政策科学部 准教授

山出 美弥

津山工業高等学校建築科卒業後、高等専門学校に編入し、専攻科を修了。2012年、和歌山大学修士課程修了。大阪大学工学研究科博士課程在学中にイギリス・オックスフォードブルックス大学にて研究員を経験。2014年、同大学博士課程修了。2020年4月、名古屋大学大学院環境学研究科の助教に就任。2024年4月、立命館大学政策科学部に准教授として着任。

答えのない問題を追求する そのプロセスこそが面白い。

#36

イギリスに留学するも
語学の壁に阻まれ失意の帰国

高校時代、建築の授業で初めて設計した作品が賞を取ったことで、建築の面白さに目覚めました。学べば学ぶほど、自分の知らないことがたくさんあると気づかされ、いつしか「ずっと建築を勉強し続けたい」と思うように。「一生勉強できる職業って、何だろう」と考えた末に見つけたのが、研究者になる道でした。
高等専門学校から専攻科、さらに大学院へと進学。大きな挫折を味わったのは、修士課程でイギリスに留学した時です。大学院の恩師から、「大学教員を目指すなら、国際的な研究実績を積む必要がある。そのためには英語力は不可欠だよ」と助言を受け、イギリスの大学に留学しました。そこでぶつかったのが語学の壁でした。
3ヵ月ほどで日常会話には困らなくなったものの、大学のプレマスターコースの講義を理解したり、研究に取り組むには、もう数段階高いレベルの英語力が求められます。そこに到達できず、人生で初めてというほど悩み、苦しみました。当初は1年間の留学中に修士号を取得することも考えていましたが、「今の語学力では到底無理だ」と痛感。やむなく予定を切り上げ、10ヵ月で帰国しました。
しかしその後も、「途中で逃げてしまった」という思いは消えませんでした。その2年後、大阪大学博士課程在学中にイギリス留学に再チャレンジ。半年間、現地で調査研究を行い、後にその成果を論文にまとめることで、悔しかった経験を成長に変えることができました。

6年間、家族中心の生活でも
研究への情熱は衰えなかった

大学院時代から現在まで、産業遺産の保存・活用をテーマに研究してきました。工場などの産業施設には、地域産業を発展させてきた歴史や、そこに勤めていた人々の思い出が刻まれています。それらを大切にしつつ、本来の役割を終えた産業施設を現代のニーズに合わせて活用し、未来に残していく方法を探究しています。それに加えて近年は、震災などの災害後の復興まちづくりにも関心を広げ、現地調査や支援活動を続けています。
しかし研究者としてキャリアを築くのは、簡単ではありませんでした。博士号を取得したものの、大学教員の募集はなかなか見つかりません。そこで一旦、就職活動を中断し、結婚したばかりの夫を支えようと心を決めました。それから大阪大学にポスドクとして籍を残しつつも、家庭に軸足を置く生活は、6年にも及びました。その間に2人の子どもを授かった時には、「この先、研究者の道が絶たれても仕方がない」と覚悟しました。
それでも研究を止めようと思ったことは一度もありません。子どもが眠った夜に論文を書いたり、新たなテーマを見つけ、科研費を得て自由に研究に取り組んでいました。
将来が見えない中でも情熱が衰えなかったのは、何より研究が楽しかったからです。答えのない問題を追求するのが、研究の面白いところ。自分で問題を見つけ、それを解決するための道筋や方法を考える。その過程はまるで自分自身との対話のようで、興味が尽きません。とりわけ私の専門とする都市計画は、建築を通じて何千、何万もの人を幸せにできるところが魅力です。デザインや設計も面白いけれど、それ以上にその空間に集う人を幸せにすることにやりがいを感じます。
夫や子どもたちを支える生活の中で、私自身も多くの人に支えられてきたことに気づき、視野が大きく広がりました。私の研究の核ともいうべき「人」に対する多角的な視点を培えたことが、今も確かな糧になっています。

1日のスケジュール(取材時)

ライフライン・チャート

  • A

    24歳(英国留学)
    大学教員になるためには英語が必要、との恩師からの助言を受け、英国に約10ヶ月留学するも苦戦し、人生で最も悩み、予定を切り上げて帰国。(しかし2年後、英語での苦労を成長に変えるべく、半年間の留学に挑んだ。)

  • B

    29歳(博士学位取得・結婚)
    博士学位取得と同時に結婚。結婚も研究も諦めなれなかったため、一旦、研究活動はセーブして、就職したばかりの夫を支えようと決意。大阪大学の恩師がポスドクの機会を提供して下さったため、細々と論文を書いたり、科研費に採択されたり自由に研究していた。充実したポスドク期間を過ごすことができたことが、今の私のキャリアに大きな影響を与えている。

  • C

    30〜32歳(2度の出産)
    漠然と子どもを持ちたいと幼いころから思っていた。母も姉も楽しそうに子育てしている姿を見て憧れていた。子どもを産むことによって研究者の道が絶たれても仕方ない、と覚悟を決めていた。

  • D

    35歳(助教)
    6年間のポスドク、2回の出産を経て念願だったアカデミックのポストを得る。感染症の流行とともに教員生活がスタートしたため、子どもとの時間も持ちながらゆっくりと研究活動を再開できた。家族で名古屋に移住したことも良い経験となった。

  • E

    38〜39歳(出産と育児休業)
    初めて仕事をしながらの妊娠と出産を経験。学生がすごく心配してくれて、支えてくれたことに感謝している。仕事と家庭、子ども、何も諦めなくていいんだ、という姿を体現できたと思う。一方で、育児休業中の社会保障の負担に唖然とした。

  • F

    40歳(准教授として着任)
    奇跡。感謝。約20年間、諦めずに細々と続けてきた研究に対して、一定の評価をいただいたと感じている。続けることの大切さ、諦めないこと、人生を楽しむことをこれからも淡々と続けていきたい。

答えを探すプロセスにこそ価値がある
愉しんで挑戦してほしい

6年が過ぎる頃、恩師の勧めで就職活動を再開し、名古屋大学に採用されました。4年後、立命館大学に准教授として採用された時は、約20年間、諦めず、地道に続けてきた研究を評価していただけたと思いました。
「まず正解を知りたい」という気持ちが先行しがちの学生には、探求するプロセスにこそ価値があると知ってもらいたい。海外の大学と共同研究したり、宇宙建築学といった新たな研究分野に挑むのも、「挑戦し続ける私自身の背中を学生に見せたい」という思いがあるからです。人生に失敗はありません。研究者を目指す皆さんも、諦めず、楽しんで挑戦し続けてほしいと願っています。