コラム

文系、理系に分ける意味

 日本の大学では、学問を文系・理系に二分することが長い間慣例となっている。学際分野や文理融合領域も大いに広がってはいるが、大学入学時点においては、選択できる受験科目から文系と理系が明らかに区別されている。これには一体どのような意味があるのだろうか? 
 確かに学習方法上の特色から、いわゆる文系分野と理系分野である程度の区別をつけることが可能かもしれない。一般的なイメージからすれば、基本的な定理や約束事から出発して厳密な積み上げ型で成り立っている理系分野に比べて、文系分野では基礎から応用への展開がそれほど厳格ではなく、途中段階から参入してもある程度学習可能なように思われる。厳格な積み上げ型の理系の学問に比べて、文系の学問体系はある程度柔軟に見える。
 しかしながら、文系分野でも基礎概念を曖昧なままにして応用・展開へ進むことは基本的に不可能である。基礎概念を正確に定義して共通の了解を確保して、また方法論についても論理的な手続きを経なければ、文系分野においても研究を発展させることはできない。文系分野は柔軟でそれほど厳密でなくてもよい、という観念があるとすれば、それは偏見である。
 文系、理系への二分割が誕生した経緯については詳らかでないが、富国強兵のために有用な人材を短期間で効率よく育成する上で、このような二分割が有効であったのだろうか? あるいは、進路決定の判断基準として単純で便利だったからなのだろうか? いずれにせよ、大学受験段階で人間の適性を二つのタイプにグループ分けすることが制度として根付いているが、このようにグループ分けをしてレッテルを貼ることは、本人に自分の能力について偏見を持たせ、発達の可能性を大きく制限していると言わざるを得ない。
 産業社会学部で統計学という理系的な科目を教えているのでこのようなことを感じるのかもしれないが、理由はそれだけではない。自分は文系だから理数的科目を学ぶ能力はない、学ぶ必要はない、という偏見を文系学部の学生が持っているとすれば(実際、そのように見えるが)、高度な科学技術が社会にますます大きな影響を与えている今日において、文系学生が将来の可能性を自ら閉ざすような偏見を捨てることが非常に重要になっていると感じるからである。(理系の学生にとっても、理系だから日本や世界の文化・歴史を知らなくても当然と考えるならば、大いに危険である)
 もちろん、文系、理系それぞれへの適性はある程度は存在するだろうが、日本の場合、大学入試合格というペーパーテストへの適性によって決められる部分が非常に大きいのではないか。要するに、ある学問への知的興味・関心よりも、ペーパーテストで点数が取れるかどうかが学部選択の大きな理由になっている。かくいう私も、大学受験で文系を選択した際に、理科や数学では合格点が取れそうにないという都合からそうなった部分が大きい。そのような私が統計学を教えることになるとはまったく不思議であるが。産業社会学部の卒業生をみても、SEとして技術的な仕事をしている人はいるし、在学中から独学で腕を磨いて情報系のアルバイトをしている学生がいる。中には、理系の大学院に進学する学生もいる。
 学問への向き不向きは、大学受験の問題が解けるかどうかで決まるものではなく、その分野への知的好奇心や意欲があるかどうかである。私は文系だから、理系だから、というレッテルを自分に貼って、自分の可能性を狭めることは、とりわけ20歳前後の若者にとっては大変もったいないことであると思う。文系学生についていえば、ある程度の理数系の素養を持つことは、将来のキャリアを拓くうえで極めて大きな力になる。教養科目で学ぶことができるので、少なくともアレルギー的な感覚は少しでも克服しておいて欲しいと思う。
 みなさんも、受験やペーパーテストという眼鏡をすてて、大学で自然科学の入門科目をとって学んでみませんか? きっと新しい世界が開けると思います。

学生部長
産業社会学部教授
長澤 克重