総合心理学部 准教授

鈴木 華子

2005年、ボストン大学を卒業し、2007年、ボストンカレッジ修士課程 修了。2012年、熊本大学大学院医学教育部博士課程修了後、筑波大学に助教として赴任。2017年、立命館大学総合心理学部准教授に着任。2019年~2023年に日本心理学会の常務理事、2020年〜2023年アメリカ心理学会国際委員会の委員、2021年〜現在まで国際心理科学連合の理事を務める。

現場と政策の乖離を埋めたい、その思いで研究の道へ

#35

臨床現場と現実の乖離を実感
政策を動かすために研究の道へ

高校生の時にアメリカ留学を経験し、卒業後の進路もアメリカを選びました。そこで専攻したのが、以前から関心を持っていた心理学でした。勉強は非常にハードでしたが、そんなことも吹き飛ぶくらい学生生活は楽しいものでした。学生寮でさまざまな国の学生と仲良くなり、彼らとよく遊び、よく学び、充実した4年間を過ごしました。
卒業後は就職するつもりで、外資系企業のキャリアフォーラムなどに参加したものの、興味が湧かず、好きな心理学をもう少し勉強しようと、大学院へ進学しました。専門に選んだのが、カウンセリング心理学の中でも、多文化カウンセリングです。以来今日まで、多様な文化的背景を持つ人たちのメンタルヘルス支援を考えてきました。
当初は、いずれカウンセラーとして臨床で働くことを考えていましたが、大学院で学ぶ傍ら、DVシェルターでの支援活動や精神科病院でのリサーチアシスタントなどに携わるうちに、臨床現場と政策との間の乖離を強く感じるようになりました。カウンセラーとして一人ひとりを支援することも重要ですが、環境や制度を整えていくことも欠かせません。それには研究で実態やデータを示し、政策を動かす提言をしていく必要があると考え、研究の道に進むことを決めました。

米国で修士を得て帰国
留学生のメンタルヘルス支援に奮闘

アメリカで修士課程修了後、博士課程進学を目指しましたが不合格に。働いて経験を積むことも考えましたが、就労ビザの取得が煩雑なこともあり、帰国して熊本大学の博士課程に進学しました。大変だったのは、それからです。長く外国で過ごしたため、日本語での学びや研究に悪戦苦闘。特に心理学の専門用語や学術的な表現などは、一から学び直さなければなりませんでした。
一方で、非常勤講師として保健センターで学生の心理相談を実施するなど、臨床との関わりも大切にしていました。筑波大学に赴任後は、留学生相談室で留学生支援に携わりました。日本では、多文化カウンセリングが浸透していない現状があります。大学でも、一対一のカウンセリングより、学内を駆けずり回って関係する部署や教職員をつなげ、留学生を支援するネットワークをつくることに奮闘しました。そうした仕事にやりがいはありましたが、私一人が動くことに限界も感じるように。次世代の育成に関わりたいとの思いが募っていた時、立命館大学総合心理学部の公募を知り、応募。2017年に赴任しました。

1日のスケジュール(取材時)

ライフライン・チャート

  • A

    18〜24歳(大学生・修士課程)
    アメリカで過ごした学部生と修士時代。とにかく大変だったけれど、同時にとにかく楽しかった。

  • B

    25歳(博士課程)
    帰国したのものの、日本語が不自由、生活も学業もカルチャーショックが大きく大変。

  • C

    33歳(助教)
    希望の職に就きやりがいも感じていたが、留学生の心の健康促進の分野では、自分が動くだけでは限界があることが見え始め、次世代の育成に関わりたいと思うようになる。

  • D

    34歳(転職)
    転職と同時期に家族の病気が判明し、横浜と大阪を往復しながらの2拠点生活が始まり、体力的にしんどかった。

  • E

    40歳(准教授)
    36歳で日本心理学会の常務理事、38歳で国際心理科学連合の理事に就任し、重要な仕事を任されることにやりがいを感じていたが、経験不足による大変さやしんどさも大きかった。それが、40歳になった時に気持ちがふと軽くなった。

重責を担うことで
一人ではできない問題も解決できる

振り返ると、いつの時代も研究だけに専心するのではなく、自分のいる場所やそれを取り巻く社会の環境づくりにも熱心に取り組んできました。日本心理学会で、若手研究者がつながって活躍できる場所をつくりたいと思い、「若手の会」を結成したこともその一つです。それがきっかけか、2019年には30代で常務理事を務めることになりました。「そんなことを引き受けても、研究業績にならない」と言う人もいます。しかしそうした役職を担うことで、一人ではできない構造的な問題を解決する道筋づくりに関与できます。実際に、常務理事在任中には、「心理学における多様性尊重のガイドライン」の作成を実現しました。何より「誰かが行動しなければ、現実は変わらない。必要な時にきちんと動ける人間でありたい」と、いつも心に思ってきました。
がむしゃらに仕事をしてきましたが、生活との両立が難しい時もありました。立命館大学に赴任した頃に家族が病気になり、横浜と大阪を往復する生活が続いた時は、大変でした。ありがたかったのは、周囲の方々が、何も言わずにサポートしてくれたことです。若い頃に職場の役割分担に不公平を感じたとしても、いずれ自分が支えてもらう時が来ます。制度整備は当然ですが、助け合う意識も大切だと実感しています。
今も多忙な毎日ですが、その分休暇を取った時は、メールをオフにして大好きな海外へ飛び、思う存分羽を伸ばしています。
現在は学生の教育にも尽力しています。教育はすぐには成果が見えません。しかし何年か経って、関わった学生の成長した姿を見た時は、「やって良かった」と心から思う。それをモチベーションに、奮闘を続けています。