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Library Collections 第2回「時代祭」と西園寺文庫

衣笠キャンパスの平井嘉一郎記念図書館には、8つの文庫、3つの旧蔵書からなる特別コレクションがあります。これらの資料群は、地下1階の貴重書庫・準貴重書庫に収蔵されており、閲覧や複写の申請を行うことにより利用できます。

本稿で言及する資料は、特別コレクションの1つである西園寺文庫に収蔵されているものです。西園寺文庫には、学祖・西園寺公望が生前、大学に寄贈した有職故実(朝廷内や武家などにおける儀式や習慣のこと。また、それらを研究する学問。)、書翰、書幅などに、その後、初代総長をつとめた学園創立者の中川小十郎が収集した資料(「学宝」ほか)、および図書館が特別に補充した資料などが収蔵されています(詳細は、「立命館大学図書館蔵西園寺文庫目録」(1990年10月30日発行)参照。

なお、この文庫目録には漢籍413点、和書2,884点、洋書174点、逐次刊行物39点、諸資料161点、学宝類317点(軸物24点)が収録されています(一部未収録のもの有))。

さて、今回この文庫を紹介する理由は、みなさんも御存知の京都三大祭の一つである「時代祭」の行列に登場する「山国隊」や「弓箭組」といった明治維新期に活躍した組織と本学との特別な関わりについて紹介してみたいと考えたからです。

「時代祭」と2つの行列

「時代祭」は、平安神宮の創建と平安遷都1100年紀念祭を奉祝する行事として、明治28(1895)年に始まったもので、毎年10月22日(雨天順延)に行われる平安神宮の大祭です。京都で千有余年にわたって培ってきた伝統工芸技術の粋を、動く歴史風俗絵巻として内外に披露することを主な目的としています。その行列は、京都全市域からなる市民組織「平安講社」(平安神宮と神苑の維持、時代祭の運営、祭具や衣装の修理・保管を目的に創立された組織で、京都市の11の旧学区を単位として編成)により運営されています。また、その行列編成は6列、人員500名の規模で、現在では明治維新前後のころ、江戸時代、安土桃山時代、室町時代、南北朝時代、鎌倉時代、藤原(平安)時代、延暦(奈良時代末~平安時代初期)時代の8つの時代を20の行列に分け総勢で約2000名もの人々が参加する大規模なものとなっています。

次に、このような「時代祭行列」の中でも特に注目してほしい2つの行列について説明します。

1つ目は、1番最初の行列である「山国隊列」(維新勤王隊列)です。この行列は、明治維新の際、幕臣が東北地方で反乱を起こした際、丹波の国・北桑田郡山国村(現在の右京区京北)の有志が隊を組織し、官軍に加勢した当時の行装を模したものです。三斎羽織(さんさいはおり)、下には義経袴をはき、筒袖の衣に頭に鉢巻または赤熊(しゃぐま)をかぶり、脚絆を身につけ、足袋、草鞋をはき、刀を身につけ、鉄砲を携えた姿です。また、肩章をつけ階級を表しているところなどは、近代の軍制への過渡期の特徴を示しています。 この山国隊は、時代祭の始まった当初(明治28(1895)年)から同村有志が奉仕していましたが、大正10(1921)年より中京区・朱雀学区(平安講社第八社)が引継ぎ現在の名称(維新親王隊列)で奉仕しています。

2つ目は、最後の20番目の行列である「弓箭組列」です。この行列は、桓武天皇が遷都をした際、天皇の御列の警備にあたったともいわれ、その子孫は明治維新の際、西園寺公望ひきいる山陰鎮撫の任に携わったとも伝えられ弓箭組を模した行列です。お供の人々は引立烏帽子(ひきたてえぼし)に直垂(ひたたれ)を着け、太刀を差し弓箭をたずさえ、時代祭創設当初より御祭神(現在は桓武・孝明両天皇)の警護役を担っています。

※「時代祭」に関する解説は、平安神宮のホームページの中に掲載されている「時代祭」に関する記事(http://www.heianjingu.or.jp/festival/jidaisai.html)(最終閲覧日:2022年1月6日)を参考としています。

西園寺文庫に見る「山国隊」

では、なぜ、これらの二つの行列(「山国隊」や「弓箭組」)と本学西園寺文庫との関わりがあるのでしょうか。

「山国隊(維新勤皇隊)」は慶応4(1868)年1月6日、馬路村(現・亀岡市馬路)と同じ旗本杉浦氏の智業地である山国(現・京都市右京区京北)にも西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使の檄文が届き、その要請に応じ鎮撫使に合流しようとします。しかしながら桑田・船井郡の弓箭組とは別の運命をたどることになりました。隊は勤皇の意志を認められ、岩倉具視に「山国隊」と命名され、因州藩(鳥取藩)に属して東征に参加、2月13日に京都を出発して、東山道軍先発隊に合流し激戦地を転戦します。従軍中には、官軍であることを示しました。肩員や錦布れ、陣中装束、「魁」の前立がついた黒毛陣笠、ミニエー銃などが配布・貸与され、西洋兵学の部隊指揮のため、行進曲など鼓笛軍楽を修得しました。山国隊は、3月の甲州勝沼の戦い(山梨県)、4月の野洲安塚の戦い(栃木県)、10月の奥州仙台(宮城県)を転戦し戦闘任務を終え、11月に東征大総督(有栖川宮熾仁親王)とともに京都へ凱旋、明治2(1869)年2月18日に故郷山国に帰郷します。約1年の間に7名の戦病死者を出し、出兵中の費用は自費自弁であったため、莫大な借金を背負うことになりました。

以下で示した地図は、「山国隊」が転戦した経路を示した略図で、この地図からも分かるように、この隊が明治維新期にいかに多くの戦いに関わったかといったことが分かります(亀岡市文化資料館が2018年2月3日から3月11日まで開催した『第63回企画展 山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新』の図録より)。

「山国隊転戦経路略図」

慶応4(1986)年1月11日に山国五社明神を出発してから同月18日の山国隊の誕生に至るまでの「東軍」の転戦経路は省略。
【出典】仲村 研(1994)「山国隊」中央公論社(平井嘉一記念図書館ほか1館で所蔵)

西園寺文庫には「山国隊」に関連する資料として「藤野斎(ふじのいつき)陣中日誌(じんちゅうにっし)」と藤野斎(ふじのいつき)「出張小掌記(しゅっちょうしょうしょうき)」の2点があります。これらの資料が所蔵されているのは、学祖・西園寺公望が慶応年間、山陰道鎮撫使総督の任にあったことと無縁ではないだろうと推察されます。

山国隊に関する本学所蔵資料

藤野 斎ふじのいつき「陣中日誌」じんちゅうにっし

1868(慶応4)年他
【平井嘉一郎記念図書館蔵】

仲村研著『征東日誌-丹波山国農兵隊日誌-』(平井嘉一郎記念図書館ほか1館で所蔵)によれば、「藤野斎は東征中に陣中日記のようなものをメモ風に記し、それにもとづき『山国隊日記』は陣中でメモしなければ書かれないような記事が各所に出てきます。藤野は、明治20年代に『山国日誌』、続いて『征東于役日誌』を編纂し、それらは後に刊行されて有名になります。ここで紹介するのは、まさにその底本となった藤野斎のメモ風の懐中日記であると思われます。慶応4(1868)年のものは7点。内容は、日記、収支、書写、覚など多様です。

藤野 斎ふじのいつき「出張小掌記」しゅっちょうしょうしょうき

1868(慶応4)年
【平井嘉一郎記念図書館蔵】

山国隊は慶応4(1868)年2月13日に因州藩(鳥取藩)として東山道軍として出陣しますが、その4日前の同月9日の京都滞在中の記録です。レキション羽織とは、慶応年間に考案された丈の長い筒袖の陣羽織のことで、他にもメリヤスの肌着、チョッキを入手しています。蘭語箋とは、オランダ語用の用箋で、オランダ式軍隊などの関係で必要だったのでしょうか。出立前に、滞在中の京都で、必要な諸品を準備していた興味深い記録です。

*資料に関する解説は、亀岡市文化資料館が2018年2月3日から3月11日まで開催した『第63回企画展 山陰道鎮撫隊-丹波の郷士と幕末維新』の図録から引用。

弓箭組、西園寺公望と中川小十郎

「弓箭組」ですが、この組は学祖・西園寺公望が慶応4(1868)年1月6日、戊辰戦争の勃発にさいして山陰道鎮撫総督の任に就いていたことと関係します。西園寺総督は同年1月7日馬路村を発陣し、山陰道を鎮撫し、3月末に伏見に凱旋しましたが、その発陣初日における人見勝次、中川武平太両氏の功を多とし、とくにその主だった者を選んで中軍に置き、1月8日をもって徴募した丹波の弓箭組200余名を統率させ、そのふたりに錦旗守衛の取締りを命じました。それ以後、西園寺家と人見、中川両氏との間には、ほとんど累代の君臣のごとき親密な関係が生まれました。両氏が学祖・西園寺総督ひきいる山陰鎮撫隊に参加したことで、深い縁ができた郷士らは、その後も西園寺を頼り京都や東京で活躍する人物が現れることとなります。本大学の創立者である中川小十郎もその一人となります。

中川小十郎(1866~1944)は中川禄左衛門の長男に生まれましたが、のち武平太の養子となり、明治26(1893)年7月東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し文部省に入り(文部属)、明治28(1895)年第二次伊藤博文内閣の西園寺文相の秘書官となりました。西園寺公望と中川小十郎との関係は、このとき以後西園寺の死去までつづきます(奥田修三「『特別展 西園寺公望と立命館』の開催にあたって」『図書館だより 特集号(通号32号)』、1984より)。