2008年4月19日 (第2851回)

カナダにおける日本庭園の模索 -ヴィクトリアの球戯とヴァンクーヴァーの達磨落し-

文学部 准教授 河原 典史

 20世紀初頭のカナダ西岸では、決して少なくない日本人が日本庭園の建設をめざしていました。

 横浜市で生まれた岸田芳次郎はと広島県出身の高田隼人は、1907年(明治40)2月にヴィクトリア郊外のゴージ・パークに日本庭園の建築を計画しました。その時、岸田は造園家である父・伊三郎を呼び寄せたのです。同年7月に完成したこの庭園の評判によって、1910(明治43)年に伊三郎は世界的な名園のブッチャート・ガーデンに日本庭園の造園を任されました。

 また、ヴァンクーヴァーでは、広島県出身の角 佐六が建設・保険業などを営む富豪のE.E.エヴァンス邸の花園監督者として雇用されていました。

 興味深いのは、後に社会主義者として名を馳せる山本宣治、通称「山宣」が一時この花園で働いていたのです。京都市新京極でキリスト教徒の一人息子として生まれた山宣は、ヴァンクーヴァーの眼科医であった親族の石原明之助の誘いで1907(明治40)年にカナダへ渡りました。翌年、石原の義兄にあたる日本人教会初代牧師・鏑木五郎の誘いで、彼は日本庭園会社事務主任に就きました。しかし、現地の日本語新聞に広告を掲載したものの資金繰りが思わしくなく、日本庭園の開設計画は頓挫してしまいました。

 今回は、当時の写真、広告や日記などもご覧いただき、カナダにおける日本庭園の模索について紹介しましょう。