「第56回:未知との遭遇」須藤 圭 先生(文学部)
インタビュー:学生ライブラリースタッフ 楠居、内藤、山二
2017.04.03
須藤 圭 先生の研究概要
―先生の研究分野について教えてください。
専門は日本の古典文学で、特に平安時代の物語を研究しています。みなさんがよく知っているのは『源氏物語』だと思うのですが、ちょうど、その『源氏物語』が書かれた頃、古典文学が華やかなりし時代の研究をしています。ただ、僕は物語の内容ではなくて、それを読んできた人々に興味があります。『源氏物語』が誰にどう読まれてきたかとか、千年前に書かれたにも関わらずどうして今まで残っているのか、誰が何のために、どうしてそれを残そうとしてきたのかというところにすごく関心があるのです。難しく言うと「享受史」とか「受容史」などというのですが、自分がどう読むのかではなくて、昔の人がどう読んだのか、ということです。「昔の人は『源氏物語』の中の誰が好きって思っていたのかな」とか、「何で光源氏が好きだったのかな」とか、読んでいる人を考えるのが面白いのです。
また、『源氏物語』は京都を舞台にしているので、最近では、物語ゆかりの地に関心をもって調べたりもしていますね。いつごろからそういうものができたのか、あるいは今無くなってしまったものもあるので、いつぐらいまでそれらが存在したのか、どういう理由で出来上がったのかということを調べています。
―須藤先生は貴重書をよくお使いになると伺ったのですが、立命館にはどのような貴重書がありますか。
大学図書館は、研究のための図書館でもあるので、研究上重要な資料とか、歴史的価値のある資料とか、そういった後世に残しておかなければならない貴重な資料を所蔵する役割があります。本学にも、様々な貴重書が所蔵されています。西園寺文庫、末川文庫、加藤周一文庫、白川静文庫といった、まとまったコレクションのかたちで収められていますね。
今日は、この中から、西園寺文庫の本を貴重書庫から出していただきました。西園寺文庫は、西園寺家伝来の本を中心にしたコレクションですが、この本は『都名所図会』といって、江戸時代に出版されたガイドブックです。江戸時代に出版され、当時のベストセラーになったともいわれる本なのですが、今でも古本屋さんの店頭に並ぶことがあって、比較的手に入りやすいものです。それほど高額ではありませんので、皆さんでも買えますね。ベストセラーだから高いというわけではない、ということです。逆にあまり売れなかった本の方が珍しいため、高価だったりします。内容的につまらないものでも、それがめったに出回っていない本であると高いですね。
でも、ここにある『都名所図絵』は、西園寺家に伝来していた本という点で、他の『都名所図会』と比べて圧倒的に貴重度が違います。同じ『都名所図絵』であっても、西園寺家が持っていたという事実を証明してくれる点で、この本は何物にも代えがたい価値があるといえますね。
―先生にとって、面白い本とはどのような本ですか?
個人的には、書き込みがあるなど、人の痕跡が分かる本がすごく面白いなと思います。もちろん中身が充実していることも大事ですけれど、それにプラスアルファして、「誰が持っていたか」とか、「どういうふうにこの本を活用していたのか」とか、背後に人の存在が見えてくる本がいいなあと思います。例えば、わたしの手もとに、明治時代に出版された『古今集』の本があって、この本にも書き入れがあるのですが、あるときからパタッと書き入れがなくなるんです。きっと書き込みをしていた人が途中で飽きてしまったんでしょうね(笑)。つまり『古今集』の中身を読むことは大事ですけれど、その本を持っていた人がどういう気持ちで書き込みをしていたのかなとかそういうことが分かる本に面白さがあると思います。書き込みのない、まっさらな本は、綺麗ですけれど、あまり興味がわかないです。
―学生時代に読んで印象に残っている本を教えてください。
私はあえて「ない」ってことにします。学生時代に読む本って、まずは基本的なことを学ばなくてはいけないので、概説書のような本を手にすることが多いんですよね。だから、全然興味がなかった。こうした本には、ロマンがないんですよ。もちろん、概説書を読むことは大切で、そこで様々な情報を得るからこそ、次のステップに進むことができます。でも、概説書ですから、当たり前の事実しか書いていない。挑戦的で、ロマンに満ちたことは書いてくれない。それはやっぱり面白くなくて、自分のこれまでの考え方が揺さぶられるような、強烈な刺激を受けることが少ないんですね。概説書のような、基礎的な本にたくさん教えられたことを否定するものではありませんが、印象に残っている本といわれると、なかなか思いつかないです。
―先生は学生時代、図書館をどのように利用されていましたか。
大学院に進学しようと思っていたので、図書館では本を読んだり勉強をしたりしていました。貴重書も見ていましたよ。古い本はくずし字で書かれていますから、学生のころは中身が全然読めないけれど、こういう資料を見ること自体が面白かったです。そうやって自分のモチベーションを高めていました。なにか面白そうな本がないかなとぶらぶらすることも多かったですね。
―いつから古い図書に興味を持ち始めたんですか?
大学に入るまで、僕は太宰治が好きだったんですよ。古典文学は嫌いでしたし、古い本もどこか汚くて苦手でした。大学に入学してからは、色々な文学作品を勉強することになって、古典文学も近代文学も勉強しました。どっちもやってみた結果、これまで全然興味がなかった古典文学に惹かれました。古典文学のほうが沢山の人が読んできた歴史がありますから、そこに興味が引かれたんだと思います。
古い本に興味をもつようになった一番のきっかけは、大学院生のころ、ある文庫の調査をしていたとき、僕が学部生の頃から大好きだった藤原定家が書いた本の写しを見つけたことでした。全10ページくらいの小さな本なのですが、その元の本、つまり、藤原定家の自筆の本ですが、これを探していたら、偶然、ある古本屋さんにあることが分かりました。「憧れの藤原定家が書いた本が、今もまだあるんだ!」と思って、それが衝撃的でしたね。交渉の末に閲覧を許可していただいたのですが、藤原定家は800年位前に生きていた人ですが800年前の人が持っていた本、定家が書いて読んでいた本が自分の手元にあるんだと思うと、ものすごく面白くて、虜になりました。単なる文字の羅列ではない、誰かが持っていた本なんだって思うと愛着がわいてくる。だから、新品のきれいな本ではなくて、使いふるされた古い本に関心をもつようになりました。
―学生にお薦めの本を教えていただきたいです。
☆『数学する身体』
結構話題になった本ですね。本の内容は雑然としたところも多いのですが、一言でいうと、数学がどうして生まれたのか、何のために存在するのか、ということを考えることが出来る本です。
たとえば、「1+1=2」は理路整然としていて美しい。けれども、それとは裏腹に、「1+1=2」と考える「人間」のことを取り上げてみると、この「人間」は非常にあいまいな存在ですよね。人間が行う恋愛は、「1+1=2」で解決できる問題ではありませんからね。数学はきれいで美しい、けれども、人間の体、思考っていうのは、「1+1=2」ではないんだということに、この本を読んでいると、ふと、気づかされます。
そういうことに気づくと、数学は、「1+1=2」っていう単純な計算式ではなくて、曖昧な「人間」が、その曖昧な気持ちをどうにかして表現したいと思って選びだした言葉なんじゃないか、と考えてみることができます。「数学が実は悲しみとか喜びとかを表す言葉だったのかもしれない」って思うと、数学の見方がガラッと変わります。数学は、人間がどうして怒っているのか、どうして楽しいのか、悲しいのかっていう、あいまいなものをきちんと表す言葉だという感じがしてきます。世界の見方が一変したような気持ちになれるはずです。
☆『時代区分は本当に必要か』
僕たちが当たり前だと思っていたことが、実は当たり前ではなかったんだ、と思わせてくれる一冊です。
僕たちは、過去の歴史を、平安時代、鎌倉時代、室町時代といった具合に、時代に区切りを入れて理解しています。しかし、例えば民衆の意識とか文化とか、そういったものは平安時代から鎌倉時代になった瞬間、ガラッと一変するわけではありません。この本は、時代に区切りを入れてしまうことで、そうした連続しているはずのものが逆に見えなくなってしまわないか、ということを教えてくれます。
もっと身近なところでいうと、本のジャンル(漫画や小説)、テレビ番組(バラエティやドラマ)の枠組みも同じですね。こういったものが、意外と物事に制約をつけているのかもしれません。そういった既存の枠組みが実はおかしいのではないか、と疑うことの必要性に気づかされます。
☆『読んでいない本について堂々と語る方法』
この本を読むと、本を完璧に理解するということは、どこまで行っても絶対にない、という考えに行き着きます。それはつまり、完璧にしようとか、これだけはしっかりやろう、って思っても、絶対にできない、ということでもあります。本は何十回、何百回と読めるのに、一字一句完璧に覚えることができないように、完全に物事をやることは絶対不可能で、人間は誰しも不完全なものなんだってことを教えてくれます。不完全でいいんだよってことも、教えてくれているわけですね。
いま、ご紹介した三冊の本は、自分がこれまでもっていた当たり前のこと、常識を疑うことの大切さを教えてくれるものばかりです。もちろん、これらの本を読んでも、今までの見方が変わると思えないときは、当然あると思います。「この本、全然面白くないな」って思ったときは、読まなくていいんです。その時の自分にすんなり入ってくる本を読んだらいいと思います。でも、食わず嫌いはよくない。つまらなさそうって思っても、ちょっと開いてみて、少しだけ読んでみる。先のページを開く気になれば全部読めばいいし、そうじゃなかったら、「まだ早かった、もうちょっと後で出会おうね」でよいような気がします。
―最後に学生へのメッセージをお願いします。
図書館に来て本を読むと、知らなかった世界に気づくことができますよね。本を読むことのメリットはそういうところにあると思います。自分が経験したことの無いことや、考えてもみなかったことを考えさせてくれるのが、図書館の本です。
でも、世界は広いので、図書館でなくてもそれはできます。アルバイトでも、道端を歩いて人間観察をしていてもできます。どういうことをしても、これまでに知らなかったことを体験することはできるんですよ。何でもいいですから、そうした未知との遭遇を色々と経験してほしいなと思います。未知との遭遇に全然関心が無かったり、怯えてしまったりするのが一番良くないような気がします。色々なことに挑戦してみて欲しい。食わず嫌いにならないで、楽しいとか、面白いとかだけではなくて、辛そうだなとか、面倒くさそうだなとか、そういうことにもいろいろ経験して欲しいと思っています。その一つに、図書館に行ってみようかなって選択肢があってほしい。何かに興味をもって、ちょっと行動してみる。面倒くさいなって思っても、「今日は面倒くさいことをする日にしよう」、そう思って、やってみる。実際やってみると、思ったとおり面倒なんでしょうけど、そう思うことも大事ですよ。未知との遭遇、それが楽しい。だから、ぜひ色々なことにチャレンジして欲しいなと思います
―本日はありがとうございました。
今回の対談で紹介した本
『数学する身体』、森田真生、新潮社、2015年
『時代区分は本当に必要か? : 連続性と不連続性を再考する』、ジャック・ル=ゴフ [著] ; 菅沼潤訳、藤原書店、2016年
『読んでいない本について堂々と語る方法』、ピエール・バイヤール著 ; 大浦康介訳、筑摩書房、2008年