コラム

金環日食とヒッグス粒子から -世界や自分について考える

 少し前の話題になりますが、今年5月21日に金環日食がありました。見た人も多いと思います。午前7時半ごろに日食が最大になったので、いつもは足早の通勤途中の人も少し立ち止まって見ていたり、子どもからお年寄りまで、たくさんの人が、わぁっ、と日食の様子に見入っていました。
 今回のように広範囲で観測されたのは1080年(平安時代)以来、今度今回のような規模で日食が起こるのは300年後、とのことでしたが、そう聞いて、遠い昔の平安時代や未来を想像した人もいたのではないでしょうか。
 はるか太古の昔から日食は起こっていて、この神秘的な現象を目の当たりにすると、目先の時間に追われて暮らしている日常の自分の時間とは違う、ゆったりとした時間が宇宙には流れている感じがしました。
 もちろん金環日食は美しかったですが、普段は光り輝く太陽が昼間に隠れるのは、私は恐ろしくもありました。日食は太陽が「怪物に食べられる結果生ずる」ものであるとか、「世の終わり」を表すものとも考えられてきたようです(アト・ド・フリース(1974、邦訳1984)『イメージ・シンボル事典』)。平安時代の人は日食をどう捉えていたのでしょうね。
 また今年7月4日には、ヒッグス粒子とみられる新粒子が発見された、という報道がありました。私は専門的なことはわかりませんが、ヒッグス粒子はこの世のあらゆるものに質量を与えたと考えられる素粒子のようです。私達の眼には見えないけれど、そのような粒子の働きで身の回りにある物が質量を持てているというのは、不思議な感じがしました。

 金環日食やヒッグス粒子に触れて、こういうことが起こるのか、と、普段あまり考えずに暮らしているこの世界のそもそもの成り立ちについて考えさせられました。
 世界の成り立ちについて考える、というと、大それたことのように感じられるかもしれませんが、小さい頃、“宇宙の果てはどうなっているんだろう、どんな世界なんだろう”など、少しでも考えたことがある人は割合いるのではないでしょうか。
 世界の成り立ちについて考えることは、どこか、その世界の中に生きる自分について考えることともつながっているように思います。思春期の頃、“この世界はどうしてあるんだろう”とか、“なぜ、他の時代ではなくて今の時代に自分は生きてるんだろう”、“なんで自分は自分として生まれたんだろう”と自分や世界について考えたことがある人もいるのではないでしょうか。考える程度はさまざまでしょうが、このような問いは、これまでの自分にとっては当たり前で疑問にも思わなかったことに対して疑問を投げかけることでもあるので、自分というものが揺らがされ、不安な気持ちになったりすることでもあります。
 世界や自分について考えるのは、しんどいこともありますし、普段の生活ですぐに何かの役に立つことではないかもしれませんが、自分という存在の大事なところに触れることだと思います。普段の生活は慌しかったりしますが、宇宙の時間など普段の生活とは異なる時間の流れを感じながら、少し立ち止まって、世界や自分について考えてみるのも時にはあってもいいのかもしれない、と思いました。

学生サポートルームカウンセラー