いまの学生諸君に語って聞かせる物語としては、そんな原体験って、どれほどの意味があるのでしょう。
実際、いまなら何か気になることと出会ったらまず「ググる」でしょ? ぼくらが若かったころは、〈知〉はひたすら現物の書物から書物へと「数珠つなぎ」で引き出してゆくほかなく、だから現実問題として図書館が必要不可欠だったのですが、インターネットをつうじてありあまる〈情報〉を入手することができる皆さんには、現代の大学生ならではの「図書館との出会い/その利用方法」があれば良いのです。そのうえで「利用方法」について逆に訊くのですが、皆さんにとって図書館とは、第一義的には、「蔵書されていることが事前に確認できている書物の貸し出し手続きをおこなう場所」なのではありませんか。

――たしかにそういう面はあります。

ウチのゼミ生の主要な利用方法がまずそんな感じだから確認したのですが、一方でこんな話もあります。――レポートで意外な良書が引用されている。「なぜこの本を選んだの?」と尋ねたら、「図書館の書架にたまたまあったので」と何の屈託もない。「なんて安易なの!」と口をついて出かけた言葉をぐっと飲み込みます。そういう出会いもまた図書館の機能の一つだからです。そうして、きっかけがたとえ締切間近のレポートであっても、良い意味で「味をしめ」て、目当ての本が決まっているわけでもないのに開架の書架――しかも自分の専門分野を離れて隣接諸学あるいはまったく無関係の学問分野のも――をうろつく、そんな経験を重ねるようになったら「図書館通〔つう〕」の仲間入りをしたと言って良いように思います。

――いまのお話は、この衣笠キャンパスなら修学館の書庫(各学部の教育・研究と深く関連する専門書を中心に蔵書する)にも深く関わることかと思いますが、他方、この平井嘉一郎記念図書館には、学生が立ち入れない大きな閉架書庫空間もあって、そこには開架書架の2.2倍の書物が蔵書されています。

そのとおりです。ですから、開架書架でレポートのネタ探しを完結させたひと、あるいは書架の間を徘徊する自分にうっとりしてしまっているひとには、同時に、現代の大学生にこそふさわしい検索術のセンスも身につけてほしいと願います。
立命館大学では、どの学部でも初年次(一回生)から小集団クラスが営まれていて、そういう「深い検索術」を身につけるためのトレーニングもおこなわれるはずですが、それ無しに、ただ検索窓に文字を入力して虫めがねマークを押しても、Wikipedia やコトバンクの立項項目が先頭付近に来るほかは数ページにわたって商品紹介ページが並んでいる、なんていうことはないでしょうか。主要な検索プログラムがそういうアルゴリズム(計算式)になっているから仕方ないのですが、その「言いなり」になっていたら、「私の着想」、「私の思考過程」というのもしょせんは幻想で、実のところ「グーグル謹製」かもしれないのです。

――そうなると空間としての図書館の問題よりも、使い方の問題ということになりますか?

そう、そこで話は良い意味で「堂々巡り」して、さっきの「図書館通」の話に戻ってきます。検索して上のほうに出てこなかった本も図書館の書架には並んでいて「けっこう使えるやん」というケースが当然、ないと困るのです。それと、この「ぴあら」のような場所ですね。図書館の学生スタッフであるあなたたちはご存知でしょうが、「ぴあら」は、仲間を意味する「ピアpeer」から来ていて――ちがったかな(笑)?――、ワイワイと交わされる対話によるノイズがそもそも前提されています。平井嘉一郎記念図書館が開館する以前、それこそ前回インタビューが載った時分にも「ぴあら」はすでにあったように記憶するのですが〔確認したところ開設は2011年――インタビュアーによる注記〕、広さ、そして明るさが、まったくちがいます。カフェ(タリーズ)が隣接していて、淹れたてのコーヒーをタンブラーに注いでもらって持ち込むこともできるなんて、いまの学生諸君は幸せだと思います。

上田 高弘 先生

――前回インタビューでは、こうした状況をとっくの昔に先取りしたような海外の大学図書館のことも紹介されていました。

2007年度にサバティカル(学外研究)で、NY州北西部のロチェスター大学に在籍したときの話ですね。巨大な学生寮が大学の敷地に隣接していて、寮生たちは深夜でも地下通路――雪深い地方に立地していたので冬期用にすべての建物が地下でつながっていました――を通って図書館を利用することができて、カフェ(スターバックス)も午前3時まで開いていました。
そういうことが立命館大学でも実現できたら、というニュアンスが前回インタビューから読み取られるとしたら、それはぼくの表現が招いた誤解です。
小集団クラスの発表がピークを向かえる学期末には「ぴあら」も満杯気味ですが、空間もお金もいくらでも使えるのではない、国土の狭い日本の私立大学ですから、そうした混雑(需給バランスの問題)は、各学部棟の学生用ラウンジもふくめて分散して解決するほかありません。夏休みには自習目的の生徒だらけになる市立図書館ほども混雑することがない閲覧スペースも、階上にあります。
平井嘉一郎氏のご遺族の多額の寄付のおかげもあって、「身の丈」よりほんの少し余裕のある立派な図書館ができたと、ぼくは感じていますよ。

――研究者としてのご自身の図書館利用について教えていただけますか。

改装なった文学部の教員紹介ページ(**)でも触れたのですが、研究者生活が――あるいは人間としての〈生〉もまた?――、明らかに終盤に入っていると感じていて、だから専門の近現代美術にかんする研究の「まとめ」に入りたい気持ちがたしかに一方にあるものの、他方では、なお新しい知的刺激に発して、新境地を開きたいという〈欲望〉を抑えきれない…。
「** https://www.ritsumei.ac.jp/letters/teacher/tag/?tag=75」
具体的には、上述の2007年度のに続いて取得、行使した2016年度のサバティカルの折、こんどは海外に出ないで石川県金沢市に逗留したのですが、そこで専門外のオペラにかんする論文を書きました。以前、モーツァルトの「フィガロの結婚」という作品を観ているときにフッと直観したことを「分析」(そしてやはり「批評」)の名に値するものとして展開するには、教育負担から解放された時間が必要だったのですが、それを仕上げた金沢での別の経験が基になって、いまは文学論を書いています。そしてさらに、上記HPで明記してしまったのが、若いころからの関心事だった新約聖書学にかかわって一本、長めのを書きたい、という願望…。
ところが、総合大学で幅広い蔵書を誇るウチの図書館であっても、そういう分野はやはり手薄なので、自力で渉猟(購入)する本も多数でてくることになります。仕方ないな、と半分思っていますが――というのも専門の近現代美術にかんしても美大なんかと較べるともちろん手薄で「自力」は半分、慣れっこなのです――、いずれにせよ、この歳になっても新しいテーマにわくわくできるのは本当に幸せだとも感じています。

――おススメの本について教えてください

前回インタビューでも触れた恩師(藤枝晃雄)が亡くなる直前、その著作集(2017)の刊行に関わることができた、その件について書こうかと最初は考えたのですが、専門的すぎてココでの推薦にはふさわしくないので、上の最後のトピック=聖書にかんする入門書を一冊挙げます。
元は『考える人』という月刊誌の特集記事だったものが新書に編集し直された、『はじめて読む聖書』(新潮社, 2014)がそれです。編者(元となった雑誌の編集長)の巻頭言を除くと、自身の聖書の読みを語るのは、さまざまな分野で活躍される8名。池澤夏樹、内田樹、橋本治、吉本隆明、…の名を挙げるだけでも食指が動きませんか?
そうした著名人をさしおいて、書誌情報の著者名の部分に「田川建三 ほか」と特記されるのは、この新約聖書学の泰斗がインタビューに応えて語る文章が全体の三分の一の分量におよび、かつ、同書をたんなる入門書ではなく「プロ」(と書いておきますが)が読んでも意義深い宗教論としているから、に他なりません。
「無神論」者だからこそ可能となる解明が宗教には「ある」、と言いたいところですが、まさにそのような透徹した解明を新約聖書学の分野で積み重ねてきた田川氏はここで、「無神論」と似て非なる「不可知論」の立場を鮮明にし、そのうえで、ある種の「信仰」はなお肯定します。
私自身、美や芸術にかかわる文筆(研究)にかかわりながら、その研究対象に反美学的な態度――無神論/不可知論にも擬えたい――を採ることがあり、それは近代以降を生きる者として不可避であるとすら考えるのですが、それでも美や芸術との関係を断とうとしない両価値性(アンビヴァレンツ)を肯定する勇気を、田川氏の逆説的な態度表明は与えてくれます。
と書くと、なにやら長く研究を重ねてきてようやく達しうる/理解しうる境地が語られるとの予断を与えかねませんが、大学で何かを研究しようとしている若い諸君にも示唆に富むであろうことを、私は信じて疑いません。


この記事を読んでもらえる時点では、学生の皆さんはまだ新型コロナウイルス禍のいかほどかの影響下にあって、以前のように自由には図書館を利用できてはいないことでしょう。そう、書いている私・上田自身、そしてこのインタビューを担当してくれた学生スタッフ諸君もまた、本年2020年3月下旬、「ぴあら」で一度、打ち合わせをおこなったものの、直後に緊急事態宣言が発布されて入構禁止(外出自粛)期間に入ったおかげで、実際に会ってインタビュー本番の日を迎えることが叶いませんでした。
ならば、ZOOM等のオンラインのミーティングツールで、もありえたのかもしれませんが、実際に採ったのは、その一度きりの打ち合わせ時のメモにもとづいてインタビュー記事を「構成」するという方法でした。原稿(2020年7月入稿)は、内容的には凝縮され、わかりやすくなったはずですが、実際の打ち合わせのテーブルでの初発の「勢い」のようなものは、――録音もしていなかったことですし――無理に偽装することはしませんでした。 そうして私が意識することになったのは、幅を利かせつつある「ウィズ・コロナ」という標語への抵抗でした。
対面でのやりとりが憚られる窮屈な生活スタイルが常態化する、と巷間、伝えられるのですが、活気あふれるものであった立命館大学生諸君の学びもがそんな「したり顔」の予想の範囲に収まって良いものか、と私は強く憤っています。
開館時間帯に自由に訪れ、「ぴあら」でも熱く議論することができる、図書館が本当に図書館らしく稼働する日が早く帰って来ることを、祈念しています。

今回の対談で紹介した本

『はじめて読む聖書』 田川 建三著 新潮社 2014年